掛け干し(鹿屋市南町)
ここ一週間の内に早期米の収穫がどんどん行われ、今はもうコンバイン刈りではない、昔からの「掛け干し(かけぼし)」の田んぼにしか、刈り取った稲を見ることができなくなった。
比率から言うと、この頃はおそらく95パーセントの田では「コンバイン刈り」で、残りがこうして「掛け干し」という<天日干し>を行っている。
今日は朝から小雨気味で、もしよく晴れていたらハーベスターで脱穀をしていたであろう。
掛け干しのことを、ある地方では「はざ掛け」などというが、いずれにしても、クロスにして立てた二本の棒(たいていは杉の間伐材を使って、細工している)を田んぼに立て、その上に孟宗竹の5~6メートルはあろうかという長いものを乗せ、そこに刈り取った稲を二股にして掛ける。
正面(先端・後端)から見ると似ているので「馬」などと言ったりもするが、今は杉の「立て棒」も手に入りにくくなって、金属のパイプを代用にすることもある。
夏のカンカン照りなら5日、おおむね一週間を目安に脱穀作業をしてモミが収穫される。一反(300坪)でモミ540キロくらいが標準だろうか。白米にすれば300キロ強というところ。
ところで、田んぼの後ろに見える丘は「年貫(としぬき)神社」の祭られている丘だ。
年貫神社は祭神が「ニニギ尊・イザナギ尊・オオヤマヅミノ神」という、いかにも南九州らしい神々を祭る。伝承によれば、ニニギノミコトが天孫降臨後の国まぎの途中、ここで年を越されたという故事からここにニニギノミコトを祭ったのだそうだ。
神社の創建は「太古」らしいが、再興の「棟札」が現存しており、それによれば当神社の再興は、永禄9年、すなわち1566年のことと言うから、もう450年になる。
すこし下流の「樋渡(ひわたし)橋」からも正面に丘が見える。
流れは「大姶良川」で、画面右上の年貫神社の丘の手前を右から左(東から西)へ流れ、南方面からの「萩崎川」をあわせ、ほぼ直角にこちら(北)の方へ流れて来る。そして3キロほど下流で肝属川に合流する。
年貫神社の丘は、大姶良川と萩崎川によって挟まれており、歴史上、そのような丘は「聖地・最上の土地」とされていた。
年貫神社の建つあたりから、古墳時代とおぼしき土器類が多数発見されているが、このような立地条件の場所は墳墓の地としては最高であったと思われる。
また、中世から戦国時代にかけては「年貫城」があった。
穀倉地帯の見晴らしのいい丘はそこを開発した主の墓には最適の場所であり、時代が下がると防御に良いとして城(山城)が築かれるケースが大変多い。「年貫城」もそうして築かれた城である。
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