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天神町を訪ねて(鹿屋市天神地区)

花岡町に用事があり、用事の済んだその足で天神地区へ下りてみた。0830tenjintiku_001_2

花岡からは小野原町に行って、そこから錦江湾に向かってシラス台地を下り、下りきった所が天神町長崎集落の田園である。

 今でこそ天神町だが、昔は荒平と呼ばれ、錦江湾に突き出た岩礁に建つ天神社は、昔のままに「荒平天神」と言われている。

 長崎集落の田んぼを潤す水は小野原の台地からしみ出た川だが、その川の名「荒平川」はまさに天神町がもと荒平地区であったことを証明している。0830tenjintiku_003_2

 川幅2メートル程度の極小河川だが、荒平地区のこの穀倉地帯を成り立たせている貴重な存在であり、土手には立派な河川改修の碑が立つ。

 0830tenjintiku_002 ここの稲は普通作で、今ちょうど穂が出揃ったところだ。おそらく10月中旬ごろが取入れだろう。

 長崎集落と「穀倉地帯」の境目にちょっとした丘があり、長崎霊園という名の共同墓地になっているのだが、その一角に「六地蔵」がある(左の写真:右手前の河川改修碑の奥の小高い丘が共同墓地)。

 墓地に上がってみると、右側に石仏、祠、六地蔵の数々がずらりと並ぶ。

 0830tenjintiku_006_2 案内板にあったのが、写真では一番奥の背の高い灯篭状の石造物で「荒平六地蔵(塔)」である。六地蔵とは人間の六道輪廻のそれぞれの守護仏(お地蔵さん)のことで、戦国期以降が造立の盛期とされる。

 ここのは天文8(1539)年の建立で、県内では古いほうに属するという。そのことより興味を引くのが、建立者が「田代氏」だということだ。

 田代氏は祢寝(ねじめ)氏の一族で、鎌倉初期の建部兼盛の代に田代を領有したため田代氏を名乗ったという。それから300年後にこの地に供養塔を建てたのは、肝付氏(当時は16代兼続。対する祢寝氏は15代重就)との抗争で一時優勢に立ったその「記念碑」のような物だろうか。0830tenjintiku_011

長崎集落から海岸を目指す。国道269号線に出るとそこは荒平港だ。向こうには薩摩半島が延々と横たわって見える。左(南の方角)を追っていくと開聞岳が頭を出していた。

 また、左手の半島状に海に突き出ている丘の上には「菅原小学校」がある。プライベートビーチを持っているそうで、今年の3月頃に上映されて話題になった映画「チェスト!」の学校のシーンの大半はここで撮影されたそうだ。0830tenjintiku_015

荒平天神の国道を挟んだ駐車場の真ん中に、映画「チェスト!」の案内板がでかでかと建てられていた。0830tenjintiku_014

 駐車場から階段を上がるとちょっとした休憩所とトイレがあるが、これは旧国鉄「大隅線」の「荒平駅」の跡で、上がってみるとプラットホームそのものである。

0830tenjintiku_016 駐車場から国道を渡ると、荒平天神と岩礁が手に取るように分かる。白い砂、緑の森(かっては松だった)、そして岩礁の赤が不思議なコントラストをかもし出している(右の岩礁と左の岩礁の間に開聞岳が見えている)。

 赤い岩は「荒平石」と呼ばれ、加工がしやすいため重宝され、主に石垣や階段石などに利用される。仏像や石塔に使われる場合もあるが、風化しやすいので後世の石造物研究家泣かせになる場合が多い。0830tenjintiku_020

天神社の真下から巨大なアコウの木が生えているが、高さ3~4m、幅2mほどもある荒平石の巨岩を、根っこが完全に抱きかかえてしまっているのは見事と言うほかない。

 岩にしてみればがんじがらめで息苦しかろうが、雨風による風化から守られるので、共存共栄の姿と見えないことはない。

天神社も説明板によると「天文年間」の建立だろうとしてあるので、長崎集落にある六地蔵の造立と重なってくる。とするとこの天神社も田代氏の招来かもしれない。ただ、天神社の以前に、この岩礁には古来別の何か―たとえば海や港にちなむ住吉神社とか―が祀られていた気がするが、証拠となるものがあるわけではない。

 天神社の石段下から、港と天神地区を望む。0830tenjintiku_017

 マップ(鹿屋市天神町)

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根占の城址(肝属郡南大隅町)

 夏の暑気疲れかどうか分からないが、手足に軽い湿疹のような物ができてかゆいので「塩湯」が効くと思い、南大隅町(旧根占町)の温泉「ネッピー館」に入りに行った。

 20キロもある温泉へ、ただ入りに行っただけではモッタイナイので、ついでに、7つあると言う根占の古城址を確認してみた。

 まずはネッピー館。0824nejimesiroato_001

 脱衣所に貼ってあった「高張泉」のランキングには驚いた。

 「高張泉」とは、人間の組織液よりも濃度の高い成分含有率をもつ温泉で、それだけ体内への成分の浸透が大きいのだという。0824nejimesiroato_002

 ランキングによると、根占温泉は全国で27位だそうだ。鹿児島県ではトップが加治木の「ふれあい温泉」、次が開門温泉、次が阿久根の「グランビュー温泉」、そして鹿児島で4番目がこの「ネッピー温泉」だという。

 今を盛りと咲くハイビスカスも元気をくれているようだった。0824nejimesiroato_004

さて、温泉を出て右手に行く。すると塩入橋があり、橋を渡らず、反対の田んぼの方を見ると小高い岡が目に入る。あれが「水流城」で「つるじょう」と読む。かってはあの岡の麓を川(雄川)が流れていたのだろう。南北朝期に築城された見晴らしのいい山城である。

 水流城の麓まで行き、山すそを東に向かうと国道269号に出る。右折してそのまま行くと新しくできた(平成14年竣工)根占中学校を過ぎて佐多方面へ向かうが、0824nejimesiroato_006 100㍍ばかり行って左折する。

 田んぼと人家の間の道を行くと、右手前方に馬の背のような岡がある。そこは「山田城(別名:平瀬戸城)址」で、この城を築いたのは「平姓長田致将(むねなが)」である。致将は祢寝(ねじめ)氏との直接の血縁はないが、同じ平氏であり、その縁があったのだろうか、養父・長田忠致(ただむね)の壱岐守赴任に付いて行ったあと、根占を領有することになった。

 (長田致将は平家が壇ノ浦で壊滅したあと、源氏の九州攻めに拮抗しようと根占から宮崎県の西諸県郡野尻町の内木場城に移り、そこで死を遂げたらし0824nejimesiroato_007 い・・・小林市の鮫島田佳雄氏のご教示による。鮫島氏のブログ(内木場城)を参照)

 つぎに行ったのは「富田城址」。山田城からは旧根占中学校の前を通り、諏訪神社を目指す。諏訪神社の左手から上がる道が富田城への道だが、現在の富田城址はシラスの採取のために壊滅状態である。(写真は北之口集落より見上げた城址)

 0824nejimesiroato_008_2 ここは祢寝(ねじめ)氏の本城で、築城は鎌倉初期とされる。

 集落の北に雄川を渡る北之口橋があるが、そこからははるか向こうに長大な絶壁が横たわるのが見える。あれが「国見城址」のある城内台地だ。シラス台地の硬い部分が侵食に耐えて残り、ほぼ西に向かって2キロの半島となっている(メサ地形という)。

 標高160mの台地の上に築かれた国見城は水流城と同じ南北朝期のものである。0824nejimesiroato_010

 次に向かったのが、町の中心に近い針馬場にある「建部城址」で、これが確認できる根占では最も古い城で、平安末期の築城とされる。鹿児島神宮の前身である「大隅正八幡宮」の社人であった建部氏が正八幡宮領であった根占に下向し、居ついた後に築城された。

 その建部氏に入り婿で入ったのが、平重盛を祖に持つという「平清重」だという。重盛のひ孫に当たる。0824nejimesiroato_011_2この重盛が「小松内大臣」と呼ばれていたことから、祢寝(ねじめ)氏の吉利(よしとし)郷への移封後に姓を「小松」に改めている。

 建部城のすぐ隣に、南北朝期になって「野間城」が築かれている。写真は建部城址から北へ国見城址のある城内台地へ向かう途中からの野間城(左の岡)と建部城(野間城の右手の団地の所)。0824nejimesiroato_015

最後に雄川河口にある「瀬脇城址」に向かう。

 別名が塩入城と言われるように、海に面しているこの城も南北朝期に造られている。7つの城のうち南北朝期に4つも造られているが、南北朝時代がいかに戦乱に明け暮れたかということを如実に物語っていると言えよう。

 0824nejimesiroato_013 国見城址のある城内台地へ登る途中からは、根占の平野部が眼下に見渡せる。真ん中に右手から黒っぽく伸びている丘の向こうに、根占港が望まれ、右から瀬脇城、やや左手へ水流城と並ぶ。

 もっと左へ視線を移すと(下の写真)、真ん中には野間城址の丘が横たわる。その左手の奥には山田城址のある丘が見える。さらにその奥には根占富士と言われる「辻岳(722m)」が聳えるのだが、あいにくの空模様であった。0824nejimesiroato_014

マップ 0824nejimesiroato ①建部城 ②野間城 ③山田城 ④富田城 ⑤水流城 ⑥瀬脇城 ⑦国見城

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安楽川流域散策(その二)

山宮神社のある宮地集落で「田ノ浦一番地」というのがある、と聞いて行ってみた。0815anrakugawa_023_2

 何のことはない、田ノ浦入り口の大越橋まで引き返し、橋を渡ってすぐ左手、川沿いの田に下りる道の途中にあった。

 教育委員会の案内標柱が立ち、そこには「田ノ浦一番地 水神様屋敷跡」と書いてある。下の田んぼで肥料をまく準備をしていた人に聞くと「たしかにここに水神様が祭ってあった」と言う。

 おそらく田ノ浦地区で初めて田を拓いて米を作った人たちが、いの一番に祭ったのだろう。0815anrakugawa_015_2

 ゆかしき時代の、ゆかしき人々が偲ばれる伝承だ。

 再び上流に向かう。さっきのふるさと交流館を左に見、田ノ浦小学校を左に見して行くと、川がだいぶ近づいてくる。川床はシラスの中に混じる溶結凝灰岩で、水流で侵食された痕が手に取るように分かる清流である。

 0815anrakugawa_011_2 水遊びにはもってこいの流れだが、誰も遊んでいないのはもったいない。

 花房峡という名勝地を過ぎてなおも行くと、右手に「滝の入り口」という案内板があったので、車を停めて下りて行く。

 かなりの急坂を下りること5分。滝らしき水音が聞こえてきた。見ると右手は確かに滝だが、左手の上流は河川プールのように穏やかな水が湛えられている。

 井堰(いぜき)が造られていた。もちろん田んぼに水を引くためのものだ。川を仕切るコンクリートの幅1メートルほどの割れ目から、0815anrakugawa_012_2水が勢いよく流れ落ちていく。

 比高にして5㍍くらいしかないが、確かに紛れもなく滝である。川床の溶結凝灰岩が水によってえぐられた痕がごつごつとし、水との長き戦いの結果を示す。

 こんな景勝の地に人工物なんて――と言われそうだが、山間地に住む人の米への情熱(米作りへの本能的熱意)を知れば、そういう人でも口をつぐむだろう。0815anrakugawa_010_2

 滝を見終わってもとの道まで上がり、少し行くとT字路があり、右折する。すると間もなくまたT字路があるからそこも右折する。左折すると道は大淀川の源流部を通って都城市に下りて行く。

 ここは高岡口といい、田ノ浦から7キロほどの台地(標高300m弱)で、写真の真ん中のガソリンスタンドの右手に流れる水は大淀川から日向灘へ、左手へ流れると安楽川から志布志湾に入るという分水嶺である。 0815anrakugawa_009_2

 高岡口からはいよいよ源流部らしく道は蛇行を繰り返しながら上って行く。

 高岡口は旧末吉町(現・曽於市末吉町)だが、すぐに隣県の都城市域に入る。町名は安久町だ。

 0815anrakugawa_008_2 途中、「御所谷橋」を渡るが、何やら由来がありそうだ。たぶん平家の落人伝説だろう。落人の中の高貴な人が住み着いたのかもしれない。

 高岡口から5キロに最奥の「尾平野集落」がある。

 こんな山奥に「平野」とはいかに?と感じたが「尾」が「小」なら「小平野」で当地の状況を言い表す地名だ。だが「尾」は「小」ではない。とするとやはり「平家」の「平」から来た地名ではないか?

0815anrakugawa_005_3 「御所谷」からすっかり平家の落人モードに入ってしまったが、宮崎、鹿児島は平家の落人の極めて多いところとして著名であることからして、可能性は高いだろう。今度、都城の歴史を参照したいものだ。

 平家は水軍・水運に重きを置いていたのだが、余りに都ぶりに染まりすぎて惰弱に成り果てた。その結果、海戦は不得手なはずの源氏に敗れる始末となった。

 それでも多くの落人が九州に逃れ得たのは、やはり水運によるネットワークのおかげだろう。上陸後もそれが無かったならば、こんな山奥にたどり着く前にやられていたに違いない。

 都を捨て、栄誉を捨て、その代わりクワとカマを手に黙々と開墾に励んだ平家の公達がいたかもしれない。最奥の棚田は、今、出穂期を迎え、いっせいに薄黄色の穂を伸ばす準備をしている。800年余り前にもこんな平和な風景があったのだろうか・・・。0815anrakugawa_007_2

  マップ(志布志市田ノ浦・曽於市末吉町高岡口・都城市安久町)

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安楽川流域散策(その一)

 0815anrakugawa_041_3 宮崎県都城市の東に広がる鬼塚山塊を源流域とする安楽川は全長30キロ足らずの小河川で、河口は大崎町の菱田川と志布志市中心街を流れる前川のちょうど中間点に位置する。

写した場所は、河口から300メートルくらい上流の、旧国鉄大隅線の鉄橋の上だが、白波立つ河口のはるか向こうには、内之浦町(現在は肝付町)の津代半島が太平洋に突き出ているのが見て取れる。

 津代半島の付け根の高台には、文部科学省の内之浦ロケット基地があるので有名だ。0815anrakugawa_043

 上流方向に目を転じると国道220号線に架かる「安楽大橋」が見える。

 安楽大橋から上流へさかのぼること2.5キロに架かる「平城(なら)橋」までが、安楽川下流域の穀倉地帯で、橋から右手の台地を登りきると安楽小学校があり、左折して300メートルも行くと「山宮神社」に着く。0815anrakugawa_038

この山宮神社には「天智天皇」が祭られているが、その天智天皇は実は志布志にやって来て、安楽川の上流にある「田ノ浦地区」の名峰「御在所岳(530m)」に葬られているとの伝承がある。

 境内横から国指定の天然記念物「大楠」を写したが、手前の「阿吽神官坐像」のすぐ後ろに、「茅ノ輪くぐり」の茅ノ輪がまだしつらえてあったのが印象的だった。0815anrakugawa_036

 山宮神社からやや北に向かい最初の路地を左折すると、道は下りになる。500㍍余りで左に駐車場を見る。

 「安楽城跡」の説明板が建っている。

それによると、築いたのは伊佐平氏流の安楽氏で,坂を下りきって安楽川に架かる「上門(うえかど)橋」から眺めると、菱田川中流にある「蓬原(ふつはら)城」に似て、川を背にして築城されているのが分かる。0815anrakugawa_034

 蓬原城が伴姓肝付氏流の「救仁郷(くにごう)氏」のものであったことを勘案すると、ここを築城した安楽氏も実は肝付氏流の安楽氏ではないかと思われる。

 安楽氏は肝付氏初代兼俊(かねとし)の二番目の弟・兼貞(かねさだ)の開いた支流で、救仁郷氏より一世代前の古い由緒を持つ(救仁郷氏は2代兼経の弟・兼綱が始祖)。0815anrakugawa_030

上門橋よりさらに1キロあまり上流の「大迫橋」は志布志から曽於郡大隅町岩川からの道と、曽於郡大崎町野方からの道が交わる交通の要衝で、交通量が多い。ここまで、河口から約6キロである。

 川はここから谷沿いへと入って行く。

 さらに4キロ上流に行くと「柳橋」で、清流にしか育たないという南方系の植物0815anrakugawa_029 「カワゴロモ」が自生しているという。いわゆる「水中花」で、水の中で花を開き受精もするという面白い花だ。志布志市を流れるもう一つの河川「前川」にも生息している、と説明板にあった。

 柳橋からは道を逆戻りに南下し、次の「樽橋」を渡ると道は安楽川の右岸(西側)台地に上っていく。

 川久保・井久保集落の高台の畑地帯で、茶畑や牧草畑の西向こうに霧岳(408m)宮田岳(520m)などが望まれるが、何と言っても美しいのは正面に0815anrakugawa_025見える「御在所岳(530m)」だ。

 先にも触れたように、ここに天智天皇が葬られ(山宮)、それがいつか麓の現「田ノ浦山宮神社」が遥拝所(里宮)として祭られ、さらにおそらく同じ川沿いということで、下流の安楽山宮神社にも分霊(分社)がなされたのではないだろうか。0815anrakugawa_016_2

そのあたりの詮索は後にして、道は台地を下り田ノ浦地区に入る。

 「大越橋」で安楽川を左岸に渡り、左折すると間もなく左手に「ふるさと交流館」という表示を見る。かなり広い駐車場の向こうにぽつんと和風の建物がたつ。あれが交流館だが、あいにく休館日らしく、入れないようになっていた。

0815anrakugawa_017_3    交流館のすぐ上から、田ノ浦山宮神社への道しるべに従い降りていくと安楽川の清流に架かる「高橋」だ。

 凝灰岩をくりぬいた淀みの上には、用水路の太い鉄管の橋も架かる。上流から引いた用水をこの田ノ浦地区の田んぼへ配水するための水道管だが、残念ながら鉄管の向こうの林の中にある山宮神社にとっては邪魔な存在だ。

 できれば今写真を撮るのに居る高橋と合体させて、山宮の聖域を侵さぬような橋を造作してもらいたいものだ(事業費のないのは分かっているが・・・)。0815anrakugawa_018

高橋を渡ると、宮地といい、いかにも山宮があるのにふさわしい名の集落があり、その奥まったところに山宮神社はある。

 花崗岩製の鳥居の脇には、昭和60年ごろ復活したという伝承の踊りを記念した手水鉢などがあり、田ノ浦地区の神社への思い入れが伝わってくる。0815anrakugawa_022

 

 境内はさほど広いとは言えず、また拝殿も特段に風趣があるというわけではないが、その前に居座る「阿吽神官坐像」は人の背の高さを超える雄偉な作りで、なかなかのものである。

 下流の安楽山宮神社にもほぼ同じものがあるが、ここのほうがいかめしいように感じられる。

 田ノ浦地区は安楽川河口から17~8キロのところに位置する。

    マップ(志布志市および旧曽於郡松山町)

 

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旧国鉄大隅線「鹿屋鉄道記念館」

国鉄<大隅線>が廃止されたのは1987年(昭和62年)のことである。

鹿屋市役所と地続きの一角に、その駅舎跡を記念する「鉄道記念館」が建つ。0814ekitoireihi_015

遊園地のおとぎの電車の駅のような建物は、結構人目を引くが、訪れる人はまれのようだ。0814ekitoireihi_001

裏手に回ると、踏切とプラットホーム。線路には黄色い保線用車両と朱色の気動車(ディーゼルカー)が並んでいる。

 かってこの列車で通学などしていた人は、20数年以上前にタイムスリップするに違いない。0814ekitoireihi_010

駅舎風の記念館の中に入れば、もっと懐かしい光景が見られる。

 手前にはHOゲージの鉄道模型。その奥の壁には、天井に届く昭和62年の廃業時の横断幕が掲げられている。

 当時をしのばせる多量の写真には、思い出を感じる人も多かろう。

 左手の壁の「普通運賃表」を見ると、東京都区内まで15900円ということが分かる(昭和62年)。0814ekitoireihi_014

別のコーナーには博多行きの時刻板がぶら下がっている。これはおそらく大隅線の始点である国分駅にあった物だろう。

 もっと奥には当時の国鉄職員の制服を着たマネキンがガラス戸の中に並んでいる。隣りには古めかしい金庫もある。

記念館でもらった資料によると、大隅線は国分―志布志間をつなぐ全長98.3キロ、駅の数33の廃止対象路線としては屈指の規模だった。

全線開通は1972年(昭和47年)というから、全線を営業していたのはわずか15年という短命路線である。怒涛のごときモータリゼーションの波には太刀打ちできなかったのだろう。

0814ekitoireihi_007 わずか15年といったが、それは国分―志布志全線の営業を言うのであって、その前身は意外と古い。資料から抜粋してみる。

 1915(大正4)年 南隅軽便鉄道開設(高須~高山間)

 1923(大正12)年 大隅鉄道と改名(古江~串良間)

 1935(昭和10)年 国有化され、古江線と改名。古江東線(志布志~東串良間)開通。

 1938(昭和13)年 古江~志布志間が開通

 1961(昭和36)年 垂水の海潟まで延長。

 1972(昭和47)年 国分まで延長し、日豊線とつながる。大隅線と改称。0814ekitoireihi_008

全線開通まで実に58年という長期を要したことになる。しかも、戦前から戦後にわたって・・・。

1972年の全線開業の頃には既に「赤字対象路線」にカウントされていたというから、今からは考えられない公共事業費の大盤振る舞いと政治力が大隅線を実現させたわけだが、大隅線をわが足として利用した人々には、そういう内情とは関係なく、色々な懐かしい思い出が、溢れるほど詰まっていることだろう。

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桜花隊慰霊碑

鹿屋には海上自衛隊鹿屋航空隊基地があるが、ここは昭和13年に創設された。

 太平洋戦争が始まると、南方への本土最前線基地としての価値が高まった。そして昭和19年以降、アメリカのグアム、サイパン基地からの攻撃が強まり、やがて沖縄への上陸が近かろうという頃、いわゆる「特攻(特別攻撃)」作戦が開始され、九州南部から多くの十代後半の若者が飛び立って帰らぬ人となった。

 陸軍は知覧基地からの特攻で、誰知らぬ人のないほど有名だが、海軍は大隅半島からの出撃が多く、鹿屋と串良の両基地から飛び立って命をささげた若人は、実は知覧より多い1270人余りである(知覧は加世田の万世基地などを合わせて1035名)のだが、残念なことに周知徹底はなされていない。

 その中に「桜花隊」という「神雷部隊」に所属する一隊があり、訓練中にかの作家・山岡荘八が取材かたがた兵舎を慰問に訪れている。0814ekitoireihi_020 戦後、慰霊碑が建立され、その碑面の字は荘八のものだ。

場所は現在の航空基地の西はずれの「野里小学校」から南へ300㍍くらいの道路脇で、森に囲まれた好ましい雰囲気の所にある。0814ekitoireihi_026

 隣りは「朝日神社」で、鳥居越しの右手に手前から、旧野里小学校校舎移転の碑・旧山下集落跡の碑、そして「桜花隊」の碑、と並んでいるのが見える。

 朝日神社は祭神は不詳だが、おそらく野里地区の広大な田んぼを拓いた当地の首長の墓があった跡地に建てられたのだろう。したがって祭神は「首長・誰の誰兵衛の命」だと思われる。0814ekitoireihi_024

鳥居の内側からは、道路の向こうに広々とした「野里たんぼ」が緑一色でまばゆいほどだ。

話を戦時中の「桜花隊」に戻そう。

 「桜花」というのは新兵器のひとつで、言うならば「コバンザメ」型爆撃機で、戦闘機の下に装着して、敵艦の上空から滑空して体当たりをする飛行機であった。

 自身には動力はないから、飛行機ではなく「グライダー」と言うべき代物で、実戦では55名が体当たり爆撃に出動した。

 成果のほどは不明で、55名の死と引き換えにどれほど効果があったのかは分からない。

 効果の分からぬ攻撃に出なければならないほど、日本は敗戦の瀬戸際に追い詰められていた証拠と言っていい。

 この点から、特攻などという無謀な作戦に移る前にどうして戦争を停止(つまりは降伏)しなかったのか、そうすれば十代後半という、夢をたくさん持っていた若者を無駄に死なすこともなかったし、沖縄戦も広島・長崎の原爆もなかったはずだ――という意見を持つ人、特に若者には多いと思う。

 たしかに一理はある。だが、米軍が沖縄作戦に入る前に「降伏する」という考えは、今から思えば何と言うこともなく可能でありそうに見えるが、ではもしそうしていたら日本はどうなっていただろうか?

 おそらく今の朝鮮半島のように分断され、「ロシア管理下の北海道」「アメリカ管理下の本州」「イギリス管理下の九州」というように分割統治がいまだに続いていただろう。あるいは米英対ロシアの代理戦争が何度も行われたに違いない。国論も同様に二分、三分され、国民同士が血で血を洗うような状況も発生していたかもしれない。

 日本のあの徹底抗戦があったればこそ、占領軍によるあなどり・侮辱も最小限度に済み、日本人の「分断化・奴隷化」が避けられたのだと思う。

 また、巨視的に見れば日本が戦うことによって「欧米主導の植民地主義」が崩壊に向かい、有色人種にも平等の機会が与えられるようになったのである。結果としては悲惨な負け方をしたが、「勝負に負けて、(欧米植民地主義との)戦いには勝った」と考えることによって、特攻の若者の死は無駄ではなかったと言えるのではないだろうか。0814ekitoireihi_016

 鹿屋市今坂町の小塚公園の高台に建つ「鹿屋海軍航空隊慰霊塔」。

 これには908名の隊員の名が刻まれている。

 また、鹿屋市串良町の平和公園内の「串良海軍航空隊慰霊塔」には359名の隊員の名が刻まれている。

 合計で1267名。

 因みに全国の特攻隊士の数は

 海軍が4142名

 陸軍が1710名

 総数 5852名だそうである。

 明日は終戦記念日。

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遠来の客人

 鹿児島実業対宮崎商業という隣県同士の甲子園対決は、1対1のまま延長戦に入り、12回表に鹿実が3点を入れて突き放し、勝利を収めた。

 延長戦以降は宮崎商業が毎回走者を出し、一打同点あるいは逆転かと薄氷を踏むような戦いだったが、鹿実はなんとか接戦を制した。

 鹿児島の戦いとしては近年に無い好カードだった。この粘りで3回戦以降も頑張って欲しいものだ。

 その勝利に沸き立っている頃、電話が鳴った。取ると電話の主が「今、垂水にいるが、鹿屋で所用を済ませたら大隅史談会のことで話がしたい」。そんな旨の用件だった。

 3時半頃、その電話の主はやって来た。

 車を運転していたのはF氏で、助手席に若いご婦人がいる。家に招じ入れて聞けばお嬢さんとのこと。

 F氏一家は福岡在住だが、ご本人はKDDIにお勤めで、東京に単身赴任中の由。ところがルーツは鹿屋にあり、今回は盆休みの一週間ほどの予定で墓参り方々、興味ある箇所を回っていると言う。

 大隅史談会に興味を持ったのは、自分のルーツ探しの途上で出くわしたから(ネットで)とおっしゃる。

 氏によると、F氏のルーツは垂水の島津以前の領主・伊地知氏の所縁らしい。「その辺りのことを書いた史談会誌はありませんか?」と言われたが、すぐには思いつかない。そこで何人かの郷土史家の名を挙げて、その先生方の書いた物を参考にされたら、と示唆をさせていただく。0810yurinohana_003

 「今回は時間も無いので、いずれまた、来ます」とのことで、そそくさと帰られたが、お嬢さんはとても印象に残る人だった。0810yurinohana

 人柄が素直そうな、楚楚とした美人であった。この頃、庭に増えだしたテッポウユリに譬えられるかもしれない。来年は就職で、就職先は広告業界ではあのD通とならぶH報堂だというから才媛でもあるのだろう。

球根を植え分けたわけでもないのに、庭の思いがけない所にユリが咲いている。はて、種が飛んだのかいな・・・。

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掛け干し(鹿屋市南町)

ここ一週間の内に早期米の収穫がどんどん行われ、今はもうコンバイン刈りではない、昔からの「掛け干し(かけぼし)」の田んぼにしか、刈り取った稲を見ることができなくなった。0807kakeboshi_002

比率から言うと、この頃はおそらく95パーセントの田では「コンバイン刈り」で、残りがこうして「掛け干し」という<天日干し>を行っている。

 今日は朝から小雨気味で、もしよく晴れていたらハーベスターで脱穀をしていたであろう。

 そのくらいここの田んぼの稲は十分に乾燥しているようだ。0807kakeboshi_001

掛け干しのことを、ある地方では「はざ掛け」などというが、いずれにしても、クロスにして立てた二本の棒(たいていは杉の間伐材を使って、細工している)を田んぼに立て、その上に孟宗竹の5~6メートルはあろうかという長いものを乗せ、そこに刈り取った稲を二股にして掛ける。

 正面(先端・後端)から見ると似ているので「馬」などと言ったりもするが、今は杉の「立て棒」も手に入りにくくなって、金属のパイプを代用にすることもある。

 夏のカンカン照りなら5日、おおむね一週間を目安に脱穀作業をしてモミが収穫される。一反(300坪)でモミ540キロくらいが標準だろうか。白米にすれば300キロ強というところ。

ところで、田んぼの後ろに見える丘は「年貫(としぬき)神社」の祭られている丘だ。

 年貫神社は祭神が「ニニギ尊・イザナギ尊・オオヤマヅミノ神」という、いかにも南九州らしい神々を祭る。伝承によれば、ニニギノミコトが天孫降臨後の国まぎの途中、ここで年を越されたという故事からここにニニギノミコトを祭ったのだそうだ。

 神社の創建は「太古」らしいが、再興の「棟札」が現存しており、それによれば当神社の再興は、永禄9年、すなわち1566年のことと言うから、もう450年になる。0807kakeboshi_004

 すこし下流の「樋渡(ひわたし)橋」からも正面に丘が見える。

 流れは「大姶良川」で、画面右上の年貫神社の丘の手前を右から左(東から西)へ流れ、南方面からの「萩崎川」をあわせ、ほぼ直角にこちら(北)の方へ流れて来る。そして3キロほど下流で肝属川に合流する。

 年貫神社の丘は、大姶良川と萩崎川によって挟まれており、歴史上、そのような丘は「聖地・最上の土地」とされていた。

 年貫神社の建つあたりから、古墳時代とおぼしき土器類が多数発見されているが、このような立地条件の場所は墳墓の地としては最高であったと思われる。

 また、中世から戦国時代にかけては「年貫城」があった。

 穀倉地帯の見晴らしのいい丘はそこを開発した主の墓には最適の場所であり、時代が下がると防御に良いとして城(山城)が築かれるケースが大変多い。「年貫城」もそうして築かれた城である。

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菱田川流域散策(その四)

菱田川本流に前川が注ぎ込む文化センターあたりは、おそらく河口から25キロあたりだろうか、ここからは流れを追ってほぼ北に向かう。3キロ弱で岩崎バス停があり、右手に末吉学園の案内板を見ると、道は下り坂になる。1キロほど下ると「中園橋」だ。Cimg2426

 中園橋から上流は再び北西方向に流路が変わる。

 そして川は再び、人目につかない河谷を形成するようになる。ただ「川添田」と言うべき「川に沿った狭長な谷間に沿うように開かれた田」が、延々と続く。

 ここから源流まで16~7キロだが、はじめの10キロはこのような風景ばかりで、田んぼの持ち主しかお目にかかれない。

 Cimg2404再び今来た国道269号を坂の上まで戻り、「柳井谷・景清の墓」の道しるべにしたがって右折する。

 約3キロで柳井谷集落に入る。田んぼの中の道沿いに白い案内柱が見える。

 そこから向こうの丘を目指して歩くこと200㍍、道に石段が付けられてあり、登っていくと杉林の中に、何やら白い物が見える。お地蔵さんだ。

Cimg2402 薄暗い林の中で、そこだけスポットライトを浴びたように光り輝いている。謂れが書かれていないので、どんな目的で建立されたが分からないが、厳粛な気になる。覚えず合掌。(どうぞ写真をクリックして拡大されよ)

Cimg2401_2  景清の墓という案内柱だったが、景清の墓については単なる伝説であり、実際には「柳井谷古石塔群」という遺跡地だった。ただ、大小40ほどの石塔の内、一番手前の3基並んだ真ん中の大きな物が「景清の墓」ということにはなっている。

 景清は平景清として知られるが、実は藤原氏だという。平家に与し、壇ノ浦で共に敗れ、落ち延びて建久6年か7年(1197)かに死んだらしい。それがこの地だったという伝説だが、石塔はそこまで古くはないようだ。

 宮崎県の生目古墳群のなかにある「生目神社」にこの景清が祭られ、しかもそこには「廟」もあるというから、そこから伝わった伝承だろうか? どっちにしても南九州に墓があると言っているわけだから、面白い。Cimg2405

景清 の墓をあとにして、道は柳井谷を抜け、川床と言う集落を抜けると、5キロほどで、高原状の見通しのいい台地に上がり、やや広い道に突き当たる。

 するとそこに、ステンレス枠の立派な案内板が立っているのが見えた。平成15年に建てられたもので、道路新設工事に伴う確認調査から全面調査まで行い、その結果2箇所に分けて遺跡名が付けられたという。

 萩原遺跡は複合遺跡で、縄文草創期の住居跡が見つかっている。鹿児島ではこのような標高の高い(ここは250m)場所で縄文早期・草創期というとてつもなく古い時代の物が発掘されるので、今さら驚くに価しないが、12000年前の住居跡というのは確かに古い。

 また出ヶ久保遺跡からは縄文後期の「橿原式土器」が発見された。説明では「大和橿原からここへ移住した者が持ち込んだ」と書く。3500年前に、開けていた大和橿原から、このような辺鄙な所へ移住した理由が不明なことはもとより、それならここに到るまでの道中に、点々と同じ土器が発掘されてもよさそうではないか。調べてみると「橿原式土器」は東北の縄文文様がルーツだろうという。そうなるとますますこちらへ到来した理由が分からなくなる。

 Cimg2422  

 遺跡地からは一般道路と県道、国道10号線を経由して、いよいよ最上流部に入って行く。国道10号線上の福山町(現在は霧島市福山町)佳例川バス停を見ると、すぐに右手に「水の郷・佳例川」の看板がある。そこを右に入る。

 100メートルも行かないうちに、左手に菱田川が現れる。

 それまでの深い河谷とは打って変わって、谷らしいもののない浅い清流だ。Cimg2421_2

 ここから源流までは6キロほどだろう。最終の地とした最上流部の集落「市ノ瀬」まで約4キロはこんな流れが続く。

 「川添田」はさっき通ってきた中流地帯より広い。珍しい現象だ。Cimg2418

さらに行くと、もうここらでは「川添田」というより「谷地田」だが、谷は深くなく、延々と奥まで続く。

 佳例川入り口から2キロ半ほどで、田んぼに突き出た岬のような塩梅のところにお宮があった。Cimg2417

手前の田んぼの方からも、向こうの道路沿いからも行けるが、神社の名は「飯富神社」で、祭神は「猿田彦大神」。

 猿田彦は天孫二二ギノ命が高千穂の峰に降ろうとした時に、「天の八街(やちまた)」にいて、天孫一行を道案内した神(国津神)として重用された。アメノウヅメという女神と結ばれたが、伊勢の二見でヒラブ貝に手を挟まれて死んだといい、伊勢外宮の神主家「宇治土公(うじどこ)氏」はその子孫という。

Cimg2415_2  山中と言ってよい場所柄にしては立派な神社である。

 朱(丹)塗りは鹿児島では霧島神宮はじめポピュラーなデザインだ。

 これを嫌う人も多いが、鹿児島の古墳の石室や石棺の内側には必ず朱が塗られており、朱は邪避け、魔よけの意味を持っていたようで、社殿を朱で塗るのも同じ信仰(コンセプト)といってよい。Cimg2414

神社下から眺める「谷地田」(川は右手の山裾を回って流れている)。

 この風景と「飯富」という社号から連想するのは、豊かな実りと村人の平安への祈りで、したがって祭神が猿田彦というのは、どうも天孫降臨の聖地・霧島が近い(直線距離にして20キロ)ため、降臨説話に付会した祭神ではないか――という気がする。Cimg2408

 さらに遡ること1キロ半、おそらく最上流部の集落であろう「市ノ瀬集落」に着く(このあたり標高は約300m)。Cimg2411  

「2級河川起点」という標識のすぐ上の川の流れは、まさに「春の小川」だ。幅は2メートル、これからさらに2キロ上流が源だろう。Cimg2407

 市ノ瀬集落を通過する道路の崖上から見ると、源流の山「荒磯岳(ありそだけ=539m)」が顔を覗かせていた。

 マップ(曽於市大隅町岩川・柳井谷。霧島市福山町佳例川・荒磯岳で)

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