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UFOな雲

肝付町の窪田税理士http://blog.taxlawfirm.jp/の愛猫の死を悼みます。

そのこととは無関係と思われるが、昨日(29日)の夕方、奇妙な雲が我が家の東南方向に現れた。1029yuufookumo_004

 まるで巨大な「フライング・ソーサー」ではないか。

 家に帰る途中では、西日が当たって、オレンジ色に輝いていたので、まさしくUFOを連想させていたのだが、急いで家に入りカメラを向けた頃にはご覧の通り、灰色の皿に化していた。1029yuufookumo_001

割合、風が強かったのに、この雲はなかなか型崩れしないで、30分は同じ位置に留まっていた。

 西の空にやや雲は多かったが、南から東にかけてはこの雲が浮かぶだけだった。1029yuufookumo_002

東側を拡大して写す。

皿の上の部分だけだったら、そう珍しくはない形だが、下からくっついている「高台」の逆三角形は珍しい。1029yuufookumo_003

西側の半分。

三十分後の6時過ぎ、雲は東北に向かって、どんどん伸びていった。

どうも無気味だ。「雲占い」なんてあるかどうか知らないが、東北方向に、何か起こらねばいいが(金融危機はもう起きたが)・・・。

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指宿の史跡を巡る(指宿市)

指宿の研修会に出席したあと、翌24日は休みを取り、一日を史跡巡りに当てることにした。家内の実家に一晩厄介になり、翌朝墓参りを済ませてから出かけた。

 指宿と言えば、今は篤姫ブームで大いに沸いているが、それには目もくれず、どうしても史的に確認しておきたいことが3つあった。

 1 縄文時代草創期に属する「水迫式土器」「岩本式土器」の出土地の様子。

 2 日本最南端の「弥次ヶ湯古墳」の発掘地の状況、および、やはり日本最南端の「円     形周溝墓」の発掘地の状況。

 3 幕末日本最大規模の海運業者「濱崎太平次」の造船所跡などの確認。

 1は、最古級の土器2種類に、指宿の土地名(字名)が冠せられていること。つまり最初の発見地であったのが指宿だったという驚きが根底にあって見ておきたかったし、

 2は、鹿児島(錦江)湾岸に限れば、古墳も周溝墓も初の発見であるということで確認したかったし、

 3は、一般的に言って、日本は四界環海の列島だと強調されながら、その海を舞台に活躍した海運(業者)については、歴史上取り上げられることが少なく、遺構も残っていないことが多いが、濱崎太平次の件ではどうなのか、

 そんな理由があってのことだ。このどれもが大きなテーマであって、とても一日のスケジュールに収まるものではないが、うれしいことに指宿には「自遊館coccoはしむれ」という調査の便宜には貴重な考古学博物館がある。1024ibusukinosiseki_084

古代ローマの円形建造物を思わせる博物館には、昨日の研修会後に学芸員の渡部氏にいろいろ質問し、場所や概要などを聞いておいた(このあとに登場する土器などの展示物の写真は、同氏の撮影許可を頂いたものである。無理をお願いしてしまったが、感謝申し上げたい)。1024ibusukinosiseki_052

史跡めぐりの第一歩は、何と言っても「橋牟礼川遺跡」

 博物館からほんの1分ほどの南寄りにあり、真ん中に小川が流れる史跡公園だ。折りしも篤姫で有名な今和泉小学校の3年生が遠足に来ていた。

 ここは、ここで発掘された土器の地層の上下関係から、弥生式土器と縄文式土器の時代的な区分がついた、という、考古学的には貴重な遺跡なのだ。1024ibusukinosiseki_005

橋牟礼川遺跡から、どう回ろうかと思案したが、時代順がよかろうということで、まずは最古級の土器が発掘された「水迫遺跡」を目指した。

 指宿市街地を貫く国道225号を北へ、二月田駅を過ぎて1キロ余りで田口田交差点を左折し、道なりに行くと、どんどん上り坂になっていく。2キロも走ると右角に大きな民家のある四辻に出会うからそれを左折する(写真では軽乗用車の向こうに入って行く)。1024ibusukinosiseki_002

四辻から標高差にして100メートルくらいは登っただろうか、前方左手に牛小屋が見えると、その手前30mくらいの所に杉が5,6本固まって生えているが、そのすぐ下手が遺跡だ。最初は道の遺構(人工の道)が発見されたらしい。

 その後の調査で、15000前の住居跡が見つかり、さらに土器も確認された。1024ibusukinosiseki_064

水迫式土器(破片だが、Ⅰ類とⅡ類に分類されている。Ⅰ類の方がより古い。おおむね11400年前あたりに比定される。)

 (写真はCoccoはしむれの許可を得て写した物。以下、展示物については同様なので断り書きは省略する)1024ibusukinosiseki_072

完形のレプリカはこれ。

 (解説カードにある11400年前というのは、桜島由来の薩摩火山灰噴出の年代で、水迫式土器はちょうどその火山灰層に包含されていた)

草創期、早期の縄文土器はほとんど水迫のような山の中(標高170m)や尾根のような所で見つかっている、というが、そういう所は火山灰の層が薄くて発見され易くなっているためなのか、それとも人が住み着き易く多かったのか、海水面が上昇していたのか、・・・そのあたりがよく分からない。1024ibusukinosiseki_008

次に向かうのは水迫式土器よりは1000年くらい新しいとされる「岩本式土器」の最初の発見地・岩本地区だが、その通り道にある「横瀬遺跡」を見ておこうと立ち寄る。

 水迫から元の四辻に戻り、そのまま広い道路を横切っていく。やや下り坂になり、別の四辻を突っ切るとそのあたりが横瀬地区だ。そこにいた高齢者に聞くと「横瀬は確かにここだが、遺跡は知らん。遺物が出たとも聞いておらん」と言う。「鏡の破片が出たそうで、何かお宮のような物がありませんか?」と訊くと、「ああ、そいなら、そこに神社があっど」

 畑に上がると、確かに青い屋根の倉庫の横に小高い丘がある。そこが神社で「秋葉神社」だそうだ。行ってみると直径15メートルほどの、どう見ても人工的な丘である。畑の真ん中だから古墳の可能性は少ないと思うが、大隅半島の大崎町の内陸部に原田古墳という周囲が100mもある大きな円墳が実在するから、あながち否定はできない。1024ibusukinosiseki_066

横瀬遺跡から出土したという「変形過文鏡の破片」と朝鮮半島の「漁陰洞遺跡」(慶州)出土の「過文鏡」(右)。

 とてもよく似ており、半島との繋がりが想定できる遺物だ。ただ、弥生時代の鏡であるから、今しがた述べた古墳状の「秋葉神社」とは時代が違うので、別個に考えねばなるまい。1024ibusukinosiseki_022

横瀬からは北へ北へと集落の間を抜けてようやく、今和泉のお寺の前の国道に出た。国道をさらに北上すれば、観光客がちらほら見える今和泉駅前を通り過ぎ、右手に指宿商業高校を見て進む。

 と、立派な松林が点々と続くうちに、前方に「道の駅・観音崎」が見えてくる。そこの信号の一歩手前に左へ上がる道があるので、左折する。少し行くと指宿・枕崎線の踏切に出るから、渡ってなおも登っていく。1024ibusukinosiseki_017

登りついた所が「岩本台地」だ。広大、と言うほどではないが、かなりまとまった平坦地が展開する。指宿の温暖地らしく、ソラマメ・オクラ・レタス・キャベツ・絹さやインゲンなどなど、作られている野菜の種類は豊富である。

 「岩本式土器」はここの灌漑工事中に見つかった。10000年前の縄文早期でも早い段階の土器で、水迫式土器に続く物か、とされる。1024ibusukinosiseki_073

完形のレプリカがこれ。

 平底で上縁部に凹凸と貝殻施文があるだけのシンプルな模様で、ちょうどバケツの形をしている。

 鹿児島では一様に出土しているが、平成10年頃、錦江町田代川原の鶴園地区の山中で、狭い範囲に一度に十個体が発掘された時は、唖然としたものだった。1024ibusukinosiseki_014

台地から同じ道を国道へ降り、今度は南下(右折)して「弥次ヶ湯古墳」「南摺ヶ浜遺跡」を目指す。

 ところが途中通過する宮ヶ浜地区がすごいことになっていた。と言うのも、国道沿いの旧商店街が「登録有形文化財(国)」に指定されたというのだ。

 確かに、文化財級の古民家が多い。1024ibusukinosiseki_011

丸十百貨店などはいまだに現役だ。店の右隅の郵便ポストが、例の古いタイプだったら、まさに絵になったろうに、惜しい、と思うのは私だけか。1024ibusukinosiseki_012

左の農機具店は、よく磨かれた木製のガラス戸の中に、デパートの食堂のメニュー見本よろしく、トラクターから耕運機まで並べてあった。

 古いバイク屋なら、そんな光景がままあるが、トラクターがガラス戸越しに鎮座している商店など、見たことがないので驚いた。商店の気風か伝統か、奥ゆかしさを感じる。1024ibusukinosiseki_024

弥次ヶ湯古墳は指宿市役所の前の道を指宿駅方面に向かい、犬猫の「砂蒸し温泉治療」で有名な「黒木動物病院」の少し先を右折した所にある。

 新しく市営団地を造っている時に、火山灰堆積層の下から見つかったという。火山灰のパックがなかったら、水田耕作などでかく乱されてしまっていただろう。1024ibusukinosiseki_023

再び土で被覆し、古墳と分かるようにマウンド状にしてある。マウンドの上には説明タイルが置かれている。

 今の所、日本最南端の古墳(円墳)で、築造年代は5世紀後半から6世紀前半という事である。1024ibusukinosiseki_045

次に向かったのが、これまた日本最南端という「円形周溝墓」が発見された「南摺ヶ浜(すりがはま)遺跡」。

 摺ヶ浜と言えば、指宿温泉街でも最も賑わう、温泉地らしい界隈だが、そこに向かって岩崎観光ホテル入り口の信号から浜への太い道が造られつつある。この造成中に円形周溝墓が見つかった。1024ibusukinosiseki_046

周溝墓は弥生時代の墓で、薩摩半島では初めての出土。大隅半島なら志布志市松山町の京ヶ峰遺跡では、20基も見つかっているから、そことの関係だろうか?

 ただ松山町は内陸部の台地であるから、環境は大いに異なる。

 遺跡の向かいの秀水園はプロの選ぶホテル百選のトップクラスの常連だそうだ。1024ibusukinosiseki_030

さて、考古学の対象である最古級の土器出土地と、日本最南端の古墳および周溝墓の出現地の確認は終えたので、最後に、時代はぐっと新しく、幕末の偉人探索モードに切り替え、市街地中心部に向かった。

 偉人とは海運業者「濱崎太平次(8代目=1814~1863)」である。まずは生誕地。現在はNTT指宿局が建つ。1024ibusukinosiseki_026

生誕地碑の建つ筋を、NTT指宿局の壁沿いに行き、四辻を右折すると広い公園に突き当たる。旧専売公社跡地に造られた公園である。

 その公園の一本道路を隔てた左手に、「みなと児童公園」がある。人家が公園に迫る一角にあるのが「第八代太平次の墓」だ。案内板が無ければ、気がつく人は少なかろう。それほどの片隅に鎮座している。

 説明によると、濱崎家の代々の墓は片野田の市営墓地に移したが、第八代だけはこの地とのゆかりが強いので、一基だけ残したという。1024ibusukinosiseki_040

生誕地跡から、港へはほぼ一直線だ。きちんとした町割りは当時からのものなのか、歴史の香りのする町並みを抜けるとそこは指宿新港で、付け根に漁協のある新しい波止場。

 先端に行くと「太平次公園」になっており、大きな銅像が見下ろしている。銅像の立派さに比べると、墓のつつましさが気になるほどだ。1024ibusukinosiseki_041

新波止場から見る生誕地方面。

手前の海沿いの人家あたり一帯が濱崎家の「造船所」だったようだ。広さは7反(2100坪)あり、一度に三隻の帆船を造る事ができたという。

 一隻で最大が33反帆という。石数で言うと「千五百石」つまりメートル法では210トン積みの船ということになる。1024ibusukinosiseki_038

20万トンもある現代のタンカーとは比ぶべきもないが、推進力が帆と人力だけだった時代、200トンを荒波に沈めるわけには行かず、航海には大変な力量を必要としただろう。

 そんな海の交易が幕末の薩摩藩財政を大きく支えていたことは忘れられがちである。

(写真は潟口港。右手の石積みは当時の物。向こうの山は魚見岳)1024ibusukinosiseki_033

曽祖父「湊太左衛門」が建立した稲荷神社。

 濱崎家は江戸時代の初め頃は国分八幡神社の神職だったが、わけあって指宿に移住し、海運で名をなした。とりわけ太左衛門は、寛政年間に全国長者番付で西の大関になっている。

 こんな神社建立はお手の物だっただろう。1024ibusukinosiseki_036

神社の裏手に回ると、大きな記念碑が二基も建っている。

 右側のは由来書きで、内容は濱崎一族の海運の隆盛と、薩摩藩への貢献をうたったもの。撰者は大久保利通の孫・利武。昭和7年の建立とある。

 これだけでも確かに偲ぶよすがにはなるが、証拠の残りにくい海運は、弥生時代の昔からの活躍がありながら、歴史の表舞台から消える一方だ。心して記憶に留めておかなければなるまい。特に、鹿児島の歴史は、「海からの視点」を採り入れなければ、解明は困難なのだから・・・。

  

 

 

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鰻温泉(指宿市山川町鰻)

指宿で職場の研修があり、早く終わったので、鰻温泉まで足を伸ばした。20年近く前、指宿に住んでいた頃に、3回くらいは行った記憶があるが、このところとんとご無沙汰していたので、行ってみることにした。1023unagionsen_010

指宿からは国道225号線を開聞岳方面を目指し、成川トンネルを抜けて、県立山川高校を左に見たら、間もなくある信号を右折する。

途中から見えた竹山。独特のとんがり帽子だが、あそこには天狗が住んでいるという伝説がある。とんがり帽子を天狗の鼻に見立てたものか。1023unagionsen_009

いつ来ても神秘的に見える鰻池。

池田湖に怪獣「イッシー」がいるなら、ここには「ウッシー」がいてもおかしくはない。

白い建物の向こうに鰻集落がある。1023unagionsen_007

鰻温泉と言えば、西郷さん。征韓論に敗れた西郷は明治6年に郷里鹿児島に隠遁して以来、県内中の温泉に療養と狩猟を兼ねて出かけている。

鰻温泉での定宿は家村家で、湯治とうさぎ狩りに日を送ったらしい。1023unagionsen_008

維新の功臣の一人で、征韓論後に同じく下野して郷里佐賀に帰ったのが江藤新平だった。江藤は反政府の佐賀の乱を起こし、形勢不利となったので、西郷にも決起を促しにこの鰻温泉までやって来ている。

二日間の説得に、西郷は応じなかった。江藤はあきらめて日向路を逃げ延び、土佐に入ってから官軍に逮捕された。どうせ西郷も立った(西南戦争)のだから、その時一緒に行動すればよかった――という考えもあるが、もし立っていたら完全な内乱になり、国内は疲弊し、ただでさえ危うい欧米との関係の均衡が破れ、日本は彼らの草刈場になった可能性が高かったろう。1023unagionsen_004

こぢんまりとした「鰻地区区営温泉」。

西郷さんの逗留した家の3軒ばかり下にある。入浴料200円也を払って入り口を入る。1023unagionsen_001

脱衣所に張り紙がある。

何の小鳥だろう。青い鳥ならいいが、借金取りは困るぜ・・・。1023unagionsen_003

20年ぶりの浴室は総タイル張りでなかなかの物。

以前は床も湯船も総コンクリート製だったと記憶する。壁も木張りではなかったか。ただし湯船は二つあった気がするが・・・。

湧出温度は88.8度。pH6.4という高温の酸性泉で、皮膚病系にはよく効くようだ(もちろん適温にしてある)。1023unagionsen_006

湯を出てから、裏手の泉源に回ってみる。

硫黄のにおいと立ち昇る湯煙。右手が区営温泉の建物、奥の二階建ては湯治客用の民営の温泉だ。1023unagionsen_005

民家の庭先に引かれた泉熱の高温蒸気。

ここでは「スメ」と言っているが、ちょっとしたカマドとして利用されている。

電気・ガスのない時代には、さぞ重宝したことだろう。

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十三夜の綱引き(鹿屋市吾平町下名)

去年は遅れていって綱引きを見ることができず、残念な思いをしたが、今年は綱引きどころか、その綱を練るところから見ることができた。

 吾平町の下名小学校の近くの「下名ふれあいセンター」の広い庭で、19日の朝8時頃から綱練りが始まった。行ったのは9時を過ぎていたので綱は半分近く、ない込まれていた。1019yabusame_001

 片方は電柱、もう一方は専門業者が使うような本格的な足場に丸太が二本架けられ、下の方の太い丸太に人が乗り、向こうから練りながらこちらへ少しずつ引き降ろしていく。1019yabusame_005

練り上げる方は男衆が三人、体重を掛けながら順番を間違えずにぐるぐる回って縄を編んでいく。まるでメリーゴーラウンドだ。1019yabusame_006

持つ縄が短くなっていくとストップをかけ、女衆が藁を補給に走り、1019yabusame_004

再び練って回る。かなり体力を使っているようだ。

 見ている高齢者に聞くと、昔は道路で沢山の人で練ったもの。今は広場があるのに若い者がおらず苦労している――という。

 しかし戦後途絶えていたのを復活した以上、絶やさぬように何とかやって行きたい、とも言う。1019tunahiki_001

綱引きが始まるという夕方6時、ふれあいセンターに行くと、練られた綱は広場の桜の木のそばに、とぐろを巻いた形で置かれていた。

 綱の前のバケツにはすすき、焼酎ビンには栗の枝が入れられていた。多分、お月様へのお供えだろう。1019tunahiki_004

時間が来たー、との声で綱が伸ばし始められる。

 聞けば、なるべく白い装束で参加し、その上に白い手ぬぐいを独特の形にして頭に被る、という。

そう言われれば、なるほどみんなが被っている。

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建物近くのマイクでは、三人の男衆が立って、相撲甚句のような唄を歌い出す。1019tunahiki_010

歌に合わせるように、皆は綱を上下に揺らしながら広場を2~3回ぞろぞろと回る。

 ちょうど蛇(竜)がのたうつ様子を再現していたのかもしれない。

 竜は水の神でもある。1019tunahiki_012

いよいよ綱引きの開始だ。

数少ない子供が親子で引っ張る。1019tunahiki_013

今度は集落の上班と下班の対決。

 近頃はどっちが勝っても「五穀豊穣」「集落安全」だから、必死というよりみんなニコニコしている。1019tunahiki_021

 綱引きが終わると、綱はすぐに相撲の土俵に仕立てられる。

 中に藁をたっぷり入れて、即席の土俵の完成だ。1019tunahiki_025

まずは小学生の相撲。

集落に10人もいないようだが、子供たちが本来主役の十五夜、十三夜行事だから、これは本日のハイライトなのだが、ちと寂しい。

 それでも屈託のない無邪気な取り口に、大人衆はやんやの喝采をおくる。

 中学生に至っては写真の奥に座っている二人だけらしい(女子中学生は参加していない?)。1019tunahiki_030

圧巻は夫婦相撲だ。

 行事の呼び出し、解説がまず笑わせるが、取り口がとんちんかんで面白い。相撲漫才といったところ。

 件の夫婦は父ちゃんの酔いどれ負け。母ちゃんに投げ捨てられた。

 だが審判の物言いがあり、スローモーションでやれ、高速度でやれ、と三回もやらされたので観衆は大笑いだった。1019tunahiki_032

 そげん早く抱きつかんでよかが!呼吸が合わんどなあ。まあ、いっと深呼吸しやい。

 こんな相撲が三番あって、お開きとなった。

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流鏑馬祭り(肝付町高山」)2008

天気は上々だ。肝付町高山の四十九所神社の「流鏑馬祭り」を見るのは今年で三回目だが、いつも夏日のような晴天に恵まれる。

 今度もまさにそうだった。今年の目玉は去年見逃した「弓取りの儀」を拝観することだ。1019yabusame_019_2

市街地のパレードを終えて「射手(いて)」の一行が神社に戻って来たのが11時半頃。

 鳥居をくぐり、階段を上がって拝殿の前に整列する。1019yabusame_022_2

兜姿もりりしい一行は神妙に拝殿で行われる神事を待つ。1019yabusame_024 宮司の先導により町内各界の名士が玉ぐし奉奠したあと、今年の射手に選ばれ、騎射のための数々の修練を積み、さらに三日前の海岸でのミソギを済ませた高山中2年生の武下君が、力強く祝詞を奉唱した。1019yabusame_026

いよいよ「弓取りの儀」が始まった。

 神前に奉納してあった弓を宮司が下げてきて、別の宮司に手渡す。1019yabusame_028

宮司が射手と去年射手を勤めた少年の前で祝詞を奏上する。1019yabusame_029

宮司が祝詞の中で射手の武下何某と声を張り上げたと思ったら、もう一人の宮司が急いで弓を射手の少年に手渡した。

 すると少年は弓をしっかり握り締め、すっくと立ち上がった。まるで神が彼の体に乗り移ったかのように・・・。1019yabusame_037

昼食後、いよいよ流鏑馬の開始だ。

 姿を現した射手は、実父がお清めをする騎馬道を駆け抜けるが、その前に四十九所神社鳥居の前のちょっとした広場を三回まわる。1019yabusame_039_2

いよいよ第一走だ。

一の的めがけて矢を放つと、1019yabusame_040

見事に命中した。

第一走は三の的まですべて命中した。1019yabusame_043

第三走の三の的にも命中した。残念ながら二の的は射抜けなかった。

 結局、九射中の八射的中で、去年と同じだった。だが今年はひとつ素晴しい的中があったという。

 それはニ走の時の三の的に「コモリ矢」が出たことだ。これは的の真ん中を一直線に貫く竹のど真ん中を打ち抜いた矢のことで、神社に奉納されるそうだ。1019yabusame_044

息子が大役を負った父親は最後まで「潮振り」をしていたが、無事に任務を果たした安堵を顔一面に表していた。1019yabusame_045

中学2年生の息子も大任を終えて、やはりほっとしたのだろう、馬場を引き上げる時、周囲から聞こえる励ましの言葉に大きく礼を言っていたのが印象的だった。1019yabusame_046_2

流鏑馬が終わると、市街地ににぎやかな踊り連が繰り出し、秋晴れの下、970年続くという伝統行事に花を添えていた。1019yabusame_047

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エビ色のすすき(鹿屋市新生町)

どこを走っても道路際にはすすきが目立つ。

日当たりのよい道路ほど群生しているのだが、どれも赤味が薄く、黄ばんでいる。1015hataketosusuki_009

もう穂がはじけそうになり、白けているのもあるくらい、日の当たる場所のすすきは生育が早い。

 陰暦9月の15夜(今日は月齢15・8)にお供えするにはちょうど良いのかもしれないが、すすきの美しさはない。

 美しいというと語弊があるが、若々しさと言っておこう。

 だが、ようやく、意外にもさほど遠くない所に、その若々しい「エビ色のすすき」が生えていた。1015hataketosusuki_004

 鹿屋市の中心部に近い鹿屋海上自衛隊航空基地の外周のフェンス沿いである。

 外周道路から200メートル近く入ったフェンスへの行き止まり道路の左右にそれはあった。1015hataketosusuki_005

道に沿って切れ目なく群生しているというのではなく、ところどころにコロニー風に群生しているのだが、ブタクサの黄色よりはるかに品良く目立つ。1015hataketosusuki_007

エビ色と言っても「海老色」ではなく、エビヅル(野ブドウの仲間)の実を絞って出る汁の色、つまり赤ワイン色のことらしいが、陽だまりの中のすすきのエビ色はもう少し薄く、しかも光沢がある。実に上品な色合いだ。

 霧島連山随一の高原である「えびの高原」の「えびの」はこのすすき(萱、茅)のエビ色から名付けられたというが、一キロも二キロ四方もこれが群生していたらさぞ見事なことだろう。1015hataketosusuki_012

 物質的な成長・修復を促すのが月、すなわち月読命(ツキヨミノミコト)であるから、今夜の十五夜で秋の草花、作物などは大いに生長し、あるいはリカバリーされるに違いない。

 (ただし人工の物は無理だが)1015hataketosusuki_001

 我が家の裏の畑では、一ヶ月くらい前に収穫を終えたサツマイモ(カライモ)畑に、後作として播かれたソバや大根がすくすくと育っている。1015hataketosusuki_003

 今夜の満月で、さらに伸びて行くだろう。

 

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金融危機とノーベル賞

アメリカ発の金融クラッシュがついに世界を席捲しはじめた。G7からG20まで拡大会議が開かれ、ブッシュは「何とかする、何とかする」と大童だ。

 自由主義的資本主義(市場原理最優先主義)を採用していたはずの本家本元のアメリカが、経営破たんした金融機関はその市場原理に基づくなら「勝手に潰れてくれ」と言うべきはずが、巨額の公的資金(国の金=税金)で救済するという事態にまで陥ったのだから、時代は変わったと言うのが正しいのか、市場原理が間違っていたと言うのが正しいのか、素人にはよく分からない。

 ただ、それほど金融証券市場が超巨大化していた、つまり金の流れが巨大化しすぎていたために、いったん誤って金の流れの川が氾濫したり、逆に枯渇したりするととんでもない事態に陥るということはよく分かった。自然の河川ダムは、今日、環境がらみで受け容れられないようだが、金の流れの川にはやはり適切なダム(タイムリーな規制)は必要だろう。

 だいたいこういった金融機関の社員の賃金は高すぎると聞く。アメリカなどでは経営者(いわゆる社長)となると平均的に高い平社員のさらに150倍とかの給与を得ているそうだ。破産した場合、こんな人たちはどうするのだろう。給与を返還した上でさらに損害金まで取られるのだろうか、知りたいものだ。

 日本でも保険・金融分野は給料が高い、ということで理科系の大卒者までが畑違いの業界に就職するケースが多いらしい。これが「理工系離れ」の大きな要因のようだが、今年から流れが変わるだろう。ノーベル賞受賞者が4人も出たのだから。

 物理学賞に3人、化学賞に1人だが、いずれも大学教授で、対象となった業績は30年から40年も前に発見したものばかりだ。ノーベル賞の対象者は欧米人が圧倒的に多いが、非欧米人のすぐれた業績は後回しにされているのではないか、などという邪推もできる。

 それより不可解なのは、経済学賞だ。理工系のノーベル賞には珍しく文科系だが、数学を駆使するような経済論が隆盛になったので設けられたのだろうか、これはアメリカの受賞者が他を圧して多い。ほいとんど一人勝ちと言ってもよい。

 そのノーベル経済学賞最多国アメリカが、今、経済危機に陥っているとは何とも皮肉な話ではないか。「経済が間違っているのではない。政治が間違っている」のだろうか?

 経済に関しては東洋の方が断然すぐれている。「経世済民」という考えを持っているからだ。ノーベル経済学賞をやめて、「ノーベル経世済民賞」を創設してはくれまいか

 

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永野田町界隈(鹿屋市永野田町)

吾平町に所用があり、帰りに永野田を回ってみた。

 永野田は旧鹿屋市と旧吾平町との境に位置し、肝属川と支流の大姶良川に挟まれたあたりに広がる田園地帯だが、鹿屋市側からは低い丘陵がのびて来て川付近まで迫っている。

 いきおい田園が川寄りに狭く長くなっているので「長野田」と呼ばれたのだろう。1011baratonaganoda_026

国道鹿屋・吾平線から永野田に入った所から見た田んぼ地帯。収穫はすべて終り、用水路にも水は流れていない。

 人家の向こうの丘が左手の道路にまで迫る。道路の左はすぐに大姶良川が流れており、丘の手前の麓を走っていた旧国鉄大隅線の橋が架かる(左方向が吾平町方面)。1011baratonaganoda_020

その集落道を行くと川沿いにでんぷん工場が稼働中で、向かい側からは丘陵に上る道がある。

 その入り口右側にあるのが「田の神(タノカンサー)」だ。高さは台座を入れて80センチはある立派な石造。右手にメシゲ、左手には御幣(扇?)を持った神官スタイルと思われ、柔和な整った顔立ち。

 残念ながら、建立年を示す刻みはない。

 向かって右は水神祠か、中は空っぽだった。さらに隣にも小さな祠らしきものがあるのだが、豆ヅタに覆われつくされて何にも分からない。1011baratonaganoda_021

丘には登らずに、そのまま道を行くと、50メートルほどで右手に案内板の立つ不思議な空間を見る。

 国司塚址だ。教育委員会の説明によると、元正天皇の養老四年(720)に勃発した隼人の叛乱の原因となった国司殺害の当の国司「陽侯史麻呂(ヤコノフヒトマロ)」が逃げてきて、ここで息絶えた場所だという。1011baratonaganoda_022

直径15メートルほどの広場の奥に「祭壇」状の棚があり、竹の叢生をバックにして幾つものシデ(紙を小竹に挟んでいる)を挿し立て、手前には榊が対になって水筒に入れられている。

 厳かな雰囲気が漂う。

 これを今でも祀っているのは国司の子孫という「永田氏」だそうだ。旧鹿屋市長であり、衆議院議員(戦前)もやった永田良吉氏も一族というから、古い家系だったのだ。直系なら1300年近いから、ざっと50代は数えられるはず。

 ただ、本当に国司・陽侯史麻呂だったかというと、それを示す文献はない。『続日本紀』養老四、五年条には、かなり詳しく隼人の叛乱を載せるが、史麻呂が国府のあった旧国分市から逃げ延びたという記事はない。1300年近く前の先祖を祭り続けているという伝承は無下に否定すべきものではないが、そのあたりは疑問符として後考の資としておこう。1011baratonaganoda_025

国司塚からさらに同じ道を行くと川西・飯隈道路に出る。道を渡ったすぐそこには石造が二体並んでいる。

 写真奥は「青面金剛像」だが、手前のは仏像には違いないものの何という仏様なのか分からない。立ち膝で右手を顔に当てているし、左手は印を結んでいるわけでもない。現代風のデザインは洒落たものだ。1011baratonaganoda_019

集落の人に国司塚を守る永田家ゆかりのお堂があると聞いてそこを目指す。

 場所は旧永野田駅の向かい側だ、というので、川西・飯隈道路を川西方面に行き、100メートル余り行ったところで右折し、旧永野田駅が右手に見えたところで、左折する。

 すると30メートル行くか行かないかで左に石段がある。草に埋もれそうな案内柱もあった。「永野田観音」と書いてある。

 60段ほどを登るとやや広い平坦地で、向こうに石造りのお堂が見える。これが観音堂で、なるほど手前に立つ石灯籠を寄贈した中に「永田」姓の何人かが刻まれていた。1011baratonaganoda_016

お堂の中を覗くと、確かに観音像らしき古い仏像が並んでいる。

 向かって右の像が一番古いようだ。次いで左の小ぶりな石像か。真ん中の金銅仏はかなり新しいものに見える。

 こうした小高い丘の上には、中世以降なら城が、それ以前なら墓(古墳)が営まれるのが常だが、これを祀る永田家の由来が1300年前にさかのぼるのなら、古墓が造られていた可能性が高い。

 この丘と麓に国司塚のある丘とはそれぞれ独立しているので、両方とも永田家由緒の古墓とは考えられず、どちらか一つはさらに古い時代の文字通りの「古墳」があったのかもしれない。興味は尽きない。

  

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収穫の秋(鹿屋市池園町)

 先週の土曜日、獅子目田んぼでは刈り取りが真っ最中だった。その辺りでは田植えが一番遅かった老夫婦の田んぼを見に行ったが、周辺の田がどんどん刈り取られ掛け干しされていく中でぽつんと取り残されていた。

 これなら次の土曜かな――と思い、今日、行ってみると、何とこれ!1011shuukakunoaki_004

あの夫婦の田んぼだけが、きれいに跡形もなく刈り取られていた。

 コンバインの仕業だ。たぶん一昨日が雨だったので、その前に人に頼んで刈り取ったのだろう。1011shuukakunoaki_006

 こんな風景が見られたはずだ(眺めるだけならどこにでもある掛け干し風景だが、あの老夫婦がその作業をしているところを写したかった)。1011shuukakunoaki_011

田んぼの近くの「沖玉橋」から見た獅子目田んぼ地帯は、今まさに収穫の時を迎えている。1011shuukakunoaki_001

家に帰る途中、ちょっと寄り道したら、交差点横の人家の柿が見事。

 二本あり、両方とも橙色の実が鈴なりだ。手前は電信柱より低いが、向こうのは高い。たぶん15メートルの高さは優にある。1011shuukakunoaki_003

人家の入り口のブロックの内側には二段構えの金木犀が、ゆたかな香りをあたりに漂わせている。

 そう言えば今、鹿屋のどこに行ってもこの金木犀が匂う。文字通り、秋の香りを運んで来た。1011shuukakunoaki_008

家の近くに帰ってくると、裏手の畑地帯ではサツマイモの収穫の真っ最中。

 あちこちで掘り取りが行われているが、ここのは会社組織の農産業者の畑で、完全な機械掘りだ。1011shuukakunoaki_009

ゴムタイヤではなくクローラ式の自走掘り取り機で、一人が運転し、二人が掘り取られてコンベアーから上がってくるカライモの蔓を切りながら、後ろのネット状の大きな袋に投げ入れて行く。

 芋の種類は黄金センガンで、焼酎用だ。

 芋自体は好かぬが、そのエキスは大好物という人は、原材料がこんな畑で(しかも正真正銘の国産で)採れるという事をゆめゆめ忘れてはなるまい。

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バクチ金融の破綻

 経済や金融など全くの素人だが、その素人目で見てもアメリカの金融危機は行くべきところへ行ったとしか思えない。

 サブプライムローンと言うのも分かりにくいが、要するにこれまでだったらローンを組めない所得層や借金を抱えている人たちに「貸してやるから家を建てなさい」と言って、ローン契約をさせたが、担保である住宅(土地も?)の値上がりがしなかったために担保価値が下がって、ついに破産(抵当流れ)してしまった、ということか。

 こんなのは国が政策的にやるはずのものだが(日本ではそうだろうと思う)、そこは「自由主義経済の総本山アメリカ」のことだから、規制なしに何でもかんでも業界にやらせた。

かれら金融投資業者にしてみれば、サブだろうが何だろうが要するにローンを組むことで金が流れ込んでくればしめたもので、あとは巨大な資金をどう回して利ざやを稼ぐか、で、売り抜けたあとはどうなろうと構わない。ヘッジファンド(マネーゲーム)の通ったあとは草も生えなくなる。

 といって金を借りて家を建てた一般的アメリカ人の考え方もいまいち分からない。「住宅が値上がりしたら、売り払ってローンを返し?、その差額が儲けになる」というのだそうだが、そもそも一度住んだ住宅が値上がりするものなのか、住めば即中古住宅になり、普通は値下がりするはずではないか。土地の値上がり――というのであれば日本人としては理解できないこともないが・・・。

 いずれにしてもアメリカの経済はいびつすぎる。

 日本はアメリカに輸出するばかりで、製品を買わない(原材料なら小麦・大豆・とうもろこしと相当買っている。武器・兵器も)と言われるが、そもそもアメリカが製造業に力を入れず、安い製品を世界中から買いまくって済ませているからだ。巨大なコストの割には利益率の低い製造業より、手っ取り早く稼げる金融に走ってしまっているからだ。

 その貿易赤字は相当なものなのに、金融と多国籍企業の存在がなんとか均衡を保たせているのが実情で、それというのもアメリカが決済通貨のドルを握り、これに基づいた「アメリカ国債」をどんどん発行して相手国に買わせることが可能だからだろう。こんなことがいつまで続くものやら、ヨーロッパ諸国ではもう見放し始めているとも聞く。

 おもえば、アメリカで強いのは生産では農業、経済では金融だ。しかし今回の金融危機は一つの壁が崩れたことを示している。農業も温暖化の影響によっては崩れる可能性がある。

 そうなると残るのは「自由主義総本山アメリカ」という信仰にも似た主義主張と、それを世界に流布するという使命感と軍事力そしてそれに関連した産業しかない。クワバラ、クワバラ、こんなアメリカのやり方に付いて行くなよタローさん。

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