最終の田植え
我が家の南、約2キロのところに「大姶良川」が流れるが、その流域に広がる通称「獅子目(ししめ)田んぼ」の田植え風景を撮ろうと出かけてみた。
幅20メートルほどの川を渡ると、道路右手の田んぼで老夫婦が田植えを済ませた後の「補植」をやっているところに出くわした。
器械植え用に作られた稲の苗を両手に、補植を始めたばかりだという。
――息子さんなんかは手伝いますか?
「いや、やらんど。わしの代で農業も終わりやっどなあ」
――もうすぐ、食糧危機が来るそうですから、頑張って下さいよ。
「じゃっどかい」
老夫は満更でもなさそうだった。聞けば三反の田と二反の田、あわせて五反作っていると言う。
母なる川・大姶良川を挟んだ4、5枚の田では、6条植えという田植え機では最も大きい部類のが、軽やかなエンジン音を響かせて田植えを行っていた。
補給用にさらに苗箱が6枚、都合、12枚が一時に植えられる機械だ。苗箱20枚で一反(約300坪=モミ収量で600キロほど=白米にすると300キロ強)分が植えられるから、この機械では一回の装着で6畝(0.6反)をカバーできる。
百数十万円はするが、家庭用の2条植えでやるよりはエネルギー効率は格段に勝る。最近はこんな機械を持つ人か農協に、田植えだけを委託するのが普通になって来ている。
獅子目田んぼから、2キロほど上流に行くと大姶良地区の中心地だ。
ここも田植えが盛んに行われていた。左の写真の中央上、こんもりとした岡は「大姶良城」本城のあったところ。平安時代末期に南大隅の豪族・祢寝(ねじめ)氏が築城したと言われている。
流域は笠野原シラス台地の南端で、珍しく緩やかな河谷が広がり、開田するには 極めて容易な地域性がある。のちに島津氏第6代の氏久がこの大姶良城に入り(1360年代)、大隅半島経営の拠点としたのもうなづける。
中心からさらに西へ行くと、最上流部に近い田んぼ地帯が道路脇に広がる。
実はこの瀬筒地区の田んぼ地帯を過ぎて「瀬筒峠」(70m)を越えると向こうは「芦の港」こと「浜田港」が近い。古来、大姶良地区に入るには浜田港が利用された。『和名抄』(10世紀)の諸国郡郷一覧の大隅郡、姶羅郡両郡にある「岐」の付く郷はどちらかがこの浜田港だ。
瀬筒峠から旧道を下りて行くと、今はもうすっかり広い水田になっている。いや、10世紀段階ですでに水田が開けていた。だから、「岐」郷として租を負担する単位地区になっていたのだろう。
では郷になる前はどのような地区だったのか?
港だったはずだ。それも「芦の港」という伝承を持つという地区。「芦(あし)」は 汽水域によく生える植物の「芦」ではなく、「鴨」を意味する「アジ」のことだろう。「鴨(アジ)」はまた、航海民を象徴する言葉だ。
写真(右下)の中央の崖の下には「大王池」があり、その池のあたりから上に上る坂を「大王坂」という。
芦の港の大王、つまり「鴨の港の大王」がここに住んでいたか、拠点としていたのだろう。米は瀬筒峠を越えた辺りから運んできたに違いない。このあたりでは弥生前期の北部九州産「須玖式土器」が出土しているから、少なくともその頃から航海民の拠点だった可能性は大きい。
すぐ北にある高須港との間の海に面するちょっとした高台で、縄文中期の瀬戸内式土器の一種「船元式土器」(岡山県倉敷市)が発見されている。また、やや内陸だが北西8キロの古江港の高台(花岡町)に位置する根木原遺跡で発掘された船元式土器は、素材である「胎土」自体が倉敷の土器と同じだったという。
4000年も前に瀬戸内海との交流があったのだから、二千数百年前に北部九州と交流していたとして何ら不思議は無い。畿内に行っていた可能性も十二分にある。また壱岐、対馬を経て朝鮮半島へも足を伸ばしていたことも考えてよい。南九州から朝鮮半島へは岡山へ行くより近いのだから。
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