指宿の史跡を巡る(指宿市)
指宿の研修会に出席したあと、翌24日は休みを取り、一日を史跡巡りに当てることにした。家内の実家に一晩厄介になり、翌朝墓参りを済ませてから出かけた。
指宿と言えば、今は篤姫ブームで大いに沸いているが、それには目もくれず、どうしても史的に確認しておきたいことが3つあった。
1 縄文時代草創期に属する「水迫式土器」「岩本式土器」の出土地の様子。
2 日本最南端の「弥次ヶ湯古墳」の発掘地の状況、および、やはり日本最南端の「円 形周溝墓」の発掘地の状況。
3 幕末日本最大規模の海運業者「濱崎太平次」の造船所跡などの確認。
1は、最古級の土器2種類に、指宿の土地名(字名)が冠せられていること。つまり最初の発見地であったのが指宿だったという驚きが根底にあって見ておきたかったし、
2は、鹿児島(錦江)湾岸に限れば、古墳も周溝墓も初の発見であるということで確認したかったし、
3は、一般的に言って、日本は四界環海の列島だと強調されながら、その海を舞台に活躍した海運(業者)については、歴史上取り上げられることが少なく、遺構も残っていないことが多いが、濱崎太平次の件ではどうなのか、
そんな理由があってのことだ。このどれもが大きなテーマであって、とても一日のスケジュールに収まるものではないが、うれしいことに指宿には「自遊館coccoはしむれ」という調査の便宜には貴重な考古学博物館がある。
古代ローマの円形建造物を思わせる博物館には、昨日の研修会後に学芸員の渡部氏にいろいろ質問し、場所や概要などを聞いておいた(このあとに登場する土器などの展示物の写真は、同氏の撮影許可を頂いたものである。無理をお願いしてしまったが、感謝申し上げたい)。
史跡めぐりの第一歩は、何と言っても「橋牟礼川遺跡」。
博物館からほんの1分ほどの南寄りにあり、真ん中に小川が流れる史跡公園だ。折りしも篤姫で有名な今和泉小学校の3年生が遠足に来ていた。
ここは、ここで発掘された土器の地層の上下関係から、弥生式土器と縄文式土器の時代的な区分がついた、という、考古学的には貴重な遺跡なのだ。
橋牟礼川遺跡から、どう回ろうかと思案したが、時代順がよかろうということで、まずは最古級の土器が発掘された「水迫遺跡」を目指した。
指宿市街地を貫く国道225号を北へ、二月田駅を過ぎて1キロ余りで田口田交差点を左折し、道なりに行くと、どんどん上り坂になっていく。2キロも走ると右角に大きな民家のある四辻に出会うからそれを左折する(写真では軽乗用車の向こうに入って行く)。
四辻から標高差にして100メートルくらいは登っただろうか、前方左手に牛小屋が見えると、その手前30mくらいの所に杉が5,6本固まって生えているが、そのすぐ下手が遺跡だ。最初は道の遺構(人工の道)が発見されたらしい。
その後の調査で、15000前の住居跡が見つかり、さらに土器も確認された。
水迫式土器(破片だが、Ⅰ類とⅡ類に分類されている。Ⅰ類の方がより古い。おおむね11400年前あたりに比定される。)
(写真はCoccoはしむれの許可を得て写した物。以下、展示物については同様なので断り書きは省略する)
完形のレプリカはこれ。
(解説カードにある11400年前というのは、桜島由来の薩摩火山灰噴出の年代で、水迫式土器はちょうどその火山灰層に包含されていた)
草創期、早期の縄文土器はほとんど水迫のような山の中(標高170m)や尾根のような所で見つかっている、というが、そういう所は火山灰の層が薄くて発見され易くなっているためなのか、それとも人が住み着き易く多かったのか、海水面が上昇していたのか、・・・そのあたりがよく分からない。
次に向かうのは水迫式土器よりは1000年くらい新しいとされる「岩本式土器」の最初の発見地・岩本地区だが、その通り道にある「横瀬遺跡」を見ておこうと立ち寄る。
水迫から元の四辻に戻り、そのまま広い道路を横切っていく。やや下り坂になり、別の四辻を突っ切るとそのあたりが横瀬地区だ。そこにいた高齢者に聞くと「横瀬は確かにここだが、遺跡は知らん。遺物が出たとも聞いておらん」と言う。「鏡の破片が出たそうで、何かお宮のような物がありませんか?」と訊くと、「ああ、そいなら、そこに神社があっど」
畑に上がると、確かに青い屋根の倉庫の横に小高い丘がある。そこが神社で「秋葉神社」だそうだ。行ってみると直径15メートルほどの、どう見ても人工的な丘である。畑の真ん中だから古墳の可能性は少ないと思うが、大隅半島の大崎町の内陸部に原田古墳という周囲が100mもある大きな円墳が実在するから、あながち否定はできない。
横瀬遺跡から出土したという「変形過文鏡の破片」と朝鮮半島の「漁陰洞遺跡」(慶州)出土の「過文鏡」(右)。
とてもよく似ており、半島との繋がりが想定できる遺物だ。ただ、弥生時代の鏡であるから、今しがた述べた古墳状の「秋葉神社」とは時代が違うので、別個に考えねばなるまい。
横瀬からは北へ北へと集落の間を抜けてようやく、今和泉のお寺の前の国道に出た。国道をさらに北上すれば、観光客がちらほら見える今和泉駅前を通り過ぎ、右手に指宿商業高校を見て進む。
と、立派な松林が点々と続くうちに、前方に「道の駅・観音崎」が見えてくる。そこの信号の一歩手前に左へ上がる道があるので、左折する。少し行くと指宿・枕崎線の踏切に出るから、渡ってなおも登っていく。
登りついた所が「岩本台地」だ。広大、と言うほどではないが、かなりまとまった平坦地が展開する。指宿の温暖地らしく、ソラマメ・オクラ・レタス・キャベツ・絹さやインゲンなどなど、作られている野菜の種類は豊富である。
「岩本式土器」はここの灌漑工事中に見つかった。10000年前の縄文早期でも早い段階の土器で、水迫式土器に続く物か、とされる。
完形のレプリカがこれ。
平底で上縁部に凹凸と貝殻施文があるだけのシンプルな模様で、ちょうどバケツの形をしている。
鹿児島では一様に出土しているが、平成10年頃、錦江町田代川原の鶴園地区の山中で、狭い範囲に一度に十個体が発掘された時は、唖然としたものだった。
台地から同じ道を国道へ降り、今度は南下(右折)して「弥次ヶ湯古墳」「南摺ヶ浜遺跡」を目指す。
ところが途中通過する宮ヶ浜地区がすごいことになっていた。と言うのも、国道沿いの旧商店街が「登録有形文化財(国)」に指定されたというのだ。
丸十百貨店などはいまだに現役だ。店の右隅の郵便ポストが、例の古いタイプだったら、まさに絵になったろうに、惜しい、と思うのは私だけか。
左の農機具店は、よく磨かれた木製のガラス戸の中に、デパートの食堂のメニュー見本よろしく、トラクターから耕運機まで並べてあった。
古いバイク屋なら、そんな光景がままあるが、トラクターがガラス戸越しに鎮座している商店など、見たことがないので驚いた。商店の気風か伝統か、奥ゆかしさを感じる。
弥次ヶ湯古墳は指宿市役所の前の道を指宿駅方面に向かい、犬猫の「砂蒸し温泉治療」で有名な「黒木動物病院」の少し先を右折した所にある。
新しく市営団地を造っている時に、火山灰堆積層の下から見つかったという。火山灰のパックがなかったら、水田耕作などでかく乱されてしまっていただろう。
再び土で被覆し、古墳と分かるようにマウンド状にしてある。マウンドの上には説明タイルが置かれている。
今の所、日本最南端の古墳(円墳)で、築造年代は5世紀後半から6世紀前半という事である。
次に向かったのが、これまた日本最南端という「円形周溝墓」が発見された「南摺ヶ浜(すりがはま)遺跡」。
摺ヶ浜と言えば、指宿温泉街でも最も賑わう、温泉地らしい界隈だが、そこに向かって岩崎観光ホテル入り口の信号から浜への太い道が造られつつある。この造成中に円形周溝墓が見つかった。
周溝墓は弥生時代の墓で、薩摩半島では初めての出土。大隅半島なら志布志市松山町の京ヶ峰遺跡では、20基も見つかっているから、そことの関係だろうか?
ただ松山町は内陸部の台地であるから、環境は大いに異なる。
遺跡の向かいの秀水園はプロの選ぶホテル百選のトップクラスの常連だそうだ。
さて、考古学の対象である最古級の土器出土地と、日本最南端の古墳および周溝墓の出現地の確認は終えたので、最後に、時代はぐっと新しく、幕末の偉人探索モードに切り替え、市街地中心部に向かった。
偉人とは海運業者「濱崎太平次(8代目=1814~1863)」である。まずは生誕地。現在はNTT指宿局が建つ。
生誕地碑の建つ筋を、NTT指宿局の壁沿いに行き、四辻を右折すると広い公園に突き当たる。旧専売公社跡地に造られた公園である。
その公園の一本道路を隔てた左手に、「みなと児童公園」がある。人家が公園に迫る一角にあるのが「第八代太平次の墓」だ。案内板が無ければ、気がつく人は少なかろう。それほどの片隅に鎮座している。
説明によると、濱崎家の代々の墓は片野田の市営墓地に移したが、第八代だけはこの地とのゆかりが強いので、一基だけ残したという。
生誕地跡から、港へはほぼ一直線だ。きちんとした町割りは当時からのものなのか、歴史の香りのする町並みを抜けるとそこは指宿新港で、付け根に漁協のある新しい波止場。
先端に行くと「太平次公園」になっており、大きな銅像が見下ろしている。銅像の立派さに比べると、墓のつつましさが気になるほどだ。
新波止場から見る生誕地方面。
手前の海沿いの人家あたり一帯が濱崎家の「造船所」だったようだ。広さは7反(2100坪)あり、一度に三隻の帆船を造る事ができたという。
一隻で最大が33反帆という。石数で言うと「千五百石」つまりメートル法では210トン積みの船ということになる。
20万トンもある現代のタンカーとは比ぶべきもないが、推進力が帆と人力だけだった時代、200トンを荒波に沈めるわけには行かず、航海には大変な力量を必要としただろう。
そんな海の交易が幕末の薩摩藩財政を大きく支えていたことは忘れられがちである。
(写真は潟口港。右手の石積みは当時の物。向こうの山は魚見岳)
曽祖父「湊太左衛門」が建立した稲荷神社。
濱崎家は江戸時代の初め頃は国分八幡神社の神職だったが、わけあって指宿に移住し、海運で名をなした。とりわけ太左衛門は、寛政年間に全国長者番付で西の大関になっている。
神社の裏手に回ると、大きな記念碑が二基も建っている。
右側のは由来書きで、内容は濱崎一族の海運の隆盛と、薩摩藩への貢献をうたったもの。撰者は大久保利通の孫・利武。昭和7年の建立とある。
これだけでも確かに偲ぶよすがにはなるが、証拠の残りにくい海運は、弥生時代の昔からの活躍がありながら、歴史の表舞台から消える一方だ。心して記憶に留めておかなければなるまい。特に、鹿児島の歴史は、「海からの視点」を採り入れなければ、解明は困難なのだから・・・。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 葉桜の吉野山と大阪造幣局(2018.04.14)
- 観音池公園の桜(2018.03.28)
- 美作(津山市)と大隅(2018.03.26)
- 西郷どん(せごどん)終焉の地(2017.09.10)
- 宇佐神宮(2017.08.21)
コメント