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遠賀川を歩く(福岡県芦屋町・水巻町・飯塚市)

0328dazaifuongagawa_042 北九州の二日目に、かねてより実見したいと思っていた遠賀川式土器の最初の出土地を訪ねてみた。

 北九州市八幡西区から遠賀川に向かい、土手に突き当たるとその上は立派な道路で、県道73号線として活用されている。上った右岸を左に(上流方面に)行けば数キロで遠賀川式土器の発見された地点があるのだが、広々とした川を眺めているうちに、河口まで行ってみたくなった。0328dazaifuongagawa_041

1キロ余り下流に行くと「御牧大橋」があり、それを左折して対岸に向かう。向こう岸は地名が「島津」なのも何かの縁か、そこを右折してすぐに見えるのが「河口堰」だ。

 もう少しで橋を渡る。橋からは河口が望まれた。橋の名は「祗園橋」で完全に芦屋町の領域に入る。

0328dazaifuongagawa_035 橋を渡り、その名も船頭町の中を行くこと150メートル、神社の境内が見えてくる。これが仲哀天皇の8年条に登場する「大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)」という夫婦神を祭った「岡湊神社」で、創建1800年というから最古に近いお社だ。

 何でも、崗の湊(遠賀川河口)を支配していた熊鰐(くまわに=熊襲の一種族か)が天皇一行に恭順し、ここへ来て天皇の船が進まなくなった時に、上の夫婦神の障りだと進言した。そう言われて祭ったところ、船は無事に動くことができた――それ以来、この夫婦神を祭り続けているという。0328dazaifuongagawa_039 船を動かせないのは船子(かこ)の支持を得なかったことを表しているのだろう。船子を差配する熊鰐が、心底からは恭順していなかったということか、それとも熊鰐ですら船子を支配しきれていなかったということか。

 (ここは芦屋町だが、「芦」は植物のアシではなく、航海民の「アジ(味)」つまり半島をも行き来する「アジカモ(味鴨)」のアシ(アジ)から来た名に違いない。)

 拝殿も本殿も銅板葺の瀟洒な造りであるが、ここでもらった由緒書きを見ると、何と天満宮本殿と同様、こちらまで攻めてきた島津軍による戦火で、天正14(1586)年に焼け落ちている。やはり西軍が負けるわけだ。

 天満宮の再建は、焼かれてから5年という猛スピードだったが、こちらは実に60年という時を必要とした(時の筑前領主は黒田氏であった)。0328dazaifuongagawa_050

熊鰐の本拠地「芦屋」からもと来た道を引き返し、再び遠賀川の右岸道路(県道73号線)を、今度はどんどん南下する。右手に見える川は広く、河川敷も相当な幅がある。土曜日とあって釣り人や、ウォーキングの人々が河川敷のあちこちに見える。

 行くこと4キロほどで、国道3号線と鹿児島本線の並んだガード下をくぐると、行く手に数本の大きなイチョウが立ち並んでいる。それが「遠賀川式土器発見地」の目印。0328dazaifuongagawa_057

川に近いほうのイチョウの木の下に、屏風状の風変わりな標識が立つ。発見地はそのすぐ下の河川敷らしい。標識には「稲作発祥の地」とある。発祥地は、教科書では同じ福岡でも博多の街中の「板付遺跡」となっているが、遠賀川式土器も板付式土器と同程度に古い(弥生早期・前期)ので、そのように説明できるとしたのだろう。

 水巻町では、73号線沿いに右の写真のような道案内を兼ねた遠賀川式土器のレプリカ付きの標柱をずらりと立てて、道行く者にアピールしている。出色だ。0328dazaifuongagawa_058_2 

この立屋敷遺跡は昭和6(1931)年に発掘された弥生時代の集落跡で、文様のある弥生式土器は当時珍しく、前期に位置するとして特に「遠賀川式土器」と命名された。遠賀川式土器は西日本全域に稲作文化波及の担い手とともに伝わったとされる。

 立屋敷地区は今でこそ立派な土手のある水田地帯だが、縄文時代早期後半から後期ごろまでは海中かもしくは汽水域になっていて、集落の営めるところではなかった(九州国立博物館のジオラマによれば、中流の直方市あたりまで海水が入っていたという)。縄文晩期からの寒冷で水が引き、この低湿地でも生活が営めるようになり、遠賀川土器人が活動を始めたのだろう。0328dazaifuongagawa_053 

 遠賀川式土器が広く普及した背景に、交易を担った航海民の姿を見てしまうのは筆者だけか? 

 それは措くとして、遺跡の100メートルほど下流側に、石の鳥居の神社が、やはり大きなイチョウを目印として建立されている。「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」といい、祭神はヤマトタケルと当地で娶った砧姫(キヌタヒメ)である。0328dazaifuongagawa_055

ここのイチョウの巨樹が面白い。というのは、このイチョウと同じ遺伝子を持つ木が、何と、島根県の太田市と韓国慶尚北道の亀尾(グミ)市にあるというのだ(平成16年に確認)。最近の遺伝子研究の発展には驚かされるが、ただしそれによると樹齢は600年ほどらしく、神社がかねて伝承してきた「ヤマトタケルお手植えのイチョウなので、樹齢1800年以上」という説明に合わなくなってしまったのは残念だろう。

0328dazaifuongagawa_076_2 遠賀川右岸上の県道73号線は快適なドライブコースで、川を常に見渡しながらひたすら南を目指す。約20キロで直方市に到り、そこからは国道200号線に乗り換える。

 さらに15キロほどで筑豊・嘉穂盆地の一大都市・飯塚だ。ここにあるのが「立岩遺跡」で、弥生中期からの嘉穂地方の王者がいたという所、その証拠が「飯塚歴史資料館」に収蔵されている。0328dazaifuongagawa_065

展示室でとにかく目立つのが大小あまたの甕棺で、王者と思しき人物の埋葬も巨大甕棺になされていた。

 副葬品の前漢鏡が立岩遺跡群全体で10面発見されており、枚数では糸島地方の平原遺跡の30面以上や、博多地方の須玖遺跡の20数面には及ばないが、すべて完全な無傷の個体群であったということでは唯一無二であるらしい。0328dazaifuongagawa_073 

中でも、立岩堀田遺跡で見つかった甕棺には、銅矛とともに前漢鏡が6面もあり、飯塚いや嘉穂盆地全体の弥生前期の王者の墓とされている(左はそのレプリカ)。0328dazaifuongagawa_074_2

 

前漢鏡は優品がほとんどで、銘の入った物も三面あり、学術的にもすぐれた遺物になっている。

また、特筆に価するのが「平絹」と「貝輪」で、前者は副葬の鉄矛や鉄剣に付着して残されており、弥生中期に絹織物を生産していたという証拠になった。また後者は九州南部や南西諸島との交0328dazaifuongagawa_069_3 流・交 の史実の物証となるものだ。

 立屋敷遺跡もそうだが、やはり航海民による海を介した交易が行われていたはずで、このような交易活動の中心的交換価値品目が、立岩に特徴的な輝緑凝灰岩製の「石包丁」なのであった。前漢鏡や平絹を取り入れた王者はこの技術品の生産者でもあったのだろう。0328dazaifuongagawa_067

 玄界灘に注ぐ最大・最長の川である遠賀川。その流域は、水田農業の揺籃の地であったばかりでなく、航海を通じた交易の拠点でもあったということができよう。

(右の写真=多量の貝輪を腕に装着して葬られた人物は、祭祀を司る者とされる)

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太宰府天満宮と九州国立博物館

 息子の転学で、北九州に送る途中、太宰府を訪れた。0328dazaifuongagawa_024

 天満宮はだいぶ以前に、一度来たことがあるが、今度は九州国立博物館の見学と併せることができた。

 途方もない大きさというのが第一印象の九国(略称)で、次の印象が何と変わった建物か、だった。ちょうどオリンピック仕様のドーム型競技場のようで、両面がブルーのガラス張りである。0328dazaifuongagawa_009

一般展示の入館料大人300円也を払って中に入ると、圧倒される広さと高さで、やはり巨大体育館を連想する造りだ。

 正面に土産物ショップがあり、その向こう、ガラス張り壁近くのエスカレーターで4階にある展示室に向かう。

0328dazaifuongagawa_007 一気に三階まで上がると、そこは特別展示室で今回は「王朝絵巻展」が開かれている。

 国宝級の絵巻がたくさん展示されているというが、1300円だか1500円だかの高額観覧料もさることながら、時間もそこそこしかないので、今回はパス。次のエスカレーターで4階に行く。

 0328dazaifuongagawa_002_2 入り口には大宰府を守るために築造された「水城(みずき)」の模型や、天満宮の楼門の模型などが展示され、九国がこの地に建てられた理由をさりげなく伝えている。残念ながら写真撮影ができるのははここまで。

 展示のコンセプトは「海を介した交流」で、東アジアはもとより東南アジア、西アジアとのつながりを示す考古遺物、歴史遺物が、ほどよい照明の中で存在感を示していた。中に 愛知県豊川市の山間部にある「横田美術館」の紀元前タイのバンチェン彩陶土器が出品されており、30年近い空白を経ての再会に感激しばしであった

 今度来るときは、半日くらいの余裕をもって見学しないと、と思い方だった。0328dazaifuongagawa_018

博物館のむき出したアーチの並ぶ側面を行き、ちょっとした地下通路のようなところを抜け降りると、そこはもう天満宮の境内で、右手には天満宮動物公園が見える。

 しばらく梅林の中を行くと、参拝客でごったがえす参道に出る。正面に向かうと極彩色の楼門がある。高さは15メートルはあろうか、浅草の雷門のように大きな提灯がぶら下がる。0328dazaifuongagawa_014

本殿はこけら葺の古風なつくりで、天正19(1591)年に筑前領主・小早川隆景が再建したといい、重要文化財。向かって右に生えている梅の木は「飛び梅」で、菅原道真の故事に因む梅だ。

 今、再建と書いたが、それ以前の本殿を焼いてしまったのが、九州北部に攻め入った島津氏だそうだ。西軍0328dazaifuongagawa_021 から東軍に寝返った小早川秀秋(豊臣秀吉の正室ねねの実兄の子)は再建した隆景の息子で、そのために西軍が敗れたのも、元はと言えば天満宮焼き討ちの恨み?あるいは天神様の怒り?と考えると、歴史は面白い。

 再び楼門を出て、そのまままっすぐに参道を下ると太鼓橋があり、それを渡った池の中の小島に小さなお宮がある。「志賀社」といい、海人族安曇氏の奉祭する海の神をまつる。こんな所に?と思うが、同じ筑前国であることを考えると、遠いようで近いのが、航海民の存在だ。

0328dazaifuongagawa_022 参道も終わり、右手はにぎやかな土産物店の並ぶ通りの入り口。その反対側に、立派な屋形門の奥にどっしりとした造りの邸宅が見える。

 門の表札でそれと知れるこの家の主は「西高辻家」。天満宮の宮司で道真の子孫という人だ。1100年は続く家柄で、代々惣領相続なら40代にはなるだろう。京都の北野天満宮のほうが創建は古いが、あちらは道真の子孫ではない。 0328dazaifuongagawa_079

 博物館に停めておいた車に戻り、大宰府政庁跡に向かう。意外と距離はあり、10分ほどもかかって国道3号線「都府楼前」信号を右折して到着。

 国道あたりもかっての大宰府官庁街の一部で、東西・南北ともに約2,5キロほど0328dazaifuongagawa_080_2 の広さがあったとされる。その中心に建設されていたのが「政庁」で、都府楼という言い方もする。

 ところが政庁跡の正殿礎石の間に建つ石柱には「都督府古跡」と刻まれている。いったいどれが正式な名称なのか分からない。地図でも「大宰府政庁跡」というのと「大宰府都府楼跡」と二通りあり、ここではさらに「都督府古跡」だ。

 筑紫都督府というのは白村江の戦いで敗れたあと、唐によって置かれた0328dazaifuongagawa_082_2 「占領監視所」のはずである(天智紀6=667年11月条)から、「都督府古跡」では「唐による占領軍が置かれていた記念碑」になってしまわないか?

 古田史学では、大宰府こそが「九州王朝府」であるが、まだその方に理があると思う。

 宣化天皇の元年(536年)に置かれたとされる「那津の官家」(博多奴ノ津)が、移動して発展したのが大宰府とされているが、それより以前から何がしかの勢力の中心があった所に違いないと思う。0328dazaifuongagawa_083

政庁跡の西側の桜は3分咲きというところだが、大勢の花見客が繰り出していた

菅原道真が権帥として流されてきたのが延喜年間(901~903年没)、かの島津荘を拓いた(万寿3=1026年)平季基がこの政庁で大監という四等官として勤めていたのは千年代の初期であるから、道真没後100年ほどのこと。時代は、藤原摂関家の全盛時代になっていた。

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平季基(たいら・すえもと)の旧跡

0319tairanosuemoto_018 宮崎県都城市に起源を持つ島津荘は、西日本最大の8000町歩( 8000万平方㍍=80平方キロ)余りという途方もない規模を持つ荘園で、その基いを築いたのが平季基(すえもと)であった。

 季基の墓があるというので、出掛けてみた。場所は曽於市の旧末吉町橋野地区である。主要道〈飯野・松山・都城線〉で志布志市松山町から北上すると、約6キロで、大淀川上流のちょっとした盆地に出る。鹿児島、宮崎の県境地帯だ。

 0319tairanosuemoto_023 陣の下橋を渡ってから1キロ余り、盆地を抜けたあとの道路の緩やかな登りが終わる頃、左に入る道が見える(すぐ先には「中橋野」という宮崎交通のバス停がある。次の上橋野までが鹿児島県)。

 左折して300メートルも行くと、右手は神社で、「若一王子神社」といい、季基が後継者に家督を譲った後、その社司として最期を迎えたところという。その割には間口一間半ばかりの小さなお宮のうえ、境内とてゲートボール場が一面やっととれる位の広さしかないが、このあとすぐ訪れることになる季基の墓所を見れば、墓所にしてこれなら、と納得できる。0319tairanosuemoto_029

 若一王子神社の前の道を、そのまま直進して、150メートルほどで小さな交差点に出る。左折するといきなりな急坂で、道路の斜面下に白い看板と石碑のような物が並んで見え、すぐ隣には石段がある。

 近寄ってみるとまさしく石碑には「平季基公墓所」と刻まれている。一見して古そうに見えたが、実はこの石碑の建立は昭和54年だった。0319tairanosuemoto_024

 崖の草むらがきれいに刈られており、手入れも十分なのだが、上にあがって驚いた。

 これほどの荘園を築いた人の墓であるのなら、さぞ立派な石塔か五輪塔の類が残っているのだろうと思ったのがいけなかった。

0319tairanosuemoto_026  畑の一角が15メートル四方くらいに掘り下げられ、そこには「平 季基 墓」と書かれた旧末吉町教育委員会の立てた木標柱と、そう樹齢は古くない2,3本の木立との間に、二基の石造物がこじんまりとあるだけなのだ。

 平季基はもともとは大宰府の大監という高位の役人(帥・権帥・大弐・小弐の次で、地方官ならば国司クラス)で、万寿3年(1026)に当地にやって来て農地を開発して荘園として纏め上げ、それを時の関白・藤原頼通に寄進したという。これを疑う研究者はいないから、中世最大級の島津荘園開設の最大の功労者であるはずなのに、このみすぼらしさはいったい・・・・・。0319tairanosuemoto_031

季基の墓所から急坂を下ると、道はやがて大淀川に出る。

 ついでに国合原(くにごうばる)の合戦場の跡を見ておこうと、川沿いの田んぼ道をしばらく上流に向かう。三本目の橋の向こうがどうもそのようだったので行ってみる。

 橋は「塚元橋」といい、その向こうに広がる田んぼ地帯のあたりだと思い歩いてみるのだが、それらしき物は見当たらず、引き返そうとして妙な物が目に入った。0319tairanosuemoto_035

牧草畑の真ん中に富士山のように盛り上げた小山が見える。近寄ると、てっぺんと裾野に石柱が立っていた。「耕地整理の記念碑」だった。なんだ仰々しい――と思ったが、同じく裾野に立つ教育委員会の木柱には「三国名勝図会にも記されたこの丘は・・・」とある。何でも、天孫降臨に因んだ由緒のものらしい。

 家に帰ってから、三国名勝図会は持たないので、白尾国柱の『麑藩(げいはん)名勝考』で調べると、この小山は「柄基(つかもと)」といい、土地の者の説では「天の浮橋」なんだそうだ。国柱もそれを否定せず、天の諸尊が天地間を往来するための「臍帯(ほぞ)」に譬えている (どうもこのさらに上流にあるイザナギ命がみそぎをしたという「檍(あおき)神社」との関連がありそうなのだが、今は考える余裕はないので保留しておく。ただ、近くの橋が塚元橋なので「塚(古墳)」の可能性あり)。0319tairanosuemoto_010

思いがけないものに出くわしたあと、再び季基関係の旧跡に向かう。道を再び「中橋野」まで取り、そのまま都城方面に入って行く。4キロ余りで梅北町の信号(ガソリンスタンドあり)に出るから、そこを右折すると200メートルほどで右手に社叢林を見る。そこが「黒尾神社」(梅北町益貫)で、季基が荘園開発と同時に伊勢の大神を請来し祭った所という。

 鳥居の脇には白塗りの木柱で「神柱宮跡」とあった。神柱神社は都城全体の総社といった地位にあり、現在の目で見ると神柱神社は市街地の中心にあるし、東の遠くないところに島津荘の現地事務所である「祝吉御所跡」0319tairanosuemoto_014や、もっと古い「髪長姫の誕生地」という早水神社などがあって、いかにも現・神柱神社は古来から鎮座していたかのような感を受けるが、創建(遷座)はわずかに明治6年のことに過ぎない

 さて本宮たる黒尾神社だが、間口3間、奥行き6間ほどの拝殿に、伊勢神明造の本殿が見えるのは、片田舎にある神社にしては立派で、さすがに千年近い歴史を物語っている。

 0319tairanosuemoto_015 興味を引くのが神社横の社叢林の起伏で、はじめ見たとき直感的に「古墳じゃないのか」と思われるほど、それらしいマウンド状になっていることだ。

 神社地を取り囲む道路の四周を見回しても全くの平地であるのに、ここだけが比高にして3~4メートルの微高地になっており、しかもマウンドのうねり方が「前方後円墳」を思わせる。季基が神社を創建した頃には、すでに開平掘削が進んで古墳とは認識されていなかったのかもしれないが、季基がこの梅北の地を良い土地と考えたように、上代人も同じように開発に精を出していたその証しだったのだろう。0319tairanosuemoto_001 

 廃藩置県後に置かれた都城県の初代県令は、旧薩摩藩家老・桂久武だったが、かれは県の精神的支柱として、島津荘を開発した平季基の故事に因み、季基が創建した梅北の本宮を、現・神柱神社の地に遷座した。時に明治6年10月28日のこと。

 ただし、明治4年にはあった都城県は、6年には廃止され、宮崎県に併合されるが、久武の志はそのまま貫かれ、盛大な遷座祭が催されたという(祭神・アマテラス皇大神、トヨウケヒメ大神)。0319tairanosuemoto_005

コンクリート製の大鳥居をくぐると広い境内には、神泉池があったりして水の豊かさを思わせる。大鳥居から本殿下の階段まで、優に100メートルは歩く。右手の公園では、ちょうど明日から始まるらしい「春の木市」の準備に、植木屋さんらが大わらわだった。

 真ん中に本殿があり、左側は社務所、そして右側にこじんまりとしてはいるが、瀟洒なお宮がある。それこそが「基柱(もとはしら)神社」で、祭神は島津荘開発の祖・0319tairanosuemoto_003 平季基公。どういうわけか菅原道真公も祭られている。道理で拝殿両側の壁には絵馬掛けがしつらえてあり、いくつもの「合格祈願絵馬」が揺れているわけだ。

 この神柱宮社地は都城島津家の旧御茶屋の跡地なので、当時、季基も道真も祭られていたという気配はないから、神柱宮創建の時に一緒に建立されたと思われるが、それにしても開発領主と学問の神様との相殿というのは、珍しい。

 季基は10世紀後半から11世紀前半の人、道真は9世紀後半(845~903)の人だから、時代も合わない。0319tairanosuemoto_004

 だが、もしかしたら大宰府つながりということか

 平季基は大宰府の大監という役人だったし、道真はよく知られているように 左大臣藤原時平の讒言によって右大臣職を解かれ、左遷された先が大宰府であった(延喜元=901年。2年後、大宰府で逝去)。

単に在職地が同じだから、というわけではなさそうな気がするが、季基は当然、高名な大先輩・道真のことはよく知っていたはずだから、まず相殿に不足はないだろう。

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メジロと乙女椿

 奇跡なんてものは信じない方だが、もしかしたらこれは奇跡か。

 昨日の朝、西の和室からガラス戸を開けて、乙女椿を撮影したら、開けている時間がちょっと長かったので、スギ花粉が舞い込み、くしゃみを連発した――と書いた。

 そして、最後に、この乙女椿には何度かメジロの群れが蜜を吸いにやってきているが、写真を撮るためにじっと待っている根性はない・・・とも書き加えた。

 ところが、ところが、向こうからこの根性なしめ、とばかりサービスに来てくれちゃったのだ。

 例によって、朝の7時過ぎ、和室にしつらえた神座兼仏座(こてこての神仏混淆)の前で、32歳で若死にした弟と、63でやや早死にした父と、83というまずまずの寿命で逝った母と、その他ご先祖様もろもろに祈りを捧げるべく、ごにょごにょとやっている時、チチッという鳴き声が耳に。

 おや、と顔を窓外に向けると、「おう、来たな」。メジロだった。せわしなく乙女椿の中をあっち行き、こっち行きしている。朝、同じ時間帯に見るのは、これでもう5,6回だろうが、いつもは集団で来ているので蜜を吸う時間はあっという間で、あれよあれよという間に飛び去ってしまう。だから写真など撮る暇はなかった。

 ところが、である。今朝はよく見るとつがいだった。つまりたったの二羽。ということは「ははあ、彼女(彼氏)が決まったんだ。巣作りの前なんだな」。ごにょごにょを終えても、やっこさんたち――いや失礼―お二人さんは、まだ、貪欲に吸い回っている。

もしかしたら、とそっと立ち上がり、隣の部屋へ、デジカメを取りに。

 急いで帰って窓を見る。いない!「あいた、しもた、行ってしもたわい」――とがっかり。

「やっぱり、立ち上がる姿が丸見えだったものな。気づいて驚いて逃げたんだ」

 ところが、どっこい、ここからが奇跡。二羽のうち一羽が舞い戻って、また、あちこち枝を渡り始めたのだ。「ようし、ズームを目いっぱいにして、片っ端から」というわけで、ガラス越しに何枚かメクラ撮りしたら、ようやくその一枚に彼女か彼氏か分からぬが、写っていた。何とかというお笑い芸人でなくても「フォー」と言いたくなるうれしさだ。0312mejiro

こいつは春から縁起が良いぞ、フォー。

 

 

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乙女椿

 いつも和室に寝ているが、ベッドではないので布団の上げ下ろしをする。そのとき雨でない限りは、北の小窓と西の大窓を開けてほこりを出すようにするのだが、この頃はできるだけ短い時間で済ませる。と言うのもスギ花粉がショウケツを極めているからだ。

 ところが今朝に限り、西側に植えた乙女椿の落花が余りに見事なので撮っておこうと考え、隣の部屋からデジカメを持って来て写したのはいいが、案の定、くしゃみを連発してしまった。デジカメを取りに行くとき、マスクをしたほうがいいかな、と一瞬頭をよぎったのだが、ほんの何十秒かの時間だからと甘く見たのがいけなかった。

 それでも、貫禄と余裕の三連発で済んだのは本当にお手柄だ、というに尽きる。19年の花粉症キャリアも堂に入ったものだ。花粉症は一に予防、二にも予防。それでもだめならアキラメヨウ――などと言うなかれ。きっと良くなるサ。0311tubaki_001

三本並んだ乙女椿。こんなに花を着けるとは思わなかった

0311tubaki_004  隣の家の軒の高さまで伸びている。

 3年前に4キロ余り離れた園芸店で売られていた時は、人の背丈くらいだったのを、ミニバイクの股座(またぐら)に挟むようにしてようやく運んできたのだったが、今は軽トラックでも乗り切らぬほどに成長した。

0311tubaki_006  あれだけ落としているのに、まだまだ蕾もたくさんある。

 時おり、メジロが群れでやって来る。待ち構えて撮るだけの根性は、残念!持ち合わせぬ・・・。

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田原川・持留川流域散策(大崎町・有明町)その2

 田原川上流入り口の高井田から本宮橋へ戻り、もう少しそのまま下流に向かうと「草野へ」という道路標識があるのでそこを右折する。

 道は西に向かって次第に高度を稼ぎ、たちまち広いシラス台地の畑地帯を行くようになる。約1キロ走ったところで、右にロードミラーのある小さな十字路を、今度は左折。これも道なりに約1キロで、人家のある地区に出るから、そこを鋭角に右折すると急勾配の下りだ。0305tabarugawa_049

 下りきると正面に持留川、右手には学校が見える。「持留小学校」だ。周りは切り立ったシラス崖で、山奥の上流地帯といった趣があるが、ここは河口から8、5キロほどしかない。シラス台地は標高75メートル、小学校は標高28メートルだから、その落差は50メートル近い。

 幅はわずか10メートルの浅い川。この川がシラス台地を2万数千年かけてこんな峡谷に抉り取るとは信じられないが、それがシラス台地の特徴である。0305tabarugawa_050

 学校の隣りにある商店のうしろには、垂直に近い生々しいシラスの崖が見えるが、その比高は40メートルは優にあるだろう。

 こんなに切り立っていて、崩れることの少ないのもシラス土質の特殊性だ。

0305tabarugawa_051 持留小学校から7~800メートル下ると、川の両岸の田んぼで大規模に「基盤整備」が行われていた。掘っても掘っても川砂化してはいるが、白っぽいシラスであることが分かる。

 向こうに見えるコンクリート製のの高い橋は「大崎中央大橋」で、鹿屋と志布志とを結ぶ農免道路の橋で、平成16年に完成したもの。小さな河谷には不釣合いなほど高く、長さも長い。

 道は左岸を登り始める。登り切った所が岡別府地区で、かなりの大集落だ。0305tabarugawa_054

集落を貫く県道〈大崎ー野方〉線を700メートル余り行くと、信号のある農免道路との交差点で、右折するとわずかで大崎中央大橋に着く。

 ここからの眺めが圧巻。基盤整備の進む下の田んぼ地帯までの比高は40メートルはあるだろう。およそ10階建てのビルの屋上から見るのと同じだ。川の奥に見える岡は「草野丘」(268m)で、田原川の水源のひとつになっている。

 0305tabarugawa_053 中央大橋から引き返すと、さっきの交差点までの途中に「下堀遺跡」がある。

 ある、といっても農免道路の完成とともに埋め戻されてしまった(右の写真の道路案内板の立つあたり一帯)が、縄文早期と弥生中期~古墳時代の複合遺跡で、特に弥生中期の大型住居跡、古墳時代の異形鉄器と初期須恵器の出土は特筆に価する。

0305tabarugawa_055 中央大橋の下流の「档ヶ山(まてがやま)橋」は何の変哲もない小さな橋だが、名前が珍しい。

 「档(まて)」とは「まて」という名の木のことだろうか?調べても出て来ない。もしかしたら「マテバシイ」のことか。マテバシイなら南九州にはたくさん自生している。

 その橋の向こうで何やら川をまたぐような工事をしている。看板を見ると「東九州自動車道」の橋がここに架かるという、その前段階の調査らしい。0305tabarugawa_057

一時、危ぶまれた高速道路の建設も、いまや確実に実現に向かっているようだ(このあたりは河口から6キロくらい)。

 さらに下流の「谷迫橋」まで行くと、橋のたもとにビニールハウスより強い硬質プラスチックの連棟ハウスが建ち並んでいる。行ってみると「養鰻組合」による集団生産地だ。このあたりは良い水が豊富なのだろう。0305tabarugawa_058

谷迫橋からは土手の上が通れる。約1,5キロで右岸の永吉地区の崎園集落と仮宿の繁華街とを結ぶ「崎園橋」に至る。ここから川は急激に向きを東に変え、大崎町の中心部へと流れるようになる。

 国道220号線に出て左折し、プラッセだいわというスーパーに行くと、駐車場からは神領古墳群のある長い台地が、志布志湾に向かって突き出ている様子がよく分かる。かってこのスーパーのある国道付近まで、海水が迫っていた頃はその長い台地は大きな岬、つまり大崎だったわけだ。0305tabarugawa_064

東側を流れる田原川と西側を流れるこの持留川は、神領台地(大崎上町=仮宿)から西北の井俣地区、野神地区にいたる長大な台地を挟んで流れる双子のような川に見える。

 国道が持留川を跨ぐ「第二大橋」付近からは、よく見ると広い田んぼ地帯の向こうに「横瀬古墳」(国の史跡・148 メートルの前方後円墳)が望まれる(写真中央より左手に見える小さな森が前方部。後円部はその左側)。持留川の流域にあるといってよいのかもしれない。

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田原川・持留川流域散策(大崎町・有明町)その1

 0305tabarugawa_011 田原川と持留川は河口を同じくし、どちらも大崎町の丘陵地帯である野方地区を水源としている15キロほどの小河川である。以前、「綿打川河口」で河口の一帯を紹介したが、今度は川の流域を調べて回ってみようと思い、出掛けてみた。

 田原川を遡り、上流の山間に入る手前から、西へ丘陵を越えて持留川に降り、そこからは持留川沿いに再び下流に帰って来るコースをとった。

 河口に最も近い国道448号線にかかる「大原大橋」を起点にして周回を始める。右の写真は、旧道に架かる「綿打橋」と上流を望む。左手は神領古墳群のある台地。0305tabarugawa_015

 写真の右手へ道をとり、少し行くと田の中を行く道があるのでそれを左折。川を左手に、台地を眺めながら約1キロで「龍相大橋」のたもとに出る。その道は旧国鉄「大隅線」のかっての軌道だ。今はすっかりきれいな道路になっている。

 写真は橋から上流を望んだところで、すぐ先に見える新しい橋まで行き、左手に上がってみる。0305tabarugawa_021

 上がり切ると左右に住宅(天子ヶ丘住宅)があり、看板の建った路地を右手に入り、ずうっと突き当たりの住宅まで行くと、庭の片隅に何やら丸っこい石が見える。

 どうやらそれが神領古墳群中の6号墳通称「天子ヶ丘古墳」の形見らしい。

 0305tabarugawa_019 普通の人家なので何度か訪うのだが、主は居ないらしい。そこで失礼ながら入ってみると、長さ1メートルくらい、幅は50センチほどの、ちょうどラグビーボールの形をした花崗岩製の石碑(?)だった。コンクリートで覆ったような小山のてっぺんにドンと置かれている。

 「天子ヶ丘城跡」と彫られていた。あれ、古墳じゃなかった、中世の城跡だったかとちょっとがっかりしたが、なるほど眼下には田原川が沖積した平野が一望の下に見える。城砦にはもってこいだな、と思いつつ後ろに回ると0305tabarugawa_020そこには 「棺石が埋蔵されている 昭和48年・・・ 中山・・・」と明瞭な刻字。

 ほう、と驚く。やはり古墳だったと確認された。棺石は石棺のことだろう。まだこの下にあるらしい。もし6号墳であれば、ここは鹿児島の古墳では珍しい銅鏡が発見された所。とにかく比高20メートルほどの丘の上で、四、五世紀に自分たちが拓いた田んぼ地帯を一望できる丘のへりに造成された高塚(前方後円墳)。これは大隅の古墳の定石に適っている。0305tabarugawa_007

次に6号墳から五世紀前半の初期「武人埴輪」の発掘された10号墳に向かう。住宅街を抜けて出た道路を南へ、さっきの大隅線旧軌道を横切り、約150メートル行くと道路沿いの畑の中の一軒家があるから、その先を左手に入る。細い道だが5,60メートルで広場に出る。

 なんとミツバチがぶんぶんうなりを上げていた。養蜂家が借りている場所なのか、巣箱の向こうのこんもりした小さな森を古墳と知ってか知らずか、面白い取り合わせには違いない。0305tabarugawa_009

前方部(下の写真の手前側)はやせ細っているが、後円部はしっかりと円形を留めている。クスノキが墳丘の崩壊を防いでくれたようだ。もっとも繁茂のお陰で古墳、特に前方後円墳には見られずに来たのかもしれないが、いずれにしてもよく残っていたものだ。墳丘の長さは現存で40メートル強だろうか。

 ここは、6号墳と違って、丘陵のヘリではない。0305tabarugawa_059

10号墳からもとの道に出、右折して北を目指すと国道220号に出る。大崎上町だ。そこを左折してやや行くと、道路が下りになりかかるところの右手の丘に「都万(つま)神社」がある。

 日向国都万五社のひとつとされ、大崎郷の郷社だったという由緒を持つ古いお宮だ。祭神は「コノハナサクヤ姫(カムアタツ姫)」とコトシロヌシ0305tabarugawa_061_2

 不思議なのはコトシロヌシだ。カムアタツ姫なら配偶者であるニニギノ命が祭られていそうなものだが、コトシロヌシとは不可解。天孫降臨に敵対した側なのだから・・・。

 だが、私見で「コトシロヌシは鴨族の王者になった」とすれば、鴨着く島のこの地に祭られていておかしくはない。むしろはじめ鴨族の王コトシロヌシがここで祭られているところへ、あとから都万神社が加えられ、そっちの方が大社になった(庇を貸して、母屋を取られた)とも思える。それと、天文年間に上流の原田地区から遷宮して来た、というのも気にかかる。 0305tabarugawa_026

大崎上町信号に戻り、その先を左折すると野方方面への道で、1キロも行くと右手にJAの葬祭場があるから、その手前を右に折れると田原川の沖積平野に下りる。

 広い平野部を上流方面へ行くと、左手に田中集落の入り口が見え、その手前の田んぼ地帯との境に「田の神」が祭られていた。ここの田の神は親子で、とても珍しい。おまけに白化粧をしている。ユーモラスだ。このあたりで河口から4キロ遡ったことになる。0305tabarugawa_028_2

台地のへりの下を縫うように、さらに北上すること約1キロ、太い道路に出たと思ったら道は「平良橋」を向こう岸(左岸)に渡る。この橋から上流を見ると、これまでの平らな沖積平野が河岸段丘風に傾斜を持つようになっている。シラス台地をえぐってできた平野には違いないが、やや水量が乏しかったのだろうか。

0305tabarugawa_031 平良橋から左岸沿いを800メートルほどで、コンクリートの分厚い橋に出る。「金丸橋」といい、鹿屋と志布志を結ぶ農業用の基幹道路いわゆる「農免道路」に架かる。

 この橋から上流を見ると、やはりシラスへの強いえぐりは見られない。このあと帰りに回った持留川に比べて河床が高いようだ。水量的にはそう変わらないと思われるのに、地形図で確かめると、河口から同じほどの距離の地点の海抜が、田原川のほうが7~8メートルは高い。つまり、田原川の方がえぐりが弱かったということ。

  0305tabarugawa_033_2 その原因は分からないが、田原川のほうがその分、古代人にとっては開拓しやすかったはずで、そのためこちらに古墳や古墳群が多いのだろう。下流から言うと、神領古墳群、飯隈古墳群、原田古墳群、高井田古墳群、岩屋古墳群と、小さな川にしては流域に古墳が目白押しだ。

 さて、金丸橋からさらに左岸沿い(川に向かって右側=志布志市有明町側)を行くと、300メートルほどで右手に原田小学校が見え、そばを通り抜けて坂道を台地の上まで登りきると、道路の右側に石柱が建つ。

 「原田古墳」の表示だ。芽を出したばかりの春巻き大根の畑越しに、こんもりとし た小さな丘が原田古墳で、茶畑に囲まれた直径40メートル余りの鹿児島県内では 有数の円墳である。

 0305tabarugawa_035_3 被葬者は不明だが、このような大きな高塚が普通はこんな台地のど真ん中に築かれることはない。私見ではこのすぐ坂下にある「森神社」の説明板にあるように、崇仏論争に敗れ、殺されたとされる物部守屋が南九州に落ち延び、ここらあたりで隠棲生活を送ったということを信じたく、そうなると守屋本人が葬られていてもおかしくない。森(もり)という神社名も「守屋(もりや)」の「もり」から来ているのかもしれない。  

 さらに森神社の祭神が用明天皇(31代・在位586~587年)なのも、用明天皇時代に大臣・蘇我馬子と並んで国政のトップに居た大連・物部守屋が、用明天皇の崩御と時を同じくして滅ぼされたことを考えると、守屋一族が建立した可能性は高い。

0305tabarugawa_037 もうひとつそのことを裏付けるのが、原田古墳への殉葬墓と考えられる地下式横穴墓だろう(古式の軽石製組み合わせ石棺が出土)。

 昭和54年に発見されたその地下式横穴墓は、原田古墳の裾から20メートルほどの畑で見つかり、被葬者は成人女性だったが、興味あることに頭の向きが原田古墳に向いていた。ということは、この女性被葬者が原田古墳の主に対して非常に近しい存在だったと見てよい。

 0305tabarugawa_041 ということから、筆者は「原田古墳は守屋その人か子供」「殉葬されたのは在地の、つまり隼人系女性」と見る。守屋が敗れたのは用明2(587)年のことで、難波から速やかに逃れてきても在地の隼人系の民には何者なのか見当が付かなかったはず。しかしそれでも「大和王朝の最上層部にいた人」ということで、ようやく在地民たちに尊崇され、受け入れられたに違いない。 成人女性は現地で娶った妻だろう。

 以上の所論はこれからの肉付けが必要だ。

 原田小学校の校門の向かい側の道を入っていくと、約700メートルほどで田原川0305tabarugawa_045 に出る。そこに小さな石橋が架かっている。その名は「本宮橋」。このあたり、ほどよい盆地で、 本宮という地名ですぐに「都万神社」の由緒書きにあった「天文年間(1531~1554)に原田地区から現在地に遷宮した」という情報を思い出した。

 付近の人に本宮の類のお宮はないか、と聞いてみたが知らないという。だが、私はこの地に文字通り都万神社の本宮があったと思う(これも精査が要るだろう)。

 写真右は「高井田橋」。ここから河谷は急激に狭くなり、上流は渓谷状になる。ここまで、河口から約8キロ。

  マップ(大崎町のスクロール地図)

 

 

 

 

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春愁や 今年も来たか 花粉弾

 ヤフーの花粉情報を調べたら、ここ2,3日で鹿児島県内は「多い」から「非常に多い」という表現に変わった。

 来たなあ、来ましたなあ、律儀なもんですな。台風でもこうは行かない。

 1平方センチメートル当たり、50個を越えると「非常に多い」になるらしい。親指の先くらいの面積で50個だから、畳一枚に換算するとおよそ81万個ということで、いやはや大変だ。

 これで驚いていてはいけない。まだこの上に「猛烈に多い」というレベルがあるそうで、こうなると上限知らずだろう。計測不能か?こうなりゃ、最高記録を観測して各地でコンクールでもやりますか。ギネスに載せるのもいいかもしれない。

 花粉症歴19年という当方を含め、御同症の皆さん、かく笑い飛ばしつつ、辛抱、辛抱の春をやり過ごそう。

 それでも当方は、7~8年前の症状のピーク時から比べると、今は格段に良くなっている。その秘訣は徹底的な予防策にあります。

 まず、花粉の飛散開始を2月上旬として、少なくともその1週間前から耳鼻科(耳鼻科以外でも薬の処方箋は出してくれる)で、予防になる抗アレルギー薬をもらって飲み始める。

 これと同時に外出時に必ずマスクを着用する。風邪を引いてもないのにマスクを――などと思わず、空気の冷たさと乾燥から鼻やのどや気管を守るというつもりで徹底的に着用を守る。私なんかは、この時期、犬に餌をやるだけにほんの1,2分庭に出るときでさえ面倒でもマスクをする。

 最近のマスクはガーゼマスクと違って着脱が楽で、苦にならない。私の場合、薄手のと厚手のと2種類用意して、長時間出るときは厚手の物を、庭に出るくらいの短時間の外出なら薄手と使い分けている。ただし花粉が「多い」レベルになったら、日中の外出時にはどんな時でも厚手のマスクをする。さらにマスクの内部にガーゼ(包帯でもよい)を入れ、鼻に入る空気を「ろ過」すれば万全だ。

幸いなことに、当方は目には症状を持っていないので、上のやり方でOKだったが、目にも来てしまう人は、ゴーグルの着用も必要だろう。ご同情申し上げます。

 ところで、『令義解(りょうのぎげ)』という平安時代初期に書かれた律令の「令」についての解説書(清原夏野ら編纂)を見ていたら、面白い祭りに出くわした。「神祇令の第六」に出てくる春先に行われる祭りで、今でも県内各地の神社で行われる「祈年祭(としごいまつり)」の次の祭り「鎮花祭」である。

  これは「はなしずめのまつり」と読むが、こう解説してある(直訳ではない)。

  鎮花祭・・・大神(おおみわ)神社、狭井(さい)神社の両所の祭り。春の花が飛散する時において、厄神分           散して癘(れい)を行う。その鎮圧のために、必ずこの祭りがある。ゆえに鎮花(はなしずめ)と言 う。

 大神神社は通称「三輪大明神」で奈良県の桜井市にあり、「大物主神」を祭神とする古社中の古社である。狭井神社は三輪明神から山辺の道を北上してほど近い小社だ。確か、三枝(さいぐさ)という百合の花から採られた神社名と聞く。

 解説によると、春に花が咲き、飛び散る頃になると、疫病神がそれに乗っかって「癘(れい)を行う」という悪さをするので、この2社において厄病(神)退散の祈念(祭り)を執り行う、という。

 癘(れい)とは「悪性のはやり病い」のことで、流行病と言い換えられる。

 何のことはない、これぞ「花粉症」のことではありはせぬか? 「春の花が飛散する」とは花びらが飛び散るのではなく、花粉が飛び散るということだろう。当時でも症状の重い人々は、まるで集団の風邪かインフルエンザにかかったかのように、あっちでもクシュン、こっちでもクシュンとやらかしていたに違いない。

 そういえばかっては「木の芽時」と言って、この季節に体調を崩す人が多かったことも併せてみると、「花粉の飛散」からくる変調は、昔から大事だったと言えるかもしれない。

 今日、特に花粉症と特定され、原因の大部分を占める杉が目の敵にされるが、日本国中で「鎮花祭」を行うか、今でも多分行われているであろう三輪明神と狭井神社へ祈願参拝したら、意外に流行は止み、花粉症の人たちが解放される日のやってくることが、ないことは、ないことは、ないことは・・・ない(sign02)。

     春愁や 今年も来たか 花粉弾(やくびょうがみ)

 

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