桜花隊慰霊碑
鹿屋には海上自衛隊鹿屋航空隊基地があるが、ここは昭和13年に創設された。
太平洋戦争が始まると、南方への本土最前線基地としての価値が高まった。そして昭和19年以降、アメリカのグアム、サイパン基地からの攻撃が強まり、やがて沖縄への上陸が近かろうという頃、いわゆる「特攻(特別攻撃)」作戦が開始され、九州南部から多くの十代後半の若者が飛び立って帰らぬ人となった。
陸軍は知覧基地からの特攻で、誰知らぬ人のないほど有名だが、海軍は大隅半島からの出撃が多く、鹿屋と串良の両基地から飛び立って命をささげた若人は、実は知覧より多い1270人余りである(知覧は加世田の万世基地などを合わせて1035名)のだが、残念なことに周知徹底はなされていない。
その中に「桜花隊」という「神雷部隊」に所属する一隊があり、訓練中にかの作家・山岡荘八が取材かたがた兵舎を慰問に訪れている。 戦後、慰霊碑が建立され、その碑面の字は荘八のものだ。
場所は現在の航空基地の西はずれの「野里小学校」から南へ300㍍くらいの道路脇で、森に囲まれた好ましい雰囲気の所にある。
隣りは「朝日神社」で、鳥居越しの右手に手前から、旧野里小学校校舎移転の碑・旧山下集落跡の碑、そして「桜花隊」の碑、と並んでいるのが見える。
朝日神社は祭神は不詳だが、おそらく野里地区の広大な田んぼを拓いた当地の首長の墓があった跡地に建てられたのだろう。したがって祭神は「首長・誰の誰兵衛の命」だと思われる。
鳥居の内側からは、道路の向こうに広々とした「野里たんぼ」が緑一色でまばゆいほどだ。
話を戦時中の「桜花隊」に戻そう。
「桜花」というのは新兵器のひとつで、言うならば「コバンザメ」型爆撃機で、戦闘機の下に装着して、敵艦の上空から滑空して体当たりをする飛行機であった。
自身には動力はないから、飛行機ではなく「グライダー」と言うべき代物で、実戦では55名が体当たり爆撃に出動した。
成果のほどは不明で、55名の死と引き換えにどれほど効果があったのかは分からない。
効果の分からぬ攻撃に出なければならないほど、日本は敗戦の瀬戸際に追い詰められていた証拠と言っていい。
この点から、特攻などという無謀な作戦に移る前にどうして戦争を停止(つまりは降伏)しなかったのか、そうすれば十代後半という、夢をたくさん持っていた若者を無駄に死なすこともなかったし、沖縄戦も広島・長崎の原爆もなかったはずだ――という意見を持つ人、特に若者には多いと思う。
たしかに一理はある。だが、米軍が沖縄作戦に入る前に「降伏する」という考えは、今から思えば何と言うこともなく可能でありそうに見えるが、ではもしそうしていたら日本はどうなっていただろうか?
おそらく今の朝鮮半島のように分断され、「ロシア管理下の北海道」「アメリカ管理下の本州」「イギリス管理下の九州」というように分割統治がいまだに続いていただろう。あるいは米英対ロシアの代理戦争が何度も行われたに違いない。国論も同様に二分、三分され、国民同士が血で血を洗うような状況も発生していたかもしれない。
日本のあの徹底抗戦があったればこそ、占領軍によるあなどり・侮辱も最小限度に済み、日本人の「分断化・奴隷化」が避けられたのだと思う。
また、巨視的に見れば日本が戦うことによって「欧米主導の植民地主義」が崩壊に向かい、有色人種にも平等の機会が与えられるようになったのである。結果としては悲惨な負け方をしたが、「勝負に負けて、(欧米植民地主義との)戦いには勝った」と考えることによって、特攻の若者の死は無駄ではなかったと言えるのではないだろうか。
鹿屋市今坂町の小塚公園の高台に建つ「鹿屋海軍航空隊慰霊塔」。
これには908名の隊員の名が刻まれている。
また、鹿屋市串良町の平和公園内の「串良海軍航空隊慰霊塔」には359名の隊員の名が刻まれている。
合計で1267名。
因みに全国の特攻隊士の数は
海軍が4142名
陸軍が1710名
総数 5852名だそうである。
明日は終戦記念日。
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