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「やには(家庭)」は見えず

近頃、続発する家族がらみの事件。

 アキバでは25歳の若者が、「両親は他人だ」と、心から安らぐ家庭を亡くして自暴自棄となり、何の落ち度もない人々を殺傷し

 東名高速を走る路線バス内では、わずか14歳の中学2年生が、「両親の人生をメチャメチャにしてやる」と、家庭を抜け出して、何の落ち度もないバスの運転手や乗客を人質に取って脅し

 東京八王子では33歳の男が、「家族は何の相談にも乗ってくれなかった」と、これも家庭に居場所をなくしてやけになり、何の落ち度もない22歳のアルバイト女子大生を刺殺し

 相前後するように、埼玉県川口市では、中学3年の女子が、母親から見ても仲の悪そうには見えなかったという父親を刺殺した。

 家族がらみ――と言ったが、本当は家庭がらみというべき内容である。

 世間では「北の家族」とか「○○家族」といったテーマばやりだが、本当に大切なのは「家庭」なのだ。

 家族というのは単に遺伝子の結びつきに過ぎない。だから動物にも家族はいる。サラブレッドは競馬専用の馬だが、「サラ(thorough=完全な)血(bred)」つまり純血の家系(馬系?)ということで、文字通り「血の一滴」いや「精液の一滴」まで人間によって管理されて、繁殖している(させられている?)。イギリスでアラビア種が導入されて以来400年間、完璧なまでにその繁殖は人間によってコントロールされている。

 おそらく「万世一系」を誇るわが天皇一家も、その家系の完璧さでは(つまり庶子が全くいないという点では)、サラブレッドには適わないだろう(もしかしたら嫡子がいないことはあり得ないという点においても)。

 だが、人間には馬には無いものがある。「家庭」だ。サラブレッドがどんなに強固な「家系(家族のつながり)」を誇っていても、彼らには「家庭」はない。人間にもっとも近いチンパンジーの世界にも「家庭」だけはない。たとえわが子を身体にぶら下げて歩いたり、おっぱいをやったりしていても、離乳して自らエサを採りはじめれば、あとはハイさよならの世界なのである。

 ただ、ハイさよならをしても、血のつながりのあることに変わりは無い。だから、特に動物園のような飼育所では、擬似的にいつまでも「チンパンジーA子の母親のB子」と言ったりするが、本人(本猿?)同士がそう思っているわけではない。

 もう一度言おう。人間には他の動物や生物が持っていないものがある。それは「家庭」だ。「家庭」に居場所が無いということが、すべての人間の子どもにとって、それがどういう理由によってそうなったかを詮索する前にまずは「最悪の状態」と言っていいだろう

 子どもにはどうしてそうなったか理屈では分からない場合が多い。だから受け容れざるを得ない。分からなければ文句の言いようが無い。いわば泣き寝入りだ。親はそれをイイコトに、つまり本当の子どもの心に耳を傾けないまま、自分の欲求をぶつけてくる。あるいは逆に無関心になる。

 どっちにしても、それは「家庭」の中で行われる。本来、居心地の良かるべき「家庭」が、そのように機能していない家族が多いし、一層多くなったようだ。

 上で挙げた最後の事例は、ちょっと不可解だが、やはり成績のことが引き金になったのだろうか?成績の落ちたことを苦にして自殺、ならむしろ理解できるのだが・・・。中1で英検3級というのは早すぎる、おそらく小学校の5,6年から勉強させていたのだろう。中高一貫校だそうだから、これも中学受験のため5,6年の頃から勉強の毎日だったのかもしれない。

 ところで「家庭」「家庭」とくどいほど書いてきたが、「家庭」の初出は『古事記』の応神天皇の段にある。

 応神天皇が宇治を越えて近江に出かける途中、とある高み(峠か?)に立った時に、はるか京都の葛野方面を見渡したら、すばらしい眺めだった――という歌が載っている。

    ちば(千葉)の かづぬ(葛野)をみれば 

      もも(百)ち(千)たる やには(家庭)も見ゆ くにのほ(穂)も見ゆ 

  (青葉・若葉なす葛野地方を眺めると 百も千もの家庭が見える。 素晴らしい国であることよ)

 1600年もの昔、こう謡われた「家庭」は文字通り、「家」と「庭(菜園)」を備えた施設であった。時代がどんなに変わろうと、子を生み育てる場所は当時も今も「家庭」である。

 当時には無くて、今はあるもの、それは「成績至上主義」と「金銭万能主義」だろう。人間は無駄な物を増やしすぎた。もう一度、子育ての原点に還るべきではなかろうか?

 

 

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菱田川流域散策(その三)

 鹿屋と志布志を結ぶ農免道路に架かる「有明大橋」から上流は、5キロ上流の縄瀬地区まで谷が深すぎて見ることができないので、代わりに、というとおかしいが、有明大橋から2キロ半ほどの所にある岩屋観音淵を訪れることにした。

 これは菱田川の2大支流「大鳥川」「月野川」のうち、大鳥川に面した凝灰岩の崖の中腹に掘り込まれた観音様である。

 国道269号線の沿線にある旧有明町の山重小学校の前を通り過ぎると、道は長い下り坂になる。大鳥川河岸への坂だ。下りきると右手に道があり、大鳥峡と岩屋観音への道しるべが立っているので、それに従い右折する。

 Cimg2365 右折するとすぐに右手が大鳥峡だが、今は寂れ果てているので寄らないでそのまま道を急ぐ。1キロちょっとで月野川に架かる「小鳥橋」を渡る。すると左に商店があり、その向かいを右折する。エノキの大木が目印だ。

 このあたりの支流「月野川」の河谷はそう深くない。

 しばらく行くと三叉路に出る。岩屋観音のある「久保崎集落」は右手に入っていく。

Cimg2384 この入り口を造成工事したときに、このあたりで縄文早期の遺構が見つかっている。縄文早期の遺跡は、こんな辺鄙な何も出ないような地点で発見されることが多い。

 写真右端に見える白い標柱が、発見場所を表示している。

 ここを右に入って久保崎集落をまっすぐ抜け切ると、岩屋観音入り口の駐車場だ。Cimg2383

 左手へ階段を下りること340段、比高40メートルはありそうだ。つづら下りに降りていくとようやく川の音が聞こえ(ただし姿はほとんど見えない。まだ15,6㍍は下だろう)、テラス状の所に出る。

 そこが岩に掘られた観音(磨崖仏)の見える場所だ。左手に立ち上がる壁面の奥には何やら文字が彫られている。

Cimg2379 「霊岩山 仙遊寺」と読める。こういう寺が実在したとは聞かないから、この場所全体を寺に見立てて名付けたのだろう。確かに「仙人が遊ぶ」ような雰囲気は感じられる。

 この磨崖仏が掘られた時期は三期あるという。江戸初期、後期そして明治初期だ。

 このうち明治になって諸国行脚の末に到来した「吉田一円」という修行僧の彫った物を、すぐ間近に見ることができる。Cimg2377

 吉田一円は明治30年に亡くなっているが、その墓はこの磨崖仏のすぐ前にある。

 残念ながらこのあたり、まだ川は見ることができない(森の間にちらほら)。

 そこでここから2キロほど上流の縄瀬地区に向かう。そこには橋が架かっている。Cimg2386

縄瀬橋から菱田川の上流方面を見たときは、川と人家のどこにでもある風景だが、下流側を見てちょっと驚いた。

というのも、人家が川岸

にほぼ垂直に沿う形で並んでいたのだ。 

 そんな川の風景はどこにでもありふれていそうだが、雨量が多く台風などの豪雨で川が氾濫しやすい鹿児島の川では、実はあまりお目にかからない風景なのである。Cimg2387

以前、広島に住んでいたことがあったが、内陸部ではかなりの大河でもその河岸に迫って家々が立ち並んでいたのを思い出す。

 向こうは豪雨がなく、多少の雨では増水の心配が無いものと見えた。Cimg2389

    縄瀬橋をわたり菱田川の左岸を行くこと5キロ、志布志市松山町(旧曽於郡松山町)の中心部に出る。菱田川と松尾川の合流地点を中心に町が開ける(右)。

馬場橋を渡ってすぐ右手が高い台地になり、その上に「松山神社」「松山城址」「運動公園」「道の駅」があるCimg2392_2 が、これまで行ったことのない松山神社に上がってみることにした。

 祭神は「応神天皇・神功皇后・タマヨリヒメ」で、一般的には八幡神社の祭神といわれる。かっては八幡神社だったのだろうか、由緒書のような物はなかった。

 神社の向こうのさらに高い岡には松山城の天守閣らしきレプリカが建っている。この城は寿永3(1184)年、平重頼(係累不明)の築城と言われるから古いものだ。

 神社のある岡は菱田川と松尾川のY字形合流点にあるから、もしかしたら墳墓の丘かもしれない。Cimg2396

松山からはやはり同じ左岸に沿って上流に向かう。約5キロで岩川に到る(写真左は岩南小学校に近い菱田川の流れ)。

 ここでようやく深い河谷から解放され、水に親しめる川となる。

 岩川はかっての曽於郡大隅町の中心地。いや曽於郡全体の中心と言ってもよい。明治以降の行政・産業の郡都となったのは、ここが藩政時代、薩摩藩重役の伊勢家の私領だったことが大きい。Cimg2397

写真は市街地で菱田川に合流する前川。

 橋を渡った右手一帯は、菱田川とのY字形合流地帯で、万寿年間(1024年~1027年)に、当地の社人が、京都に行って岩清水八幡宮の分霊をもらってきて、その分霊を初めて祭った所だという。

 ところがその後、洪水で社殿が流されるようなことがあったので、熊野神社があったところへ八幡宮が移転した。それが現在の「岩川八幡神社」であるという。

    (マップは曽於市大隅町月野・岩川あたり)

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サトイモの収穫風景

笠野原台地の畑地帯を走っていると、左手向こうにビーチパラソルが何本も立っている。車を停め、降りて背伸びをしながら、道路ぎわに生い茂った丈の高い草の向こうを見ると、サトイモ畑だった。Cimg2425

 サトイモは地面から15センチほどのところで葉を切り落とされ、畝を覆う白いビニール(マルチ)を剥がされてから掘り起こされる。

 気温はおそらく33℃ほどはあるだろう。カンカン照りの真昼間、掘り起こされたサトイモの畝に整列するかのように、ひとり一パラソルの蔭の中、老婦たちがせっせと小芋を掻き落としている。

 小芋はそのあとは白い根をむしりとるだけでよい。それから畑の主と見える父と子が、パラソルの元に溜まった小芋を、袋に入れていく。 Cimg2424_2

早い出荷ですね。市場出しですか?

――いや、契約やっど。

 植え付けは?

――3月の末じゃした。

 お盆(旧盆)直前に採れれば早い方なのに、呆れるほど早い。市場に出しても相当な値が付きそうなのだが・・・。

サツマイモやジャガイモは葉の茂りに相応した根に小芋(子芋)が成るが、サトイモは親芋が細胞分裂したかのように、子芋が親芋の周りに付いていく。

 それがまるで家族の連帯・家庭の団欒に見えて、人間社会の模範だとし、縁起のよい姿とされる。サトイモの「里」は、家の周り近く(里)に栽培するからそう名付けられたはずだが、「故里(ふるさと)」の「里」、懐かしい親の住む心の中の「里」と思うと、特別な感慨が湧いてくる。

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山路にオニユリ

Cimg2394  山路といわず、里といわず、また海岸近くまで、今、オニユリがそこここで咲いている。

 葉の付け根に「むかご」という実(種子)を付けるのがオニユリで、付けないのが「コオニユリ」だそうだが、ちょっと目には区別がつかない。

 Cimg2373

それにしても、どうしてこんなオレンジ色のそうどぎつくもない百合を称して「鬼」などと名付けたものか。

 確かに緑一色の中では目立ちすぎる。

 また、そっくり返った花びらが、普通の白い清楚な百合よりは、こまっしゃくれたお姉さんのように目に映る。Cimg2372

 クロアゲハがその蜜の愛好家なのも、そんな印象を深くするのかもしれない。

 でも、今は咲く花の少なくなった山里の路傍に、すうっと立ち上がって咲いているオニユリは、心を少し浮き立たせてくれる。

 

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米とサツマイモ(鹿屋市池園地区・獅子目地区)

梅雨明け後は、期待に違わず夏日が続く。

例年、明けてから何度も梅雨空への揺り戻しがあるのに、こんなに晴天が連続するのは珍しい。

 さぞ田園は元気旺盛だろうと、近くを見て回った。すると3ヶ月前、サツマイモの植え付けをしていた畑はこんなだったのが0420karaimobatake_007

今では黒ビニールのマルチをした畝も、畝間もまったく見当が付かないほど、サツマイモのつるが畑の全面を覆い尽くしている。0715kometosatumaimo_001

 長いつるはもう優に1メートルは超えている。畝の中では、小芋がいくつも鈴なりに成っているだろう。

 あと一月後の旧盆の頃には、収穫できるかもしれない。

次に、台地から大姶良川沿いの獅子目の田んぼ地帯へ降りてみた。

 6月の13日に田植えをしたばかりの田んぼは、こうだった。Ashinominato_013_2

 泥田の中を老婦がか細い苗を補植していたが、今は見事に成長し、丈の高さは葉の先端までで約40センチくらいある。よく見ないと、畝間(苗と苗との間)が見えないほどだ。0715kometosatumaimo_002

 梅雨明け以来、2週間の晴天が味方したのだろう。

 この獅子目地区から、大姶良川に沿った下流を見に行くと、同じような普通作の青田の続く中に、何と黄金の穂の垂れた田があった。0715kometosatumaimo_008

 獅子目から2キロ足らずの池園地区の田んぼだ。一反(300坪=1000平方メートル)くらいの田が三枚。

 おそらくこれはコシヒカリの早期米だろう。コシヒカリは普通作のヒノヒカリより収量は落ちるが、早く収穫できる分だけ値がよく、重宝される。

 このところの日照で豊作は間違いないようだ。

 <向こう(東)に見える山は肝付三山(左端がホホデミの御陵だという国見岳。真ん中は黒尊岳。右端が最高峰の甫余志岳=968m)。>

 この田んぼの右手の道路沿いには、田の神がある。0715kometosatumaimo_004

 道路から田んぼに向かってちょっとした舞台のようにせりだした台地に、田の神、石神、水神祠と行儀よく並んでいる。

 真ん中の石神は自然石だが、首の取れた地蔵さんのような雰囲気がある。だが、由緒は分からない。

 それより、メシゲを持った女神のように見える田の神が愛らしい。背には「嘉永二年 奉寄進 八月吉日」との掘り込みがあり、約160年前の建立とわかる。

 もうひとつの水神の祠は明治43年9月の建立だ。

 おそらく真ん中の石神(イシガンサア)が最も古いと思われるが、少なくとも160年はこの大姶良川沿いの農業の変遷を見つめてきた田の神(タノカンサア)の目に、未来はどう映っているのだろうか――。

    マップ(鹿屋市池園町・獅子目町)

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止まらぬ少子化

今日(7月9日)、NHK夜7時半からのクローズアップ現代を見ていて衝撃を覚えた。

 内容は、これまで中国にどんどん進出していた日本の企業の中で、中国での賃金上昇と通貨「元」の切り上げで利益が落ち込んだので中国本土からベトナムへ転出する企業が増えている――というものだが、私が衝撃を感じたのはそういう工場移転ということではない。

 そもそも低コストを追求してより賃金の安いほうへ流れるのは企業活動の常道で、今に始まったことではない。

 衝撃を感じたというのは、ベトナムの青少年(25歳未満)の人口に占める割合が過半数を超えている――というコメントだ。ホントかいな、というのが最初の反応だった。ベトナムの人口は8500万というから単純に半分として、約4300万の「若者」がいることになる。

 これに対して日本はどうか。今やなんと総人口に占める割合は25パーセント余り。つまり総人口が1億3000万として、25歳未満の「若者」の実数は3200万ほどなのだ。人口は4000万多いのに若者は1000万も少ない。平成12年にはまだ35パーセント弱あったのに、たったの7年でこの有様は、目を覆いたくなる。

 さらに昔をたどると、昭和25年当時は実に62パーセント(総人口8200万のうち5100万)もあったから、いまのベトナムより子沢山だった。

 その頃の出生率は4.32人。一家に4~5人が普通だったのだ。その出生率が今や1.3人だから、50年余りで女性が一生涯に産む子どもの数はあのころの30パーセントに減ってしまった。おまけに未婚者も多い。

 ここまで少子にした原因は分かりきっている。「男女平等」だ。

 こうずばり言うとたちまち反感・嫌悪が、とくに女性陣にはむらむらと起こって来るだろうが、真実だからしょうがない。

 だいたい「男女平等」をもっとも遮るものは何かと言えば、「出産と育児」に他ならない。つまり「出産と育児」は女性が男性と同じ仕事をしていく上で、物理的にも心理的にも一番の障害なのだ。

 したがって「男女同一賃金・雇用機会均等」を貫くならば、女性はそんな障害は招かざるにしかず、だろう。当然の話ではないか。だから未婚化・晩婚化・少子化は必然の流れとなる。

 政府もこれまでさんざん「平等と同一賃金」を喧伝してきた手前、「早く結婚して家庭に入り、たくさん子どもを産んでくれ」とは言えぬ。いや、言ったとしても「何だこの二枚舌め」と鼻であしらわれよう。

何だか、あの人の言ったことを思い出した。あの人とは小泉内閣で初の女性外務大臣になった「田中真紀子」のことだ。彼女は外相を更迭された時こう言った。

  あたしが一生懸命(外務省改革のために)やろうと思って、(小泉首相も)「やれやれ」というので頑張って一歩踏み出そうとすると、後ろからあたしのスカートを踏んづける人がいる。あれっと思って後ろを振り返ると当のその人じゃないですか(シクシク)。

 「女の涙にはかなわない」と、小泉首相があとでコメントしたことで忘れられないシーンだったが、女性が結婚して子どもを産み家庭経営に専念しようとすると、政府が「女性はもっとキャリアを積もう」、マスコミは「女性が家に入るとせっかくのキャリアが無駄になる・世の中の動きから取り残される」とか何とか書き立てて女性の不安をあおる。

 結局のところ、政官民一致して女性が女性固有のかけがえの無い大切な「出産と育児」に向かおうとするスカートを踏んづけてきたのだ。その結果が今日の超少子化に他ならぬ。

 極論かもしれないが、こうなってはどこかから「子どもを移入」しなければ国が持たないかもしれない。アジア・アフリカの貧困と食糧難にあえぐ子どもたちは沢山いる。困った子達を救い、成人したら希望者は日本人として受け入れる。そんな時代が来てもおかしくない。人類みな兄弟なのだから。

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梅雨明けの庭

今日(7月6日)、九州は梅雨が開けた。おなじみの梅雨末期の豪雨が無かったなんて珍しいことだ。

 昼過ぎの気温は玄関のところで32℃を越えた。まだ、地面がたっぷり水分を含んでいるせいで、熱せられた地面から蒸気が立ち昇るのだろう、蒸し暑いことおびただしい。

梅雨明けの空がまぶしく、青さが目に沁みる。こんな天気が3日も続けばカラッとしてくるはずだ。0706tuyuake_007

気持ち的には浮き立つが、菜園の草が目立つ。とらねばなるまい。

 だが、まだ地面の水分が多すぎる。こんな時に抜くと、根っこに土が付きすぎていて、振り落とすのに手がべたべたになってしまう。

 やはり2,3日乾かしてからのほうがよい。雑草さん、少しの間だが、おおいに太陽とさわやかな風を楽しみたまえ。

 菜園では真夏の野菜「オクラ」が成長の盛りだ。3日ほど前に初収穫したのにもう、二番果が付いている。0706tuyuake_002_2

 なんたって、花がいい。

 芙蓉とかタチアオイ、ムクゲそれにハイビスカスなどと同じ仲間らしい。きれいなはずだ。

 野菜の仲間の花では、食用菊と並んで美しいと思う(シュンギクも入るか)。

 で、他の野菜を見回すと咲いている、咲いている。最後の一種類を除いて、みな、お天道様大好き、暑いの大歓迎の野菜たちである。

 きゅうり、ナス、ニガウリだが、お分かりかな?0706tuyuake_004

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鹿屋体育大学(鹿屋市白水町)

 0705taiikudaigaku_010 鹿屋体育大学に所用があり、出かけてきた。

 同大学は、今、現役学生三名が北京オリンピックに出場するとあって、とても盛り上がっている。

 現役大学生の出場は、すべて水泳競技で、あのアテネオリンピックで彗星の如く現れ、800メートルという長丁場の種目で見事に金メダルを獲得した「柴田亜衣選手」を0705taiikudaigaku_005 はじめ、女子ではリレー種目に「高鍋選手」、男子では個人メドレーに「高桑選手」が、それぞれ出場する。

 正面玄関前の植え込みの中には、柴田選手が金メダルを取ったのを記念した碑が立っており、また本部校舎には、都合4名の出場選手を激励する垂れ幕が下がっていた(もうひとりはバレーボールで出場のOB=男子)。0705taiikudaigaku_007

 玄関を入り、きょろきょろしていると体育系の学校には不釣り合いな書額が目に付いた。近寄って見てみると、何だこりゃと思うほど呆気にとられた。

 普通の字でこう書かれている。

     こんにちは  ホーレンソウ  ありがとうございます

0705taiikudaigaku_008 平成6年5月にこれを書いたのは「今村武俊」という人で、第三代学長。

 呆然としつつ首をかしげていると、近くを通った研究者らしき人が教えてくれた。

 「ホーレンソウ」とは「報告」のホウ、「連絡」のレン、「相談」のソウの頭を採った造語ですよ――と。

 最初見たときは、体育大学だから体力をつけるために「ホウレン草」にはお世話になろう。

 だから「ホウレン草」に感謝する意味で、こう、したためたのだろう――なんて思っていたcoldsweats01ので、不明を恥じた次第think

 すると、「こんにちは」も「ありがとうございます」も人への応対に必須の言葉と知れる。なるほど・・・・・。

 でも、そのくらいのことをわざわざ額にまでして・・・と思い直してみた。それほど今日は挨拶や感謝の言葉や「報告・連絡・相談」が希薄になっているのだろうか・・・。

 鹿屋体育大学は大隅半島唯一の大学として、また初めての国立体育大学として昭和56年にオープンした。鹿屋市はじめ肝付郡各市町の待望久しかったものと聞く。

 その後、これを契機にして「健康学術都市」にしていきたい意向があったようだが、これに続くたとえば「健康福祉系短期大学」の設立などは見送られている。いきなり4年生の大学ができても、短期大学の片鱗さえ無い十万都市(周辺をあわせれば20万近い)なんていかがなものか。

 学内を歩いてみると、ここ花岡台地のロケーションのよさが実感できる。フィールドの向こうには桜島と高隈山系が空を劃していた。0705taiikudaigaku_004

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