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平季基(たいら・すえもと)の旧跡

0319tairanosuemoto_018 宮崎県都城市に起源を持つ島津荘は、西日本最大の8000町歩( 8000万平方㍍=80平方キロ)余りという途方もない規模を持つ荘園で、その基いを築いたのが平季基(すえもと)であった。

 季基の墓があるというので、出掛けてみた。場所は曽於市の旧末吉町橋野地区である。主要道〈飯野・松山・都城線〉で志布志市松山町から北上すると、約6キロで、大淀川上流のちょっとした盆地に出る。鹿児島、宮崎の県境地帯だ。

 0319tairanosuemoto_023 陣の下橋を渡ってから1キロ余り、盆地を抜けたあとの道路の緩やかな登りが終わる頃、左に入る道が見える(すぐ先には「中橋野」という宮崎交通のバス停がある。次の上橋野までが鹿児島県)。

 左折して300メートルも行くと、右手は神社で、「若一王子神社」といい、季基が後継者に家督を譲った後、その社司として最期を迎えたところという。その割には間口一間半ばかりの小さなお宮のうえ、境内とてゲートボール場が一面やっととれる位の広さしかないが、このあとすぐ訪れることになる季基の墓所を見れば、墓所にしてこれなら、と納得できる。0319tairanosuemoto_029

 若一王子神社の前の道を、そのまま直進して、150メートルほどで小さな交差点に出る。左折するといきなりな急坂で、道路の斜面下に白い看板と石碑のような物が並んで見え、すぐ隣には石段がある。

 近寄ってみるとまさしく石碑には「平季基公墓所」と刻まれている。一見して古そうに見えたが、実はこの石碑の建立は昭和54年だった。0319tairanosuemoto_024

 崖の草むらがきれいに刈られており、手入れも十分なのだが、上にあがって驚いた。

 これほどの荘園を築いた人の墓であるのなら、さぞ立派な石塔か五輪塔の類が残っているのだろうと思ったのがいけなかった。

0319tairanosuemoto_026  畑の一角が15メートル四方くらいに掘り下げられ、そこには「平 季基 墓」と書かれた旧末吉町教育委員会の立てた木標柱と、そう樹齢は古くない2,3本の木立との間に、二基の石造物がこじんまりとあるだけなのだ。

 平季基はもともとは大宰府の大監という高位の役人(帥・権帥・大弐・小弐の次で、地方官ならば国司クラス)で、万寿3年(1026)に当地にやって来て農地を開発して荘園として纏め上げ、それを時の関白・藤原頼通に寄進したという。これを疑う研究者はいないから、中世最大級の島津荘園開設の最大の功労者であるはずなのに、このみすぼらしさはいったい・・・・・。0319tairanosuemoto_031

季基の墓所から急坂を下ると、道はやがて大淀川に出る。

 ついでに国合原(くにごうばる)の合戦場の跡を見ておこうと、川沿いの田んぼ道をしばらく上流に向かう。三本目の橋の向こうがどうもそのようだったので行ってみる。

 橋は「塚元橋」といい、その向こうに広がる田んぼ地帯のあたりだと思い歩いてみるのだが、それらしき物は見当たらず、引き返そうとして妙な物が目に入った。0319tairanosuemoto_035

牧草畑の真ん中に富士山のように盛り上げた小山が見える。近寄ると、てっぺんと裾野に石柱が立っていた。「耕地整理の記念碑」だった。なんだ仰々しい――と思ったが、同じく裾野に立つ教育委員会の木柱には「三国名勝図会にも記されたこの丘は・・・」とある。何でも、天孫降臨に因んだ由緒のものらしい。

 家に帰ってから、三国名勝図会は持たないので、白尾国柱の『麑藩(げいはん)名勝考』で調べると、この小山は「柄基(つかもと)」といい、土地の者の説では「天の浮橋」なんだそうだ。国柱もそれを否定せず、天の諸尊が天地間を往来するための「臍帯(ほぞ)」に譬えている (どうもこのさらに上流にあるイザナギ命がみそぎをしたという「檍(あおき)神社」との関連がありそうなのだが、今は考える余裕はないので保留しておく。ただ、近くの橋が塚元橋なので「塚(古墳)」の可能性あり)。0319tairanosuemoto_010

思いがけないものに出くわしたあと、再び季基関係の旧跡に向かう。道を再び「中橋野」まで取り、そのまま都城方面に入って行く。4キロ余りで梅北町の信号(ガソリンスタンドあり)に出るから、そこを右折すると200メートルほどで右手に社叢林を見る。そこが「黒尾神社」(梅北町益貫)で、季基が荘園開発と同時に伊勢の大神を請来し祭った所という。

 鳥居の脇には白塗りの木柱で「神柱宮跡」とあった。神柱神社は都城全体の総社といった地位にあり、現在の目で見ると神柱神社は市街地の中心にあるし、東の遠くないところに島津荘の現地事務所である「祝吉御所跡」0319tairanosuemoto_014や、もっと古い「髪長姫の誕生地」という早水神社などがあって、いかにも現・神柱神社は古来から鎮座していたかのような感を受けるが、創建(遷座)はわずかに明治6年のことに過ぎない

 さて本宮たる黒尾神社だが、間口3間、奥行き6間ほどの拝殿に、伊勢神明造の本殿が見えるのは、片田舎にある神社にしては立派で、さすがに千年近い歴史を物語っている。

 0319tairanosuemoto_015 興味を引くのが神社横の社叢林の起伏で、はじめ見たとき直感的に「古墳じゃないのか」と思われるほど、それらしいマウンド状になっていることだ。

 神社地を取り囲む道路の四周を見回しても全くの平地であるのに、ここだけが比高にして3~4メートルの微高地になっており、しかもマウンドのうねり方が「前方後円墳」を思わせる。季基が神社を創建した頃には、すでに開平掘削が進んで古墳とは認識されていなかったのかもしれないが、季基がこの梅北の地を良い土地と考えたように、上代人も同じように開発に精を出していたその証しだったのだろう。0319tairanosuemoto_001 

 廃藩置県後に置かれた都城県の初代県令は、旧薩摩藩家老・桂久武だったが、かれは県の精神的支柱として、島津荘を開発した平季基の故事に因み、季基が創建した梅北の本宮を、現・神柱神社の地に遷座した。時に明治6年10月28日のこと。

 ただし、明治4年にはあった都城県は、6年には廃止され、宮崎県に併合されるが、久武の志はそのまま貫かれ、盛大な遷座祭が催されたという(祭神・アマテラス皇大神、トヨウケヒメ大神)。0319tairanosuemoto_005

コンクリート製の大鳥居をくぐると広い境内には、神泉池があったりして水の豊かさを思わせる。大鳥居から本殿下の階段まで、優に100メートルは歩く。右手の公園では、ちょうど明日から始まるらしい「春の木市」の準備に、植木屋さんらが大わらわだった。

 真ん中に本殿があり、左側は社務所、そして右側にこじんまりとしてはいるが、瀟洒なお宮がある。それこそが「基柱(もとはしら)神社」で、祭神は島津荘開発の祖・0319tairanosuemoto_003 平季基公。どういうわけか菅原道真公も祭られている。道理で拝殿両側の壁には絵馬掛けがしつらえてあり、いくつもの「合格祈願絵馬」が揺れているわけだ。

 この神柱宮社地は都城島津家の旧御茶屋の跡地なので、当時、季基も道真も祭られていたという気配はないから、神柱宮創建の時に一緒に建立されたと思われるが、それにしても開発領主と学問の神様との相殿というのは、珍しい。

 季基は10世紀後半から11世紀前半の人、道真は9世紀後半(845~903)の人だから、時代も合わない。0319tairanosuemoto_004

 だが、もしかしたら大宰府つながりということか

 平季基は大宰府の大監という役人だったし、道真はよく知られているように 左大臣藤原時平の讒言によって右大臣職を解かれ、左遷された先が大宰府であった(延喜元=901年。2年後、大宰府で逝去)。

単に在職地が同じだから、というわけではなさそうな気がするが、季基は当然、高名な大先輩・道真のことはよく知っていたはずだから、まず相殿に不足はないだろう。

  マップ

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コメント

季基の墓のご紹介ありがとうございます。

当地の平家物語「足摺」の頁を作成していた頃
購入した山川出版の「鹿児島の歴史」
末尾の歴史年表に「大隅國焼き討ち事件」の
掲載を見つけました。

早速出典の「小右記」を購入し読んでました。
しかし、購入した本には、長元二年六月は
欠落していました。

暫く頓挫状態でしたが、、
最近又、「中右記」や「小右記」を読んでいます。
今日借りてきた大日本古記録にも
「大隅國官舎焼き討ち」の長元年号はありませんでした。

平季基が多量の進物をしているので
背景は何かと思ってましたが、、

暖かくなったら、お墓参りに出掛けて
何かヒントを得たいものです。

投稿: 今井より | 2016年3月29日 (火) 17時06分

今井さん、コメントありがとうございます。
 もし季基の墓所が500メートルばかり東に位置していたら、つまり都城市に属していたら、島津荘開発の恩人として顕彰し、観光資源となっていたでしょうが、ここは鹿児島県曽於市(旧末吉町)内であるため、残念ながらそうなっていません。
 鹿児島県内でも島津氏の本城のあった薩摩半島ならいざ知らず、大隅半島側では島津氏に敗れた肝付氏の勢力圏意識が強く残っている(反島津意識が強い)ので、その島津氏の南九州への関与の取っ掛かりを結果的には提供した人物である季基は忌避されているのだろうと思います。
 

投稿: kamodoku | 2016年3月31日 (木) 09時51分

早速のご返事ありがとうございます。

今日は「花散らしの雨」
4・5 いつもの公園で桜を眺めていました。

「小右記」
焼き討ち事件の長元年号は第八巻にあるみたい。
先日返本した時、追加貸し出しをお願いしました。
今度は閲覧できるかもです。。

地元の図書館では持ち出し厳禁ですが
県の方は大丈夫、、何か変ですが
在野の私にとっては嬉しい限りです。
届いたらゆっくり読みたいものです。

そうそう、平安時代の「御堂関白記」も
明日届くようです。
こちらはネットの古本屋でゲットしました。
同じく大日本古記録シリーズです。
これも楽しみ。

投稿: 今井より | 2016年4月 7日 (木) 19時46分

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