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青少年育成推進大会(鹿屋市)

 鹿屋市のリナシティで催された「鹿屋市青少年育成推進大会」に裏方として参加した。Seishounensuisintaikairinacity_004

 当日(28日)の午後三時から始まった準備は、まず、リナシティ3階にある大ホール入り口前の受付の設営から。

 市内の小学校から高等学校の育成者(保護者)代表をはじめ各界の代表等、およそ420名ほどの参加を見込んでおり、名簿との照合に抜かりないようにする。Seishounensuisintaikairinacity_00_2

  一方で、舞台の緞帳の内側では、ある子ども会の事例発表の準備が終わっていた。

 向こうに座る子どもたちと、その育成者の代表が、緊張した面持ちで緞帳が上がるのを待つ。

 Seishounensuisintaikairinacity_00_3 10数分後、ようやく幕が上がる。

 まず、主催者による発表者の紹介がある。

 最近のこういった大きな大会では、手話通訳が付く。今回も、約3時間の大会に3人の通訳者が来ていた。

Seishounensuisintaikairinacity_016 事例発表は鹿屋市串良町永和地区の子ども会のもので、ここでは毎年、約20回ほどの行事があり、育成会ではそのために年間40日余りの準備会合を開くという。

 9日に一回というペースで、夜間の会合が公民館で催される、と言うから驚きである。しかもそれは子ども育成会だけの話であって、その他に集落の会議や懇談、婦人会などへの出席もあるから、子どもが中学生以下の家庭ではかなりの負担だろう。Seishounensuisintaikairinacity_01_2

しかし、それを負担と感じないのが、「子を持って知る、親ごころ」で、吾が子の為なら何のこれしき、と思っているに違いない。

こんな地域で育った子供は、ふるさとと父や母、そして仲間やともだちを、一生涯こころの温もりとして、人生を歩んで行くのだろう。

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午後の銭湯

 朝方までの雨が上がり、昼食後、一番で散髪に行き、その足で銭湯に入る。

 理髪店のあとは銭湯へ――というのが、ここ4、5年のパターンになった。

 理髪店は決まったところだが、そのあとの温泉は二ヶ所のうちのどちらかだ。このところ首や手にあせものようなかぶれが出ていて痒みがあるので、天然温泉のほうにした。

 ただ、天然温泉の方は隣町にあって、理髪店からだと5キロ。もう一箇所よりも3キロも遠い。だが、背に腹は替えられない。Sentou

 入湯税、消費税込みの300円也で券売機で券を買い、受付に置く。

 ここには貴重品入れの小型デジタルロッカーがあり、財布や車のキーなどを入れるようになっている。

 脱衣所は昔ながらの籐のかごだ。

 中に入ると、駐車場に停められた車の数の割には空いている。ガラガラと言ってもよい。

 日曜の午後、もう田植えもほとんど終わり、また、ハウス野菜のピーマン、イチゴなども農閑期に入っているはずなのに、こんなに空いていていいのかと思う。

 いつでも多く入っている老人は別として、この時間帯で目に付くのが家族連れだ。お父さんが子供をふたりつれて入ってくるというパターンが多い。

 男の子ふたりもあれば、男の子と女の子の兄妹、その逆の姉弟のふたりの場合と様々だ。見ているとお父さんはなかなか手際がよい。子供がキャッキャッ騒いでいても、ちょいと力づくでさっさと洗い、自分も素早く洗ってしまう。そして湯船へドボン。

 ははあ、これが父親流スキンシップの極意だな

 これが母親だとそうは行かない。何しろ口うるさい。おとなしくしなさい。ほら、人に迷惑でしょ――と、洗ってんだか、躾てんだかわけが分からない。どうせ裸なんだからお行儀もへったくれもないよな、と、子供は洗うのは早く済ませてあちこち行きたいのだ。

 その反対に、母親自身はせっかくの温泉なんだからゆっくり入りたいし、洗いたい。さらに知人でもそこに居ようものなら、例の何とか会議が始まること請け合い。子供のテンポに合わない事おびただしい。

 というわけで、お父さん頼みますよと子供を預けられ、子供もお父さんだといやな洗濯も素早く済ませてくれるので、せいせいのびのび出来てうれしい。

 スキンシップは午後の銭湯に限る――の一席、これにて。

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小松帯刀の私領「吉利(よしとし)郷」

 戦国末期に島津氏に降伏した肝付氏と並ぶ大隅の雄族「祢寝(ねじめ)氏」の移封地・日置郡日吉町吉利(よしとし)、現在の日置市吉利 を巡る歴史探訪ツアーに参加した(鹿児島中世史研究会主催)。0619yoshitoshigou_001_2

  曇りだが時々晴れるまずまずの日和。

 鴨池フェリー港から伊作峠経由で50分、早くも目指す吉利・小松氏の墓地に到着。墓地は日置市日吉支所(旧日吉町役場)の南1キロほどの所だ。周辺の畑より比高10mの高台の一角にある。

 ここは小松氏がまだ祢寝(ねじめ)氏だった時、発祥の地・南大隅町根占に建てていた曹洞宗・園林寺を移築し、明治の廃仏毀釈で潰滅した跡だ。0619yoshitoshigou_003

 案内役の日吉町史談会会長によると、この墓地には祢寝(ねじめ)氏が島津氏に降伏する直前の第16代「祢寝重長(しげたけ)」から、移封後に小松氏と姓を変えた後の32代「小松重春」までの墓があるという。

0619yoshitoshigou_011_2 入り口から約100メートル奥に、一族の墓が立ち並ぶ。

 目指す小松帯刀の墓は、10m下の畑に落ちないように仕立てられたフェンスに沿うようにあった。フェンスとの距離はわずか1メートル、人がひとりしゃがみこんで拝むと、その後ろは誰も通れないくらい狭い。

 写真、右端の灯篭は明治初期の名横綱「陣幕久五郎」の奉納。左手に屋根のある墓が三基並んでいるが、手前が義理の父であり、義理の兄でもある280619yoshitoshigou_009_2 代清猷(きよみち)の墓。次が27代清穆(きよあつ)、その隣が29代帯刀こと「小松清廉(きよかど)」の墓だ。さらに奥には帯刀の正室「おちか(近・千賀)」のがある。

 向こうに見える樹林を少し切り開いて、そこにこっち向きに建立すれば楽に参 拝ができたろうにと首を傾げる。もしかしたらすべての墓の正面方向が本籍地である根占なのだろうか。墓の向きを決める時によくある事例だ。

 特筆すべきは、正室おちかの他にいた第二夫人「琴(仙子)」の墓があることで、琴は帯刀が京都屋敷にいて薩長同盟を坂本竜馬の手配で結んだりして大活躍していた時に、鹿児島に居たおちかに代わって身の回りの世話をした祇園の名妓である。

 おちかには子が生まれなかったが、この琴にはのちに嫡子となる第30代清直が生まれた。明治3年に死んだ帯刀のあとを追うように4年後に琴も死ぬが、0619yoshitoshigou_013  

 ちかは帯刀ともども琴をもこの墓地に改葬し、遺児の清直を育てたという。

 千賀はその後10年ほどして亡くなっているが、姉さん女房の懐の深さには頭が下がる。

 次に行ったのは吉利郷の「御仮屋跡」。農業法人兼財団法人「小松吉利郷」の現地支配人事務所だったところだ。今は吉利小学校になっている。0619yoshitoshigou_014

校門から入って行くと、玄関の手前に何やら石造物。説明書きを見ると「根占から移封された時に持参した手水鉢」だそうだ。さほど手の込んだ造りとも思えないが、わざわざ持参したところをみると、よほど思い入れのある物なのだろう。

 根占からの転封は17代重張(しげはる)の時で、文禄4(1596)年、祢寝姓が小松になったのは25代清香(きよか・きよたか)の代で、江戸中期・宝暦のころとされる。0619yoshitoshigou_017

 御仮屋跡から少し南下し、左折して永吉川に架かる「永吉橋」が見えてくる頃、左に永吉島津家墓地「天昌寺跡」への道がある。

 入って30メートルも行くと墓地の入り口があり、タブの大木の向こうに大きな五輪塔が林立しているのが分かる。

0619yoshitoshigou_019_2  中で注目したいのが、島津久敬(ひさたか=天璋院篤姫の次兄)の墓で、久敬はこの永吉島津家に養子に入ったのだった。

(久敬の墓の後ろに、永吉島津家初代の墓が見える)

0619yoshitoshigou_023 このあたりの高台からは必ず「金峰山」が望まれる。

 (天昌寺跡を見た後は昼食をとったが、その前の国道越しに見たところ)

昼食後は、再び吉利小0619yoshitoshigou_028 学校に戻り、すぐ近くにある「清浄寺」に参詣した。

 この寺は、小松家墓地があった「園林寺」が廃仏毀釈でやられたあと、明治15年頃に開設された浄土真宗大谷派の「吉利説教所」が発展した寺で、今では園林寺に代わって小松家の菩提寺になっている。

 本堂の中に入って驚くのは「清浄山」という堂々たる扁額だ。

 これは帯刀の妻ちかの兄で28代当主だった「清猷(きよみち)」が、わずか13歳の時に0619yoshitoshigou_032書いたというから驚くほかない。

 本堂奥に祭られる「木造・阿弥陀如来像」は、平安中期の源信僧都の作とのこと。源信は『往生要集』を著し、浄土信仰を確立したと言われる名僧知識である。

 もし本当に源信の手になるものなら国宝級だが、この寺にやって来たいきさつはお千賀さんがらみで、寺の住職のはなしによると、夫・帯刀の死後の冥福を祈るため、鹿児島市内の不断光院に参詣を繰り返していたところ、本尊が余りに見事な阿弥陀像のため、是が非でもと懇願して譲り受けた。0619yoshitoshigou_034

それを持仏堂を作って安置し祈っていたが、やがてお千賀さんも他界し、その後、明治30年になって息子の31代清直がこの清浄寺に寄贈した、という。

 また、この寺の門前に「瀬野家」があるが、その先代は『幻の宰相・小松帯刀』を著わして、小松帯刀の維新における大功績を讃え、後世に伝えようとしたことで有名で、さらに鹿児島東郵便局にあったとされる小松屋敷跡の近くに立つ小松帯刀像(銅像)は、氏の尽力によって造立されている。

 すべてを巡回したあと、途中で出会った田の主。0619yoshitoshigou_038

このあたりは早場米の産地だとばかり思っていたが、今から田植えをするという。銘柄は「ひのひかり」だそうだ。

 金峰、吹上、日吉あたりの山田は、鹿児島で最も古い田園地帯だ。おそらく弥生時代前期にはすでに米が作られていただろう。

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最終の田植え

鹿屋地区では普通作の米の最も遅い田植えがいま真っ盛りだ。Ashinominato_015

我が家の南、約2キロのところに「大姶良川」が流れるが、その流域に広がる通称「獅子目(ししめ)田んぼ」の田植え風景を撮ろうと出かけてみた。

 幅20メートルほどの川を渡ると、道路右手の田んぼで老夫婦が田植えを済ませた後の「補植」をやっているところに出くわした。

 器械植え用に作られた稲の苗を両手に、補植を始めたばかりだという。

Ashinominato_013 なぜか、奥さんとは対角線の最も離れた場所から始めている。

――息子さんなんかは手伝いますか?

「いや、やらんど。わしの代で農業も終わりやっどなあ」

――もうすぐ、食糧危機が来るそうですから、頑張って下さいよ。Ashinominato_016

 「じゃっどかい」

 老夫は満更でもなさそうだった。聞けば三反の田と二反の田、あわせて五反作っていると言う。

 母なる川・大姶良川を挟んだ4、5枚の田では、6条植えという田植え機では最も大きい部類のが、軽やかなエンジン音を響かせて田植えを行っていた。Ashinominato_017

補給用にさらに苗箱が6枚、都合、12枚が一時に植えられる機械だ。苗箱20枚で一反(約300坪=モミ収量で600キロほど=白米にすると300キロ強)分が植えられるから、この機械では一回の装着で6畝(0.6反)をカバーできる。

 百数十万円はするが、家庭用の2条植えでやるよりはエネルギー効率は格段に勝る。最近はこんな機械を持つ人か農協に、田植えだけを委託するのが普通になって来ている。Ashinominato_008

 獅子目田んぼから、2キロほど上流に行くと大姶良地区の中心地だ。

 ここも田植えが盛んに行われていた。左の写真の中央上、こんもりとした岡は「大姶良城」本城のあったところ。平安時代末期に南大隅の豪族・祢寝(ねじめ)氏が築城したと言われている。

 流域は笠野原シラス台地の南端で、珍しく緩やかな河谷が広がり、Ashinominato_005開田するには 極めて容易な地域性がある。のちに島津氏第6代の氏久がこの大姶良城に入り(1360年代)、大隅半島経営の拠点としたのもうなづける。

 中心からさらに西へ行くと、最上流部に近い田んぼ地帯が道路脇に広がる。

 実はこの瀬筒地区の田んぼ地帯を過ぎて「瀬筒峠」(70m)を越えると向こうは「芦の港」こと「浜田港」が近い。古来、大姶良地区に入るには浜田港が利用された。『和名抄』(10世紀)の諸国郡郷一覧の大隅郡、姶羅郡両郡にある「岐」の付く郷はどちらかがこの浜田港だ。Ashinominato_003

瀬筒峠から旧道を下りて行くと、今はもうすっかり広い水田になっている。いや、10世紀段階ですでに水田が開けていた。だから、「岐」郷として租を負担する単位地区になっていたのだろう。

 では郷になる前はどのような地区だったのか

 港だったはずだ。それも「芦の港」という伝承を持つという地区。「芦(あし)」はAshinominato_001 汽水域によく生える植物の「芦」ではなく、「鴨」を意味する「アジ」のことだろう。「鴨(アジ)」はまた、航海民を象徴する言葉だ。

 写真(右下)の中央の崖の下には「大王池」があり、その池のあたりから上に上る坂を「大王坂」という。

 芦の港の大王、つまり「鴨の港の大王」がここに住んでいたか、拠点としていたのだろう。米は瀬筒峠を越えた辺りから運んできたに違いない。このあたりでは弥生前期の北部九州産「須玖式土器」が出土しているから、少なくともその頃から航海民の拠点だった可能性は大きい。

 すぐ北にある高須港との間の海に面するちょっとした高台で、縄文中期の瀬戸内式土器の一種「船元式土器」(岡山県倉敷市)が発見されている。また、やや内陸だが北西8キロの古江港の高台(花岡町)に位置する根木原遺跡で発掘された船元式土器は、素材である「胎土」自体が倉敷の土器と同じだったという。

 4000年も前に瀬戸内海との交流があったのだから、二千数百年前に北部九州と交流していたとして何ら不思議は無い。畿内に行っていた可能性も十二分にある。また壱岐、対馬を経て朝鮮半島へも足を伸ばしていたことも考えてよい。南九州から朝鮮半島へは岡山へ行くより近いのだから。

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秋葉原大量殺人事件

 秋葉原はいつも通り過ぎるばかりで、ほとんど駅を降りたためしはない。たしか山際電気は一度くらい訪れた気がする。それも、もう40年近く前の話だ。

 最近の「アキバ」なんて全く知る由もないが、映った交差点を見て昔を思い出した。しかし、まさかここで大量殺人が行われるとは・・・・・。Akiba7ninsatujinjiken

 写真はYahoo!ニュースより(6月11日)。

 犯行の動機は、本人が携帯サイトで明らかにしている。

「誰でもいいから殺したかった」

 要するに自暴自棄の道連れに、他者の命を奪ったのだ。

 この三月にも茨城県で似たような連続殺人事件があった。

 去年は、家族の内部での殺人事件が多発したが、今年はアメリカでよく見られる銃乱射事件のように、自己本位の巻き添え殺人が増えている。

 日本もアメリカ並みになったのだ、などと言ってはいられない。

 犯人にこのような殺人動機をもたらした真因は、これも本人がサイトで言っていた。

 「中学に入ってから、親から捨てられた」

 子供にとっては最も大きい喪失感だろう。彼の場合、親が死んでしまったわけではない、いわば親から以前のようには相手にされなくなった。それも「弟の方が成績が良くて、自分が次第に・・・」というもののようだ。

 報道は、派遣の仕事を辞めさせられるかもしれないという危機感・挫折感が動機だった、という見方をしているようだが、そうしたら同じ職場の同じ境遇にある派遣社員は、みな殺人事件を起こしてもおかしくない。

 真因は、本人が言っているように、家庭内喪失感、換言すれば「家庭内の居場所からの脱落感」であろう。今流行のスペースシャトルを例に取ると、親というブースターロケット(燃料ロケット)が、シャトルを軌道に乗せるはるか手前で「ハイさよなら」とばかり、シャトルから離れていってしまったようなものだ。

 シャトルは正常な軌道には乗れず、乱飛行を繰り返しながら宇宙空間を漂うか、悪くすれば再び地上に向かい激突炎上することになる。今度の殺人者の彼は、もうこれ以上漂うのはやめて、地上に激突する道を選んでしまったのだろう、人を巻き添えにして。

 つくづく思うのは、両親が、「中学に入ってから、親に捨てられた」という彼の心情をなぜ汲んでやれなかったのか、うすうす気づきながらなぜ「軌道修正」できなかったか、ということだ。成績至上主義?がそうさせなかったとしたら、なんともバカな親だ。バカ親の典型だ。(バカ親についてはこちら

 多くの無辜の人々の死によって、容疑者の自暴自棄(と、親の成績至上主義=しつけとおしつけ)には終止符が打たれたが、なんともやりきれない思いばかりが残る。

 提案だが、検定ばやりの昨今、すべての親を対象に「親検定」を設けたらどうか。合格点に達しない親は有無を言わせず、学校や教育委員会が査察に入るようにすれば、虐待、ネグレクト、過干渉を減らすことができよう。

 少なくとも、家庭を密室にしない方策が必要だ。

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菱田川流域散策(その二)

0608hishidagawa2_001 散策その一で終わった蓬原橋から、山重方面(国道269号線に出る)に行き、100㍍ほどで右手に折れる道がある。「蓬の露」という焼酎工場の大きな字が目印だ。

 右折すると左は岡(シラス台地)、右側は川沿いの田んぼが広がる。川沿いと言っても菱田川は見えない。

 田んぼの向こうに古墳と見紛うような小山が望まれるが、あれが「蓬原城」で、こちらでは「ふつはらじょう」と呼び習わしている。0608hishidagawa2_003

 500㍍弱で城の入り口を示す石柱が立つ。30センチほどに成長した早期米の田んぼの中を、軽車両なら入って行けそうな農道が延びるが、生憎の雨ではどうしようもない。

 「蓬原城」は救仁郷(くにごう)氏の本拠地で、その一で訪ねた「片平古城」からここへ移ってきたという。救仁郷氏の始祖は、肝付氏初代・兼俊の二男・兼綱というから由緒は古く、最初の片平古城は11世紀代、こちらは12世紀の初め頃の築城と思われる。0608hishidagawa2_004_2

 城跡は南北に200㍍はたっぷりあろうかという小丘全体のようだが、その北のはずれに「惣持院」跡の石柱が立っている。真言宗の寺で、鹿児島の大乗院の末寺だそうだ。

 建立の年は不明とあるが、真言宗は禅宗や浄土系宗派よりは起源は古く、救仁郷氏による招来の可能性は強い。救仁郷姓の由来は菱田川流域を「救仁院」と言ったことによる。「くに」を狗奴国の「くな」、つまりは熊襲の「くま」に引き当てる説が根強い。志布志湾岸の砂丘一帯を、今に「くにの松原」と呼んでいる。 0608hishidagawa2_006

 城跡から北へ500㍍進むと重田集落に出る。そこを右折すると養鰻場があり、川辺に降りる道がある。

 川幅一杯の大きな井堰が、ごうごうと音を立てていた。このあたり、標高はわずか7~8m、下流の田園地帯を潤す水が採られているのだろう。

 川の向こう岸一帯は野井倉台地で、教科書でもおなじみ野井倉甚兵衛の0608hishidagawa2_007 出身地。台地を見渡す限りの水田に変えた死闘は後世に語り継がれている。その水の出どころはこの菱田川のずっと上流だ。

 堰から下手を望むと、川を堰き止めるかのような位置に蓬原城跡の小山が見える。要するに城の東は菱田川が天然最良の堀になっているというわけである。西側は今は一面の田んぼだが、城の近くは掘割りがしてあったかもしれない。

 そうなれば、城全体が一種の「川中島」となる。難攻不落の要塞だったろう。0608hishidagawa2_008

 重田集落からさらに北を目指すと道は上りになり、登りきってやや行くと、大きくカーブしたあたりが中野集落の入り口だ。ここは標高約60m、田んぼなんか無いだろうと思いつつ行くと、茶工場があり、その先一面が水田だった。

 普通作の田んぼでは青々とした稲が、折りしもの雨で一層鮮やかだ。鮮やかといえば田んぼの脇に立つ真っ赤な消火栓も鮮やかなもの。青々とした田んぼとのコントラストが面白い。しかし、なんでこんな所に?とも思うが、向こうに見える茶工場(中野共同製茶工場とあった)のためだろうか。0608hishidagawa2_009

 その茶工場の横には大きな石碑が建つ。

読んでみると「開田の記念碑」で、この高地に田を作ろうという気運は何と明治25年からあったそうな。てっきり戦後の計画とばかり思い込んでいた不明を恥じた。そういえば野井倉開田事業も明治からだったのだから、ほぼ同時進行の計画ということになる。最終的な完工は昭和28年。実に気の長い話で、米作りに対する執念・愛着がひしひしと感じられる。0608hishidagawa2_011_2

 大きな石碑の隣りに小ぶりの田の神像がちょこんと祭られているのも、村人の開田への喜びと感謝の表れと見た。

 茶工場からわずかに行った先を右折すると田んぼ地帯に入るが、農業機械倉庫の脇に何やら石塔群が立っている。見ると「アンダドン(阿弥陀どん)」という遺跡で、笠塔婆・五輪塔・無縫塔の三種の遺物がまとめて置かれている。かってここに「真中寺」という寺があったという。時代は無縫塔だけは0608hishidagawa2_012 刻銘があり安永9(1780)年の造立と分かるが、あとのは戦国期だろうぐらいしか分からないという。

 中野集落を後にして、また北上すること1キロ、鹿屋と志布志を結ぶ農免道路に出、右折するとすぐに「有明大橋」だ。

 長さ360m、橋脚間212mというこの橋は昭和56(1981)年に完成している。橋の手前に巨大な完工記念碑が立つが、当時の鎌田県知事の直筆が掘り込まれており、当時としてはかなりの大工事だったことが伝わってくる。0608hishidagawa2_013

 橋の下を流れる菱田川の川面の標高はまだ10mあるかないか、一方橋は標高70mほど。差し引き高度差は60メートルにも達する。錦江町にある「滝見大橋」(平成10年完成)の100メートルには及ばないが、工事の難度はそう変わるまい。

 それにしてもこのあたりの菱田川。すっかり深山幽谷の趣きだが、河口からわずか10キロほど、標高も10mしかないとは思えない。これがシラス台地をえぐって流れる川の特徴だ。

  マップ(志布志市有明町野井倉、山重のあたり)

 

 

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玉泉寺跡の花菖蒲

Cimg2196 先日、仕事の途中で立ち寄った鹿屋市吾平町中福良の玉泉寺公園。

 久しぶりに中に入って、あっとおどろいた。目が覚めるとはこのことだろう。

 白の花菖蒲をメインに、入り口に近い池を挟んで数千株はあると思われる。Cimg2195

説明板によると、玉泉寺は今を去ること613年の昔の応永2年(1395)に、下野国(しもつけのくに)にあった「泉渓寺(せんけいじ)」(曹洞宗)の末寺として建立された。

 だが、ご多聞にもれず、明治の徹底した廃仏毀釈により、悉くが壊滅の憂き目に遭っている。

Cimg2192  玉泉寺の名の起こりは、シラス台地の下から湧き出る豊富な地下水による。

 写真の中央の丸い石の左手奥から、とうとうと流れ出す水は、清らかでまろやかだ。

 手ですくって飲んでみたが、美味い!

 Cimg2193

 泉は小川となり、下手に池を造り、庭園となって花菖蒲や藤の古木を育てた。Cimg2185

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アジサイとビータロウ

よくしたもので、入梅とほぼ同時に咲き始めたアジサイ。Bitaroutoajisai_007 

がくアジサイの種類で、去年まで薄紅色のがくアジサイもあったのだが、なぜか枯れてしまった。

 紅色の花は数多いが、青色の花は少ない。

 で、まあしょうがないかと高を括る。

 巷でも青、薄紅、白と色とりどりに咲きはじめているので、通りすがりに楽しめるのは有難い。

 Bitaroutoajisai_010 このアジサイ、我が家の番犬「ビータロウ」の小屋のすぐそばに咲いている。

 今朝、餌をやった後に、「ビータロウ、ほら見てみろ、きれいだろう」と目を向けさせようとするのだが、向いてくれぬ。

 根競べの結果がこれ。

 Bitaroutoajisai_003

ビータロウ、本名は「Bタロー」。戸籍(?)ではこう届けたのだが、役場で「B」の入力変換が面倒だったのか、狂犬病予防注射の案内にはいつも「ビータロウ」となっていて、こっちも面倒だから変更依頼など出さずじまい。

 今ではすっかり「ビータロウ」だ。本人(本犬?)も気にしている風でもないし・・・。

 平成6年の秋生まれだから、今年の秋で満14歳。

 一説によると、犬は「最初の一年で大人になるから、その一年は人間の20歳。その後は一年が6歳に相当するそうだから、〈20+6×13=98〉で、今年なんと98歳の超高齢犬になる予定。

 二年前の春に、一時「けなえた」が、見事に立ち直って今年を迎えた。耳がだいぶ遠くなったけれども、鼻は艶やかだし、食欲も旺盛。長生きしそうだ。  

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