古江町界隈(鹿屋市古江町)
鹿屋市古江町は港町である。鹿屋市街地から行くには国道220号線を西に走り、一里山交差点からは北上し、鹿屋体育大学前交差点で右に古江バイパスへの道を見送り、そのまま直進して花岡中学校を右に見ながら「古江坂」を下っていく。
左手に港を見下ろしながら、下り切った交差点が古江町交差点で、直進すれば垂水から桜島方面へ、左折すると漁協のある港へ、さらにUターン的に左折したら大根占(錦江町)・佐多(南大隅町)へ至る海岸通りとなる。
古江港の入り口付近から見た町並みは赤色の凝灰岩・荒平石を塀に使った古い民家が多く残る(向こうは垂水方面)。
古江バイパスがこの3キロ弱向こうの「まさかり海水浴場」あたりから、根木原・花岡町へ直接あがれるようになった。垂水や鹿児島から鹿屋への運輸はほとんどそちらを経由するため、ここは、めっきり通行量が減った。
大通りから左折して広々とした港(新港)へ向かう。途中で「みなと大橋」を渡るが、川の上流側を望むと「白滝」が見える(三階建て集合住宅の上のアンテナの右手。三本の電線の下)。
直線距離にして1キロの位置にあるこの滝は、花岡町の用水を集め、シラス崖をえぐって落ちている。例の岩子夫人の「花岡用水」の排水箇所でもある。
港は海抜2m、崖の標高はちょうど100mだから、もし一直線に落ちていれば鹿児島でも有数の滝となったはず。
新港から入って行くと港はずいぶん広い。いくつかの船溜まりを通り抜けて、ようやく一番奥(つまり突端)辺りまでやって来た。振り返ると漁協の荷揚げ・荷捌き場と巨大な製氷・冷凍施設のある建物が見える。
船はクレーン付きのものが多い。カンパチの養殖漁業が主流だから、餌の積み込みや水揚げしたカンパチの荷降ろしにフル回転するのだろう。
港の出口。二本の波止が30㍍ほどの間隔を作っている。
今は漁船だけしか通過しないが、鹿児島港との連絡船が就航していた頃は、夢を抱き、あるいは切ない想い抱いた人々を乗せた船が、この狭い隙間を通り抜けて錦江湾に乗り出していた(後方の山並みは南大隅町の辻岳・野首岳の連山)。
波止場から漁協の荷揚げ・荷捌き場に行ってみると、机を並べて魚を売っていた。
一人の売り子が3、4種類の獲れたてをを売っている。
小鯛、鯵、鯖、イカ、それに赤エビなどが量り売りだ。イカいっぱい(一尾)300円也、は高いのか安いのか、大ぶりの鯖一尾450円はどうか。分からぬまま買い求めた。
荷捌き場では収穫したての赤エビの選別が行われていた。
聞くと、今朝6時ごろ出港し、10時半ごろには網上げして帰ってくるそうだ。昨日(28日)は波が荒くて漁に出られなかったという。
漁協の荷揚げ場の隣にできた「みなと食堂」は今、結構人を呼んでいる。
おまかせ定食 1000円 ヅケ丼 600円 から揚げ丼 600円
の三種類しかないが、どのメニューにも「カンパチのアラ煮(アラ炊き)」が付いてくるのが売りだ。たしかに美味い。得した気分になるので、人気を得たか。
営業は月曜から土曜の11時半~2時半(日曜・祭日は休み)。ちなみにこの食堂の建物はかって鹿児島港への定期船が通っていた頃の待合室だというから、リサイクル(リユース)である。
その食堂の向かい側にはちょっとした緑地帯があり、「行幸記念碑」が建つ。
昭和10年の鹿児島・宮崎陸軍大演習の際、元帥だった昭和天皇も行幸・閲覧になり、その途次におそらく船でここ古江に上陸され、吾平山陵を御親拝になった。その時の記念碑だ。
表面の揮毫者は時の海軍大将・山本英輔で、碑は13年に建てられている。
行幸記念碑を左手に見ながら進むと駐車場の向こうに駅舎が見える。
旧国鉄大隅線の古江駅の跡だ。プラットホームと駅舎が残され、線路と車輪の一部が当時を偲ばせている。
8月のブログでも紹介したが、大隅線は古江―志布志間の開通(古江線=昭和13年)から34年後の昭和47年にようやく国分まで延長されて完成した。ところが全線開通の喜びの余韻が覚めやらぬ昭和62年には廃止となった儚い路線であった。
昭和10年の陸軍大演習に行幸になった昭和天皇の時には、古江から串良までは開通していたはずで(ただし国有鉄道ではなかった)、天皇は吾平駅まで汽車で行かれたのだろうか、後で調べてみよう。
古江駅跡地から佐多方面への道路を横切り、狭い路地に入ってみる。
自転車2台がやっとすれ違えるほどの細道が、縦横に走り家々が軒を連ねている。
櫛の歯が抜けたと言うほどではないが、処々に空き地があったり「売り地・売り家」があったりする。
これも過疎のせいか。だが空き地に野菜を作っていたり、鶏を放し飼いにしていたりするのを見ると、そのたくましさに驚く。
細い路地の突端れにある「古江小学校」(携帯電話用電波塔の下側には古江坂がある)。
鹿屋市史によると古江には「国司山」があり「国司どんの墓」があるという。
国司といえば、西暦720年の隼人の反乱で成敗された「陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)」を思い出すが、国司は何も史麻呂だけではない。その後、幾人もの大隅国国司がいた。ただ、遙任化していたのがほとんどで、現地(国分市)にまで赴任してきた国司は少なかった。その中の一人の墓なのかもしれない。
もし伝承が本物だとすると「国司山」の位置は、いま見ている古江小学校の裏山が候補地になりそうだ。
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