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八月踊り(肝属郡肝付町高山本町)

 去年の九月、あると思っていたら、「一年おきに開催されるので、今年は無い年だ」と知り、待つこと一年。ようやく高山町の八月踊りを見る機会が回ってきた。

 高山町の文化財審議委員のK氏に問い合わせたら、「八月踊りは確かに夜の7時半からだが、その前に水神様へ奉納の鉦踊りがあります」と言われ、予定より1時間早く家を出た。

 それが功を奏し、早目に着いてみると、ちょうど鉦踊りの一行が水神様の祀ってある祠に向かうところだった。0927kouyamahatigatuodori_001

 一行が街角にある水神祠に到着すると、水神の座元に当たる人が、一行にお神酒をふるまう。0927kouyamahatigatuodori_003

 

本町の八坂神社を皮切りに、いくつかの水神祠の前で鉦踊りを奉納してまわり、その際やはり酒をふるまうのだろう、顔を赤くしている踊り手が多い。0927kouyamahatigatuodori_004 

さあ、いよいよ鉦踊りが始まった。水神祠の前で丸く円陣を作り、太鼓と鉦の音にあわせた踊りが五分ほど舞われた。0927kouyamahatigatuodori_010

終わってから、八月踊りを見るのだが、時間が空いていたので、窪田税理事務所に立ち寄る。氏はまだ仕事中だったが、快く入れてくれた。四方山話をしているうちにもう7時半が近い。急いで本町通に向かう。

 本町通りは歩行者天国になっており、露天がいくつか出ている。子供たちの人気は風船釣りだ。

 ちょっとした広場の前に、太鼓・三味線・胡弓の楽士の乗る屋台が設えてあり、やがて胡弓の物悲しい音色と共に、踊りが始まる。0927kouyamahatigatuodori_013

出で立ちで独特なものは被り物だろう。

 菅笠だが、折を強くしてあるので顔の上半分は見えない。0927kouyamahatigatuodori_017

 八月踊りは水神様への祈りと感謝、つまり水害の無い安定した水の供給で米がよく稔るように、という五穀豊穣と平安への願いを込めた踊りである。

 肝属川流域では十五夜行事よりも盛んに行われていたが、戦後は衰退し、今でも昔ながらの番組が見られるのはここだけということで、昭和37年に県指定の無形民俗文化財に登録された。0927kouyamahatigatuodori_023

  屋台近くでは子供たちも参加して踊る。かっては青年団で溢れていたそうだが、今はこんな小さな子供までが踊って座を盛り上げている。0927kouyamahatigatuodori_033

中上がり(休憩)近くになって、昔の「お高祖頭巾」を被った女性が現れた。

 番組で言うと8番目「一つとの」(意味不明)だが、ここの踊りは総じて手を広げた際の、手首の返しに独特のメリハリがあると思った。

 休憩のあと、さらに7,8番あってお開きとなった。

 

 

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普通作の稲刈り(鹿屋市野里町)

5月中旬から6月上旬にかけて植えられた普通作の米が、収穫期を迎えている。

 鹿屋市の中心市街地からは海上自衛隊鹿屋航空隊基地を挟んで3キロほど西に行った所に開ける野里町の大津田んぼ地帯では、朝から家族連れがやって来ていた(後方の連山は高隈山)。0927nozato_006

このあたりはコンバインを使わないで、バインダーという刈り取りと束ねを同時にやる機械を使っている。

 そうなると当然、掛け干しによる天日乾燥ということになる。人によってはこの太陽光の自然乾燥の米のほうが美味いし、日持ちがすると言う。0927nozato_004

バインダーが入る箇所と残りの三箇所の角の部分を、一坪ほど手で刈り取っておく。そうしてから機械を入れて刈り取り始める。0927nozato_003

この田んぼではバインダーを2台使って刈り取って行く。

 刈り取られた稲束は機械の右手へはじき出され、地面に幾何学模様を作る。0927nozato_001

すでに一枚の田は2,3日前に刈っていたのだろう、見事に掛け干しがなされていた。

 掛け干しは普通一段に干すが、野里地区はこのように二段構えに干している田が多い。

 掛け干しに使う「立て棒」の節約のためだろう。合理的だ。0927nozato_017

 きれいに舗装された田んぼ道を向こうへまっすぐ行って突き当たり、左へ折れて大津集落入り口に架かる「大津橋」の手前に出ると、そこには立派な「田の神」が鎮座する。

 これが県指定文化財の「野里の田の神」だ。見るからに福々しい。かなりメタボ気味のタノカンサーだが、「鈴を手に持つ神舞型」としては県内最古(寛延4=1751年)なので指定されたそうだ。0927nozato_011

 野里のこの広大な大津田んぼ地帯は大隅半島に多く見られる「シラス台地を穿ってできた窪地状の田園」の典型で、周囲の高台にある集落と田んぼ地帯との境には田の神や青面金剛像、観音像などが散在する。

 吉国橋近くに鎮座するのは「青面金剛像」でその奥には首のない仏像がある。0927nozato_014

上の石造物たちとは田んぼを挟んで真反対の用水路沿いにも、アベック田の神と、上水道記念碑、用水路記念碑など一列になって田んぼを見守っていた。0927nozato_015

 アベック田の神とは用水を挟んだ集落入り口の角には、観音様らしき坐像が、古い灯篭とともに鎮座していた。

 昔は観音堂などという堂宇があったものか、住宅敷地の角が一坪ほど欠けた中にあり、ひっそりと村びとや通行人を見守ってくれている。

 台座に刻まれた文字には「文化三(1806)年」とあった。赤味がかった凝灰岩製である。

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麻生太郎総理誕生

 戦後の九州出身では3人目の内閣総理大臣が誕生した。吉田茂の孫・麻生財閥の御曹司、ご存知麻生太郎だ。

 毛並みの良さの割には「舌禍」が多く、自民党本流からは支持されにくかったタローが、去年の安部政権投げ出しと全くよく似た福田政権の退陣によって、ようやくお鉢が回ってきた。

 小泉・薩摩―安部・長州―福田・上州―麻生・?という流れだが、麻生氏は祖父・吉田茂から言えば土佐なのだが、気性的には玄界灘の荒波だろうから、やはり小倉藩、つまり筑前か。

 九州出身で先に総理になったのは本籍が熊本の細川護熙と大分の村山富市の二人だったが、どちらも本人のやる気よりも、わけの分からない危ういバランスの中で就任したので、ほとんど印象に残っていない。

 今度のタローは福田首相が投げ出したという僥倖で総理の座が転がり込んだと言うより、満を持して登場したという感が強い。本人の口から新閣僚を発表するという異例の意気込みで記者会見に臨んでいたが、大臣の紹介と総理としての期待感を述べる口ぶりは、立て板に水そのものだった。

 九州発初の「本格政権」に成るや否や、去就が問われよう。

 もっとも衆議院の解散総選挙がすぐそこに控えており、本格的なことをやる前にあの老練かつ粘り腰のイチローこと小沢一郎にしてやられるような気もして、短命で終わる可能性もある。

 イチローは東北は岩手の出身で、戦後の岩手出身の首相には鈴木善幸がいる。面白いことにこの鈴木の娘がタローの嫁だ。何とも妙なつながりがあったものである。今はこういう言葉は使わないが「閨閥」をフルに使えば、タローは岩手を味方に付けることができるかもしれない。

 アメリカの大統領選挙も混沌としている。あちらは民主党のオバマが勝てば、初の黒人系大統領、共和党のマケインが勝てば初の女性副大統領が誕生する。

 タローの言うように「日米同盟を強固にする」のであれば、共和党政権のほうがいいだろうが、予断は許さない。案外アメリカ国民は、野球でおなじみの「イチロー」のほうを喜ぶかもしれない。これも予断は許さない。

 

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笠之原十五夜大綱引き大祭(鹿屋市笠之原町)

 13日の土曜日、満月の日に開催予定だったのが雨で一週間延期になった笠之原の十五夜大綱引きが、今日20日の夕方から行われた。

 5時に仕事が終わって急いで見に行くと、まだ明るい笠之原公園では子供の相撲が始まっていた。0920kasanoharaootunahiki_009

小学校の低学年から高学年まで、女の子も参加するのは大相撲と違うところだ。0920kasanoharaootunahiki_012

土俵が砂ではなく藁だったのには驚いたが、なるほどこれならどんなに転んでも怪我はすまい。0920kasanoharaootunahiki_007

土俵のそばに大綱がとぐろを捲いていた。一週間前に見たときは雨よけのシートにくるまれていたので分からなかったが、カズラの棒のような物が出ているのは、ちょうど蛇(竜)の長い舌に見立てたのだろう。

 錦江町の田代で、大綱とは別に小綱を練り、このようにとぐろを捲かせて十五夜お月さんに向けてお供えしていたのを思い出した。0920kasanoharaootunahiki_020

相撲をやっている傍らで、法被を着た祭りの役員たちが、とぐろを崩してまっすぐに伸ばしたあと、皆で半分ずつ綱をごろごろくるくると押し始めた。

 聞けば、撚りを掛けているのだという。撚りを掛けることで大綱を引き締め、皆で引いたときに引きちぎれたりするのを防ぐのだろう。

 長さ70メートル、太さ45センチ、重さ1500キロだそうで、なかなか大変な作業だ。

 綱の芯に3年生以上の「藤カズラ」を入れ、藁で作った三本の太い縄を、ちょうど髪の毛の三つ編みのように編んでようやく直径45センチの大綱が出来上がる。完成まで6日を要したというから並大抵ではない。0920kasanoharaootunahiki_022

そのうちに、三台のクレーン付きトラックの荷台をぴっちり併せて設えた舞台では、演芸が始まった。0920kasanoharaootunahiki_024

 どこにでも芸達者はいるもので、綱引きが始まるまでの一時間、登場した7~8人の芸人はすべて笠之原産だった。

 そして7時。いよいよ綱引きの開始だ。0920kasanoharaootunahiki_025

綱の中央のお立ち台に立った行司(判定員)がマイクで右左どっちでもいいからスタンバイせよと声を掛ける。

左右の引き手をあらかじめ決めておくことはしないようだ。「上班が勝った、下班が負けた」というような集落を二分するような勝ち負けはどうでもよいということなのだろう。

 それもひとつの見識だ。

 常日頃はホラなど吹いたことが無いという「法螺吹き名人」の合図でいよいよ開始。0920kasanoharaootunahiki_029

それ、引け!0920kasanoharaootunahiki_030

最後尾が踏ん張っているぞ!0920kasanoharaootunahiki_046

三回の勝負で、行司の右手側が2対1で勝ったようだ。だが、どっちも万歳で終わったのは祭礼の奥ゆかしさなのだろう。

 ところでこの笠之原は江戸時代には「壺屋」と呼ばれ、朝鮮からの陶工の移住地だと言ったが(9月13日のブログ)、鹿屋市史によると「宝永元年=1704)から翌年にかけて、薩摩半島の苗代川から陶工たち80戸160人を移住させた」そうだ。

 移住して間もなく付近にあやしい光を見るようになり、占うと、それは故地の苗代川の鎮守社「玉山神社」の神霊だというので、感激して祭ったのが笠之原の「玉山神社」なのだそうだ。0920kasanoharaootunahiki_001

立派な赤鳥居の奥200メートルのところにコンクリート製の同じほどの高さの鳥居があり、そこから石段を30段も上がったら玉山神社の拝殿と本殿。0920kasanoharaootunahiki_005

こざっぱりとした造りの拝殿の奥に、本格的破風造りの本殿が見える。

 境内地には古い祠があり、確かにそれには「宝永四年=1707」が刻まれている。

 祭神は朝鮮建国神話に基く「檀君(ダンクン)」で、『三国遺事』という13世紀の書物によれば、天から朝鮮東北部の名山「太白山」に下った桓雄と熊との間に生まれた王である。

 その時期が13世紀をさかのぼる2000年前というから、約2800年前だ。かっての神武天皇が2660年前なので、面白いことにかなり近接している。

 また、かの箕子が殷王朝末期の紂王の暴虐を逃れて朝鮮に奔った時代にも近い。大陸ー半島ー列島とをつなぐ壮大な歴史を秘めている――などと言えば笑われるのが落ちだが、考えて引き出しに押し込んでおく分には構うまい。

 

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台風一過(13号台風)

0919taifuu13gouikka_001 18日の4時ごろから強風域に入ったらしく、雨風共に台風を思わせるようになった。

 今年初めての台風が過ぎた明けて今日19日、雨戸を開けてみて胸をなでおろした。

 横倒しになっていたのは大株のセロシアと0919taifuu13gouikka_004

 コスモスくらいだった。0919taifuu13gouikka_002   もっとも、畑ではオクラなんぞが、まるで尾羽打ちしおれたようになっているし、後ろの棚に絡んでいた苦瓜は、あられもなく裸同然の姿にになっている。

 この980hPaという愛すべき小型台風が、7月ごろに来ていれば、植物ながら彼らも学習して、台風への対処の仕方も会得していただろうが、何しろ今夏初めての台風だ。

 何だか訳の分からぬうちに真っ暗闇の中で風雨に揉まれてしまったに違いない。0919taifuu13gouikka_008

午後から出かけた吾平町で、町の東はずれを流れる姶良川を見ると、今現在、見た目でいつもの3倍くらいの水量になっている。

 昨夜の7時過ぎだったか、鹿屋市から「吾平下名東地区に避難勧告」が出されたと放送されたがが、その時は写真右手の草が倒れているところまで水位が上がったのだろう。

 見た目で現水位よりさらに人の背丈ほど(1.5㍍)上がっていたようだ。0919taifuu13gouikka_009

上流側を見てもその水位上昇の跡がよく分かる(くすんだ緑になっている草のところまで)。

 奥に見えるのは姶良川の源流地帯「八山岳」連山だが、おそらくそこでの24時間雨量は400ミリ位なものだったろう。

 同じ13号台風といえば、平成5年の9月2日に大隅半島に上陸したのを生々しくを思い出す。

 あの13号台風は薩摩半島南端をかすめた時の勢力が920ミリバール(hPa)という強烈なもので、大隅半島を横断した際に、農業用のビニールハウスや送電線の鉄塔をなぎ倒したとんでもない台風であった。

 私共一家はあの夏に錦江町田代町大原地区に「入植」したのだが、13号台風の時に生まれてはじめての「避難所生活」(と言っても一泊だけだったが)を送ったのだった。

 納屋は倒壊し、その後、2週間の停電や屋根の雨漏りかれこれに悩まされたのだが、年の終りごろになってもまだ屋根にブルーシートを載せている家が多く、「まるで避難民キャンプだ」と言い合ったのを懐かしく思い出す(このとき初めて災害義捐金なるものを貰っている)。

 その平成5年の夏は梅雨が明けずに、雨、雨、雨で、特に8月6日は世に言う「8・6水害」で日雨量1000ミリを越え、国道3号線が川と化して、人が溺れ死に、鹿児島湾岸の御船地区では山津波で電車が呑み込まれて完全孤立し、海上自衛隊艦船が救出に出動したという類稀れなひと夏であった。

 この吾平東地区でも、あの年は水田が水につかり、大きな被害を出している。田代で平年作の6割であったというが、ここも大同小異だったろう。

 平成8年、災害を乗り越えて吾平東地区の水田地帯は見事に生まれ変わった。姶良川と広大な田んぼ地帯の間に、その完成を祝う碑が建つ。名付けて「農魂の碑」という。0919taifuu13gouikka_010_2

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雨のおかげで・・・

小雨ならやるという話を聞いていたので、行ってみたが、残念ながら延期という看板が立てられていた。

笠之原地区の「十五夜大綱引き大祭」である。

 笠之原公園の中は、もぬけの殻といった感じであった。しかし大綱はしっかりと準備されていて、広い公園の片隅に、肝心の萱(カヤ)の部分がぬれないように延々と白いカバーが施されていた。この余分な仕事が結構たいへんだっただろう。0914tunahikinojunbi_002

 テントは分かるが、パワーショベルは何のために置いてあるのか・・・。

 周りに人がいなかったので聞けなかったが、もしかしたら白いカバーの取り付けの時に綱を持ち上げて、カバーを巻き付けやすいようにしたものか・・・案外正解かもしれない。

 それにしても長い綱だ。40メートルはあると見た。

 来週の土曜日(20日)が、楽しみだ。

 ところで笠之原地区は藩政時代の享保の頃(1710年前後)に、薩摩半島の東市来町美山にいた朝鮮半島系の陶工たちの分れが移住して住んだ所で、時代が変わっても戦前までは「壺屋(地区)」と呼ばれて区別されていた。

 そこに綱引きを見に行くと友人に話したら、「え、カサンバイですか。あそこは・・・」と語尾を濁すような返事。「知っているよ、それは」というと、「私の父親の時代までは朝鮮人差別的な雰囲気があって、あそこの者とは付き合うな、といった風に言われていましてね・・・」。

 カサンバイ――とは笠之原の鹿児島弁で、これはもうとっくに耳に親しいが、朝鮮人差別に関しては耳に突き刺さる。「今は、・・・そうじゃ、ないですよ」と友人。でも歯切れは悪い。

 東京に行き、子が生まれ、孫が生まれすると、孫はもう立派な「江戸っ子」だというのに、出自の民族が違うと300年経ってもそんな風に土地にとってはよそ者呼ばわりされ続けるとは、何とも切ないものだ。

 国際化、グローバリゼーションの時代と言われても、ローカルではこんな問題もある。「内にきびしい」国際化は結局、外に対しては「盲従」ということになり兼ねない。ここは歴史的相対性理論で乗り切ろう。

 ――人種(出自・民族)なんて、相対的なものでしかない。

 と。

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大相撲を再検討せよ

 ロシア系の力士3人、若ノ鵬、露鵬、白露山が大麻の吸引により解雇された。

 その責任を取って(財)日本相撲協会トップの北の湖理事長が辞任した。当然と言えば当然、白露山は北の湖部屋の力士であるから、まずは自身の親方としての監督責任があり、本来なら親方としての進退にも言及されてしかるべき問題だ。

 だが、理事長の職を辞するだけで済ませるようだ。まあ、いまどき、外人力士の存在がないと大相撲もやっていけないので、むしろそういう力士を育てています、ということが、相撲部屋の親方としてはステータスが上がり、多少の悪事も必要悪、というご時勢なのだろう。

 情けないことだ。いまさら「心、技、体」と言っても始まらないが、しかし多くの(本物の)相撲ファンが期待しているのは、勝ち負けにこだわらず正々堂々と一心不乱に取るという「けれんみのない」取り口のはずだ。

 勝ち負けにこだわらず――と言ったが、勝敗によって昇進か転落かが決まるのだから、勝つに越したことはない。ただ、逃げの手や卑怯な手では勝って欲しくないのが(本物の)相撲ファンであろう。

 その大前提として「相撲は神事」というのがある。神々に奉納する相撲――だから、そう見られるようになった。その具体的な由来ははっきりしないが、少なくとも「相撲の節会(せちえ)」が恒例化した平安時代からであることは間違いない。

 それより古い『日本書紀』から相撲記事を拾うと

    当麻の蹴速(けはや)と出雲の野見宿禰とが、相撲(原文では角力)を取り、野見宿禰が勝った(垂仁天皇7年)

    采女を集めてふんどしをさせ、皆の前で相撲を取らせた(雄略天皇13年)

    健児(ちからびと)に命じて、堯岐(ギョウキ=百済からの使者)の前で相撲を取らせた(皇極天皇元年)

    秋七月三日、隼人多く来たりて、方物を貢ぐ。この日、大隅隼人と阿多隼人とが朝廷に相撲を取る。大隅隼人が勝った(天武天皇11年=682年)

 などがあるが、最後の天武天皇11年七月三日の「朝廷に相撲を取る」というあたりが、「天覧相撲」的なものを思わせる。このころに今日まで続く神事的な相撲の萌芽があったと見てもいいようだ。といってその行事が具体的にどんな内容のものであったかは不明である。

 私見では、このような神事を担った「相撲」はたんなるスポーツではなく、したがって大相撲を目指す子供は中学、もしくは高校、大学を出て、いきなり親方の相撲部屋に入門させるのではなく、「相撲学校」というような機関を作り、まず希望者をすべてそこに収容した上で、「神事としての相撲」を学ぶ機会を与えるようにする。

 まず3年ぐらいは、相撲取りとしての心構え(心)、技量(技)、体力(体)の基礎を作り、希望者はそこから高校、大学などに進学できるようにすればよい。その後(卒業後)、はじめてそれぞれの相撲部屋に所属し、これまで通りの相撲界に入るようにする。

 ここまではもちろん「コテコテの伝統相撲(神事に基く相撲)」の世界で、これは今まで通りの日本相撲協会が担任・運営する。

 私見では、これに加えて「国際相撲協会」を日本主導で設立し、世界のスモウ・レスリングに発展させる。神事抜き、相撲部屋抜き、それにマワシ(ふんどし)はやめて、擬似ふんどし(マワシ付きパンツ)なるものの使用を認めればよい。要するに、純粋にスポーツとしての相撲を構築する。

 以上のように、相撲を「神事としての伝統相撲」と「勝ち負けのみのスポーツとしての相撲」とに完全分離し、それぞれを継続・発展させれば、本物の伝統相撲ファンもほっと安堵するだろう。

 因みに、今月14日は旧暦の8月15日。あちこちの集落で「神事相撲」の元祖・隼人の後裔たちが、十五夜綱引きの神事に引き続いて「十五夜大相撲」を披露してくれるはずである。

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獅子目田んぼ(鹿屋市田淵町)

6月13日に植えられ、約一ヵ月後の7月15日に見に行った獅子目地区の田んぼ。

7月15日には好天気の夏日の中、青々と茂って伸びていた。0715kometosatumaimo_002

さらに一ヵ月半を過ぎた今日の様子がこれ。

 すっかり実が入って、穂が垂れて来ている。色もいくらか黄ばんできた。

 収穫は来月の半ばだろう。台風さえ来なければ、豊作間違いなしと見えた。0906shishimetanbo_002

 向こうにかすんで見えるのが陣ノ岡で480m余りある山だが、名前の通り、戦国時代に肝付氏と戦うべく南からやって来た祢寝(ねじめ)氏が陣を構えたという。

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獅子目田んぼから見た「志々目城」のあった小山。田んぼに囲まれているのどかな城址だが、南北朝時代に「志々女氏」によって築かれた。

 氏名は「志々女」だが、城名は「志々目城」と書く。だが、今では「獅子目地区」だ。

 地名の音自体は変わらないが、表記の漢字は相当に変わるという典型的な例がこれである。

 だから漢字に囚われると、とんでもない地名解釈になってしまう。

 志々女氏は鎌倉中期の頃、当地に島津荘の一荘官としてやってきた富山氏の流れをくむ。ほかに大姶良氏、横山氏、浜田氏などが同族で、それぞれに居付いた地域の地名を名乗っている。大姶良、横山、浜田などは今日でも全く変わらず使われているが、志々女に限ってはずいぶん変遷している。

 その理由は、そもそも「ししめ」という不可解な名称にあるのだろうが、意味するところは謎である。似たような語感の「ねじめ(根占)」を、私は「内侍女(ないしめ→ねしめ→ねじめ)」からだろうと考えているのだが、それじゃあ、同じ由来かと言われると、「ねしめ」と「ししめ」では「ね」と「し」という、転訛としては大きすぎる違いがあるので、今は何とも説明がつかないでいる。

 まあ、楽しみに取っておこう。0906shishimetanbo_007

 志々目城跡の写真を撮ったあたりの道端に、何と「四等三角点」という真新しい標柱があった。一等から三等まであるのは知っていたし、それぞれ見たこともあるのだが、四等は初めてだ。

 ちょうど県道と集落道との分岐に当たるところで、道に近いところには明治42年に建てられた「耕地整理記念碑」がある。0906shishimetanbo_006

サイトで調べたところ、四等三角点はほかのと違い、「地籍測量専用に使われる基準点」だということが分かった。

 なるほど、ここ1,2年、史跡調査で野山を歩くと、あちこちで竹に挿したちいさな赤いビニール製の旗のような物を見るわけだ。

 基準点となる三角点の標柱は10センチ角くらいの大理石製で、立っているのではなく、埋め込まれていた。さらにその周りをコンクリートでがっちりと固めてある。

 「大切にしましょう三角点」のフレーズが効いている。

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天気、異常あり

9月に入り、ようやく梅雨から抜け出た気がする。

そのくらい8月は雨が多かった。

 鹿屋では――おおむね鹿児島全体の傾向でもあったが、4月が多雨、5月は晴れの日が多く、6月は近年にない「梅雨らしい梅雨」で、少し早く明けたなと思ったら、7月は一転して快晴続きの猛暑、そして8月は雨、雨、雨の毎日。一ヶ月ごとに雨季と乾季が交代したような塩梅だった。

 その伝で行くと、この9月は「乾季」だが、どうだろうか。台風を気にしないで済む天気なら、乾季でも雨季でもどっちでもいいが、そうは問屋がおろすまい。11月初めに来た台風もあるから油断禁物。

 それにしても、東日本の豪雨は猛烈だ。まさに言葉の正しい使い方の「集中豪雨」が、あちこちで繰り返された。本家本元、西日本の太平洋側の降り方が引っ越して行った感じがする。

 いや、感じがしただけではなく、もしかしたら本当に東日本が西日本の天候に変わりつつあるのかも知れない。7月に入り、こちらが早い梅雨明けでかんかん照りの頃に北陸での集中豪雨があったと報道されたとき、

 「梅雨末期の(人が死なないと終わらない、と言われている)鹿児島の豪雨が、向こうで降っているじゃないか!」

 と、思ったものだ。

 しかも、それが一過性のものではなく、次々に、まるで連鎖反応のように東日本各地で起こっている。2ヶ月たった今も、まだそれが続いているといってよい。「ゲリラ豪雨」と名づけられているが、言い得て妙だ。

 しかし、言い得て妙だ、などと感心してはいられない。私には何かの前触れに思えてならない。それは――

 天変地異の前触れ――だ。

 天変地異といえば、日本列島では政府公認の「東海、南海における海底トラフのひずみの解消」つまり「東海大地震」「南海大地震」が喫緊に迫っていることがあげられる。地震学者や物の本ではそれが「いつ起きてもおかしくない時期に入っている」そうだ。

 だから、明日起きたとしても、なんら不思議ではないし、天罰でもない。

 しかし「天気」とは中世の古文書では「天皇の御気(ご機嫌)」を表す言葉だ。中世、天皇制は衰微・疲弊したとは言え、それでも天皇は神事を司る精神的支柱であった。つまり物質的(現世的)な実力はないが、神々に通じる「何か」を体現した存在としては尊重されていたのである。

 天気が異常――と言うことは、その意味では神々の警告に他ならない。天変地異の前に、神々が、「もうすぐやって来るから、心しておくように」という知らせを、誰にでも分かる「ゲリラ豪雨」という形で示して見せた――ととってもいいように思われる。

 とくに雨は水であるわけで、水と言えば「禊(みそぎ)」とつながってくる。

 そう捉えると神々が人々に、「今度の天変地異は特別であるから、到来する前に、禊をしておきなさい。そうすれば天変地異の際に、生き残って全てを失ってもうろたえることなく、死んでもうろたえることが無いだろう」とゲリラ豪雨によって教えてくれているのでは、と思えてくる。

 ここまでは私の勝手な思い込みかも知れぬが、とにかく「東海大地震」「南海大地震」(学者によっては二つが同時にと言う人もいる)が間もなくやって来ることは衆目の一致するところで、そこをどう生き延びるか(あるいは他界するか)は、結局は人それぞれの対処法と心に懸かっている。

 

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