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小松帯刀の私領「吉利(よしとし)郷」

 戦国末期に島津氏に降伏した肝付氏と並ぶ大隅の雄族「祢寝(ねじめ)氏」の移封地・日置郡日吉町吉利(よしとし)、現在の日置市吉利 を巡る歴史探訪ツアーに参加した(鹿児島中世史研究会主催)。0619yoshitoshigou_001_2

  曇りだが時々晴れるまずまずの日和。

 鴨池フェリー港から伊作峠経由で50分、早くも目指す吉利・小松氏の墓地に到着。墓地は日置市日吉支所(旧日吉町役場)の南1キロほどの所だ。周辺の畑より比高10mの高台の一角にある。

 ここは小松氏がまだ祢寝(ねじめ)氏だった時、発祥の地・南大隅町根占に建てていた曹洞宗・園林寺を移築し、明治の廃仏毀釈で潰滅した跡だ。0619yoshitoshigou_003

 案内役の日吉町史談会会長によると、この墓地には祢寝(ねじめ)氏が島津氏に降伏する直前の第16代「祢寝重長(しげたけ)」から、移封後に小松氏と姓を変えた後の32代「小松重春」までの墓があるという。

0619yoshitoshigou_011_2 入り口から約100メートル奥に、一族の墓が立ち並ぶ。

 目指す小松帯刀の墓は、10m下の畑に落ちないように仕立てられたフェンスに沿うようにあった。フェンスとの距離はわずか1メートル、人がひとりしゃがみこんで拝むと、その後ろは誰も通れないくらい狭い。

 写真、右端の灯篭は明治初期の名横綱「陣幕久五郎」の奉納。左手に屋根のある墓が三基並んでいるが、手前が義理の父であり、義理の兄でもある280619yoshitoshigou_009_2 代清猷(きよみち)の墓。次が27代清穆(きよあつ)、その隣が29代帯刀こと「小松清廉(きよかど)」の墓だ。さらに奥には帯刀の正室「おちか(近・千賀)」のがある。

 向こうに見える樹林を少し切り開いて、そこにこっち向きに建立すれば楽に参 拝ができたろうにと首を傾げる。もしかしたらすべての墓の正面方向が本籍地である根占なのだろうか。墓の向きを決める時によくある事例だ。

 特筆すべきは、正室おちかの他にいた第二夫人「琴(仙子)」の墓があることで、琴は帯刀が京都屋敷にいて薩長同盟を坂本竜馬の手配で結んだりして大活躍していた時に、鹿児島に居たおちかに代わって身の回りの世話をした祇園の名妓である。

 おちかには子が生まれなかったが、この琴にはのちに嫡子となる第30代清直が生まれた。明治3年に死んだ帯刀のあとを追うように4年後に琴も死ぬが、0619yoshitoshigou_013  

 ちかは帯刀ともども琴をもこの墓地に改葬し、遺児の清直を育てたという。

 千賀はその後10年ほどして亡くなっているが、姉さん女房の懐の深さには頭が下がる。

 次に行ったのは吉利郷の「御仮屋跡」。農業法人兼財団法人「小松吉利郷」の現地支配人事務所だったところだ。今は吉利小学校になっている。0619yoshitoshigou_014

校門から入って行くと、玄関の手前に何やら石造物。説明書きを見ると「根占から移封された時に持参した手水鉢」だそうだ。さほど手の込んだ造りとも思えないが、わざわざ持参したところをみると、よほど思い入れのある物なのだろう。

 根占からの転封は17代重張(しげはる)の時で、文禄4(1596)年、祢寝姓が小松になったのは25代清香(きよか・きよたか)の代で、江戸中期・宝暦のころとされる。0619yoshitoshigou_017

 御仮屋跡から少し南下し、左折して永吉川に架かる「永吉橋」が見えてくる頃、左に永吉島津家墓地「天昌寺跡」への道がある。

 入って30メートルも行くと墓地の入り口があり、タブの大木の向こうに大きな五輪塔が林立しているのが分かる。

0619yoshitoshigou_019_2  中で注目したいのが、島津久敬(ひさたか=天璋院篤姫の次兄)の墓で、久敬はこの永吉島津家に養子に入ったのだった。

(久敬の墓の後ろに、永吉島津家初代の墓が見える)

0619yoshitoshigou_023 このあたりの高台からは必ず「金峰山」が望まれる。

 (天昌寺跡を見た後は昼食をとったが、その前の国道越しに見たところ)

昼食後は、再び吉利小0619yoshitoshigou_028 学校に戻り、すぐ近くにある「清浄寺」に参詣した。

 この寺は、小松家墓地があった「園林寺」が廃仏毀釈でやられたあと、明治15年頃に開設された浄土真宗大谷派の「吉利説教所」が発展した寺で、今では園林寺に代わって小松家の菩提寺になっている。

 本堂の中に入って驚くのは「清浄山」という堂々たる扁額だ。

 これは帯刀の妻ちかの兄で28代当主だった「清猷(きよみち)」が、わずか13歳の時に0619yoshitoshigou_032書いたというから驚くほかない。

 本堂奥に祭られる「木造・阿弥陀如来像」は、平安中期の源信僧都の作とのこと。源信は『往生要集』を著し、浄土信仰を確立したと言われる名僧知識である。

 もし本当に源信の手になるものなら国宝級だが、この寺にやって来たいきさつはお千賀さんがらみで、寺の住職のはなしによると、夫・帯刀の死後の冥福を祈るため、鹿児島市内の不断光院に参詣を繰り返していたところ、本尊が余りに見事な阿弥陀像のため、是が非でもと懇願して譲り受けた。0619yoshitoshigou_034

それを持仏堂を作って安置し祈っていたが、やがてお千賀さんも他界し、その後、明治30年になって息子の31代清直がこの清浄寺に寄贈した、という。

 また、この寺の門前に「瀬野家」があるが、その先代は『幻の宰相・小松帯刀』を著わして、小松帯刀の維新における大功績を讃え、後世に伝えようとしたことで有名で、さらに鹿児島東郵便局にあったとされる小松屋敷跡の近くに立つ小松帯刀像(銅像)は、氏の尽力によって造立されている。

 すべてを巡回したあと、途中で出会った田の主。0619yoshitoshigou_038

このあたりは早場米の産地だとばかり思っていたが、今から田植えをするという。銘柄は「ひのひかり」だそうだ。

 金峰、吹上、日吉あたりの山田は、鹿児島で最も古い田園地帯だ。おそらく弥生時代前期にはすでに米が作られていただろう。

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コメント

福岡県大牟田市在住のねじめといいます。今日友人と鹿児島に旅行に行って、小松帯刀のことなどを見聞し、昔親から聞いたことのあるこの変わった苗字の由来に興味を持ちました。機会がありましたら、また行ってみたいと思います。その時はいろいろ教えてくださいね。

投稿: 禰寝由利香 | 2011年12月26日 (月) 22時02分

clover豊州島津十六代久芳の末妹フクさんの墓参りにやっと参る日が来ました。黒岡を嗣いだ久直や倉山を嗣いだ喜嘉に、嫁ぎ先が山口のミワさんの縁の者です。叔父達も少なくなっております。道生さんのお子様か義夫さんのお子様の連絡先でも知る事が出来ますれば紐がもう一つ解けるのではと期待しております。明日墓参り日和になると嬉しいのですが。

投稿: 志布志っ子 | 2013年3月18日 (月) 19時37分

2011年12月26日にコメントをくれた禰寝由利香さん、返事が遅れて大変大変申し訳なく思います。
 禰寝姓は南大隅町根占(ねじめ)が起源と思って間違いないでしょう。
 古く「根占」は『倭名類聚抄』(源順=みなもと・したごう著・930年頃)の「諸国郡郷一覧」中の大隅国・大隅郡に「禰覆」(ねふく)として出てきます。
 この地名が氏に採用されて「禰寝氏」が始まったと思われます。文書で確実なのは平安末期の1145年頃です。

2013年3月18日にコメントの志布志っ子さん。豊州家島津家のご縁の方ですか。
 豊州家は帖佐郷を領有した季久(本家9代久豊の三男)を始祖とする家柄で、日向飫肥へ、一時は都城へ、さらに市成へと移り、江戸時代に入って久嘉の代に黒木郷に移り、代々を過ごして明治維新を迎えたと『三国名勝図会』にはあります。
 その後のことはよく分かりません。悪しからずご了承ください。

投稿: kamodoku | 2013年3月18日 (月) 22時04分

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