慈眼寺公園(鹿児島市谷山)
鹿児島市の中世史研究会11月例会に発表することがあり、市内に行ったついでに晩秋の慈眼寺公園を訪ねてみた。
そうめん流しがあるくらい水に恵まれた公園で、かって慈眼寺という寺が建っていた幽邃の地だ。谷山街道の繁華街の一角にあるカルカンの菓子舗「明石屋」の所を右折すれば、ほぼ道なりに「谷山護国神社」に出る。そこをさらに直進して高架道路をくぐるとすぐ右手に公園入り口が見える。
さしたる工夫も無い入り口を入ると、うっそうと樹木の茂った別天地となる。
高齢者のグループがこれから付近を散策するらしく、何やら話しあっていた。
残念なことにモミジの紅葉にはまだ時間が必要のようで、色づいているのはほんの数枝といったところだ。
右手の道を直進すると、突き当たりに真っ赤な建物が見える。「稲荷神社」で、島津氏の信仰厚き稲荷神(おいなりさん=ウカノミタマ)だ。石橋の手前にはなぜか「青面金剛」という庚申信仰の石像が建っている。
橋を渡り参拝する。その橋の上からは、清流の上流部の小さな滝が見える。凝灰岩を見事にえぐっている。
滝を眺め、ふと反対側を見て驚いた。
樹木の間に、聖母マリアと幼児キリストか、神功皇后とホムタワケ(応神天皇)か・・・。橋から戻って近くに行くも、それらしき説明板などは無い。
マリアにしろ神功皇后にしろ「母子像」に違いはあるまい。目と目を見詰め合う母子の間にはゆるぎなき愛と信頼が通う・・・・・。
凝灰岩の積み重なった崖と流れの間の、石だらけの道を行くと清流が手に届くようになる。
谷山地区の山手とはいえすぐそこに人家があるような場所にしては、水は清らかだ。
慈眼寺という寺名は徳川の治世になって最初の島津氏当主だった島津家久(旧名・忠恒=義弘の子)の法名「慈眼公」に因むのだが、創建は1300年前の日羅上人だそうだ。
当時から、水は今と変わらず滾々と流れていたのだろう。住み易い所だったに違いない。
日羅と言えば、「敏達天皇紀」に登場する「葦北国造・アリシト」の子で、百済で人臣位を極めた「達率(と言う位)・日羅」を思い出すが、登場する年代は西暦583年だから、この日羅だと1400年前になるので、微妙に違ってくる。しかも政治家であって僧侶(上人)ではない。同名異人だろうか、だが1300年前の仏教と言えば百済もしくは新羅という半島仏教が導入されていた頃と重なるので、あながち別人とも言いがたい気がする。高位高官なら仏教への造詣も深かったと考えてみてもよい。・・・・・宿題が生まれた。
今回、紅葉には早かったのは残念だったが、苔の美しさに瞠目させられた。
凝灰岩の間に撒かれたシラスっぽい砂地の地面を覆う、細かいビロード風な緑の苔には、流れるような美しさがある。
この公園が京都か東京にあったら、国の特別名勝として登録されていたかもしれない。それほどの名園が「タダで下駄履きで」味わえるとは贅沢な話。
ゆめ、ソーメン流しと両棒餅のみに価値を置くなかれ。
入り口のケヤキの黄葉が見事だ。入館料300円也を払って見学する。
ここでもまずは「篤姫さま」だった。特別展示室に入ると例によって記念撮影コーナーがある。
一人だし、写真は撮らなかったが、小松帯刀愛用の甲冑が展示されていたのには驚いた。
しかも所蔵者が「自彊学舎」というのだからすごい。自彊学舎は鹿児島では有名な学舎で、藩政時代から子弟の自治教育機関のひとつだった。
帯刀も同学舎育ちだったのだろうか、伝統の根強さがひしひしと感じられる展示物だ。
考古遺物では「草野貝塚」出土の「市来式土器」の多様性が目に付いた。
市来式土器は日置郡市来町の市来貝塚出土の土器が指標になったのだが、どちらも貝塚で見つかったように、市来式土器人(縄文時代後期=4000~3000年前)はかなり海洋性に富んだ人々で、九州一円から沖縄までを交流圏としていた。
私見では、周王朝が天下泰平期だったころに「暢草(チョウソウ=香り草)」を貢献した倭人とは、この市来式土器人だったとみている。
海洋性に富むのであればもっと鹿児島に貝塚が多く発見されてもいいのでは――との批判が出るのはやむを得まいが(鹿児島には貝塚が少なく、これまでに6箇所くらいしか発見されていない)、遠浅の海岸が少なく、おまけに海岸近くまでシラス崖が迫っていることと、降り積もる火山灰に覆われてしまうこともその要因だと思われる。
火山灰に覆われると言えば、指宿の「弥次ヶ湯古墳」の例があった。本来、高塚の円墳だったのが度重なる火山灰によって覆われ、畑の表土に紛れてしまっていたのだった。それで高塚なのに「1メートル以上も掘り下げて」ようやく円墳だと確認された――という国内では稀な発掘が行われたのである。
――鹿児島湾岸ではこれまで高塚(円墳・前方後円墳)は無い、とされてきたが、指宿ではそんな具合にして発見された。だから、この谷山地区あたりにも高塚があっておかしくない、ですよね。
と、考古館の学芸員に聞いてみたところ、「無いとは言えないですが、なにしろここは行政組織なものですから、ありそうだから掘ってみる、というわけには行かないんです」と逃げられてしまった。
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コメント
みなおさんの所がブログ大賞2008をとられたそうですが
http://blog.canpan.info/minao/
ここのブログは、もはやブログというよりジャーナルと言って良いほど読み応えがあります。ここも貰ってもおかしくないとおもいまひたが・・・。私の良く読むフリピンの方のブログも○○ジャーナルとなっておりました。
投稿: | 2008年11月23日 (日) 19時30分
コメントありがとうございます。みなおブログは隣町の教育委員会という公的機関のもの。当方はただ大隅半島のあれやこれやを「勝手にアップしている」だけのブログです。
まあ、強いて言えば「ブログ大将(大賞)」と思うことにして、長く続けようと。
投稿: kamodoku | 2008年11月24日 (月) 20時32分