花岡町界隈(鹿屋市花岡町)
鹿屋市花岡町は中心部から北西に6キロほど行った所にある。国道220号線の一里山交差点を過ぎ、緩やかに登る道が続くが、このあたりは白水町で、右手に鹿屋ビジネススクールを見ると、間もなく「鹿屋体育大学前」の表示のある交差点だ。
昨日今日と体育大学では学園祭が行われているというので、左折して寄ってみた。
入り口には体育大学らしからぬウキウキした飾り付けで、入場を誘っていた。
入ってすぐの駐車場に単車を停め、そこからは歩いて中央部へ向かう。
キャンパスは落ち着いたレンガ色に統一されており、回廊まであったのには驚かされた。
緑滴る――というほどではないが結構樹木が多く、体育大学というよりは医療系の大学のように見える。
武道体育館の前の広場に行くと、屋外ステージでは例の「髭男爵」という漫才師が公演していた。
他にも3組の吉本系漫才が行われたというから、すごい。出演料だけでも?百万だろう。よく呼べたものだ。
一時間余り、生の漫才を堪能したあと、再びさっきの大学前交差点へ行き、道をそのまま直進して花岡方面へ向かう。
途中の町は海道町といい、海のそばを走るわけでもないのにこのネーミングは面白い。私の最も好きな鹿屋市の町名である。
海道町を過ぎる頃、道がやや下り坂に入ると、左手に光華保育園の看板が建ち、そのすぐ先に墓塔の林立が見えてくる。そこが花岡島津家の墓地だ。立派な墓塔が、廃仏毀釈の前にはあった真如院の跡地にずらりと並ぶ。
花岡島津家は、島津氏第21代吉貴の兄弟にあたる久陳(ひさのぶ=久寿ひさとも)に花岡の地が与えられて「一所持ち」家となったのが始まりである(享保九年=1724年)。
公領800石で始まるが、のちに開田や集積により5千石まで増加している。
七代145年の治世に当たった領主がここに眠っている。
特筆すべきは第2代久尚の夫人・岩子で、女ながら、近辺に水が乏しいのを憂い、高須川上流から用水を通した(用水については後述する)。
花岡島津家の墓地の所から道は下り、すぐに真新しい信号に差し掛かる。
道路標示のように、まっすぐ行けば花岡の町並みに入り、右折すれば国道220号線バイパスで、花岡の町を左に見ながら海岸通り(まさかり海水浴場近く)に到る。
町並みは閑静で、右手には明治以降に建てられた浄土真宗「浄福寺」がある。
一対の門柱は古そうだが、おそらく明治以降のものだ。だが、左の凝灰岩製ブロック積みの塀は藩政時代のものに違いない。
ここは当時、花岡島津家の現地事務所「御仮屋」があった所で、向かって右の門柱に「鶴羽城跡」というプレートを埋めてあるのはいただけない。
鶴羽城(木谷城)は学校後方の城山の上にあった戦国期までの城なのである。
小学校の右手を回り込むようにして、城山へ上がる。標高は155㍍、学校の辺りがすでに130㍍ほどあるから比高にして25mしかない。
頂上部はおそらく平に均されたのだろう、往時を思わせる本丸、二の丸といった遺構は見られない。
その代わり100㍍×50㍍はありそうな緑一面の見事な芝生の公園になっている。高隈山系の稜線がくっきりと青空に映えていた。
城山公園の一段低くなった林の中にかの「島津岩子夫人の碑」が建てられていた。昭和31年に土地改良区の肝いりで造られたとある。
自然石のかなり大きな物である。手前には瓢箪池のデザインが施されていたようだが、残念ながら今は水が枯れている。
それにしてもどこから用水を引いたのかが気になる。そこで、訪ねてみることにした。
まずは用水の出口だ。
城山を下り、ふたたび鶴羽小学校の前の通りに出、それを左折して山手に向かう。
途中でバイパスを横断する。写真では左から来て、乗用車の右手に登っていく(バイパスの向こうが垂水方面)。
登りに入って100㍍余りで右に入る農道があるから従って行く。クランク状に行くと、左へ上がる道がある。かなりの坂で、100㍍ほどで最上部に行き着く。そこには鉄製の門がある。
出口は今ではコンクリートの貯水槽式になっているが、250年前と変わらぬ水が滔々と落ちている。
さっきの登り道に戻り、急坂をあえぎながら行くと、陶芸の里「あすか陶苑」などを見ながら、約1キロで「国立大隅少年自然の家」の分岐点だ。
ここからさらに1キロ半ほどで、最奥の集落「花里町」の入り口だ。
立派なバス停を正面に見て、左を上がれば花里集落。用水路の起点へは右を下りて行く。
舗装道路を100㍍余りで、高須川に架かる「柊野橋」という小さな橋が見えるから、そのすぐ手前を左に入る。もちろん山道だ。ただし四輪駆動車なら通ることができる。
鮮やかなブルーの手動式開閉装置の付いた水門が、井堰の横に設えられていた。当時、このような装置がある筈はないが、ここから取り入れていたことに変わりはない。
取水口の後ろから幅1メートルほどの用水が流れ出していた。当時は素掘りの水路だったが、今はコンクリート製である。
井堰の上流は手付かずの清流だ。
夏の間、子供たちの水遊び場だったのだろうか、岸に生える大木にロープを吊るしてブランコを作った名残があった。
水遊びもさぞ冷たかったろう。
もっと上流には体育大学のある白水町まで引かれているという上水道の取り入れ口があると聞くが、また今度行くことにしよう。
花岡集落センターの所を左折し、浄福寺を過ぎ、信号を過ぎて花岡島津家墓地に到り、今度はその先を右折する。
車で行くと境内の横から入って行くことになるが、巨木の林の中でも拝殿の向こうに見えるイチョウは圧巻だ。
目通しの直径は1メートル、高さ30mは下らないだろう。黄色味はだいぶ強くなっているが、まだ葉が落ちるまでにはなっていない。
正面に回ると、随身殿を左右に控えた鹿屋では珍しい本格派の社殿である。
本殿の造営は天和2(1682)年というから300年以上経つ。
花岡島津家の創設よりも古くから信仰され、創設後に島津氏の後押しで花岡郷の総鎮守となった。享保11(1726)年には、時の中御門天皇の宣旨により「正一位」を授けられたそうだ。
祭神は天孫ニニギノミコト。創建年代不詳という。伝承によると、霧島の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトが阿多の笠沙地方へ国まぎに行く途中、ここで休んだ所だとする。それで「当座大明神」とも言うんだそうな。
いま、神社から海寄りの展望地に広い公園を造成しつつある。初詣の頃には完成するかもしれないので、また来てみよう。
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