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古江町界隈(鹿屋市古江町)

鹿屋市古江町は港町である。鹿屋市街地から行くには国道220号線を西に走り、一里山交差点からは北上し、鹿屋体育大学前交差点で右に古江バイパスへの道を見送り、そのまま直進して花岡中学校を右に見ながら「古江坂」を下っていく。1129furuechoukaiwai_007

 左手に港を見下ろしながら、下り切った交差点が古江町交差点で、直進すれば垂水から桜島方面へ、左折すると漁協のある港へ、さらにUターン的に左折したら大根占(錦江町)・佐多(南大隅町)へ至る海岸通りとなる。

 まずは古江港(新港)を目指して、直進する。1129furuechoukaiwai_025

古江港の入り口付近から見た町並みは赤色の凝灰岩・荒平石を塀に使った古い民家が多く残る(向こうは垂水方面)。

 古江バイパスがこの3キロ弱向こうの「まさかり海水浴場」あたりから、根木原・花岡町へ直接あがれるようになった。垂水や鹿児島から鹿屋への運輸はほとんどそちらを経由するため、ここは、めっきり通行量が減った。1129furuechoukaiwai_014

大通りから左折して広々とした港(新港)へ向かう。途中で「みなと大橋」を渡るが、川の上流側を望むと「白滝」が見える(三階建て集合住宅の上のアンテナの右手。三本の電線の下)。

 直線距離にして1キロの位置にあるこの滝は、花岡町の用水を集め、シラス崖をえぐって落ちている。例の岩子夫人の「花岡用水」の排水箇所でもある。

 港は海抜2m、崖の標高はちょうど100mだから、もし一直線に落ちていれば鹿児島でも有数の滝となったはず。1129furuechoukaiwai_020

新港から入って行くと港はずいぶん広い。いくつかの船溜まりを通り抜けて、ようやく一番奥(つまり突端)辺りまでやって来た。振り返ると漁協の荷揚げ・荷捌き場と巨大な製氷・冷凍施設のある建物が見える。

 船はクレーン付きのものが多い。カンパチの養殖漁業が主流だから、餌の積み込みや水揚げしたカンパチの荷降ろしにフル回転するのだろう。1129furuechoukaiwai_021

港の出口。二本の波止が30㍍ほどの間隔を作っている。

 今は漁船だけしか通過しないが、鹿児島港との連絡船が就航していた頃は、夢を抱き、あるいは切ない想い抱いた人々を乗せた船が、この狭い隙間を通り抜けて錦江湾に乗り出していた(後方の山並みは南大隅町の辻岳・野首岳の連山)。1129furuechoukaiwai_009

波止場から漁協の荷揚げ・荷捌き場に行ってみると、机を並べて魚を売っていた。1129furuechoukaiwai_012

一人の売り子が3、4種類の獲れたてをを売っている。

 小鯛、鯵、鯖、イカ、それに赤エビなどが量り売りだ。イカいっぱい(一尾)300円也、は高いのか安いのか、大ぶりの鯖一尾450円はどうか。分からぬまま買い求めた。1129furuechoukaiwai_010

 荷捌き場では収穫したての赤エビの選別が行われていた。

 聞くと、今朝6時ごろ出港し、10時半ごろには網上げして帰ってくるそうだ。昨日(28日)は波が荒くて漁に出られなかったという。1129furuechoukaiwai_029

漁協の荷揚げ場の隣にできた「みなと食堂」は今、結構人を呼んでいる。

 おまかせ定食 1000円  ヅケ丼 600円  から揚げ丼 600円

 の三種類しかないが、どのメニューにも「カンパチのアラ煮(アラ炊き)」が付いてくるのが売りだ。たしかに美味い。得した気分になるので、人気を得たか。

 営業は月曜から土曜の11時半~2時半(日曜・祭日は休み)。ちなみにこの食堂の建物はかって鹿児島港への定期船が通っていた頃の待合室だというから、リサイクル(リユース)である。

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その食堂の向かい側にはちょっとした緑地帯があり、「行幸記念碑」が建つ。

 昭和10年の鹿児島・宮崎陸軍大演習の際、元帥だった昭和天皇も行幸・閲覧になり、その途次におそらく船でここ古江に上陸され、吾平山陵を御親拝になった。その時の記念碑だ。

 表面の揮毫者は時の海軍大将・山本英輔で、碑は13年に建てられている。1129furuechoukaiwai_027

行幸記念碑を左手に見ながら進むと駐車場の向こうに駅舎が見える。

 旧国鉄大隅線の古江駅の跡だ。プラットホームと駅舎が残され、線路と車輪の一部が当時を偲ばせている。

 8月のブログでも紹介したが、大隅線は古江―志布志間の開通(古江線=昭和13年)から34年後の昭和47年にようやく国分まで延長されて完成した。ところが全線開通の喜びの余韻が覚めやらぬ昭和62年には廃止となった儚い路線であった。

 昭和10年の陸軍大演習に行幸になった昭和天皇の時には、古江から串良までは開通していたはずで(ただし国有鉄道ではなかった)、天皇は吾平駅まで汽車で行かれたのだろうか、後で調べてみよう。1129furuechoukaiwai_030

古江駅跡地から佐多方面への道路を横切り、狭い路地に入ってみる。

 自転車2台がやっとすれ違えるほどの細道が、縦横に走り家々が軒を連ねている。1129furuechoukaiwai_033

櫛の歯が抜けたと言うほどではないが、処々に空き地があったり「売り地・売り家」があったりする。

 これも過疎のせいか。だが空き地に野菜を作っていたり、鶏を放し飼いにしていたりするのを見ると、そのたくましさに驚く。1129furuechoukaiwai_031

細い路地の突端れにある「古江小学校」(携帯電話用電波塔の下側には古江坂がある)。

 鹿屋市史によると古江には「国司山」があり「国司どんの墓」があるという。

 国司といえば、西暦720年の隼人の反乱で成敗された「陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)」を思い出すが、国司は何も史麻呂だけではない。その後、幾人もの大隅国国司がいた。ただ、遙任化していたのがほとんどで、現地(国分市)にまで赴任してきた国司は少なかった。その中の一人の墓なのかもしれない。

 もし伝承が本物だとすると「国司山」の位置は、いま見ている古江小学校の裏山が候補地になりそうだ。

 

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肝属山地と御来光

一昨日から今日にかけて、かなりの西風が吹く。「木枯らし」には違いないのだが、まだ紅葉も黄葉も途中なので、木々の葉がかさこそと音を立てて落ちるまでには行かない。

 でも空模様は正直だ。木枯らしの吹く頃、きまって「御来光」を見せてくれる。1129furuechoukaiwai_002

肝属山地の屏風の向こうに太陽が昇る直前に見せる朝焼けと御来光。

 肝属山地は右端のピーク「甫余志岳(ほよしだけ=969m)」を最高峰とする、高さの割には結構ふところの深い山地だ。水は清く、滝も多い。なにしろ全山これ花崗岩だから、水がやわらかでくせがないのが特徴である。

 そんな肝属山地の山懐に根を張った豪族が「肝付氏」で、伴姓というからかの政治家であり歌人でもあった大伴家持と同族だ。いや彼は同族どころか祖先のひとりでもある。

 この「きもつき」の語に漢字を当てた最も古い例は、『続日本紀』文武天皇4年(700)6月条に登場する「肝衝難波(きもつき・なにわ)」という人物名だ。地名としての「きもつき」は13年後の元明天皇時代・和銅6(713)年4月に日向国の4郡を分割して「大隅国」を創設した時のその4郡(肝坏・曽於・大隅・姶羅)の「肝坏」として現れる。

 地名より人名のほうが先だということは、後の「肝付氏」が入部する以前、すでに古族「肝衝氏」がいたからに他ならず、では古族「肝衝氏」の「きもつき」とはどうしてそう名付けられたかに興味が至る。

 私見ではそれは「鴨着き(かもつき)」からで、これを「かもどく(島)」と詠んだのが皇孫二代目のホホデミノミコト(山幸彦)だった。

 「鴨(かも)」は「鹿児(かこ=舵子)」と同義であり、大隅国分立以前の古日向からは、鴨の属性(冬鳥で半島から沿海州までを往来する)になぞらえられる「鹿児(かこ=航海民)」が輩出した所であるがゆえに後世「鹿児島」と呼ばれるようになった。

 したがって「きもつき(鴨着き)」も「鹿児島」も歴史的に見れば、ほとんど同義語といってよいことになる。

律令制制定後、大隅半島で最初に認識された人物「肝衝難波(きもつき・なにわ)」は薩摩半島の頴娃郡の豪族らと共に「肥人を従えて覓国使(ベッコクシ・くにまぎのつかい)刑部真木らに乱暴した」というから、大隅きっての豪族で、薩摩半島などへの海上交通をも支配していたようである。

 やはりそこには「鹿児(航海民)」の姿がちらつく。

 その一方で伴姓の後の「肝付氏」自身には「航海民性」はない。

 肝衝難波一党のその後の状況は皆目分からないが、2~30年後に登場する「加志君・和多利(かしのきみ・わたり)」や「佐須岐君・ヤマトククメ」などの豪族に取って代わられたのだろうか?

 しかし前者の「加志君・ワタリ」などはいかにも「航海民」を連想させる名だ。後者にしても「佐須岐」とあるからには「佐須」の「岐」つまり「佐須」の「港」を支配する、これまた「海人」の類なのかもしれない。とすれば主は代わったが海人としての属性を持つことは変わらなかったことになり、大隅半島の風俗がいかに海洋性に富んでいたかの証拠となる。

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野井倉の田の神と笠祇神社(志布志市有明町野井倉)

11月23日、有明町蓬原(ふつはら)の熊野神社の神舞を見学に来たが、午前の祭典が終わった後、神舞がある午後1時まで一時間半ほど時間が空いたので、菱田川を挟んだ東側に位置する野井倉台地を訪れた。

 野井倉台地といえば、明治中期に構想され、大正から昭和も戦後になってようやく完成を見た野井倉新田開発で名高いが、その一角に県指定文化財になっている「豊原の田の神」(正式名は「有明町野井倉の田の神」)がある。

 蓬原からは菱田川にかかる「蓬原大橋」を渡り、上り坂をひとしきり、およそ1、2キロほど行くと道路右側に「豊原」バス停が見えるから、そこを左折する。しばらく行くと左側にビニールハウス(イチゴを作っている)があり、そのすぐ手前の田んぼ道を左に入って行と、100m余りの所に、驚くほど無造作に置かれ石像がある。これが「豊原の田の神」だ。1123futuharakumanojinja_007

丈は低いが、丸々としたふくよかな田の神である。1123futuharakumanojinja_008

胡坐をかいた呑気そうな田の神。建立は寛保3年(1743)と背の下の方に彫られている。

 製作年が明確で、しかもその年代は田の神としてはかなり古い方だ。だから県指定になったのだろう。

 モデルは大黒様だと思われる。それにしてもメタボだ。神様だから高血圧とも高脂血症とも無縁なのに違いない。うらやましい。1123futuharakumanojinja_010

豊原のバス亭近くで田の神の場所を聞いた老農に、時間があれば「笠祇神社」に行ってみたら、と教えられ行ってみた。

 志布志市役所(旧有明町役場)のちょうど真裏に体育館があり、体育館入り口近くの道路の向かい側から登る道があった。

 役場付近が標高80㍍、笠祇神社のある岳野丘は272mだから約200㍍の高度差を1キロほどで上がってしまう。途中から神社の参道にあたる急な石段があるが、道路は神社のすぐ下まであり、車で行ける。1123futuharakumanojinja_013

車を置いたら、20段ほどの階段を上がると笠祇神社の境内(広場)に出る。

 巨大な石の祠!と思ったのは神殿で、本当の祠はその中にちょこんと鎮座していた。

 笠祇神社の祭神は「牛馬」である。仏教で言えば「馬頭観音」に相当し、有明のみならず広く大隅一円からの信仰が厚い。(笠祇神社は旧志布志町にもあり、どちらかと言えばそちらの方が本家だ)1123futuharakumanojinja_016

この丘では驚くことが二つある。

 一つは360度の大パノラマだ。南方向では、すぐ下に今のぼって来た野井倉台地のグリーンが鮮やかに見える。遠くに見える山並みは肝属山地で、手前の下には志布志湾が広がっている。1123futuharakumanojinja_017

もう一つは誰の発案かは知らないが、十二支の動物の石像がぐるりと並んでいることだ。1123futuharakumanojinja_019

よく見ると、台座には、おそらくその生まれ年の人々で制作費を出し合った人たちだろうか、多くの名が刻まれている。 

 また、石像は「子(年)」は北に、「午(年)」は南に――という風に、ちゃんとそれぞれの方角に置かれている。よく考えてあるものだ。

 しかもこの眺めのよさは格別!今度は快晴の日に来たいものだ。

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熊野神社の神舞(志布志市有明町蓬原)

11月23日は有明町蓬原にある熊野神社の祭礼日で、著名な神舞(かんまい)がある。

鹿屋から蓬原へは、東原町の先から志布志に直結している「グリーンロード」で行くと分かりやすい。15キロほどで大きな道路案内看板の立つ交差点を「山重」方面へ左折。道なりに直進2キロ足らずで目指す熊野神社の下に着く。1123futuharakumanojinja_006

石の鳥居からえらく急勾配の参道を上がると、もう境内だ。1123futuharakumanojinja_021

祭礼日とあって人の出が多く、幟旗が賑々しい。1123futuharakumanojinja_001

10時過ぎ、まずは地元の人たちが拝殿に上がって、神(祭神はイザナギ、イザナミ、コトシロヌシ)に供え物をし、祓いを受け、祝詞奏上から、玉ぐし奉奠という順序で式は進む。

11時を回ると式が済み、参列者たちはいったん家路に着く。

 神舞(かんまい)は午後1時から始まるという。1123futuharakumanojinja_032

1時にきっかりに神舞保存会長の挨拶(―によると、少なくとも350年の歴史があるという)があり、やがて神舞が始まった。

 本来は外の境内の一角を注連縄で仕切っやるのだが、今日は時々小雨が降るというので、拝殿の中で行われた。1123futuharakumanojinja_023

山神の舞。

今年初めて小学生のそれも女子が舞った。保存会長の弁によれば「これまで女性の舞い手は無かったのですが、後継者不足でそうは言っていられない時代になりました」―だそうである。

 女子の踊りとしては、確かにやや勇壮かもしれない。それでもよくできた。1123futuharakumanojinja_024

矢抜き舞。

舞い手は回り廊下を通って、拝殿正面から入って行く(以下の舞いはすべてそうしていた)。1123futuharakumanojinja_025

茣蓙の敷かれた拝殿を、四隅までフルに使って舞われる。

 口上も入る。1123futuharakumanojinja_027

終わると再び回廊を通り、拝殿横の社務所に帰っていく。1123futuharakumanojinja_028

幣抜き舞。

矢抜き舞もあったが、「抜く」という意味がいまひとつ分からない。1123futuharakumanojinja_030

長刀舞。

 これは面を付けずに舞われるのが、他のと違っている。

 四方八方を祓い清めていく舞だと思われる。保存会長の息子が今年初めて代役をした。

 これは舞いと言うよりか、長刀の「剣舞」で、まるで武道の稽古をしているかのような激しさがあった。1123futuharakumanojinja_031

四神舞。

東西南北を司る「青・白・赤・黒」の面と衣装を身に着けた四人が真ん中に立てた鉾の周りで踊り回る。

 (残念ながら仕事の都合で、今回はここまでしか見られなかった。今日はあと4番あるそうで、来年を楽しみにしたい。)

 帰り際に、矢抜き舞を舞った人がいたので聞いてみると、昭和41年に42番すべてを復活したそうで、その頃は朝から晩までかかって舞われたという。

 12人が一緒に舞うのもあるそうで、とてもじゃないが今日では人が集められない――ともいう。道具類をちゃんと揃え、保管しておくのも一苦労らしい。

 以前、ビデオテープに収録したこともあったそうだが、そういうものをきちんと残して伝えておかないと、この先大変なことになりそうだ。人に見せることが本意ではないが、後継者が見つからないとなれば、いっそのこと舞い手を公募したら・・・などとも思ったりする。

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慈眼寺公園(鹿児島市谷山)

鹿児島市の中世史研究会11月例会に発表することがあり、市内に行ったついでに晩秋の慈眼寺公園を訪ねてみた。

 そうめん流しがあるくらい水に恵まれた公園で、かって慈眼寺という寺が建っていた幽邃の地だ。谷山街道の繁華街の一角にあるカルカンの菓子舗「明石屋」の所を右折すれば、ほぼ道なりに「谷山護国神社」に出る。そこをさらに直進して高架道路をくぐるとすぐ右手に公園入り口が見える。1122jigenji_005

さしたる工夫も無い入り口を入ると、うっそうと樹木の茂った別天地となる。

 高齢者のグループがこれから付近を散策するらしく、何やら話しあっていた。

 残念なことにモミジの紅葉にはまだ時間が必要のようで、色づいているのはほんの数枝といったところだ。1122jigenji_011

右手の道を直進すると、突き当たりに真っ赤な建物が見える。「稲荷神社」で、島津氏の信仰厚き稲荷神(おいなりさん=ウカノミタマ)だ。石橋の手前にはなぜか「青面金剛」という庚申信仰の石像が建っている。

 橋を渡り参拝する。その橋の上からは、清流の上流部の小さな滝が見える。凝灰岩を見事にえぐっている。1122jigenji_008

滝を眺め、ふと反対側を見て驚いた。

 子供を抱いた観音様?1122jigenji_015

樹木の間に、聖母マリアと幼児キリストか、神功皇后とホムタワケ(応神天皇)か・・・。橋から戻って近くに行くも、それらしき説明板などは無い。

 マリアにしろ神功皇后にしろ「母子像」に違いはあるまい。目と目を見詰め合う母子の間にはゆるぎなき愛と信頼が通う・・・・・。1122jigenji_009

凝灰岩の積み重なった崖と流れの間の、石だらけの道を行くと清流が手に届くようになる。

 谷山地区の山手とはいえすぐそこに人家があるような場所にしては、水は清らかだ。

 慈眼寺という寺名は徳川の治世になって最初の島津氏当主だった島津家久(旧名・忠恒=義弘の子)の法名「慈眼公」に因むのだが、創建は1300年前の日羅上人だそうだ。

 当時から、水は今と変わらず滾々と流れていたのだろう。住み易い所だったに違いない。

 日羅と言えば、「敏達天皇紀」に登場する「葦北国造・アリシト」の子で、百済で人臣位を極めた「達率(と言う位)・日羅」を思い出すが、登場する年代は西暦583年だから、この日羅だと1400年前になるので、微妙に違ってくる。しかも政治家であって僧侶(上人)ではない。同名異人だろうか、だが1300年前の仏教と言えば百済もしくは新羅という半島仏教が導入されていた頃と重なるので、あながち別人とも言いがたい気がする。高位高官なら仏教への造詣も深かったと考えてみてもよい。・・・・・宿題が生まれた。1122jigenji_010

今回、紅葉には早かったのは残念だったが、苔の美しさに瞠目させられた。

 凝灰岩の間に撒かれたシラスっぽい砂地の地面を覆う、細かいビロード風な緑の苔には、流れるような美しさがある。

 この公園が京都か東京にあったら、国の特別名勝として登録されていたかもしれない。それほどの名園が「タダで下駄履きで」味わえるとは贅沢な話。

 ゆめ、ソーメン流しと両棒餅のみに価値を置くなかれ。

 慈眼寺を出て、上手にある「ふるさと考古歴史館」に行く。1122jigenji_017

 入り口のケヤキの黄葉が見事だ。入館料300円也を払って見学する。

 ここでもまずは「篤姫さま」だった。特別展示室に入ると例によって記念撮影コーナーがある。1122jigenji_018

一人だし、写真は撮らなかったが、小松帯刀愛用の甲冑が展示されていたのには驚いた。1122jigenji_020

しかも所蔵者が「自彊学舎」というのだからすごい。自彊学舎は鹿児島では有名な学舎で、藩政時代から子弟の自治教育機関のひとつだった。

 帯刀も同学舎育ちだったのだろうか、伝統の根強さがひしひしと感じられる展示物だ。1122jigenji_025

考古遺物では「草野貝塚」出土の「市来式土器」の多様性が目に付いた。

 市来式土器は日置郡市来町の市来貝塚出土の土器が指標になったのだが、どちらも貝塚で見つかったように、市来式土器人(縄文時代後期=4000~3000年前)はかなり海洋性に富んだ人々で、九州一円から沖縄までを交流圏としていた。

 私見では、周王朝が天下泰平期だったころに「暢草(チョウソウ=香り草)」を貢献した倭人とは、この市来式土器人だったとみている。

 海洋性に富むのであればもっと鹿児島に貝塚が多く発見されてもいいのでは――との批判が出るのはやむを得まいが(鹿児島には貝塚が少なく、これまでに6箇所くらいしか発見されていない)、遠浅の海岸が少なく、おまけに海岸近くまでシラス崖が迫っていることと、降り積もる火山灰に覆われてしまうこともその要因だと思われる。

 火山灰に覆われると言えば、指宿の「弥次ヶ湯古墳」の例があった。本来、高塚の円墳だったのが度重なる火山灰によって覆われ、畑の表土に紛れてしまっていたのだった。それで高塚なのに「1メートル以上も掘り下げて」ようやく円墳だと確認された――という国内では稀な発掘が行われたのである。

 ――鹿児島湾岸ではこれまで高塚(円墳・前方後円墳)は無い、とされてきたが、指宿ではそんな具合にして発見された。だから、この谷山地区あたりにも高塚があっておかしくない、ですよね。

 と、考古館の学芸員に聞いてみたところ、「無いとは言えないですが、なにしろここは行政組織なものですから、ありそうだから掘ってみる、というわけには行かないんです」と逃げられてしまった。

 

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奇なるかな

現れてしまった。

何が・・・って、新種ですな。1122kikunokyouen_002

真ん中の小ぶりな菊。クリーム色をしている。この色は左下に見える自称「日の出菊」を親として分化したらしく、茎をたどると地中の地下根から分化したようだ。

 写真でははっきり分からないが、色はちょうど「日の出菊」の外輪の色である。1122kikunokyouen_003

親子の饗宴(競演?)のようで、面白い。

 下が親、右側は最初に生まれた(ように見えた)ピンク菊。左上が今度現れたクリーム菊。十数株ある「日の出菊」の一株だけがこんな分化現象を演じてくれた。

 目出度い(芽出度い・愛でたい)のか、奇なのか(気なのか・機なのか)はよく分からない。

奇と言えば、この人・・・・・九州生まれの本格派首相タローを想起する。

その祖父(母方)はもっと奇なるあの吉田茂だ。

「定額給付金」などという「あめ玉」を、堂々と掲げるとは、おいおいナニ考えているのだ、そんなはした金をばら撒くより、フリーターとかニート対策にドンとぶちまけてくれ。

高速道路の休日利用は「一律1000円」――もガソリンのばら撒きで環境に悪かろう。そんな金があったら、もっと環境問題に資する対策にドンと使ってくれ。日本が最も世界にアピールできる分野のはずだ。

国際金融危機に対処すべく「10兆円を出す容易がある」とは、大見得を切ったものだ。本当に大丈夫か?やはり日本は金だけか――と言われないように、この際、お得意の「タロー節」を唸りまくって「さすがあの戦後の外交通の名首相・吉田の孫だ」と国際社会で評価される働きをしてもらいたいものだ。

田中真紀子の言う「軍人・凡人・変人」に加えて「奇人」首相の誕生なら面白い(軍人「梶山静六」は首相にはなれなかったが)・・・・・。

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花岡町界隈(鹿屋市花岡町)

鹿屋市花岡町は中心部から北西に6キロほど行った所にある。国道220号線の一里山交差点を過ぎ、緩やかに登る道が続くが、このあたりは白水町で、右手に鹿屋ビジネススクールを見ると、間もなく「鹿屋体育大学前」の表示のある交差点だ。

 昨日今日と体育大学では学園祭が行われているというので、左折して寄ってみた。1116hanaoka_006

入り口には体育大学らしからぬウキウキした飾り付けで、入場を誘っていた。

 入ってすぐの駐車場に単車を停め、そこからは歩いて中央部へ向かう。1116hanaoka_005

キャンパスは落ち着いたレンガ色に統一されており、回廊まであったのには驚かされた。

 緑滴る――というほどではないが結構樹木が多く、体育大学というよりは医療系の大学のように見える。1116hanaoka_003

武道体育館の前の広場に行くと、屋外ステージでは例の「髭男爵」という漫才師が公演していた。

 他にも3組の吉本系漫才が行われたというから、すごい。出演料だけでも?百万だろう。よく呼べたものだ。1116hanaoka_007

一時間余り、生の漫才を堪能したあと、再びさっきの大学前交差点へ行き、道をそのまま直進して花岡方面へ向かう。

 途中の町は海道町といい、海のそばを走るわけでもないのにこのネーミングは面白い。私の最も好きな鹿屋市の町名である。

 海道町を過ぎる頃、道がやや下り坂に入ると、左手に光華保育園の看板が建ち、そのすぐ先に墓塔の林立が見えてくる。そこが花岡島津家の墓地だ。立派な墓塔が、1116hanaoka_009廃仏毀釈の前にはあった真如院の跡地にずらりと並ぶ。

花岡島津家は、島津氏第21代吉貴の兄弟にあたる久陳(ひさのぶ=久寿ひさとも)に花岡の地が与えられて「一所持ち」家となったのが始まりである(享保九年=1724年)。

 公領800石で始まるが、のちに開田や集積により5千石まで増加している。

 七代145年の治世に当たった領主がここに眠っている。

特筆すべきは第2代久尚の夫人・岩子で、女ながら、近辺に水が乏しいのを憂い、高須川上流から用水を通した(用水については後述する)。1116hanaoka_010

花岡島津家の墓地の所から道は下り、すぐに真新しい信号に差し掛かる。

 道路標示のように、まっすぐ行けば花岡の町並みに入り、右折すれば国道220号線バイパスで、花岡の町を左に見ながら海岸通り(まさかり海水浴場近く)に到る。

 今はまっすぐの道をとる。1116hanaoka_011

町並みは閑静で、右手には明治以降に建てられた浄土真宗「浄福寺」がある。

 突き当りが「鶴羽小学校」で、門構えが由緒を偲ばせている。1116hanaoka_013

一対の門柱は古そうだが、おそらく明治以降のものだ。だが、左の凝灰岩製ブロック積みの塀は藩政時代のものに違いない。

 ここは当時、花岡島津家の現地事務所「御仮屋」があった所で、向かって右の門柱に「鶴羽城跡」というプレートを埋めてあるのはいただけない。

 鶴羽城(木谷城)は学校後方の城山の上にあった戦国期までの城なのである。1116hanaoka_014

小学校の右手を回り込むようにして、城山へ上がる。標高は155㍍、学校の辺りがすでに130㍍ほどあるから比高にして25mしかない。

 頂上部はおそらく平に均されたのだろう、往時を思わせる本丸、二の丸といった遺構は見られない。

 その代わり100㍍×50㍍はありそうな緑一面の見事な芝生の公園になっている。高隈山系の稜線がくっきりと青空に映えていた。1116hanaoka_015

城山公園の一段低くなった林の中にかの「島津岩子夫人の碑」が建てられていた。昭和31年に土地改良区の肝いりで造られたとある。

 自然石のかなり大きな物である。手前には瓢箪池のデザインが施されていたようだが、残念ながら今は水が枯れている。

 それにしてもどこから用水を引いたのかが気になる。そこで、訪ねてみることにした。1116hanaoka_017

まずは用水の出口だ。

 城山を下り、ふたたび鶴羽小学校の前の通りに出、それを左折して山手に向かう。

 途中でバイパスを横断する。写真では左から来て、乗用車の右手に登っていく(バイパスの向こうが垂水方面)。

 登りに入って100㍍余りで右に入る農道があるから従って行く。クランク状に行くと、左へ上がる道がある。かなりの坂で、100㍍ほどで最上部に行き着く。そこには鉄製の門がある。1116hanaoka_018

出口は今ではコンクリートの貯水槽式になっているが、250年前と変わらぬ水が滔々と落ちている。

さて、この取入れ口を目指すことにする。1116hanaoka_020

さっきの登り道に戻り、急坂をあえぎながら行くと、陶芸の里「あすか陶苑」などを見ながら、約1キロで「国立大隅少年自然の家」の分岐点だ。

 ここからさらに1キロ半ほどで、最奥の集落「花里町」の入り口だ。1116hanaoka_021

立派なバス停を正面に見て、左を上がれば花里集落。用水路の起点へは右を下りて行く。

 舗装道路を100㍍余りで、高須川に架かる「柊野橋」という小さな橋が見えるから、そのすぐ手前を左に入る。もちろん山道だ。ただし四輪駆動車なら通ることができる。

 そこからおよそ300㍍で目指す取水口がある。1116hanaoka_023

鮮やかなブルーの手動式開閉装置の付いた水門が、井堰の横に設えられていた。当時、このような装置がある筈はないが、ここから取り入れていたことに変わりはない。

 取水口の後ろから幅1メートルほどの用水が流れ出していた。当時は素掘りの水路だったが、今はコンクリート製である。1116hanaoka_025

井堰の上流は手付かずの清流だ。

 夏の間、子供たちの水遊び場だったのだろうか、岸に生える大木にロープを吊るしてブランコを作った名残があった。

 水遊びもさぞ冷たかったろう。

 もっと上流には体育大学のある白水町まで引かれているという上水道の取り入れ口があると聞くが、また今度行くことにしよう。

来た道を引き返して再び花岡の町に戻り、小学校の通りに出る。1116hanaoka_012

 花岡集落センターの所を左折し、浄福寺を過ぎ、信号を過ぎて花岡島津家墓地に到り、今度はその先を右折する。

 案内板にしたがって行くと「高千穂神社」に到達する。1116hanaoka_032

車で行くと境内の横から入って行くことになるが、巨木の林の中でも拝殿の向こうに見えるイチョウは圧巻だ。

 目通しの直径は1メートル、高さ30mは下らないだろう。黄色味はだいぶ強くなっているが、まだ葉が落ちるまでにはなっていない。1116hanaoka_030_2

正面に回ると、随身殿を左右に控えた鹿屋では珍しい本格派の社殿である。

 本殿の造営は天和2(1682)年というから300年以上経つ。

 花岡島津家の創設よりも古くから信仰され、創設後に島津氏の後押しで花岡郷の総鎮守となった。享保11(1726)年には、時の中御門天皇の宣旨により「正一位」を授けられたそうだ。

 祭神は天孫ニニギノミコト。創建年代不詳という。伝承によると、霧島の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトが阿多の笠沙地方へ国まぎに行く途中、ここで休んだ所だとする。それで「当座大明神」とも言うんだそうな。

 いま、神社から海寄りの展望地に広い公園を造成しつつある。初詣の頃には完成するかもしれないので、また来てみよう。

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歴史認識――とくに太平洋戦争の――

田母神航空自衛隊幕僚長が「定年退職」扱いになって結局はやめさせられたことについて、やれ退職金を返納せよ、とか、なぜ依願退職にしなかったのか――と例によってマスコミはかまびすしいが、かっての守屋外務事務次官とは次元が違うだろう。

 守屋氏は明らかに業者との癒着があり賄賂を貰っていたので、これは堂々たる刑事事件による強制退職で、退職金も法的に支払われなかった事案であった。

 田母神氏の場合は刑事罰など何もない。ないのに依願退職させられたり、退職金を返還させられたりしたら、北朝鮮のような思想統一の独裁国家と何ら変わりはなくなろう。

 それでは、氏のどこが悪かったかというと、「政府の歴史認識と違っているのが<国家公務員として誤りである>」ということに尽きるようだ。

 だが、そもそも政府の歴史認識とは何か。あの太平洋戦争に関しては「ポツダム宣言」を受諾し、サンフランシスコ平和条約を締結し、極東軍事裁判および各国におけるA級・B級・C級戦犯の訴追と実刑判決を受けたことで法的には済んでいるのに、中国に行っては向こうの言い分に「ご無理ごもっとも」、韓国に対しても「すみません、すみません」と低姿勢はいいが、相手の言い分にただ平身低頭しているばかりだ。

 政府の歴史認識については、外務省のホームページの一部に特集的にQ&A形式で書かれているので、それを参照してみたい。

 1995年の戦後五十年「村山総理大臣談話」と、2005年の戦後六十年「小泉総理大臣談話」が平行して載せられてある。

 小泉総理の談話は、村山総理の談話を下敷きにしていることは明らかで、問題は村山談話だ。おそらくこれが日本国家の行政府の太平洋戦争に関する歴史認識なのだろう。読んでみると、太平洋戦争は「過去の一時期に誤った国策で、国民を塗炭の苦しみに投げ入れ、侵略と植民地政策で中国、韓国はじめ近隣諸国に多大の損害を与えた」戦争であるとしている。

 なるほど「侵略」と「植民地」が出てくる。日本の植民地に関しては、確かに「朝鮮」と、それに準ずるものとして「満州」があげられるが、満州も朝鮮も、当時ほうっておけばロシアの植民地になっていたことは明らかで、ために日本の朝鮮併合を当時の欧米の国際社会は許したのであった。その背景に、欧米のアジア・アフリカにおける植民地争奪が当たり前、という時代状況があったことを忘れてはなるまい。

 また、満州については朝鮮と同じ「併合」なら当時の通常の植民地政策であり、共産ロシアへの堅固な防波堤としての評価を得たのであろうが、「五族協和をコンセプトとした独立国家=満州帝国」などそれまでの侵略的欧米植民地主義には無い概念だったので、おどろいた欧米(特に英国)の反感を買った。それがリットン調査団派遣による「ノー」という裁定に表れたのである。

 要するに日本は、欧米の植民地争奪という世界分割(分捕り)合戦の真っ只中に割って入った唯一の非欧米(非白人)国家だったのであり、相も変わらぬ白人優位の「人種差別主義」の根幹を揺すぶったがために、目の敵にされた――これが太平洋戦争の真因である。

 これが「歴史認識」というものである。

 英国の歴史・文明学者A・トインビーは、文明間の「挑戦と応戦」を説いているが、それに従えば、太平洋戦争はまさに西洋植民地侵略・奴隷化文明に対する東洋的日本文明の応戦だったと言えるだろう。この観点をゆめゆめ忘れてはなるまい。

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また菊の新品種!

ワケが分からないとは、この頃の庭の菊だ。おととい辺り、つぼみが膨らんだとき、なんか違うなァと感じていたのだが、開いてみると明らかに違う。これまでにない色合いで、上品な淡いピンクが現れた。1112kikunoshinshu_002

おととし現れた自称「日の出菊」の株から20本ばかりの挿し芽を採取し、根を出した15,6本を、今年の6月ごろ、庭の一角に並べて植えたのだったが、その中の一本がこうなった。

 色自体は今年の他の新株にも出てきているが、そっちは花の形がごく普通の野路菊のタイプだが、これは違う。ラッパ型に咲いている。

 このラッパ型は「日の出菊」の遺伝そのものだ。1112kikunoshinshu_001

手前がラッパ型「日の出菊」。奥が新種のラッパ型「淡いピンク菊」。

 今年はこれでもう新種の打ち止めかと思う。原種を入れると通算で6種類にもなった。

来年がマジ 楽しみだ・・・。

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祓川町界隈(鹿屋市西祓川・中祓川・上祓川)

鹿屋市の中心街の顔となった北田交差点のリナ・シティから国道504号線で北上すると、1キロ余りで右手に県の合同庁舎がある。そこをさらに300㍍も行くと道が二手に分かれる。右を行けば樋渡橋を渡ってそのまま504号線、左に入ると西祓川地区となる。1108haraigawakaiwai_001

やがて正面にバイパスの高架橋が見え、橋下まで行くとそのまま左手へ上がっていくようになる。

 その途中から振り返って写したのがこれだが、いまトラックが停まっている辺りが「祓川地下式横穴墓群」(5世紀後半)が発見された場所で、その数30基になろうという一大墓群だった。

 実はこの付近では1950年に、高架橋の真下に建っている「西祓川集落センター」に付帯する道路工事中に「鉄製短甲と衝角付き冑」が出土している。同様な地下式古墳からだろう、と言われているが詳細は不明のままだ。

 また橋の行き着く向こうの丘陵では、伊勢神宮などの建築様式と同じという「棟持ち柱付き高床式建物」の跡が発見された「王子遺跡」(弥生時代中期)があり、少し下流の打馬地区と併せたこの肝属川中流部一帯は、弥生期から古墳期にかけて相当に開けていたのだろう。1108haraigawakaiwai_002

「祓川地下式横穴墓群」のすぐそばには肝属川が迫って流れており、地下式墓群の微高地は川に向かってせり出した格好になっている。確かに当時は「墓域=聖地」状の土地だったに違いない。

 路をそのまま山裾沿いに上流を目指すと、1、5キロほどで「長谷観音堂」に着く。周りは驚くほどの木立で、昼なお暗いほどである。1108haraigawakaiwai_003

都から当地へやって来た炭焼き五郎治という人が、付近の山で「青銅」を発掘し、都へ持参したところ、大金持ちになり、以前から信仰の奈良の長谷観音にちなんで、ここに観音像とお堂を建立した――(三国名勝図会)という謂れがあるそうだが、五郎治の発見した「青銅」とは何だろうか。「銅」なら銅鉱山の発見であり、後世にその鉱山跡がされるわけだがそのようなものはない。それに「青銅」は自然物ではなく「銅とスズの合金」である。

 すると何かとてつもない「青銅製のお宝」でも発見したのだろうか。南九州では考えられない埋蔵物で、歴史をひっくり返してしまうような何かを・・・・・。志布志湾岸と言っていい串間市で発見された、南九州ではあり得べからざる「穀璧(こくへき)=漢王朝時代に子爵が持つものとされた天子からの賜り品」のような何かを・・・・・。1108haraigawakaiwai_005

妄念に近い想いを切り上げ、少し川沿いを行く。「祓川公園入り口」の案内板にしたがって左折し、山合いに入る。

 200㍍ほどで左手に大きな公園を見る。祓川公園だ。山中にこんな広い所があったかと驚く広さで、2段になっており、下段は野球ができる広さがあり、気持ちよく整備されている。

 ちょうど、さっきの長谷観音の山の真裏に当たる場所だ。1108haraigawakaiwai_006

公園を離れ、さらに道を上り詰めると最奥と思われる田んぼの上手に巨大な「モクフヨウ」の木が、目の覚めるような花をたくさん着けていた。

 淡いピンク色の花が満開で、こんな山奥に誰が植えたのだろうといぶかるほどだ。多分、田んぼの持ち主のだろうが、このモクフヨウは4株からなり、右端の株が最も大きく、高さは8㍍ほど、幅は10㍍はあろうかと思われ、モクフヨウのこんな大木は珍しいのではないだろうか。1108haraigawakaiwai_008

モクフヨウのところで谷間の道をそれ以上登らずに右折して、谷沿いに下る道に入る。

 ところが30㍍も行くと人家が見え、そこで車が三台ばかり停まっている。見れば水道の蛇口から勢いよく水が落ち、男の人がたくさんの大きなペットボトルにそれを汲んでいるところだった。

「山の湧き水ですか?」

―いや、ここのポンプで汲み上げているんだよ。

 そう言えば、向こうの建物の白壁に「電力代協力金をここにお入れください」と書いた板が打ち付けられている。

「誰の所有なんですか?」

―「大谷洞」の物やっど。昔は「キラリの水」という商標で、ここの水を売っていたんだ。1108haraigawakaiwai_011_2一杯飲ませてもらう。たしかにうまい。

礼を言って別れた水汲み場からは、うねうねと続く山あいの集落道を降りて行くようになる。1キロも下ったろうか、左手に道路より高まった家があり、何と駐車場を造った上の庭からモクフヨウが顔を出しているではないか。

 しかも駐車場のすぐ右手には「木場薬師堂」の入り口がある。

 潅木に覆われ、蜘蛛の巣を払いながら登る石段は、丸っこい川原石で設えてあって滑りやすかった。1108haraigawakaiwai_010

30段ほどの石段の上には、神社の舞殿のような造りの建物があり、その奥に鍵の掛けられた小さなお堂が鎮座していた。

 ここに祀られているのは女体の薬師像で、由緒は不明だが永正五年(1508)の紀年銘入りの銅鐘が奉納してあり、少なくとも500年の歴史はある。

 元はもっと山奥にあったと言うが、今でも場所の雰囲気はひっそりとしている。1108haraigawakaiwai_012

薬師堂からさらに下ると、小さな橋が架かる。下を流れるのは柿元川で、今は側溝と化しているが、かっては木場集落を貫流する母なる川であった。農具を洗ったり、洗濯をしたりする村民憩いの流れであったろう。

 垂水島津家当主の第四代島津久信は、乱行のため27歳でここに隠居させられたそうだが、住いはこの川沿いのどこかであったに違いない。1800石をあてがわれたが、その後も乱行は止まず、村方の美貌の娘を手に入れようとして断られ、なぶり殺しにしている。娘の名は「おきん」といい、その供養碑が鹿屋市営八之尾墓地の入り口に建っている。1108haraigawakaiwai_016   

柿元川の橋から間もなく、道は国道504号線に行き当たるので左折する。

 すると100㍍ほどで祓川小学校を左手に見る。創立130年を越えたというこの小学校のシンボルは校庭の真ん中に立つ栴檀の木だ。

 高さは20㍍を超え、亭々と聳える姿は、卒業生なら誰しも心に焼き付いているに違いない。1108haraigawakaiwai_021

小学校を過ぎると国道は祓川地峡を通り抜け、上祓川地区にはいる。その山中には「祓川」の由来となった神社「瀬戸山神社」がある。

 小学校から約1.5キロで神社入り口を示す案内板があるから、それを左折し、まっすぐのおそらくかっては馬場だったと思われる参道を行くこと1キロ余り、ようやくにして神社にたどり着く。

 よく手入れされた杉木立の奥の長い石段の上に、瀬戸山神社は鎮座していた。1108haraigawakaiwai_022

拝殿に掲げられた由緒書きによると、創建は不明だが、この神社の神宮寺である五代寺の開基が永享二年(1430)であるので、少なくともそれ以前からは鎮座していたようである。

 祭神は山の神(オオヤマツミ)、水の神(ミヅハノメ)、木の神(ククノチ)と伊勢両宮という。山岳信仰の拠点であったらしく「三所権現」とも言われていた。神仏混交の典型だったと言える。だから神道風の「祓い」も行われていたのだろう。1108haraigawakaiwai_020

神社に向かって右手の山道に入った所に「祓川」の謂れとなったと思しき小河川があった。

 この川と特定する証拠はないが、とにかく祓川地区は高隈山系から流れ出る小流が豊富で、祓いミソギの行事を行うに事欠かない所である。1108haraigawakaiwai_026

神社の手前右手にはかって神宮寺「五代寺」が建っていた跡があり、いまそこには廃仏毀釈の嵐を生き延びた二体の仁王像や、歴代住職の墓などの石像物が一箇所に集められていて、往時を偲ぶよすがとなっている。1108haraigawakaiwai_029

祓川町の最奥の瀬戸山神社から、再び国道504号線に戻り、帰路を取る。

 祓川小学校のある中祓川地区を過ぎ、下祓川地区に差し掛かった所に「大園橋」がかかるが、その橋の袂にあるのが「大谷洞(温泉)」だ。あの蛇口からほとばしり出ていた湧き水の所有者である。営業はしていると思うが入ったことはない。1108haraigawakaiwai_027

実は大園橋の本家本元はこちらの石造りのめがね橋だ。

 まだ国道504号線の影も形もない明治35年ごろに、当時の鹿屋ー高隈間の幹線道路に架けられた。

 鹿児島の伊敷地区の石工がやって来て築いたという。全長30㍍の赤味がかった凝灰岩製の橋にはさしたる傷もなく、その優美な姿にはホッとさせられるものがある。

 百年を優に超えたが、これが鉄筋とコンクリートの橋だったらこう長くはもつまい。昭和13年の大隅半島を襲った未曾有のあの大水害にも耐えたのだから、あっぱれと言うほかない。いっそのこと鹿児島の橋という橋をこれに類する物に替え、鹿児島はホッとする所だ――というコンセプトに統一したらよかろうに。 

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五族協和な菊たち!

日がぐっと短くなり、朝の最低気温が10度を下回ろうかという頃から、庭の菊が咲き始めた。あちこちに植えたり、自然に種が飛んだりしてここ五年でずいぶん増えたが、面白いことに、元は薄い赤紫色だった数株が、今は自然交配と先祖帰りによって五色に変化している。1106kikunogohenge_001

左下が最初の薄い赤紫系(日が射しているため藤色に見える)の株。

 その上が濃い赤紫系、右下はピンクがかった薄い藤色系、その上がおそらく先祖帰りと思われるサツマ野路菊系の白色。

 真ん中の毛色の違ったのが、自称「日の出菊」。遺伝的には「キメラ型」と言うのだろうか、真ん中が濃い赤紫で、周りはやや赤味がかったクリーム色の色分けが鮮やかだ。1106kikunogohenge_005

最初に「分化」して先祖帰りしたと思われる真っ白な野路菊がこれ。

フェンス沿いの土壌条件の良くない所に優勢だ。1106kikunogohenge_009

その次に現れたのが、濃い赤紫系で、日当たりには左右されず、肥沃な場所に咲き出した。

 写真では野路菊系の叢生の中に、一株だけ顔を出している。1106kikunogohenge_004

一昨年、2,3株現れたのがこれ。今年はそれから挿し芽を採って、10数株に増やした。

まだ満開にはなっていないが、直径が6~7センチにもなる大輪系だ。

 自称で「日の出菊」。1106kikunogohenge_003

今年のニューフェイス「ピンク系の藤色」菊。

玄関前の余り肥沃とはいえない場所に現れた。結構な大輪だ。1106kikunogohenge_006

以上の4色の菊たちの元がこれ。

 小菊の種類で、一株が勝手に(剪定もせずに)丸い形になってくれるのが、有り難かったが、やはり三年目くらいからは、夏の頃に強く剪定しておかなければいけないようだ。

 (写真のはその三年株で、かなりばらけて来ている。)

 最後に紹介した「原種」が、いつの間にか五年経って、五つの色合いの菊に分化し、あるいは融合して増えてきた。

 歴史好きだからこれを「五族協和」の姿に譬える。歌なら「どの花もいい」か。

 折りしも、次期アメリカ大統領に初の黒人バラク・オバマが選ばれた。黒人と言っても母親が白人だからハーフで、それだったら分化ではなく「融合」だ。

 アメリカは褐色系モンゴロイドのインディアンを蹴散らして白人が国を開き、黒人を奴隷として働かせて食料大国となり、その後多くの人種が移住して工業、文化、文明を築き、ここ半世紀余り、世界をリードしてきた。しかし今や浪費文化(日常的にも、軍事的にも)と言われる文明の成れの果ての様相を呈してきている。

 「変革」――が確かに必要だ。その旗手が白人ではなく黒人とのハーフというところに、今度の人選の深い意味があるように思われてならない。

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日本の侵略度

憲法以下の法律を持ち、為政者が民意を反映し、軍事力の行使も民意による制限(シビリアン・コントロール)の下に置かれている国家を近代(市民)国家と呼ぶならば、第二次世界大戦以前の東洋おいては、日本以外に近代国家は無かった。

 と言うと、韓国人は「1910年に日本が合併という非道な侵略体制化に置いたから、朝鮮半島に近代国家ができなかったのだ」と非を鳴らすに違いない。

 しかし問題はそれ以前にあった。日本が欧米列強の進出を受けて世界情勢に目覚め、国内では攘夷派、開国派に分かれて争い、討幕運動の流れの中で多くの志士たちが苦悩し、時に血を流し合ってようやく国論を「王政復古」「文明開化」「四民平等」に纏め上げていたころ、朝鮮半島では李王朝の「尊王攘夷」のみで、いたずらに旧体制にしがみついていた。

 李王朝の両班(リャンバン)と呼ばれる「文官・武官」の貴族的官僚制は、王朝の蔭に自らの権益維持のみを願っており、西洋の進出に背を向けたまま、新しい世の創造を怠っていた。それでも一部の「志士」は、日本が李王朝の宗主国である清王朝を海戦で打破した頃(日清戦争)から、ようやく目覚め始め、日本をモデルに「維新」を遂行しようとしたが、結局のところ、「志士」たちは日本に亡命したり殺されたりで、ついに朝鮮人自らの手による「維新」は頓挫してしまった。

 だが、民衆の間に起こった「東学党」が叛乱を起こすに及んで、李王朝も体制の刷新を図らざるを得なくなり、王朝内部に軋みが出た時、あろうことか内院君派はロシアと手を結ぼうとしたのであった。満州瀋陽まで南下して来ていたロシアが、もし朝鮮半島をも掌中に入れれば、日本との衝突は時間の問題であったのだ。これを心配したのが英国で、ために日英同盟協約が結ばれることになった(1902年1月)。

 一方、その八年前の日清戦争に敗れた清王朝は弱体化の一途をたどり、「義和団」という排外主義団体が屋台骨を揺さぶっていた中国大陸では、欧米列強、中でもロシアが進出し、義和団鎮圧後も協定を無視して北京に軍隊を置いたままであった。

 2年後に日本はついにそのロシアとの戦いに臨んだ。世界中の誰しも強国ロシアの前に、小国日本が勝てるとは思わなかったのだが、何と、案に相違して日本は勝利を収めたのであった。米国の仲介で結ばれたポーツマス条約こそ、日本が欧米列強に伍して名実共に「近代国家」の仲間入りをした記念すべき条約であったと言える。

 結果として、先の日清戦争は清王朝の没落を早め、後の日露戦争はロマノフ王朝の落日を誘った。したがって日本は好むと好まざるとにかかわらず、現中国政府、現ロシア政府の出現と確立の手助けをしたことになる(恩義を感じろとは言わないが・・・)。

 強大(に見えた)清に勝ち、もっと強大だったロシアにも勝ったことで、日本がやや傲慢になったのは事実だろう。しかし世界の植民地獲得競争のリーダーたる欧米の牙城の中に、東洋の小国が割り込んだのも事実であった。

 以後、東アジアにおいては欧米列強の思惑通りには行かなくなった。そのことが列強の危機感をあおり、折りしも勃発した第一次世界大戦がドイツの降服で終結し、その時に開かれたパリ講和会議の席上で、日本の全権次席大使として臨んでいた牧野伸顕(大l久保利通の次男で、牧野家へ養子に入った)が「人種差別の撤廃」を動議し採決にかけたところ、何と、賛成多数という結果になった。

 驚いたのが議長をしていたアメリカの大統領ウィルソンであった。彼は、他の議題については多数決で衆議を決しながら、この結果についてだけは「満場一致でなければならぬ」と、せっかくの表決を無視した上、早々とアメリカに帰ってしまったのである。何という傲慢であろうか!

 かくて、人種問題をめぐり、日米は抜き差しならぬ確執の状態に入っていったのである。<黄禍論>(黄色人種が災いをもたらすという偏見思想)が盛んに唱えられたのも、この頃からである。アメリカは、はっきりと日本を仮想敵国とみなし始めたのであった。

 その結果としての日米開戦であったことを忘れてはなるまい。

 戦争の勝敗はアメリカに微笑み、日本は惨敗を喫したが、その結果、世界中で<植民地解放><民族の自立>の大きなうねりが高まり、多くの植民地が解放されたのである。

 日本も台湾・朝鮮・満州を植民地にしていたのだ、そんなことが言えるものか――多くの戦後知識人およびマスコミの論調はこうであった。

 勿論、台湾・朝鮮――それと一応独立国家ではあったが満州帝国も――たしかに紛れもなく日本の「植民地」であった。だが、欧米の経営する植民地とはまったく違っていた。もっとも大きな違いは教育制度であったろう。

 なにしろ台湾にも朝鮮にも「帝大」と「師範学校」が設立され、台湾および朝鮮が自立的に成り立っていく基礎造りに、日本が明治以降そうしたような同じ教育政策が採用されたのであった。他方、欧米列強の植民地政策では、現地民の首長クラスの子弟のみを自国の高等教育機関に入学させ、いわば「洗脳」したあと母国に帰らせ、欧米植民地政策の代理人にさせるというシステムを採ったのである。

 日本が侵略と搾取を目的として、台湾や朝鮮に進出したとしたら、現地に自国と同じような教育制度を設立するというそんな金のかかる、暇もかかる制度を扶植する必要はサラサラなかったであろう。

 今度更迭された防衛省航空幕僚長・田母神氏の論文は、そのような点を強調した客観的な論文であると思う。

 今日の夕方のニュースでも取り上げられていたが、更迭の理由として航空自衛隊に対する信頼を失墜させたから」が挙げられていたが、歴史認識としては全くまともな議論がそう言われるのは腑に落ちない。

 それを言うなら「航空自衛隊に対するマスコミへの信頼を失墜させた」に過ぎず、多くの良識ある国民はそんなことは感じていないはずだ。

 マスコミと戦後知識人の「勝てば官軍(アメリカの同盟国)、負ければ賊軍(日本)」史観はもういい加減に脱却するときだろう。

 

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