« 収穫の秋(鹿屋市池園町) | トップページ | 金融危機とノーベル賞 »

永野田町界隈(鹿屋市永野田町)

吾平町に所用があり、帰りに永野田を回ってみた。

 永野田は旧鹿屋市と旧吾平町との境に位置し、肝属川と支流の大姶良川に挟まれたあたりに広がる田園地帯だが、鹿屋市側からは低い丘陵がのびて来て川付近まで迫っている。

 いきおい田園が川寄りに狭く長くなっているので「長野田」と呼ばれたのだろう。1011baratonaganoda_026

国道鹿屋・吾平線から永野田に入った所から見た田んぼ地帯。収穫はすべて終り、用水路にも水は流れていない。

 人家の向こうの丘が左手の道路にまで迫る。道路の左はすぐに大姶良川が流れており、丘の手前の麓を走っていた旧国鉄大隅線の橋が架かる(左方向が吾平町方面)。1011baratonaganoda_020

その集落道を行くと川沿いにでんぷん工場が稼働中で、向かい側からは丘陵に上る道がある。

 その入り口右側にあるのが「田の神(タノカンサー)」だ。高さは台座を入れて80センチはある立派な石造。右手にメシゲ、左手には御幣(扇?)を持った神官スタイルと思われ、柔和な整った顔立ち。

 残念ながら、建立年を示す刻みはない。

 向かって右は水神祠か、中は空っぽだった。さらに隣にも小さな祠らしきものがあるのだが、豆ヅタに覆われつくされて何にも分からない。1011baratonaganoda_021

丘には登らずに、そのまま道を行くと、50メートルほどで右手に案内板の立つ不思議な空間を見る。

 国司塚址だ。教育委員会の説明によると、元正天皇の養老四年(720)に勃発した隼人の叛乱の原因となった国司殺害の当の国司「陽侯史麻呂(ヤコノフヒトマロ)」が逃げてきて、ここで息絶えた場所だという。1011baratonaganoda_022

直径15メートルほどの広場の奥に「祭壇」状の棚があり、竹の叢生をバックにして幾つものシデ(紙を小竹に挟んでいる)を挿し立て、手前には榊が対になって水筒に入れられている。

 厳かな雰囲気が漂う。

 これを今でも祀っているのは国司の子孫という「永田氏」だそうだ。旧鹿屋市長であり、衆議院議員(戦前)もやった永田良吉氏も一族というから、古い家系だったのだ。直系なら1300年近いから、ざっと50代は数えられるはず。

 ただ、本当に国司・陽侯史麻呂だったかというと、それを示す文献はない。『続日本紀』養老四、五年条には、かなり詳しく隼人の叛乱を載せるが、史麻呂が国府のあった旧国分市から逃げ延びたという記事はない。1300年近く前の先祖を祭り続けているという伝承は無下に否定すべきものではないが、そのあたりは疑問符として後考の資としておこう。1011baratonaganoda_025

国司塚からさらに同じ道を行くと川西・飯隈道路に出る。道を渡ったすぐそこには石造が二体並んでいる。

 写真奥は「青面金剛像」だが、手前のは仏像には違いないものの何という仏様なのか分からない。立ち膝で右手を顔に当てているし、左手は印を結んでいるわけでもない。現代風のデザインは洒落たものだ。1011baratonaganoda_019

集落の人に国司塚を守る永田家ゆかりのお堂があると聞いてそこを目指す。

 場所は旧永野田駅の向かい側だ、というので、川西・飯隈道路を川西方面に行き、100メートル余り行ったところで右折し、旧永野田駅が右手に見えたところで、左折する。

 すると30メートル行くか行かないかで左に石段がある。草に埋もれそうな案内柱もあった。「永野田観音」と書いてある。

 60段ほどを登るとやや広い平坦地で、向こうに石造りのお堂が見える。これが観音堂で、なるほど手前に立つ石灯籠を寄贈した中に「永田」姓の何人かが刻まれていた。1011baratonaganoda_016

お堂の中を覗くと、確かに観音像らしき古い仏像が並んでいる。

 向かって右の像が一番古いようだ。次いで左の小ぶりな石像か。真ん中の金銅仏はかなり新しいものに見える。

 こうした小高い丘の上には、中世以降なら城が、それ以前なら墓(古墳)が営まれるのが常だが、これを祀る永田家の由来が1300年前にさかのぼるのなら、古墓が造られていた可能性が高い。

 この丘と麓に国司塚のある丘とはそれぞれ独立しているので、両方とも永田家由緒の古墓とは考えられず、どちらか一つはさらに古い時代の文字通りの「古墳」があったのかもしれない。興味は尽きない。

  

|

« 収穫の秋(鹿屋市池園町) | トップページ | 金融危機とノーベル賞 »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

小学校の低学年まで永野田町で過ごしていました。

「国司さぁ~には女の子は入ったらいかん!」
父によく叱られていたのを思い出します。

あの教育委員会の説明は、父方親族一同首を傾げていました。
「歴史は権力者側からしか語られないもんだね」
と、叔母がぽつり。

詳しくはわかりませんが、父や叔母達が幼いころに聞かされていた話とは違うそうです。


先日父が亡くなり、なんとなく永野田町を検索してしていて、こちらの画像を見たら泣けてしまい、思わず書き込んでしまいました。

今から行ってみようかな…


投稿: 扇 | 2010年5月14日 (金) 14時41分

扇さん、コメントをありがとうございます。

お願いがあります。

コメントの中の「父や叔母達が幼いころに聞かされていた話」というものを教えてほしいのですが・・・・・。

よろしくお頼み申し上げます。

投稿: kamodoku | 2010年5月18日 (火) 19時40分

18歳まで「ながんだ」に住んでました。故郷を離れ早、30年今、神奈川県の海老名市に住んで居ります。

ネットサーフィンを楽しんでいましたら、ここにたどり着きました。

小学生の頃、「こくっさあ」の火祭りが楽しみでした。

女人禁制の大相撲の土俵のような存在でしたが、2月?!頃に、学校の帰り道に、枯れた竹を集め、やぐらに組んで、当日は、夜遅くまで火柱で暖をとりながら、子供会?!の用意してくれたお菓子を食べながら、遊んだ記憶があります。

今ではやってないのでしょうか?!

「おかんのんおんさあ」でもしょっちゅう遊んでました。

永田良吉さんのお葬式の日に、花輪に内閣総理大臣の花輪が献花されていたのを思い出します。

確か佐藤栄作だったかな。懐かしさに、郷愁の思いが沸いて思わずカキコしてしまいました。


投稿: おやっとさあ | 2010年11月28日 (日) 14時51分

おやっとさあさん、コメントありがとうございます。
 4年ほど前の2月節分の日に「国司ドン祭り」を見に行ったことがあります。
 当主の永田さんのほかには、2名の男性と2,3人の子供が祭りに参加していました。
 おそらく永田さんの身内だけだと思います。
「国司塚」については―西暦720年の隼人の叛乱で、国分に居住していた国司・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)がここまで逃げ延びて死んだ―という解釈がなされていますが、永野田出身の人からメールで、鹿屋市教育委員会のその国司塚の説明看板は言い伝えとは違うという指摘がありました。
 私もそう思います。今の鹿屋市役所のある近辺は「国司山」などと言われ、どうも中央政府派遣の国司とは別の在地国司が居たように思われるのです。証拠の古文書などがあるわけではありませんが、可能性は高いと思います。
 これからの研究課題です。

投稿: kamodoku | 2010年11月28日 (日) 20時17分

ありがとうございます。

かなり詳しく調べて居られるのですね。

管理者様は歴史学者ですか?

どちらにお住まいですか?

小学校の頃、大隅線はD11型のSLが走っていて

よく石炭を拾って遊んでました。

ニュースステーションで、廃線の特集があり、

鹿屋駅長が最後の電源を切るときの画像は今でも

思い出すと涙が出ます。


また、地元ネタがあったら教えてください。


投稿: おやっとさあ | 2010年11月28日 (日) 23時28分

こんにちは、はじめまして
霧島市に住んでいるものです。
霧島市霧島にも(永野田)の名前がある場所があります。
今でも日豊本線に「北永野田駅」があります。
先日「永野田駅跡」を探索に行ったのですが、「鹿屋駅跡」しかわからず帰宅しました。ナビにも反映してなくて・・・
もし永野田駅跡の住所とかわかるのであれば教えてほしいのですが。

投稿: くう | 2013年5月28日 (火) 17時47分

くうさんへ。コメントにお答えします。
次の地図(ヤフーの地図です)を開いてください。

http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=31.37829201&lon=130.85207695&ac=46203&az=&z=13&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E9%B9%BF%E5%B1%8B%E5%B8%82

 この地図の中で県道58号線を東から西(左から右)にたどると「鹿屋永野田郵便局」があります。そこを左折したら突き当りが「永野田駅跡」です。
 駅跡の後ろの丘の反対側に「国司塚」があります。

投稿: kamodoku | 2013年5月28日 (火) 21時16分

県道は68号線でした。失礼!吾平町から鹿屋市中心部に向かって走っている道路です。
 地図を開いたら鹿屋市の広域図が示されますから、やや右下にある「川東町」と「吾平町麓」との中間を画面の中心にしたあと、拡大を2回か3回クリックしていくと「鹿屋永野田郵便局」が地図上に現れてきます。

投稿: kamodoku | 2013年5月28日 (火) 21時28分

お返事ありがとうございます。
鹿屋永野田郵便局を目的地にして行ってみます。
ありがとうございました。

投稿: くう | 2013年6月 2日 (日) 10時14分

Kamodoku様 はじめまして!よろしくお願いします。

アジアで初めて開催された東京オリンピックの年に「ながんだ」を出て
いつの間にか半世紀が過ぎ去りました。

現在は鹿児島市内に移り住んで十数年。
両親は既に鬼籍に入り、長兄と次兄が墓守をしながら余生を送っております。

父母は私達兄弟姉妹(10人)を養うために、長年菜種油と椿油の委託加工を主な生業とし、僅かばかりの畑地で澱粉用の「からいも」と「菜種」の生産等で
生計を立てておりました。

時は移り、父の後を継いで椿油の委託加工と販売を続けてきた次兄は、齢80を機に先般、店じまいしました。
私達一家にとってのささやかな「歴史」に終止符が打たれました。

現役から毎日が日曜日になった今、ワイワークのPCで検索中に運よく
このサイト接して里帰りの気分に浸らせて頂きました。
この年になると鹿児島市内からは決して近くはありません。

管理者様の歴史に対する深いご造詣に心から敬意を表する次第です。
当方のような凡人には知りえなかった事実はまさしく「目から鱗」でした。
それと共に管理者様の限りない郷土愛に感服致しております。

まもなくお盆、来月16日は亡き母の16回目の命日にあたります。
改めて、人生の道筋を付けてくれた両親に感謝の気持ちを込めて
頭を垂れたいと思っております。

管理者様、ご家族の皆様方の益々のご健康とご活躍を
心よりご祈念申し上げます。

誠にありがとうございました。長文、乱文をご容赦下さい。

(追伸)
    フレッシュな三反園新知事の誕生は県政にとって朗報でした。
    奥様にもどうぞよろしくお伝えください。
    失礼いたしました。

投稿: 油屋ん六男坊 | 2016年7月18日 (月) 10時53分

油屋さんは永野田が故郷ですか?
 永野田の国司塚の祭祀を続けておられる永田良吉家のことはご存知と思います。大変な家系のようで、大隅半島の歴史と深いつながりがあるのですが、まだ完全に理解に至っておりませんので、ご注進がありましたらよろしく。

投稿: kamodoku | 2016年7月18日 (月) 22時17分

昭和20年6月、当時の永野田の自宅裏の防空壕で生まれました。
私を抱えて出た直後に壕はあえなく崩落、九死に一生を得たといいます。
母は後日「あとぜっがした~怖くて身震いがした」と話していました。
自宅は郵便局から鹿屋寄りのGSの前に在りましたが、現在は次兄夫婦が
暮らしています。

通学路の途中には「永野田観音=おかんのんさあ」があります。
階段を上リ切った先に観音堂には広場があります。
昔の一時期には地元青年団主催の「花見」と称する舞踊大会がありました。
勿論、「花見」永野田町に限らず近郷近在では珍しくなかったようです、
団員たちは夜に公民館に集まり、お師匠さんの手ほどきを受けてそのひのために懸命に稽古に励んだそうです。
晴れの舞台でその成果を披露して踊り子さんには観客から「花代」のおひねり(のし袋入りの現金)が、進行役の紹介の後に渡されました。
集落の人々にとっては娯楽の乏しい時代の楽しみの一つだった思います。

小学校時代の思い出の中で、台風襲来による洪水で授業を打ち切っての集団下校がありました。整備された現在の県道にその形跡は勿論ありません。
通学路にある「名貫川」が度々氾濫して道路の両面の田んぼはまるで湖状態。
六年生等の上級生に守られながら下校したのは数知れず。
ただ、大人たちの心配をよそに、私たち子どもは早く帰宅できるとあって
内心ではヤッターと大喜び。

子供心に親や大人たちを頼もしく感じた時も勿論ありました。
台風の襲来に備えて建物が倒れないようにずぶ濡れになりながら働く姿を見たときでした。家族の絆の大切さを後ろ姿で教えられた気がしました。
最後までつたない思い出話にお付き合い頂き有り難うございました。

投稿: 油屋ん六男坊 | 2016年7月19日 (火) 11時26分

鹿屋市会議員の山崎隆夫さんにお尋ねください
フェースブックに、2015年の祭事の様子を
かかれていますよ。

私も探訪したいと念じていますが。。

投稿: 今井より | 2016年10月31日 (月) 21時01分

今朝、激痛で起きて、寒いのでストーブを引っ張り出し
このページ拝見しています。

何回もコメント恐縮です。

かなり歴史のある古墳なんでしょうね。
由緒が見つかればいいのですが。。

国分重久にも前方後円墳があったのですが
昔、セミナーで質問したら、遺物が出ないからと
一蹴されました。その後、その古墳の片方には
現在マンションが建ってます。
残りには馬頭観音が祀ってあります。
私的には、規模からしてこれではなかったかと。。
妄想の世界に突入しそうで。。ban

投稿: 今井より | 2016年11月 2日 (水) 07時05分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 収穫の秋(鹿屋市池園町) | トップページ | 金融危機とノーベル賞 »