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門松をつくる

門松のいわれはともかく、大隅地方では松に加えて梅と竹を添えて「松竹梅」というめでたい組み合わせの門松を作るのが一般的だ。

 今年初めて、門松作りに挑戦してみた。たまたま出かけた国道沿いの道の駅で、きれいに切られた竹と、土台部分の割り竹のセットが売られていたのがきっかけになった(一対分で1000円也)。

 土台の割り竹の中に詰める土は、ほとんどの門松では大隅地方特有のシラスを使っているが、本来は海の砂ではないかと思い、昨日の夕方、高須海岸へ清浄な砂を採りに行った。1231kadomatu_004

折りしも、夕日が高須海水浴場の沖に浮かぶ、自称で「二見ヶ浦」の岩礁の間に落ちていくところだった。1231kadomatu_001

門松一対分で、肥料袋一杯あれば十分だが、重くなるので二袋に分けて入れる。

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そして今朝、朝一番で作り始めて1時間ほどで完成(向かって右)。

土台の割り竹には、具合良くすでに紐が編み掛けられていたので、砂を入れさえすれば適当に丸くなってくれた。こちらで竹一本一本に紐を掛けていったら、かなりの時間がかかったろう。1231kadomatu_009

向かって左。

他所のを見ると、松竹梅のほかに南天、千両、万両などを加えていたり、根元に違う花を置いていたりするが、そうなるとこの直径30センチでは足らなくなる。

 また、割り竹の代わりに藁縄で作った菰(こも)を巻くのが本格的らしいが、まあ、これくらいが我が家らしかろう。1231kadomatu_007

殺風景な入り口がそれなりにちょっと改まったか・・・。

 宅急便のドライバーに告ぐ――タイヤで踏み潰さないようにしてくれよ。

 それでは、皆さん、佳い年をお迎えください。

 

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謎の地名「中福良」考

鹿屋市吾平町を流れる「姶良川」の中流、吾平町麓地区の上手に「中福良地区」がある。今そこでは大規模な水田基盤整備事業が行われている。1228ogawanotakitonakafukura_009

水田の高低を均し、水利が得やすいようにする事業で、農閑期の冬場にはよく見られる事業である。

 写真は中福良地区のもっとも上流側(南側)から写したものだが、水田の床土からすくい上げられた土の山がたくさん見えている。

 よく見るとさらさらとした砂地のようで、昔は川がこの辺りを流れていたのかもしれない。1228ogawanotakitonakafukura_015

この写真は同じ中福良地区を、東にある「玉泉寺公園」の近くから撮ったもの。

 後ろのうっそうと茂った木立のある丘ではなく、手前のなだらかに広がった地域こそが中福良だ。1230nakafukura_004

玉泉寺公園の方から中福良に入る際には姶良川に架かる「中福良橋」を渡る。1230nakafukura_006

左手の上流側を見ると、目通しで1キロほど先まで平らで、右奥の「鶴峰小学校」と左奥の「鶴峰橋」(写真では見えない)とが、この中福良地区の南の境界を形成しているのが分かる。1230nakafukura_005

反対側の下流を眺める。

右手から突き出ているシラス台地の先端を迂回した辺りの右岸に「小鹿酒造」の本社工場があり、さらにそこから100メートル余り行くと「吾平中学校」が建つ。

 その辺りまでが広い意味の中福良地区で、南北に1,5キロ、東西0,8キロほどの緩やかな河谷にすっぽり収まっている。1228ogawanotakitonakafukura_017

中福良橋から入った中福良集落は、ほとんど起伏のない土地で、道路も家屋もゆったりしている。1228ogawanotakitonakafukura_018

集落道を抜けていくと、あと100メートルほどで西の山すそを走る県道「中央線」に出るという所の左手に「田中八幡神社」がある。

 この神社は明治4年(1871)に、麓地区の中心から当地に移されたものだ。そこには「鵜戸神社」が建立されている(もちろん今もある)。

 田中八幡の旧名は「姶良八幡宮」で、鹿児島神宮の南域を示していると言うが、その当時の建立者は島津荘を拓いた「平季基」の弟「平良宗」であった。

 姶良八幡時代に奉納された古鏡に「長元4年(1031)」の紀年銘が入っているので、間違いないとされている。したがってこの神社は創建以来かれこれ千年の古社ということになる。(これより古い創建の神社は大隅半島では串良下小原の「万八千神社」など数社あると言うが、いずれも古文書や紀年銘のあるものが残っておらず、現在のところ確証には難がある。)1228ogawanotakitonakafukura_020

拝殿奥の本殿は昭和3年に京都の宮大工に造らせたという。透かし彫りをふんだんに施した格調高いものである。

1230nakafukura_003 田中八幡の前を通り過ぎて100メートルも行くと県道に突き当たる。

 そこから見た田中八幡神社は社叢林ですぐそれと分かるが、右手に立つ看板の下の田んぼの高さ(海抜)が異様に低いのには驚かされる。

 田中八幡より5㍍ほども低くなっているのである。

 実はかってそこは河道ではなかったかという疑いが持たれてくるのだ。するとこう考えられる。

 中福良集落はこの田中八幡を含めて、集落全体が川中島ではなかったか。単なる砂州ではなく恒常的に人の住める川の中の島ではなかっただろうか。

 地形を見ると、姶良川は上流の鶴峰橋の下をくだったら数本の川に分かれ、その氾濫によっていくつかの川中島が形成された。川筋は変遷しただろうが、その中で砂州のレベルを超えて人の住める島が生まれたか、または築かれた。それが現在も続いている中福良集落だろう。

 それを踏まえて、この何とはなしにめでたい集落名「中福良」の意味を考えてみる。

 「中福良」地名は常に「中福良」単独で使われ、けっして「上福良」「下福良」を伴わないのが特徴。このことから「中」は「上中下」の意味の中(ちゅう)でないことが言えるわけである。

 大隅地区には木造では最古の駅舎として有名な肥薩線の嘉例川駅があるが、その一駅手前には「中福良駅」があり、その辺り全体を中福良というが、嘉例川がすぐそばを流れ、ここよりは狭いが似たような河谷平野の只中にある。

 また薩摩半島の旧知覧町・永里地区の中福良も、永里川が河谷平野を形成したその只中にある。

 以上の事例から見えてくるのは「(人の住める)中の川原」という原風景だ。「川原」は「川中島」と言い換えてもよいが、この「なかのかわら」は鹿児島弁では「なかんこら」と言う。

 この「なかんこら(中ン川原)」の転音・好字化が「なかんくら→なかふくら(中福良)」で、発音こそ「なかんくら」だが、戸籍地名は「中福良」となって定着したのではないだろうか。

 「お前の生まれはどこだ?」 と聞かれて 「なかんこら(中ン川原)じゃ」と言ったのでは 「何だ、お前、川原乞食かよ」などと揶揄・軽蔑されかねない。そこで「いや、中福良じゃ」と切り返す。そんな人間心理をも考えてみたい。実は好字化(佳字化とも言う)というのは律令時代の古くからあったことで、襲が「曽於(の旧字体)」になったのは良い例なのである。

 中福良地名は、土地の形成とそこに住む人の心理とがあやなした珍しいネーミングで、けっして地名学で解くような「膨らんだ地形」などではない、とおもう。

 

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幻の大滝(錦江町田代川原)

今朝、所用で田代川原地区に出かけたその帰り道。裏通りの雄川発電所取水口のある事務所の近くを通ったら、それとおぼしき水煙が上がっていた。

 しめた、と思い、取水口近くまで行くも、そこは金網があるうえ、そもそも滝の落ち口なのだから見えるわけがない。

 「今回もダメか」とあきらめかかったが、道路の一角に崩れた跡があり、そこから恐る恐る入ってみると、何とすり鉢状に土砂が滑り落ちていたため視界をさえぎる木立がなく、念願の滝を目の当たりにすることができた(良い子の皆は真似しないでね)。1228ogawanotakitonakafukura_002

いやはやうれしかった。なにしろ田代には足掛け8年住み、3度か4度はウォッチを試みたのだが、どうしても滝つぼの一部しか見ることができず、すっかり諦めていたのだった。

 農免道路という高規格の農業用産業道路があって、この雄川には、滝の1キロ余り下流にその名も「滝見大橋」が架かっているのだが、実はそこからは滝は見えない(人騒がせな名称だ)。1228ogawanotakitonakafukura_003

向かって右手の絶壁の下の方からも小滝が幾筋も落ちているのが見える。滝つぼはかなり広い。

 本滝は一番左のどうどうと落ちている一本なのだろうが、あいにく半分から上は溝が深いのと、手前に木立があるので隠れてしまっている。だが、向こうの二筋の滝とたぶん高さは同じのはず。

 それで勘案すると、雄川ノ滝は高さ40~50メートルほどで、3本の滝に分かれて落ちていることになる。

 仮に滝の全容が見えたとしても、発電に使う水量が多ければこんな勢いのある姿を現すことはなかっただろう。今この時期は発電用の取水量が少ないのだろうか。原油の大幅な値下がりで、火力発電の方がうんと安上がりになったのかもしれない。

 それにしてもラッキーと言うほかない。

 

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誰が首相になっても・・・

麻生総理の支持率がついに16パーセント台になり、20パーセントのレッドゾーンを超え、政権の末期症状を呈している――という論調がマスコミをにぎわせているが、アメリカのサブプライムローンの焦げ付きに端を発し、連動してバクチ金融が見事に当てを外れた(外された)ために起こったクラッシュで不況に入ったわけで、こんな時、日本の首相の首がすげ替えられても何の役にも立つまい。

 確かにトヨタの利益の落ち込みはすさまじいの一言に尽きるが、年明け以来、ガソリンがえらく値上がりした時、金融経済に異変が起きているとは認識できなかったのだろうか。夏になると「ガソリンは十分供給されている」とのOPECの度々の声明があったにもかかわらず天井知らずの値上がりが生じたが、少なくともあの時点で気付き、早く手を打つべきだった。

 別の側面から見ると企業利益を侵食する円高は確かに輸出には不利だが、仕入れには有利だし「円が強い」ことの証でもある。また日本はかってのバブル期に、バクチ金融(ハゲタカファンド)の餌食になった苦い経験に耐えて今があり、今回の世界同時不況においては最小限の傷で済みそうである(もちろん相対的にの話だが)。

 世界でも、もっとも早くに「物づくり」の効率化をすすめたあのアメリカの巨大自動車産業も、怒涛のハゲタカの前に風前の灯になってしまったが、「京都議定書」を未だに批准しようとせず、相変わらずガソリン無駄食いの高級車ばかり造ってきたとうとうそのツケが回ってきたのだと皮肉りたくもなる。

 オバマ次期大統領の采配が待たれるところだが、ツケは大きく、荷は重くなりそうだ。

 何でもあけすけに言う日本のタローがイニシアチブをどう執るかも見ものだ。外交はイチローでは役不足だろうから、この際、たとえ支持率が3パーセントになっても来年の任期までやってもらいたいと思う。

 もう一つ続投を願う理由は、消費税上げをはっきり「2011年度には行う」と明言していることだ。今のまま高齢化・高医療化が進めば5パーセントではとてもやっていけないことは分かっていながら、小泉・安部・福田の各総理は言い出せないでいた。その課題をズバリと明言する勇気は見上げたものだ。自身の支持率なんかより「国策」に重きを置いている証拠と言ってよい。

 祖父の吉田茂のような、あの外国人に対しても臆せずものを言う気風を身に付け、内を固めつつ、世界金融危機に立ち向かうことを期待したい。

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霜とイルミネーション

1220shimotodenshoku_001 ブロッコリーの かじかむ 今朝の寒さかな

朝7時でちょうど零度だった。今年6回目の霜で、12月1日の次に厳しい降り方である。1220shimotodenshoku_003

霜降りぬ 春まで眠れ 芋の畑

南の隣接地は芋畑である。12月に入って収穫後の整地耕運を済ませた黒土の畑が、今朝は真っ白になっていた。1220shimotodenshoku_004

寒かろう 我が家の 後期高齢犬

満14歳を超えたビータローも、ついに超高齢犬の仲間入りだ。

 ちょっと耳は遠くなったが、嗅覚も食欲も衰えを見せない。1220shimotodenshoku_006

夜、買い物と食事を兼ねて街に繰り出した。

 近頃は気の利いた個人宅でもイルミネーションを見るが、繁華街のは、やはり規模からして違う。

 リナシティかのや周辺でも電飾を行っている。

 前を流れる肝属川に架かる木製の橋には、ブルー一色のトンネルができていた。1220shimotodenshoku_007

橋の中から写すと、一箇所に「エメラルドの光」が発光していた。

 リナシティの3階からの光ではない。とすると、この橋に飾られたブルーの発光ダイオードの一球がたまたま角度を得て、こちらにこんな輝きを見せたものか?1220shimotodenshoku_008_2

同じ橋の上から繁華街の方向を写したものにも、やはりエメラルド光が見えている。

 そうなのだろう。しかしさっき通った時には、まったく気付かなかった。

 また今度行ったときに、ゆっくりと肉眼で確かめてみよう。

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吾平町麓界隈(鹿屋市吾平町麓)

吾平町の中心地が吾平麓地区で、「麓」とは「府元」とも書き、藩政時代の島津藩特有の名称である。そこには支配者である武士たちの家屋敷が並んでおり、「門」という名のこれも島津藩独特の百姓組織を従えていた。

 その中心地たる吾平麓のさらに中心だったのが「鵜戸神社」の鎮座する辺りで、町役場もその隣りにある。1214airafumoto_010

この神社は古くからあった「姶良八幡神社」を南3キロほどの中福良地区に移転させ、吾平山陵付近に祀られていたのを明治になってからここに遷宮したものだ。

 鵜戸神社の祭神「ウガヤフキアエズ・タマヨリヒメ」が天皇の祖先であることから、急遽、日の当たるこの町の中心地に移したのである。1214airafumoto_007

神社に向かって右が役場だが、反対の左手にまわると吾平小学校への長い急な坂がある。

 上った小学校の校庭には隼人の墓制と言われる「地下式横穴墓」が20基くらい見つかっている。1214airafumoto_022

校庭の一角にあるプールの工事中に見つかったもので、直刀などの鉄製品が副葬されていた。

 見晴らしの良い高台で、当時は聖地のような場所だったのだろう。

 正門を抜けて右の坂を下ると、町の中心部が見下ろせるところがある。1214airafumoto_021

右手の木の蔭に隠れた白い建物が旧吾平町役場。

 真ん中やや左寄りのレンガ色の建物は吾平農協で、金融・共済・販売を一手に引き受けている吾平町のもう一つの顔である。

 それらの間を麓地区の家々が埋めている(向こうには肝付町の国見山系の山々が見える)。1214airafumoto_018

さて、坂の左側には「あいら牧美容院」が緑豊かな住宅地の中にポツンとあるが、ここが実は直木三十五の小説『南国太平記』に登場する兵道家「牧仲太郎」の生家という。

 兵道とは一種の「加持祈祷」で、加持の力で敵を呪詛し、倒すことができるというものだ。

 鹿児島ではそういう祈祷者を「法者(ほっしゃどん)」とも言い習わしている。1214airafumoto_020

その牧家のすぐ下からは屋根の向こうに小高い丘が目に入る。

 そこを「山古城」という。「山古城」は今からほぼ千年の昔、都城の島津荘を拓いて摂政・関白家「藤原頼通」に寄進した元大宰府の大監「平季基」の弟「平良宗」が当地に下向したときに築城したとされている。

 麓のメインストリートに出て左折をすると、そこには古くからの家並みが散見される。1214airafumoto_012

築地塀の向こうに、ネズミモチの大木の真っ赤な実が、溢れんばかりに付いていた。

 手前のイヌマキの刈り込みが、うまい具合にそれに照応している。1214airafumoto_013

吾平小学校からの下り坂は吾平クリニックの所でバス通りに突き当たるが、左折して100㍍余り行った右手の家で、面白いものを見つけた。

凝灰岩製の低い石垣の中に「祥福(門)」と彫り込まれた門柱があったのだ。

 写真では分かりにくいが、左の石垣の奥に門柱が一対見える。今は真ん中をブロックでふさいでしまっているが、元はこちらが正門だったらしい(今は右手の車の出入りができる方が正門になっている)。1214airafumoto_015

そこからなおもバス通りを行くこと100㍍、道路の左手に「田の神」「仏像」「祠(水神?」それに一対の石灯籠が立っていた。

 左手への路地があり、路地を入るとすぐ左に泉が湧いている。1214airafumoto_016

湧いていると言うよりは崖下の穴からとろとろと流れ出ている。

 水面の高さまではちょうど1メートルくらい下がっており、そこへ降りる石段がある。昔はここの水を汲んだり、洗濯などをしたりしたのだろう。

 このたたずまいは奄美諸島の石灰岩の下を流れる「暗河(アンゴウ)」を連想させる。

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路地の奥へ行くとすぐそこに「山古城」が聳えている。

 比高は15㍍ほどで、手前がだいぶ削り取られている。これが約千年前に姶良庄が開かれた時の守りの要だったとは信じられないほど小規模だ。

 もっとも1000年代の初めの頃といえば、まださほど干戈を交える荒々しい時代ではなかったから、こんなこじんまりとした城(と言うよりか砦)くらいで間に合ったのだろう。

 開発領主「平良宗」の子孫は「得丸氏」「末次氏」となって後世に繋がって行くことになる。

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白水・海道町界隈(鹿屋市白水町・海道町)

鹿屋市の白水町・海道町は中心市街地からはほぼ西にあたる高台地帯で、花岡島津家のあった花岡町に行く途中にある。

 海道町は新しい地名だが、白水町は少なくとも江戸時代からはある地名で、花岡に島津氏の分家(一所持ち格)が置かれた時に、領地として「大姶良郷のうち、木谷村・白水村の2村が与えられた」と記録にある古い土地である。

 国道220号線郷ノ原トンネルを境に西に向かうほど標高が上がり、鹿屋中心部から来る旧国道220号線との合流交差点「一里山」は、120mの高さがある。1212siromizkaidoukaiwai_001

一里山交差点からは北西に向かうようになり、道はゆっくりとした上りになる。

 やがて「白水東バス停」が見えると、上りは終り、平坦な台地に入る。

 その先の道路左側に面して「白水観音堂」がある。1212siromizkaidoukaiwai_004

観音堂といっても木造の古めかしいのを想像していたら見過ごしてしまう。

 モダンなとんがり屋根だ。歩道際に建つ「白水観音堂」碑の裏には「平成14年建立」とあり、建立主は「真言律宗」の宗派の人である。

 碑に向かって左手には「六地蔵塔」が立ち、向かって右手には「青面金剛像」がある。1212siromizkaidoukaiwai_007

観音堂の横には不思議な凝灰岩製の祠(?)状の上屋が台座の上に設えられている。

 何だろうか?四本の柱の間には、減耗し尽された頭のない人物像のような物が見える。

 説明書きはないので、憶測するだけだが、おそらく最古・最初の「石造観音像」ではないだろうか。丸っこい石は「如意宝珠」だろう。

 廃仏毀釈のなれの果てとは考えにくい姿である。1212siromizkaidoukaiwai_006

窓ガラス越しに中をうかがうと、小さいながらもあでやかな観音立像がお立ち遊ばしている。

 後ろの来迎図も絢爛の一言だ。

 真言律宗の僧(か信者)が、上の原初の観音像のあまりの姿に涙し、かくも美しく再現したのではなかろうか。

 観音堂の隣には集落の墓があり、この辺りは古くから「聖地」の扱いを受けた場所だったのだろう。1212siromizkaidoukaiwai_010

白水観音堂から道はいくらか下りになり、1キロも行かないうちに鹿屋体育大学前の交差点に出るから、そこを左折。

 100㍍余りでもう大学に着く。大学内は2度ほど取材してあるので今回は、正門の向かい側にある「開学碑」を紹介する。

 赤い車の向こうのワシントンやしの立つ丘に碑がある。1212siromizkaidoukaiwai_009

幅4m強、高さ2m余りの、記念碑としては立派なものである。(が、いつ通りかかっても、人のいたためしはない)

 碑の裏面には開校に至るまでのちょっとした歴史が刻み込まれている。

 昭和47年に文部省が教員養成大学の新設構想を打ち出したところ、早速その翌年、鹿屋市が誘致を決め、期成会を設置している。

 それが功を奏し、また地元選出の国会議員の働きもあり、53年には「新構想の新設大学」つまり「国立体育大学」設置は鹿屋市に、と文部省で決定。鹿屋市は55年に必要な用地買収に取り掛かり、その年の内にすべての交渉を終えるという手際の良さだった。

 経緯を示した刻字のしたの台座に埋め込まれた地権者の総覧によると、地権者は130人余りと分かる。中でも地元の「本白水」姓「西薗」姓が多く、それだけで3割を占めている。1212siromizkaidoukaiwai_011 総面積37万㎡(37㌶)というから甲子園の10倍は下らない広さだ。

開学碑から海道町に向かう。

 ちょうど高隈山地の西の外れの二峰「横岳」と「平岳」に向かっていくような道のりになる。1212siromizkaidoukaiwai_013

古江バイパスの開通でめっきり交通量のおおくなった花岡への道を6~700㍍で、右手に「小薄町」「鳴之尾牧場」方面への分岐を見る。

 今見える道路沿いの周辺が元からの海道町だが、ここをのぼっていくと海道町の新しい住宅地が、どんどん上にあがって来ているのが分かる。1212siromizkaidoukaiwai_015

分岐から500㍍ほどの高台に、新しい家々が立ち並ぶ。

 あそこからは北側に高隈山系、南から西は錦江湾と薩摩半島が大パノラマで見えるはずだ。

 このあたりから花岡町に向かっての高台は、こんな家々が多くなっている。けっして別荘ではなく通常の家屋なのがうらやましい。1212siromizkaidoukaiwai_016

さっきの分岐まで下り、そのままクランク状に直進すると、昔ながらの狭い町道だ。

 その道沿いの元は畑だったところには、鹿屋体育大生のためのアパートが林立する。

 農家変じてアパート経営主の大きな家も建つ。1212siromizkaidoukaiwai_022_2

あと数十㍍で花岡中学校の裏門という所で、左手に「鎮守山遺跡」という看板があったので、入ってみる。

 発掘現場だが人は誰もいない。一箇所だけきれいな掘り跡が残されていた。

 深さ3m近くあるだろうか、薄いオレンジ色から始まって、下のほうには鮮やかなオレンジ色の層(アカホヤ=6400年前の鬼界カルデラ噴出物の層)が3~40センチの厚さで挟まっているのが分かる。1212siromizkaidoukaiwai_017

もう一箇所の発掘現場(稲荷山遺跡)が、ここから300mほど花岡町側の畑地帯にある。

 行ってみたところ、発掘作業員と発掘担当責任者(県埋蔵文化センター職員)がいたので、話を聞くことができた。

それによると、この二つの遺跡は時代的には縄文中期から後期、弥生時代の前期、そしてもっとも遺物・遺構の出土数が多いのは古墳時代の前期(4世紀)と後期(6世紀)だという。1212siromizkaidoukaiwai_020 また最初に行った「鎮守山遺跡」は全面調査になる可能性が高いらしい。

そこは花岡中学校のすぐ裏手で、花岡中学校の位置からして古江坂を登った突端にあって海岸を見下ろすような所だから、鎮守山遺跡も海岸地帯の古江との関係が深いかもしれない。1212siromizkaidoukaiwai_021_2

花岡中学校の正門の前から、鹿屋中心部方向を眺める。

 かっては鹿児島・垂水方面からの車がひっきりなしだったのだが、古江バイパスが開通してからは閑古鳥が鳴くようになった。

 バイパスは左から右手の空き地を通り、中央奥に見える鹿屋体育大学の裏を迂回して最初に紹介した「一里山交差点」にたどり着くよう計画されている。

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神野地区界隈(鹿屋市吾平町神野)

モミジを見に、鹿屋で最も山奥の雰囲気のある吾平町神野へ行ってみた。

吾平山陵入り口を左に見送り約1キロ、姶良川の清流に架かる「市ノ渡橋」を渡ると急に山中深くに入ったような気分になる。

モミジは川沿いに点々とあるが、どうやら盛りは過ぎてしまったようだ。1206kaminokaiwai_001

無理もあるまい、11月下旬以来、もう霜が降るか降ろうかという朝の冷え込みが5~6回はあったのだ。

 我慢強いモミジもさすがに葉を縮ませ、赤から茶色へと変色し始めていた。1206kaminokaiwai_002

川沿いをのぼること2キロ、左カーブを回り込むと神野の中心地にある「神野小学校」と「吾平富士」が見えるが、この辺りの川の周辺はすでに晩秋を過ぎ、冬のたたずまいだ。1206kaminokaiwai_008

中心地を過ぎてさらに奥へと向かう。

 名物いのしし肉の看板の向こうの山麓では、赤茶けた木々が早くも一年の終りを告げているかのようで寂しい風景だが、山里では静謐な中にも、すでに新年の準備が始まっている頃だろう。1206kaminokaiwai_011

路線バスの最終地点「永野牧」の集落。

 ここの分岐を右手に入っていくと吾平町の最高峰「八山岳」(941m)だ。

 分岐から300mほど行った所には「大川内神社」が、小高く突き出た丘の上にある。1206kaminokaiwai_010

神社入り口にはクスの大木があり、大きな鳥居もある。

 祭神は「アイラツヒメ」(古事記では「阿比良比売」・書紀では「吾平津媛」)で、神武天皇の后に当たる。

 ヒメが神武天皇の日向(大隅)から大和への「東征」には付いて行けるはずはなく、当地で行く末を案じながら一生を終えたという。

 吾平山陵へは皇室の度々の御参拝があるが、神武天皇の最初の妻であるアイラツヒメの墓所ともいえる当神社へは足を運ばれたことはない。1206kaminokaiwai_006

永野牧から今来た道を引き返し、再び中心部へ戻る。

 学校が見えてきたら川を渡る橋があるので、左折する。そうすると左手に公民館のような建物がある。

ここは生活改善センターで、加工施設があり、豆腐を作ったり、ちょっとした食堂もある。1206kaminokaiwai_004

施設の道路を挟んだ向かいには「神の湯」という「共同風呂」がある。

 湯の沸かし方にちょっとした面白みがある。

 それはマキ炊きボイラーを使っていることだ。

 ビニールハウスのような場所で、ボイラーで湯を沸かし、向こうに見える赤いタンクにいったん湯を貯めておき、必要に応じて共同風呂へ流入するようになっている。

 マキの材料の杉の間伐材はほぼ無限にあるので、この共同湯の絶えることはないだろう。おまけに石油に依存しないので、料金の変動もゼロに違いない。1206kaminokaiwai_012

神野地区ではどこにいても、秀麗な吾平富士が目に入る。

 吾平富士は通称で、本名は「中岳」と言う。標高677mはけっして高くはないが、一度見たら忘れがたい母なる山だ。

 ところで、吾平町を流れる川は「姶良川」と書き、吾平川ではない。

 姶良と言えば、国分の西の方に「姶良郡」と「姶良町」がある。

 どちらが本家本元かと言うと、吾平町のほうが本家なのである。明治23年施行の「郡制度(郡役所・郡議会)」の始まったとき、山田村、帖佐村、重富村などの地域にどういう経緯か分からないが「姶良郡」が置かれてしまった。そのとき今の吾平の方は「姶良村」になっていたが、郡は「姶良郡」ではなく「肝属郡」だったのである。

 大正10年には郡制度は廃止されるが、戦後になって村から町へ変わった際、肝属郡姶良村は肝属郡吾平町(昭和22年)と「吾平津媛」の「吾平」を取り、姶良郡山田・帖佐・重富村の方は合併と同時にこれ幸いとばかり「姶良郡姶良町」を名乗った、という。

 『和名抄』(10世紀・源順著)に載る大隅半島の4郡(曽於・大隅・肝属・姶羅)のうちの「姶羅郡」はのちに「姶良郡」となるが、現・鹿屋市吾平町こそがこの「姶羅郡」の淵源の地に他ならず、したがって姶良郡姶良町の姶良は「登録商標」の侵害になろう。

 県内最大の町(町制)姶良町が合併するかして「市」を名乗るとき、果たしてそのまま「侵害」を続けるのか、はたまた全く新しい市名とするのか、見守りたいものだ。

 話が横道にそれたが、とにもかくにもモミジを見に来たのであった。そこで帰りに吾平山陵に寄り道をする。去年ここの入り口のモミジは見ごたえがあった。1206kaminokaiwai_013

やはり見ごたえはある。

 だがやはり葉には茶色への変色が見られる。1206kaminokaiwai_015

色あせていくのも自然なら致し方あるまい・・・・・。

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ぶっこわす人

今朝の何とかというテレビで、福田内閣で特命(制度改革担当)大臣を務めていた渡辺喜美代議士が、麻生総理にはもうついていけない――というようなことを言っていた。多くの自民党代議士が同じような不満を口にしているらしい。

 その理由は「考えに筋がない」「何をやろうとしているのか分からない」「選挙には勝てない」というもののようだ。

 もっともその前の福田康夫首相も同じようだった。洞爺湖サミットだけが成果といえば成果ぐらいで、国策として目新しいものは何もなかった。

 その前の安倍首相にはまだしも「美しい日本を取り戻す」というキャッチフレーズがあった。あの変人・小泉純一郎首相の後継として、まずまずの滑り出しだったが、農林水産大臣の自殺問題が結局尾を引いた形になり、突然辞任してしまったのは記憶に新しい。

 やっと回ってきた総理の座。麻生太郎という人にとっては母方の祖父・吉田茂を強く意識せざるを得まい。終戦後の混乱期に今日の自民党体制(55年体制)の根幹を造った人物で、よくも悪しくも言われ続けている人だ。

 福田康夫前総理と総裁選を戦ったときは、国民人気の太郎より康夫のほうが現役議員票では圧倒的に多かったが、それだけ「反太郎」が根強いことを如実に示した。つまり議員の間では、祖父の威光が余りに大きい太郎への嫉妬のような感情が強かったのだろう。

 太郎はまた、祖父の吉田茂の妻(祖母)が牧野伸顕の娘であり、牧野は大久保利通の実の息子(次男)であるから、4代前が大久保利通ということになり、母系ではあるが明治維新の元勲と、戦後体制の功労者の両方の血を持つ我が国政界の真のサラブレッドと言ってよい。

 このサラブレッドは「沈黙しない」のがモットーのようである。物言えば唇寒し、とは以心伝心の時代の話で、今日はやはり物申さねば分からない時代だ。特に外国との交渉では「腹をくくって話してなんぼ」なのだから、金を出し口も出すべきだろう。

 今回の金融危機は明らかにアメリカの失政だ。そのことはちゃんと指摘すべきで、あいまいさは許されない。フランスのサルコジ大統領などは、もうアメリカの金融体制から離れ、新たな枠組みが必要と公言している。おそらく日本が何を言っても彼は「日本なんかアメリカの言うがままで、そんな国の話を聞く必要はない」くらいに思っているはずだ。

 昔は「アメリカ(経済)が風邪を引くと、日本(経済)は肺炎になる」と言われたものだが、今やそんな主従関係は過去のものになった。そのことを今回の金融危機は教えてくれた。

日本もいい加減、アメリカに追従するのはやめることだ。ブッシュからオバマに変わるとその点、かなり可能性は出てこよう。一番大事なのは、日本がこれからどのような立場で世界全体の平和に対処していくか、その理念を高らかに謳うことではないだろうか。

 太郎にそのことを期待しているのだが、もう無理だろうか。

 「自民党をぶっこわす」と言って、結局ぶっこわさなかった小泉純一郎元首相だったが(息子はやはり自民党で出馬するのだろうか。悪い冗談でなければいいが・・・)、太郎は実のところ本当は「ぶっこわし」に掛かっているのかもしれない。

 その上で、アメリカとの戦後関係を清算し、新たな国際関係を築いてほしいものだ。私見では「永世中立国」になるのが一番いい。ただしスイスのように国連とは距離を置く、というのはどうかと思うが、といって国連にすべてを預ける必要はない。 

 ゆめゆめ安保理の常任理事国などになろうと思ってはならない。なにしろ国連安保理は旧戦勝国でがっちり固めてあるのだから・・・。

 

 

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奇なるかな(パートⅡ)

庭の東北の隅、犬走りの角にナント「黄色い菊」が一輪咲いていた。121kikutoshimo_003

「日の出菊」の分化らしいクリーム色とは違い、こちらは正真正銘の黄色だ。

 近くには五年前に初めて植えた、我が家庭(やにわ)での菊の原種「藤色の菊」があるばかりなのだが・・・。121kikutoshimo_005

藤色の菊は2年越しだから丈が高くなっているが、このこぼれ種なのか?それにしては色が違いすぎる。

 写真の右手は家の裏で、すぐにそこにプロパンガスのボンベが設置されている。近々来るであろうボンベ交換の際に、踏んづけられてはかわいそう、と、移植することにした。

 ところが、掘ってみると・・・・・ 1204kiironokiku_002

少なくとも一度は、すでに踏んづけられていた。根に近い生え際にくしゃくしゃと小さく葉の塊があり、それと主幹の株との間はひん曲がっている。

 それより驚いたのが、土の中の石だ。あたかも根が石を抱きかかえるように伸びている。よくまあ、こんな場所を選んで芽生えたものだ。

「根性・石抱き・犬走り角・黄色菊」と名付けることにした。

 こんな危うい育ちなので自ら「イエローカード」を切ったのか、菊に聞いてみたい。1204kiironokiku_003

――ともあれ安住の地として、例の「日の出菊」の「奇なる分化仲間たち」のすぐ後ろに植え替えておく。

 来年はこの一本から挿し芽を取って殖やしてみよう。

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初霜(2008年)

12月に入ったと思ったら、早速の初霜だ。去年は12月6日だったから、5日早くやって来た。121kikutoshimo_001

昨日定植したばかりの「クリサンセマム(菊)」の苗が寒そうだ。121kikutoshimo_002

一昨日は夏の名残りのカンナを球根ごと掘り返して片隅に積んでおいたのだが、その上にも霜が降りている。

 隣には残しておいたカンナがまだ青々と元気にしている。枯れる気配はない。暖冬なんだか、カンナが強すぎるのか、訳が分からない・・・。

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