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天神町を訪ねて(鹿屋市天神地区)

花岡町に用事があり、用事の済んだその足で天神地区へ下りてみた。0830tenjintiku_001_2

花岡からは小野原町に行って、そこから錦江湾に向かってシラス台地を下り、下りきった所が天神町長崎集落の田園である。

 今でこそ天神町だが、昔は荒平と呼ばれ、錦江湾に突き出た岩礁に建つ天神社は、昔のままに「荒平天神」と言われている。

 長崎集落の田んぼを潤す水は小野原の台地からしみ出た川だが、その川の名「荒平川」はまさに天神町がもと荒平地区であったことを証明している。0830tenjintiku_003_2

 川幅2メートル程度の極小河川だが、荒平地区のこの穀倉地帯を成り立たせている貴重な存在であり、土手には立派な河川改修の碑が立つ。

 0830tenjintiku_002 ここの稲は普通作で、今ちょうど穂が出揃ったところだ。おそらく10月中旬ごろが取入れだろう。

 長崎集落と「穀倉地帯」の境目にちょっとした丘があり、長崎霊園という名の共同墓地になっているのだが、その一角に「六地蔵」がある(左の写真:右手前の河川改修碑の奥の小高い丘が共同墓地)。

 墓地に上がってみると、右側に石仏、祠、六地蔵の数々がずらりと並ぶ。

 0830tenjintiku_006_2 案内板にあったのが、写真では一番奥の背の高い灯篭状の石造物で「荒平六地蔵(塔)」である。六地蔵とは人間の六道輪廻のそれぞれの守護仏(お地蔵さん)のことで、戦国期以降が造立の盛期とされる。

 ここのは天文8(1539)年の建立で、県内では古いほうに属するという。そのことより興味を引くのが、建立者が「田代氏」だということだ。

 田代氏は祢寝(ねじめ)氏の一族で、鎌倉初期の建部兼盛の代に田代を領有したため田代氏を名乗ったという。それから300年後にこの地に供養塔を建てたのは、肝付氏(当時は16代兼続。対する祢寝氏は15代重就)との抗争で一時優勢に立ったその「記念碑」のような物だろうか。0830tenjintiku_011

長崎集落から海岸を目指す。国道269号線に出るとそこは荒平港だ。向こうには薩摩半島が延々と横たわって見える。左(南の方角)を追っていくと開聞岳が頭を出していた。

 また、左手の半島状に海に突き出ている丘の上には「菅原小学校」がある。プライベートビーチを持っているそうで、今年の3月頃に上映されて話題になった映画「チェスト!」の学校のシーンの大半はここで撮影されたそうだ。0830tenjintiku_015

荒平天神の国道を挟んだ駐車場の真ん中に、映画「チェスト!」の案内板がでかでかと建てられていた。0830tenjintiku_014

 駐車場から階段を上がるとちょっとした休憩所とトイレがあるが、これは旧国鉄「大隅線」の「荒平駅」の跡で、上がってみるとプラットホームそのものである。

0830tenjintiku_016 駐車場から国道を渡ると、荒平天神と岩礁が手に取るように分かる。白い砂、緑の森(かっては松だった)、そして岩礁の赤が不思議なコントラストをかもし出している(右の岩礁と左の岩礁の間に開聞岳が見えている)。

 赤い岩は「荒平石」と呼ばれ、加工がしやすいため重宝され、主に石垣や階段石などに利用される。仏像や石塔に使われる場合もあるが、風化しやすいので後世の石造物研究家泣かせになる場合が多い。0830tenjintiku_020

天神社の真下から巨大なアコウの木が生えているが、高さ3~4m、幅2mほどもある荒平石の巨岩を、根っこが完全に抱きかかえてしまっているのは見事と言うほかない。

 岩にしてみればがんじがらめで息苦しかろうが、雨風による風化から守られるので、共存共栄の姿と見えないことはない。

天神社も説明板によると「天文年間」の建立だろうとしてあるので、長崎集落にある六地蔵の造立と重なってくる。とするとこの天神社も田代氏の招来かもしれない。ただ、天神社の以前に、この岩礁には古来別の何か―たとえば海や港にちなむ住吉神社とか―が祀られていた気がするが、証拠となるものがあるわけではない。

 天神社の石段下から、港と天神地区を望む。0830tenjintiku_017

 マップ(鹿屋市天神町)

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