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菱田川流域散策(その一)

 菱田川は鹿屋市輝北町に源流を持ち、旧大隅町(現・曽於市)、旧有明町(現・志布志市)を流れ、河口だけ0531hishidagawa1_003 は大崎町(曽於郡)という長さ約50キロ、大隅半島部では最大の川、旧大隅国では霧島市の天降川についで第二の河川である。

 河口の向こうは太平洋(志布志湾)。あいにく曇っていたので左手に遠く見えるはずの都井岬は見えなかったが、志布志湾に浮かぶ島「ビロウ島」が見えていた。

0531hishidagawa1_002 河口の先でやっていたサーファー。朝10時というのにもう上がってきた。

 早朝からやっているという。

0531hishidagawa1_006  

 河口から300メートルほど上流に架かる菱田大橋までの緩やかな汽水域には水鳥が多い。対岸の家並みは菱田川の土砂が造った砂洲の上に建つ。

 8世紀代に書かれたと思われる『大隅国風土記(逸文)』に0531hishidagawa1_007 

       必志里(ひしのさと)

 大隅国風土記にいわく「必志里。むかし、この村の中に海の洲ありき。

 因りて、必志の里という。(注)海の中の洲は、隼人の俗語に必志(ひし)という。 0531hishidagawa1_008

 とあり、このあたりに砂洲の多かったことが分かる。この説話は、原住民の隼人が砂州のことを「ひし」と言ってたので、ここが「ひし田」(大崎町菱田)と呼ばれ、川も「菱田川」になったという地名起源説話である。

 菱田大橋から右岸を300メートルほど行くと、土手の左手に大型のユンボが掘った池ができていた。池の対岸を見ると、緑の畑の直下約1メートル位は畑土(水田土)で黒いが、その下は川砂だ。ここもかっては砂洲だったのだろう。0531hishidagawa1_010 

さらに右岸を行くこと500メートル、ワゴン車が停まっていたので声をかけると釣り人だった。

 何が釣れるんです? ――コイですよ。  釣れますか? ――いや、今日はまだ。  

 見れば4本も釣り棹を伸ばしている。菱田川沿いを行ったり来たりしているそうだ。道順を教えてもらい別れた。0531hishidagawa1_012_3

釣り人の300メートル上流には「田尾橋」が架かる。

 この橋から上流はシラス台地がぐっと迫る。川沿いの田んぼ地帯もここまでだ。河口から1.5キロしかない。要するに、昔はこのあたりから志布志湾に向かって「扇状地状三角州」が広がっていたのだろう。

 その三角州のひとつひとつの砂洲が隼人に「ひし」と呼ばれ、今はこうして水田地帯になったわけだ。菱田川の賜物に他ならない。0531hishidagawa1_020

釣り人に教えて貰ったとおり、田尾橋を左岸に渡り、左折してさらに川めがけて降りていくと、「野井倉大橋」の下をくぐって上流に向かう。

 途中、目に付くのは養鰻場だ。菱田川の下流から中流にかけては養鰻場だらけと言って差し支えない。

 右岸にも左岸にも崖下だろうがなんだろうが、やたら目に付く。0531hishidagawa1_019

養鰻場に並んで、かなり大手の水産加工会社の工場もあった。

 飼育場にしろ、加工場にしろ、水が豊富でなければ成り立たない事業だが、菱田川流域は地下水に恵まれているに違いない。

 稚魚(シラスウナギ)が肝属川河口でよく採れると聞くが、菱田川河口もそうなんだろうか?いや、やはりほとんどは輸入だろう、残念ながら・・・。0531hishidagawa1_018

養鰻場を過ぎ、そのまま左岸をうねうねと500メートル余り行くと「蓬原橋」に行き当たる。渡らずに右を行けば志布志市役所(旧有明町役場)、左折して橋を渡っていけば国道269号線に突き当たる。

 橋の辺りは水量が豊かだ。左岸にも右岸にも白い養鰻場の建物が見える。

 今回、遡るのはここまでとし(河口から3キロ強)、引き返して野井倉大橋を渡ることにする。0531hishidagawa1_023

 「野井倉大橋」は志布志ー鹿屋グリーン道路に架けられた全長200mほどの橋で横浜ベイブリッジを思わせる斜吊橋なのが珍しい。

 平成17年3月に完工し、と同時に志布志グリーン道路も全線開通した。それまでの国道220号線経由より、20分ほど時間が短縮されたという。

 0531hishidagawa1_022 鹿屋・肝属産の農畜産物がいち早く志布志港発のカーフェリーに運ばれるように、というのがキャッチフレーズの建設だったが、出所は例の特定財源何とやらのはず。

 広々とした橋の上から上流を望むと、目に付くのはやはり、養鰻場。

 農畜産物のほかに、水産物であるウナギもこの道路を使って大都市へと運ばれるのだろう。

0531hishidagawa1_025  橋を右岸に渡った地区が片平。ここに「片平古墳」があるのは何かの情報で得ていたので、渡り切ったら誰か地元の人に聞こうと、単車を道端に寄せ、路地の向こうを覗くと、誰かが畑仕事をしている。

 行って「片平古墳は」と切り出すと、すぐさまのレスポンス。「ああ、すぐそこの森の中ですよ。でも竹やぶに覆われているようで・・・」と恐縮勝ち。

0531hishidagawa1_024_2   「ああ、そうなんですか」とよく見ると、麦藁帽子の下の顔はずいぶん若い。「実はわたし、志布志市の文化財課の者でして」――で、おどろいた。

 旧有明町の文化財係員でD氏という。今、精を出しているのは、これから家を建てる場所の整地作業だという。おとといの大雨で50センチ盛ったシラス土が一部流れたので補修とのこと。

 完成は今年末だそうだ。「それより、近くに片平古城址がありますよ。伴姓救仁郷氏が初めて築城し、その後、蓬原城に移ったらしいです」

ほう、肝付氏の分流ですな――礼を言って別れ、そこに向かった。写真(上)が「片平古墳」があるらしい岡(下は田んぼ地帯)。写真(下)がその約100メートルほど菱田川に近い「片平古城址」があるという小高い岡(人家の奥。写している耳に川音が聞こえるほど流れに近い)。

  マップ(最近、マップ用の地図コンテンツにつなぐと固まってしまうので、読者自らのアクセスをお願いします。「鹿児島県曽於郡大崎町」でアプローチしてください)

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頼むから辞めてくれ朝青龍

大相撲5月場所最後の大一番――と期待したのがいけなかったのか・・・。

なんとも後味の悪い勝負だった。Yokodunanoniramiai (写真はyahoo!スポーツより転載)

 取組み後のビデオを何度見ても、朝青龍が、手を付いて四つんばいになったあとの白鳳を、ムキニなって「コノヤロウ」と両手で押そうとしているのは明らかだ。

 その直後、白鳳も「何をするんだ、こっちはもう両手を付いているじゃないか」とばかり、立ち上がると同時に朝青龍を右肩で譴責した。

 それだけを相撲協会の北の湖理事長は取り上げ、白鳳に「横綱としての品位を保つように」と注意したという。 

 アホか――と思ったのは私だけではあるまい。

 喧嘩両成敗ならまだしも、これでは納得がいかぬ。

 だいたい天下の横綱の取り組みだったら「がっぷり四つになってなんぼ」だろう。まして千秋楽の最後を飾る大一番なのだ。勝負の美学というものがあるではないか。

 もう朝青龍は辞めて欲しい。あんなの横綱でもなんでもない。勝って金が欲しいだけにしか見えぬ。

 同時に、北の湖理事長も辞めるべきだ。朝青龍の「仮病事件」や「時津風部屋力士リンチ死事件」でも、後手後手に回るだけでうやむやに済まそうとして、何の責任も取っていない。

 早く「国技法」を制定して、ゴチゴチの「伝統的・美学的・勝敗二の次的」大相撲に立ち返るべきだ。

 ハワイ系のあの「巨漢主義」も大相撲に大きなしこりを残したが、今度の「モンゴル拝金主義」も要らぬ。

 そういうのが好きな手合いには「国際大相撲協会」を別途作って対応したらよかろう。国際貢献になる。

 天武天皇11年(682)秋7月3日、はるばる南九州から朝貢してきた隼人が

   「この日、大隅の隼人、阿多の隼人とが朝廷において相撲をとる。大隅の隼人勝ちぬ」

 と「日本書紀」に記述されているほど古い「相撲」。

 勝ったからといって、褒美を貰ったとは書かれず、それどころか同じ7月の27日に

   「隼人らを、飛鳥寺の西に饗す(もてなす)。種々の楽を発す(舞楽を演奏する)。よりて禄を賜うこ       と、おのおの差あり」

 とあって、相撲よりも舞楽の方を重んじ、これには褒美を与えている。

 1326年前にすでにあった「勝ち負けのことより、皆がひとつになれる楽のほうが上」という美学を忘れ果ててしまった今日の体たらくはナサケナイ。天武天皇も泣いている。隼人も泣いている。

    

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中世史研究会で発表(鹿児島市)

 鹿児島市の黎明館で中世史研究会(小園公雄会長)月例会で、去年同様、新刊の「大隅(51号)」誌の販売0524kagoshima_003_2 兼ねて発表をさせてもらった(例会は毎月第4土曜日、午後2時~5時)。

 これも去年同様、駐車場の管理者に「3階まで運び込む荷物があるので、一番近いところに入らせて」と頼む。やはり、裏口へ案内された。

0524kagoshima_002 鹿児島は折りしも本格的な雨、トラックの入るような納品口だったので、こちらも車を入れて冊子を濡らさずに済んだ。

 冊子とはいえ、220ページの本。40冊はけっこう重い。それでもエレベーターが利用できたのでだいぶ楽だった。

0524kagoshima_001 「雨がたたったナ」と会長の小園先生。

 なるほど、去年は25、6名は来ていたのに、今回はちょうど10名。少数精鋭とばかり、話し始める。

 出発間際までかかってプリントした資料は10ページ。内容は

1肝付家譜(本流) 2肝付家譜(兼光流) 3禰寝家譜(小松流) 4肝付氏のルーツと「きもつき」 5禰寝氏のルーツと「ねじめ」 6島津氏のルーツと「これむね(惟宗)」 7天皇家の「姓」は何?

 話の枕に、篤姫・小松帯刀・坂本竜馬という同い年3人の人物像を表にして、比較検討。

 途中、休憩を入れるのも忘れ(実際には5分ほどとったが)、話し終えたら4時半を回っていた。質問の応答後の時計はジャスト5時。これにて終了。おっと、「大隅」を買ってとお願いしたら、やっと4冊売れた。

 去年は20冊近く売れたのに、とぼやきつつ黎明館を後にする。

 ここで、大隅史談会の運営を確認。

 大隅史談会は「会費なし」という世にも珍しい団体だ。入会金1000円也を払って会員になると、その後の費用負担は一切無し。会則には「会員は会誌を購入するものとする」と書いてあるが、買わなければならぬという義務条項ではない。

 会誌の販売収入が、即、次回の会誌の製本費用になる、という言わば「自転車操業」。販売が役員の主な仕事になってしまった。本来の郷土史研究はだいぶ前から「後回し」の状態が続いている。役員は自分でも会誌に書く人がほとんどだが、投稿でもらえるのは一冊だけ。売れないから自分で数十冊を買い取り、それで何とか「自転車が倒れない」で済んでいる。

 どげんかせんと――と思いつつも、名案は浮かばない。書店で売るにしても「定価2200円」では、財布の紐がゆるまないのが現状(去年、ある郊外書店に置いたが、2ヶ月近く経って売れたのは2冊だった・・・・・)。

 0524kagoshima_004 帰りに、ドルフィンポートの「篤姫館」に寄ってみた。

 と、5時半だったので、もう切符の販売はしていない。仕方なく館に入って受付嬢に頼んだところ、OK。開館は6時まで、観覧料500円とある。うむ、ちょっと高いと思い、300円でどうだと向けたが、これには応じなかったhappy02

 江戸城内部の作りが再現されており、たしか4つのコーナーに分かれていた。中でも、大奥の篤姫の間のセットでは、篤姫の着たようなあでやかな着物を身にまとって撮影ができるという特典があり人気があった。0524kagoshima_006

当然、男客の恩恵にあずかれるところではない。

 女客だけ高くしろ、いや、男客の入場料を安くしろと言いたいところだが、そこは紳士たるもの、勿論、おくびにも出すはずはなく、黙って見ていたが・・・。0524kagoshima_007

最後のほうで、篤姫役の宮崎あおいのサイン色紙以下、6人の俳優の色紙のコーナーがあった。

 若さあふれる宮崎あおい(上)と、老練な高橋英樹(下)のサイン色紙

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垂水の島津家墓地

肝付地区の文化財保護審議委員会の総会があり、いつもその後に行われる現地研修に参加した。

 今回は垂水市で行われ、研修には最近垂水市に寄贈された「島津家墓地」が選ばれ、念願の入場を果たした。これまで三回ほど行っているのだが、いつも入り口は閉ざされていて、中を見ることが適わなかったのである。0521tarumizu_002

 ただ、その前に時代順として「島津氏久逆修塔」を見学。

 島津家墓地より約1キロほど山の手に行き、かなり狭い集落道を入った所にある。

 折からの桜島の降灰で、道がうっすらとグレーに染まっていた。0521tarumizu_013

 およそ60基の宝塔の中にひときわ目立つ宝印塔が、島津家第6代当主・氏久の逆修塔。

 逆修塔とは、大きな戦いに臨む前にあらかじめ造らせておき、死後の冥福を祈るための供養塔で、死を覚悟した証しとも言える記念碑だ。

  島津氏久は南北朝時代を生き抜いた武将で、本拠地を大姶良城に置いたため、祢寝(ねじめ)氏と連携をとりながら、古族・肝付氏とは何度も事を構えた。

 0521tarumizu_014 信州が本貫の稀有の武将・楡井頼仲の席捲を許しながらも、これを押し返し、大隅半島がやがて島津氏の手に落ちる布石を打ったといえる。次代の元久は大姶良城で生まれており、自身の墓も近くにあったが、今は鹿児島の島津家墓地に移されている。

 その代わり、逆修塔はあちこちに残っている。垂水のは正平10(1355)年頃に建てられたらしいというから、650年前のもの。また石塔群の中には珍しく肥後相良の一族・永留氏のがあり、その建立の経緯はいまだ謎になっているそうだ。0521tarumizu_017

 次に向かったのが「垂水島津家墓地」。

 入り口の扉はたしかに開いていた。

 木漏れ日の向こうは、かなり広い敷地で2段になっており、うしろに高いシラスの崖が迫る。昨年、当家最後の16代の後裔により市に寄贈されたのを機に整備をしたところ、最深で1メートルもの土を掘り返し、今ようやく14基が確認された。0521tarumizu_020

14基とは二基少ないが、2代目と5代目の墓は宮崎県佐土原と東京(江戸)にそれぞれ所在するそうだ。

 それでも、16代のうち14代のが揃っているというのは珍しいという。珍しいといえば、奥方の墓が当主の墓と並んでいるのも珍しいらしい。

見て回ると、面白いことに気づいた。

 0521tarumizu_030_2 それは明治の廃仏毀釈後に亡くなった人の墓は、それまでの仏式の宝塔のタイプではなく、角柱の、それも上に行くほど狭くなり、天辺が背の低いピラミッドの形をしていることだ。

 左の第13代貴典公の場合、本人は江戸時代の元治年間に亡くなっているので 完全な仏式の宝塔で、芸術的でさえあるのだが、奥方のほうは明治9年建立のオベリスク型でシンプルなもの。そのコントラストが面白い。碑面の霊名(戒名)を読んだら、さらに面白くなった。

  <真注連張間姫命>・・・ましめはりまひめのみこと、と読むのだろうか?

 注連は「しめなわ」のことだろうから、この戒名の意味は「ちゃんとした注連縄を張りま(した)姫君の霊位」となると思うのだが、そこに込められた真意が分からないせいもあって可笑しくなってしまった。0521tarumizu_022_3

 墓地入り口を入ってすぐの右手奥に、明治10年になくなった「八百姫」の墓がある(例のオベリスク型だ)。

 向こう側に真新しい説明板がまぶしく建っていた。「篤姫」と八百姫との関わりが書かれているのだが、それによると八百姫(於朝=おあさ)は南部藩の姫君で島津重豪(しげひで=娘・茂姫が11代将軍斉宣の正室)の孫に当たり、13代家定の正室にしたいと白羽の矢が立てられていたのだそうだ。

 だが八百姫はいち早く垂水島津家(14代貴敦)に嫁いだため、今和泉島津家の篤姫にお鉢が回って来た――という。

 まかり間違えば将軍家の「御台所」になったかも知れぬ姫君が、わざわざこの辺境の垂水家に嫁いで来た――そんなすごい歴史を秘めた垂水、と自慢の種にはなるかもしれない。それとも単に篤姫ブームにあやかりたい? いや、歴史はかこつけることで(カッコつける、ではない)理解が深まってゆくことが多いもの。

 

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小柳ルミ子が来たとは!

あの小柳ルミ子が、ここまで来るとは・・・・・。Img_0001_2

 知人から頂戴したチケットとパンフレットには

「チャリティーコンサート&新茶まつり」

と大きく書いてあり、歌手小柳ルミ子の顔写真がでかでかと載せてあった。

 細かい字を読んで行くとルミ子ショーは午後1時半からとある。うむ、行きたい。だが、昼からは仕事が入っていた。キャンセルはできぬ仕事なので、断念。

 二枚あったので家内と家内の知人が行くことになった。

 せめて写真を撮っといてくれとデジカメを渡しておいたが、その成果がこれ↓。0517hananoki_002_2

鹿児島弁は苦手だが、これには

 「ン、ダモ、シタン!」

 なんで、近くで撮らんのだ!

 「だって、放送で写真はご遠慮くださいって言うから」

 そうか・・・。いや、これが撮れたんだったら、ズームで撮ればなあ――。

 「ズームなんて、シタン(知らん)!」

・・・・・聞けば、10曲は歌ったそうだ。ああ、聴きたかった「私の城下町」「瀬戸の花嫁」「お久しぶりね」・・・・・。

 これを主宰した社会福祉法人「白鳩会」は、南大隅町に本部を持つ障害者施設で、茶をはじめ養豚、花卉、豆腐の生産などで、障害者の社会復帰に貢献している。

 生産場(花の木農場)は大隅半島の中央を縦貫する「大隅中央線」沿いにあり、風光明媚なところ。

 まさかここまで大歌手・小柳ルミ子がはるばるやって来るとは思わなかった。明るい歌声は南国のこの地によく似合う。さぞ快く響いたことだろう。

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天変地異か天罰か?

 妨害されたり、ブーイングが興ったりとさんざん注目を集めた北京五輪の聖火リレーが、ようやく他国を回り終えて自国に入った途端に起きた5月12日の「四川省大地震」。

 あるニュースによると、地元のチベット少数民族の間では、5月初旬から「何か大変なことが起きる」といううわさが流れていたのだが、当局はそれを一蹴していたそうだ。

 地震予知のうわさとすれば、たいしたもので、その後にヒキガエルの大移動が見られたというから、間違いなくその予知能力は本物だろう。ただ、うわさの出どころがあの暴動の震源地チベットと同じチベット族というところが、出来過ぎていてちょっと引っ掛かるが、この地震で件のチベット少数民も被害を受けているのだから、そこは考え過ぎかもしれない。

 被害といえばずいぶん大きなものだ。死者はすでに2万を越え、行方不明まで併せると5万になろうかという。温家宝首相がおっとり刀で駆けつけて救出の総指揮を執り、報道が逐一その姿を追って公表しているのも、これまでにない中国当局の姿勢で、好感は持てる。昨日はついに胡錦涛国家主席も現地入りし、温家宝首相と合流した。

 北京五輪に向けて、いかに中国が威信をかけて成功させようかという意気込みがよく分かる。ここはどうしても強力なイニシアチブで乗り切って、五輪を大成功させ、かって日本が東京五輪を成功させたことで発展の確かな基礎を築き上げたのに倣おうというのだろう。

 「毒入りギョーザ」事件が象徴するように、中国への信頼感が失せ果てた今、日本をはじめ数カ国の救助チームを受け入れたが、中国も面子を捨てて来つつあるという気もする。北京五輪が無事開催されるかどうか分からないが、五輪後の中国がどういう国になっていくのか注目せざるを得ない。

 しかし、中国の大地震で影が薄れたが、もっと酷いことになっているのが南隣りのミャンマーだ。

 5月2日のサイクロン被害は滅茶苦茶で、死者6万弱、行方不明7万余りと、軍政府が公式に発表した。その軍事政府は、援助物資は受け入れるが、人的支援は受けぬ――という。まさに北朝鮮にも劣る閉鎖性とちゃっかり性には呆れて物が言えない。

 軍事政府はもう長くないだろう。日本降伏後、再び英国寄りに軌道修正したとはいえ、近代ビルマ建国の父・アウンサン将軍の娘スーチーの復権する日がやがて来るに違いない。

 ところで東南アジアから北の中国大陸にかけて、3年半前のスマトラ大地震以来、今度の地震で一連の大規模災害が続いたことになる。南のオーストラリアの大干ばつもその一環と考えると、日本を含む東経100度台の天地が揺さぶられていると言ってもいい。

 地質学的に見ると5年、10年の単位は「秒読み段階」だ。それで言うと、東海地震がいつ起きてもおかしくはない。南海地震かも知れぬ。明日はわが身と考える癖を付けた方が「勝ち組」になるかもしれない。少なくとも「命あっての物種」「生きていれば丸儲け」という教訓は学んでおいて損はしないだろう(一般的な処世術としても)。

 

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花の展覧会

 超遅咲きだった今年の桜も跡形なく散り、八重桜もしばらくは爛漫と咲き誇っていたが、これもすでに葉桜。すっかり青葉若葉の季節到来。

 道路沿いのツツジ類も盛りを過ぎ、やはり若葉が目立つ。となると鹿屋ではバラが一人が勝ちか・・・

 と、思いきや、ここにもあるよ、とばかり人目を惹いているのがこれ0508minkaen_011

もう、桜の咲く頃から目立っていたのだが、巷の花木たちが競演をしている頃は、「あれもあるけれど、やはり自然の花にはかなわんな」と、あえて横目だけで通り過ぎていた。しかし一ヶ月も鮮やかさが続いていると、無視するわけにはいかなくなった。

 花好きは人後に落ちないつもりなので、どうしたらこんなにも沢山の鉢類を咲かせられているのだろう、苦労も大変だろうな、などと思い入れ始めたのだ。

 0508minkaen_010_3 他は知らないが、よく通る道沿いで花屋の店先かと勘違いするほどの個人住宅の「花の展覧会」を開催(?)しているのは2軒あって、一つ目がこの鹿屋市田崎町の民家

 塀に掛けられたハンギングもグー!

 写真を撮らせて欲しい旨、訪ねてみたが、あいにく留守だったので苦労話は聞けなかった。

 玄関へ到る路も鉢だらけで、もっとおどろいたのはその向こうに広がる庭だ。

 広がる―と言うと広い庭をイメージしてしまうが、0508minkaen_009 坪庭と言いたいくらいの広さで、幅2メートル、奥行き10メートルほどしかない。

 左手の塀沿いにだけ土の花壇が続き、そこにはバラを中心に花木が咲き並び、他はレンガ状のタイルが敷き詰めてあり、洋風の白いテーブルが置かれている。

 いやはや、ここで飲むコーヒーでもビールでも何でも美味かろう。

 (・・・これって、盗撮・・・? 確かに断りなしだが、門は開けられていたし、昔から「花盗人は盗人にあるまじ」と言うし、褒めているのだし・・・)0508minkaen_003

もう一つの展覧会場はここ。

 鹿屋市新生町の大通りに面している

 一見すると、左のパン屋の店先に飾られているのかと思う。

 パン屋に入って聞いてみると、隣の民家のだと言う。親切にも出てきて家に案内してもらった。0508minkaen_006

「好きなんですよ、主人が」と60歳前後の奥さん。

「え、水遣り?それも主人ですよ」

一時間はかかるだろうという毎日の水遣り。これからもっと大変な日々が続く。

0508minkaen_005

 こちらも広いとは言えない庭――というより普通なら駐車場にするはずの門の前の7,8坪の狭い空間に百花がまさに繚乱。

鉢物は余り好まない当方も、ここまで自分を楽しませ、人の目をも楽しませる「生きがい」には脱帽する。二世代住宅のようだ。孫も花好きになるのだろう。

 

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かのやばら園(2008)

 0508baraen_015 4月27日に始まった「かのやばら祭り2008」の最初の一週間は花数も少なく不評だったが、ここへ来てようやく7~8分咲きとなり、見頃を迎えている。

 一目千種――という言葉があったかどうか知らないが、入園して歩き出したとたん、目に飛び込んで来るその色とりどりには驚かされる。0508baraen_004

 画面の3~4㍍幅の花壇に、一見しただけで4,5種類はあるから、4000種5万株あるという園内の通路の総延長は、3~4キロメートルを下ることはないだろう。歩くだけで1時間、立ち止まって観賞したり、写真を撮ったりすれば、その倍の2時間はかかる。いい運動だ。0508baraen_006

つるバラアーチの道あり、階段ありで、ところどころクスノキの木陰やベンチもあるから、カップルでも家族でも十分に楽しめる。

 その上、今年は園内巡行トロッコ(ただし自動三輪車?)が運行されているので、子供は大喜びだろう。0508baraen_012

 かのやばら園オリジナルの「プリンセス・カノヤ」は相変わらず美しく豊潤な花を開いている。0508baraen_009

 しかし、今まさに完全満開のこの「うらら」の鮮やかなショッキングピンクには負けるかもしれない。

 去年は気がつかなかったが、緑の芝生に映え(まくっ)ている・・・。0508baraen_011

祭り期間 4月27日~6月15日

その間、無休

入園料 大人600円

トロッコ 一周300円

※一度入園料を払えば、いったん外に出ても再入園ができるようです(係りにお尋ねください)。

かのやばら園のホームページはこちら

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指宿行き

 0502ibusuki_002 家内の曽祖母の50年忌と祖母の祥月命日の年忌とを兼ねて、年忌法要が行われるというので指宿に出掛けた。

 家内は昨日から泊りがけで行っているので、日帰りの自分は大根占港まで単車で行き、そこに駐車させて単身フェリーに乗り込んだ。

 「なんきゅうフェリー」と言い、5,6年前から指宿間を運行している会社だ。今回で3回目か4回目だが、自分はこの19トン(総重量60トン)フェリーが気に入っている。でも、家内は何時だったか、とても波の高い日に乗り合わせてひどい目にあって以来、もう乗らないと意地を張っている。現に昨日は根占フェリーで指0502ibusuki_001 宿に行った。

 大根占港の風景の良さは、錦江湾内でも指折りだと思うし、ここから出航してすぐ、甲板から右手に桜島、左手に開聞岳を海風と共に眺められるのも、小型フェリーの特典だ。

 今日はその上に、おまけがあった。0502ibusuki_008

 出航して20分余り、ちょうど中間点を過ぎたあたりだったか、前方に指宿の展望台「魚見岳」、陸繋島で有名な「地林が島」それに豆粒のようにかわいらしい「地林が小島」が並んではっきり見えてきたので、写真を撮った。

 ほんのわずかの後、「あれ、やけにカモメが海面すれすれに飛んでいるな」と思う間もなく、一条の大群へと変わった。すると同じ海面に黒っぽい物がジャンプしたではないか。

 イルカだった。イルカが三頭か四頭ほど、まるでカモメに追われるかのように時おりジャンプしながら、かなりのスピードで泳いでいく。0502ibusuki_009_2 

 最初あっけに取られていたが、デジカメ目一杯の望遠で撮ったら、やっと一枚のそれも左上の隅っこに写っていた。

 それもたったの一頭だけ、しかし背びれがくっきりと分かる。

 以前、根占フェリーで一度、高い甲板からお目にかかったことがあったが、間近に見るのは初めてだ。0502ibusuki_012

イルカたちが追っかけているのは、キビナゴか何かの小魚の大群のようだ。

 よく見ると、カモメの中には、海面にピチピチはねるその小魚をキャッチしているのもいる。

 何のことはないうららかな大海原で「食物連鎖の弱肉強食」が行われている――のだが、それを言っちゃあおしめえよ、で、ここでは「イルカウォッチングを楽しんだ」ことにしておこう。

 こういう特典つきで、船賃600円は、安いものだろう。

0502ibusuki_017 間もなく指宿港に接岸、45分の船旅がおわる。

 すでに5,6台の車が待っていた。15分後には再び大根占港に向けて出航するのだが、一日4往復のダイヤを組んでいる。

 (なんきゅうフェリーのホームページはこちら

 港の岸壁では、中学生たちがスケッチの真っ最中だった。0502ibusuki_018

家内の実家は同じ指宿でも、ここ指宿駅のある温泉地帯よりひとつ鹿児島よりの二月田駅の近くで、車で20分ほどかかる。

 法要は二月田の薩摩藩公がよく利用したという「殿様の湯」の近くの寺で行われた。0502ibusuki_025 浄土宗の寺で法然上人の銅像などがあったりする、静かな環境のところである。

 法要後の昼食兼「厄落とし?」の飲ん方で、しこたま腹に落とし込んでいたら、あっという間に帰る時間になった。帰りのフェリーは家内運転の車のため、なんきゅうフェリーはパスされ、山川(根占)フェリーのご利用と相成った。

 なんきゅうフェリーに乗るとき、夕方帰る時も利用するから単車を置かしておいてくれと頼んでおいたのだが、没。約束違反、ごめん。また利用するからさ、と心の中で言い訳をつぶやく。0502ibusuki_026

夏時間ではないので、根占行きの最終便は16:10と早い。

 「ぶーげんびりあ号」と名付けられた中型フェリーは、鳥羽商船の中古だというが、昔の根占フェリーより客船としての使い勝手はいいような気がする。

 何より、靴を脱いであがる畳(実際はカーペット敷き)の部屋があるのが良い。横になれる。

0502ibusuki_027 山川港は火山の火口に海水が入り込んでできた「噴火湾」であるゆえに水深が深く、地場産業としての造船が盛んだ。

 写真の造船所の陸側は急峻な崖になっており、海沿いの道路と崖の間から「崖葬の女性人骨」(弥生後期~古墳初期)が発見された。副葬品から女性シャーマンではないかと言われている。

 南九州のみならず九州は女性の首領が多かったのが特徴だ(景行紀など)。

0502ibusuki_033 出航して間もなく、寝そべっていた隣りに若い(いや中年かな)男性が荷を降ろし、しきりに地図を眺めている。

「どこから来たの?」から始まった会話は、篤姫から特攻隊まで切れることが無かった。聞けば北海道は小樽から来たそうだ。

 南九州を自転車で西から回り、今日(2日)は神川浜キャンプ場に泊まり、明日は鹿屋海上自衛隊航空基地史料館を見学し、志布志から日南あたりまで行くという。根占港に着いたところでワンショット。先々の無事を願って別れた。

 

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