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肝属山地と御来光

一昨日から今日にかけて、かなりの西風が吹く。「木枯らし」には違いないのだが、まだ紅葉も黄葉も途中なので、木々の葉がかさこそと音を立てて落ちるまでには行かない。

 でも空模様は正直だ。木枯らしの吹く頃、きまって「御来光」を見せてくれる。1129furuechoukaiwai_002

肝属山地の屏風の向こうに太陽が昇る直前に見せる朝焼けと御来光。

 肝属山地は右端のピーク「甫余志岳(ほよしだけ=969m)」を最高峰とする、高さの割には結構ふところの深い山地だ。水は清く、滝も多い。なにしろ全山これ花崗岩だから、水がやわらかでくせがないのが特徴である。

 そんな肝属山地の山懐に根を張った豪族が「肝付氏」で、伴姓というからかの政治家であり歌人でもあった大伴家持と同族だ。いや彼は同族どころか祖先のひとりでもある。

 この「きもつき」の語に漢字を当てた最も古い例は、『続日本紀』文武天皇4年(700)6月条に登場する「肝衝難波(きもつき・なにわ)」という人物名だ。地名としての「きもつき」は13年後の元明天皇時代・和銅6(713)年4月に日向国の4郡を分割して「大隅国」を創設した時のその4郡(肝坏・曽於・大隅・姶羅)の「肝坏」として現れる。

 地名より人名のほうが先だということは、後の「肝付氏」が入部する以前、すでに古族「肝衝氏」がいたからに他ならず、では古族「肝衝氏」の「きもつき」とはどうしてそう名付けられたかに興味が至る。

 私見ではそれは「鴨着き(かもつき)」からで、これを「かもどく(島)」と詠んだのが皇孫二代目のホホデミノミコト(山幸彦)だった。

 「鴨(かも)」は「鹿児(かこ=舵子)」と同義であり、大隅国分立以前の古日向からは、鴨の属性(冬鳥で半島から沿海州までを往来する)になぞらえられる「鹿児(かこ=航海民)」が輩出した所であるがゆえに後世「鹿児島」と呼ばれるようになった。

 したがって「きもつき(鴨着き)」も「鹿児島」も歴史的に見れば、ほとんど同義語といってよいことになる。

律令制制定後、大隅半島で最初に認識された人物「肝衝難波(きもつき・なにわ)」は薩摩半島の頴娃郡の豪族らと共に「肥人を従えて覓国使(ベッコクシ・くにまぎのつかい)刑部真木らに乱暴した」というから、大隅きっての豪族で、薩摩半島などへの海上交通をも支配していたようである。

 やはりそこには「鹿児(航海民)」の姿がちらつく。

 その一方で伴姓の後の「肝付氏」自身には「航海民性」はない。

 肝衝難波一党のその後の状況は皆目分からないが、2~30年後に登場する「加志君・和多利(かしのきみ・わたり)」や「佐須岐君・ヤマトククメ」などの豪族に取って代わられたのだろうか?

 しかし前者の「加志君・ワタリ」などはいかにも「航海民」を連想させる名だ。後者にしても「佐須岐」とあるからには「佐須」の「岐」つまり「佐須」の「港」を支配する、これまた「海人」の類なのかもしれない。とすれば主は代わったが海人としての属性を持つことは変わらなかったことになり、大隅半島の風俗がいかに海洋性に富んでいたかの証拠となる。

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