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祓川町界隈(鹿屋市西祓川・中祓川・上祓川)

鹿屋市の中心街の顔となった北田交差点のリナ・シティから国道504号線で北上すると、1キロ余りで右手に県の合同庁舎がある。そこをさらに300㍍も行くと道が二手に分かれる。右を行けば樋渡橋を渡ってそのまま504号線、左に入ると西祓川地区となる。1108haraigawakaiwai_001

やがて正面にバイパスの高架橋が見え、橋下まで行くとそのまま左手へ上がっていくようになる。

 その途中から振り返って写したのがこれだが、いまトラックが停まっている辺りが「祓川地下式横穴墓群」(5世紀後半)が発見された場所で、その数30基になろうという一大墓群だった。

 実はこの付近では1950年に、高架橋の真下に建っている「西祓川集落センター」に付帯する道路工事中に「鉄製短甲と衝角付き冑」が出土している。同様な地下式古墳からだろう、と言われているが詳細は不明のままだ。

 また橋の行き着く向こうの丘陵では、伊勢神宮などの建築様式と同じという「棟持ち柱付き高床式建物」の跡が発見された「王子遺跡」(弥生時代中期)があり、少し下流の打馬地区と併せたこの肝属川中流部一帯は、弥生期から古墳期にかけて相当に開けていたのだろう。1108haraigawakaiwai_002

「祓川地下式横穴墓群」のすぐそばには肝属川が迫って流れており、地下式墓群の微高地は川に向かってせり出した格好になっている。確かに当時は「墓域=聖地」状の土地だったに違いない。

 路をそのまま山裾沿いに上流を目指すと、1、5キロほどで「長谷観音堂」に着く。周りは驚くほどの木立で、昼なお暗いほどである。1108haraigawakaiwai_003

都から当地へやって来た炭焼き五郎治という人が、付近の山で「青銅」を発掘し、都へ持参したところ、大金持ちになり、以前から信仰の奈良の長谷観音にちなんで、ここに観音像とお堂を建立した――(三国名勝図会)という謂れがあるそうだが、五郎治の発見した「青銅」とは何だろうか。「銅」なら銅鉱山の発見であり、後世にその鉱山跡がされるわけだがそのようなものはない。それに「青銅」は自然物ではなく「銅とスズの合金」である。

 すると何かとてつもない「青銅製のお宝」でも発見したのだろうか。南九州では考えられない埋蔵物で、歴史をひっくり返してしまうような何かを・・・・・。志布志湾岸と言っていい串間市で発見された、南九州ではあり得べからざる「穀璧(こくへき)=漢王朝時代に子爵が持つものとされた天子からの賜り品」のような何かを・・・・・。1108haraigawakaiwai_005

妄念に近い想いを切り上げ、少し川沿いを行く。「祓川公園入り口」の案内板にしたがって左折し、山合いに入る。

 200㍍ほどで左手に大きな公園を見る。祓川公園だ。山中にこんな広い所があったかと驚く広さで、2段になっており、下段は野球ができる広さがあり、気持ちよく整備されている。

 ちょうど、さっきの長谷観音の山の真裏に当たる場所だ。1108haraigawakaiwai_006

公園を離れ、さらに道を上り詰めると最奥と思われる田んぼの上手に巨大な「モクフヨウ」の木が、目の覚めるような花をたくさん着けていた。

 淡いピンク色の花が満開で、こんな山奥に誰が植えたのだろうといぶかるほどだ。多分、田んぼの持ち主のだろうが、このモクフヨウは4株からなり、右端の株が最も大きく、高さは8㍍ほど、幅は10㍍はあろうかと思われ、モクフヨウのこんな大木は珍しいのではないだろうか。1108haraigawakaiwai_008

モクフヨウのところで谷間の道をそれ以上登らずに右折して、谷沿いに下る道に入る。

 ところが30㍍も行くと人家が見え、そこで車が三台ばかり停まっている。見れば水道の蛇口から勢いよく水が落ち、男の人がたくさんの大きなペットボトルにそれを汲んでいるところだった。

「山の湧き水ですか?」

―いや、ここのポンプで汲み上げているんだよ。

 そう言えば、向こうの建物の白壁に「電力代協力金をここにお入れください」と書いた板が打ち付けられている。

「誰の所有なんですか?」

―「大谷洞」の物やっど。昔は「キラリの水」という商標で、ここの水を売っていたんだ。1108haraigawakaiwai_011_2一杯飲ませてもらう。たしかにうまい。

礼を言って別れた水汲み場からは、うねうねと続く山あいの集落道を降りて行くようになる。1キロも下ったろうか、左手に道路より高まった家があり、何と駐車場を造った上の庭からモクフヨウが顔を出しているではないか。

 しかも駐車場のすぐ右手には「木場薬師堂」の入り口がある。

 潅木に覆われ、蜘蛛の巣を払いながら登る石段は、丸っこい川原石で設えてあって滑りやすかった。1108haraigawakaiwai_010

30段ほどの石段の上には、神社の舞殿のような造りの建物があり、その奥に鍵の掛けられた小さなお堂が鎮座していた。

 ここに祀られているのは女体の薬師像で、由緒は不明だが永正五年(1508)の紀年銘入りの銅鐘が奉納してあり、少なくとも500年の歴史はある。

 元はもっと山奥にあったと言うが、今でも場所の雰囲気はひっそりとしている。1108haraigawakaiwai_012

薬師堂からさらに下ると、小さな橋が架かる。下を流れるのは柿元川で、今は側溝と化しているが、かっては木場集落を貫流する母なる川であった。農具を洗ったり、洗濯をしたりする村民憩いの流れであったろう。

 垂水島津家当主の第四代島津久信は、乱行のため27歳でここに隠居させられたそうだが、住いはこの川沿いのどこかであったに違いない。1800石をあてがわれたが、その後も乱行は止まず、村方の美貌の娘を手に入れようとして断られ、なぶり殺しにしている。娘の名は「おきん」といい、その供養碑が鹿屋市営八之尾墓地の入り口に建っている。1108haraigawakaiwai_016   

柿元川の橋から間もなく、道は国道504号線に行き当たるので左折する。

 すると100㍍ほどで祓川小学校を左手に見る。創立130年を越えたというこの小学校のシンボルは校庭の真ん中に立つ栴檀の木だ。

 高さは20㍍を超え、亭々と聳える姿は、卒業生なら誰しも心に焼き付いているに違いない。1108haraigawakaiwai_021

小学校を過ぎると国道は祓川地峡を通り抜け、上祓川地区にはいる。その山中には「祓川」の由来となった神社「瀬戸山神社」がある。

 小学校から約1.5キロで神社入り口を示す案内板があるから、それを左折し、まっすぐのおそらくかっては馬場だったと思われる参道を行くこと1キロ余り、ようやくにして神社にたどり着く。

 よく手入れされた杉木立の奥の長い石段の上に、瀬戸山神社は鎮座していた。1108haraigawakaiwai_022

拝殿に掲げられた由緒書きによると、創建は不明だが、この神社の神宮寺である五代寺の開基が永享二年(1430)であるので、少なくともそれ以前からは鎮座していたようである。

 祭神は山の神(オオヤマツミ)、水の神(ミヅハノメ)、木の神(ククノチ)と伊勢両宮という。山岳信仰の拠点であったらしく「三所権現」とも言われていた。神仏混交の典型だったと言える。だから神道風の「祓い」も行われていたのだろう。1108haraigawakaiwai_020

神社に向かって右手の山道に入った所に「祓川」の謂れとなったと思しき小河川があった。

 この川と特定する証拠はないが、とにかく祓川地区は高隈山系から流れ出る小流が豊富で、祓いミソギの行事を行うに事欠かない所である。1108haraigawakaiwai_026

神社の手前右手にはかって神宮寺「五代寺」が建っていた跡があり、いまそこには廃仏毀釈の嵐を生き延びた二体の仁王像や、歴代住職の墓などの石像物が一箇所に集められていて、往時を偲ぶよすがとなっている。1108haraigawakaiwai_029

祓川町の最奥の瀬戸山神社から、再び国道504号線に戻り、帰路を取る。

 祓川小学校のある中祓川地区を過ぎ、下祓川地区に差し掛かった所に「大園橋」がかかるが、その橋の袂にあるのが「大谷洞(温泉)」だ。あの蛇口からほとばしり出ていた湧き水の所有者である。営業はしていると思うが入ったことはない。1108haraigawakaiwai_027

実は大園橋の本家本元はこちらの石造りのめがね橋だ。

 まだ国道504号線の影も形もない明治35年ごろに、当時の鹿屋ー高隈間の幹線道路に架けられた。

 鹿児島の伊敷地区の石工がやって来て築いたという。全長30㍍の赤味がかった凝灰岩製の橋にはさしたる傷もなく、その優美な姿にはホッとさせられるものがある。

 百年を優に超えたが、これが鉄筋とコンクリートの橋だったらこう長くはもつまい。昭和13年の大隅半島を襲った未曾有のあの大水害にも耐えたのだから、あっぱれと言うほかない。いっそのこと鹿児島の橋という橋をこれに類する物に替え、鹿児島はホッとする所だ――というコンセプトに統一したらよかろうに。 

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