« 月落ち、烏啼いて・・・ | トップページ | 春愁や 今年も来たか 花粉弾 »

島津荘の中心地(都城市早水町)

 大河ドラマ『篤姫』で、ちょっとした歴史論争が起きている。

 島津氏発祥地は鹿児島県出水市か、それとも都城市か、というものだ。

 出水市の野田町「感応寺」には、初代の島津忠久以下5代までの墓があるので、まずそこが島津氏発祥の地といっても差し支えないだろう。少なくとも、当の島津氏がそこを「墳墓の地=青山」と認識しているわけだから、他者がくちばしを入れる必要はないだろう。

 折も折、都城に居る長男に用事があって出掛けたので、都城市が「こここそが発祥の地だ」とする「祝吉(いわよし)御所跡」を見ることにした。

Iwayosigosho  国道10号線を南から市内に入ると、ほぼ北に向かって繁華街を行くことになる。

 約2.5キロで平江交差点(看板あり、山之口町方面へ)を右折、1キロ弱で向こうにダイエーの見える交差点を今度は左折。

 高架を越えると右カーブになり、二つ目の信号(変則5差路)を右手の方にとると、1キロ余りで左手に早水公園が見える。そこの信号を過ぎたひとつ先の交差点を左に折れ、約500メートル北上したあたり、左手に入った所に「祝吉御所跡」がある。

2008217maturimeguri_013  奥に2基の立派な石碑のような物。その手前には白いタイル張りの「祝吉御所跡」の説明看板が建っている。看板というとトタン板を白塗りし、その上にペンキで字を書くのが普通だが、ここのはコンクリート製のい土台にタイルをはめ込み、青系の色で説明書きがしてある。

 それには「元暦2=1185年に、源頼朝によって島津荘の下司職に任命された惟宗忠久は・・・」とあり、さらに「この祝吉御所に赴任して、2年を過ごした・・・」とする。

 なるほど、確かに忠久は当時そのように任命されたが、本人は鎌倉の頼朝のもとにあって忠勤を励んでいた、というのが本当らしい。ただ当地には、家中の事務官僚や武士を派遣し荘園の政所(事務所)を建てたのは確かだろうし、惟宗姓を捨てて島津姓を名乗り始めたというのも事実であったろう。2008217maturimeguri_032

 2基の大きな石碑のうち、右の「祝吉御所旧跡」碑は「祝吉政所旧跡」ととれば問題ないとしても、左の「島津家発祥地」はちょっと拡大解釈が過ぎるのではないか。

 これが「島津姓発祥地」なら分かる。国内最大級の荘園「島津荘」の「島津」を姓に用いるというのは、大いに誇らしいことであったろうし、ここを本拠地として自己増殖を図っていこうという決意を感じ取れるネーミングだ。

2008217maturimeguri_071  島津荘の開発者は、忠久が関わりを持つ160年も前の平季基(すえもと)で、季基は大宰府の大監という高級官僚でありながらこの地に目を付けて開発させ、これを関白家(藤原頼通)に寄進して領主に納まった。

 当時の中心地は、市の南部・梅北町周辺であったが、160年の間に北へ北へと開発の手は延び、低湿地であった早水地帯周辺まで荘園化したのだろう。その主体は季基の後裔(入り婿」)である肝付氏だったらしい。市の東にある三股町にも荘園領が700町あったというが、そこは肝付氏の中世における重要な所領だったことからも判断できる。

 祝吉御所跡の南方には早水公園があり水の湧く池が広がるが、その池のほとりには早水神社が鎮座する。

 祭神は「髪長姫・仁徳天皇・牛諸井」で、髪長姫は仁徳天皇の后になった美女だという。牛諸井は髪長姫の父親で、都城周辺から志布志・大崎町までをも含む広大な諸県郡の当主だった人物である。境内のすぐ近くに沖水古墳という、小さいが都城では稀な円墳もあったりするところを見ると、この一帯は上代からの由緒ある土地だったとだけは言えよう。 2008217maturimeguri_070

|

« 月落ち、烏啼いて・・・ | トップページ | 春愁や 今年も来たか 花粉弾 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 月落ち、烏啼いて・・・ | トップページ | 春愁や 今年も来たか 花粉弾 »