« 太宰府天満宮と九州国立博物館 | トップページ | しつけとおしつけ »

遠賀川を歩く(福岡県芦屋町・水巻町・飯塚市)

0328dazaifuongagawa_042 北九州の二日目に、かねてより実見したいと思っていた遠賀川式土器の最初の出土地を訪ねてみた。

 北九州市八幡西区から遠賀川に向かい、土手に突き当たるとその上は立派な道路で、県道73号線として活用されている。上った右岸を左に(上流方面に)行けば数キロで遠賀川式土器の発見された地点があるのだが、広々とした川を眺めているうちに、河口まで行ってみたくなった。0328dazaifuongagawa_041

1キロ余り下流に行くと「御牧大橋」があり、それを左折して対岸に向かう。向こう岸は地名が「島津」なのも何かの縁か、そこを右折してすぐに見えるのが「河口堰」だ。

 もう少しで橋を渡る。橋からは河口が望まれた。橋の名は「祗園橋」で完全に芦屋町の領域に入る。

0328dazaifuongagawa_035 橋を渡り、その名も船頭町の中を行くこと150メートル、神社の境内が見えてくる。これが仲哀天皇の8年条に登場する「大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)」という夫婦神を祭った「岡湊神社」で、創建1800年というから最古に近いお社だ。

 何でも、崗の湊(遠賀川河口)を支配していた熊鰐(くまわに=熊襲の一種族か)が天皇一行に恭順し、ここへ来て天皇の船が進まなくなった時に、上の夫婦神の障りだと進言した。そう言われて祭ったところ、船は無事に動くことができた――それ以来、この夫婦神を祭り続けているという。0328dazaifuongagawa_039 船を動かせないのは船子(かこ)の支持を得なかったことを表しているのだろう。船子を差配する熊鰐が、心底からは恭順していなかったということか、それとも熊鰐ですら船子を支配しきれていなかったということか。

 (ここは芦屋町だが、「芦」は植物のアシではなく、航海民の「アジ(味)」つまり半島をも行き来する「アジカモ(味鴨)」のアシ(アジ)から来た名に違いない。)

 拝殿も本殿も銅板葺の瀟洒な造りであるが、ここでもらった由緒書きを見ると、何と天満宮本殿と同様、こちらまで攻めてきた島津軍による戦火で、天正14(1586)年に焼け落ちている。やはり西軍が負けるわけだ。

 天満宮の再建は、焼かれてから5年という猛スピードだったが、こちらは実に60年という時を必要とした(時の筑前領主は黒田氏であった)。0328dazaifuongagawa_050

熊鰐の本拠地「芦屋」からもと来た道を引き返し、再び遠賀川の右岸道路(県道73号線)を、今度はどんどん南下する。右手に見える川は広く、河川敷も相当な幅がある。土曜日とあって釣り人や、ウォーキングの人々が河川敷のあちこちに見える。

 行くこと4キロほどで、国道3号線と鹿児島本線の並んだガード下をくぐると、行く手に数本の大きなイチョウが立ち並んでいる。それが「遠賀川式土器発見地」の目印。0328dazaifuongagawa_057

川に近いほうのイチョウの木の下に、屏風状の風変わりな標識が立つ。発見地はそのすぐ下の河川敷らしい。標識には「稲作発祥の地」とある。発祥地は、教科書では同じ福岡でも博多の街中の「板付遺跡」となっているが、遠賀川式土器も板付式土器と同程度に古い(弥生早期・前期)ので、そのように説明できるとしたのだろう。

 水巻町では、73号線沿いに右の写真のような道案内を兼ねた遠賀川式土器のレプリカ付きの標柱をずらりと立てて、道行く者にアピールしている。出色だ。0328dazaifuongagawa_058_2 

この立屋敷遺跡は昭和6(1931)年に発掘された弥生時代の集落跡で、文様のある弥生式土器は当時珍しく、前期に位置するとして特に「遠賀川式土器」と命名された。遠賀川式土器は西日本全域に稲作文化波及の担い手とともに伝わったとされる。

 立屋敷地区は今でこそ立派な土手のある水田地帯だが、縄文時代早期後半から後期ごろまでは海中かもしくは汽水域になっていて、集落の営めるところではなかった(九州国立博物館のジオラマによれば、中流の直方市あたりまで海水が入っていたという)。縄文晩期からの寒冷で水が引き、この低湿地でも生活が営めるようになり、遠賀川土器人が活動を始めたのだろう。0328dazaifuongagawa_053 

 遠賀川式土器が広く普及した背景に、交易を担った航海民の姿を見てしまうのは筆者だけか? 

 それは措くとして、遺跡の100メートルほど下流側に、石の鳥居の神社が、やはり大きなイチョウを目印として建立されている。「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」といい、祭神はヤマトタケルと当地で娶った砧姫(キヌタヒメ)である。0328dazaifuongagawa_055

ここのイチョウの巨樹が面白い。というのは、このイチョウと同じ遺伝子を持つ木が、何と、島根県の太田市と韓国慶尚北道の亀尾(グミ)市にあるというのだ(平成16年に確認)。最近の遺伝子研究の発展には驚かされるが、ただしそれによると樹齢は600年ほどらしく、神社がかねて伝承してきた「ヤマトタケルお手植えのイチョウなので、樹齢1800年以上」という説明に合わなくなってしまったのは残念だろう。

0328dazaifuongagawa_076_2 遠賀川右岸上の県道73号線は快適なドライブコースで、川を常に見渡しながらひたすら南を目指す。約20キロで直方市に到り、そこからは国道200号線に乗り換える。

 さらに15キロほどで筑豊・嘉穂盆地の一大都市・飯塚だ。ここにあるのが「立岩遺跡」で、弥生中期からの嘉穂地方の王者がいたという所、その証拠が「飯塚歴史資料館」に収蔵されている。0328dazaifuongagawa_065

展示室でとにかく目立つのが大小あまたの甕棺で、王者と思しき人物の埋葬も巨大甕棺になされていた。

 副葬品の前漢鏡が立岩遺跡群全体で10面発見されており、枚数では糸島地方の平原遺跡の30面以上や、博多地方の須玖遺跡の20数面には及ばないが、すべて完全な無傷の個体群であったということでは唯一無二であるらしい。0328dazaifuongagawa_073 

中でも、立岩堀田遺跡で見つかった甕棺には、銅矛とともに前漢鏡が6面もあり、飯塚いや嘉穂盆地全体の弥生前期の王者の墓とされている(左はそのレプリカ)。0328dazaifuongagawa_074_2

 

前漢鏡は優品がほとんどで、銘の入った物も三面あり、学術的にもすぐれた遺物になっている。

また、特筆に価するのが「平絹」と「貝輪」で、前者は副葬の鉄矛や鉄剣に付着して残されており、弥生中期に絹織物を生産していたという証拠になった。また後者は九州南部や南西諸島との交0328dazaifuongagawa_069_3 流・交 の史実の物証となるものだ。

 立屋敷遺跡もそうだが、やはり航海民による海を介した交易が行われていたはずで、このような交易活動の中心的交換価値品目が、立岩に特徴的な輝緑凝灰岩製の「石包丁」なのであった。前漢鏡や平絹を取り入れた王者はこの技術品の生産者でもあったのだろう。0328dazaifuongagawa_067

 玄界灘に注ぐ最大・最長の川である遠賀川。その流域は、水田農業の揺籃の地であったばかりでなく、航海を通じた交易の拠点でもあったということができよう。

(右の写真=多量の貝輪を腕に装着して葬られた人物は、祭祀を司る者とされる)

   マップ

 

|

« 太宰府天満宮と九州国立博物館 | トップページ | しつけとおしつけ »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 太宰府天満宮と九州国立博物館 | トップページ | しつけとおしつけ »