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吾亦紅(又は、おふくろ)

杉本真人の歌『吾亦紅』がヒットチャートの上位を続けている。

 紅白出場効果という事もあるが、同じく出場した(二年連続)秋川雅史の『千の風になって』が、一昨年の紅白出場から一気に火がついたのとは違い、こちらは二年ほど前からそこそこの売り上げを記録していたという。

 秋川雅史のを上手い歌というなら、こちらは俗に言う「下手うま」だろう。弾き語りも団塊の世代には受けるスタイルだ。

 内容は、結局のところ「母に捧げるバラード」ならぬ「レクイエム」。そんなに母が恋しいか、と、母子関係が疎遠だった自分などが聴くとちょっと引けてしまうが、本来、母子関係というのはそうしたものなんだろう。

 生れ落ちて、母親のおっぱいを吸って大きくなり、糞尿もし放題なのをちゃんと始末してもらい、転んだといっては泣き付き、言葉も覚えるのは母親からだ。母親はそんな大変なことを黙々と(あるいは嬉々として)さりげなくやってしまう。考えてみるとすごいことなんだ!!

 だから、母親は子供にとって

   介護士であり、保育士であり、看護師であり、小児科の医師であり、栄養士であり、教師であり、   歌のお姉さんであり、服飾コーディネーターであり、チアーリーダーでもある

 という、何とも言いようのないほど偉大な存在なのだ。

 こんなに存在感のある母親だが、それをすべて無料でやってしまうところがもっとすごい。

 あのさくらパパは存在感十分だが、あれはさくらを「金(きん)の卵」ならぬ「金(かね)の卵」にするという強烈な利己的目的を持っていたから、ゴルフの教師(訓練師)でありチアーリーダーに徹することができたわけで、母親のもつ存在感とは全く似て非なるものだ(父親のはどうしても調教師のイメージが付き纏う)。

 人生もたそがれに差し掛かると、やはり、男は、ふるさとのイメージに重なるやさしく自分を見つめてくれていた母親のことを思い出す、さりげなく、誰に言うともなく。・・・それから人生の再確認をする。

 森新一の『おふくろさん』が聴かれなくなった今、それに替わる「おふくろ賛歌」としてよいのかもしれない。

  『吾亦紅』の歌詞はこちら

  『吾亦紅』の曲はこちらで

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