吾平町麓界隈(鹿屋市吾平町麓)
吾平町の中心地が吾平麓地区で、「麓」とは「府元」とも書き、藩政時代の島津藩特有の名称である。そこには支配者である武士たちの家屋敷が並んでおり、「門」という名のこれも島津藩独特の百姓組織を従えていた。
その中心地たる吾平麓のさらに中心だったのが「鵜戸神社」の鎮座する辺りで、町役場もその隣りにある。
この神社は古くからあった「姶良八幡神社」を南3キロほどの中福良地区に移転させ、吾平山陵付近に祀られていたのを明治になってからここに遷宮したものだ。
鵜戸神社の祭神「ウガヤフキアエズ・タマヨリヒメ」が天皇の祖先であることから、急遽、日の当たるこの町の中心地に移したのである。
神社に向かって右が役場だが、反対の左手にまわると吾平小学校への長い急な坂がある。
上った小学校の校庭には隼人の墓制と言われる「地下式横穴墓」が20基くらい見つかっている。
校庭の一角にあるプールの工事中に見つかったもので、直刀などの鉄製品が副葬されていた。
見晴らしの良い高台で、当時は聖地のような場所だったのだろう。
正門を抜けて右の坂を下ると、町の中心部が見下ろせるところがある。
右手の木の蔭に隠れた白い建物が旧吾平町役場。
真ん中やや左寄りのレンガ色の建物は吾平農協で、金融・共済・販売を一手に引き受けている吾平町のもう一つの顔である。
それらの間を麓地区の家々が埋めている(向こうには肝付町の国見山系の山々が見える)。
さて、坂の左側には「あいら牧美容院」が緑豊かな住宅地の中にポツンとあるが、ここが実は直木三十五の小説『南国太平記』に登場する兵道家「牧仲太郎」の生家という。
兵道とは一種の「加持祈祷」で、加持の力で敵を呪詛し、倒すことができるというものだ。
鹿児島ではそういう祈祷者を「法者(ほっしゃどん)」とも言い習わしている。
その牧家のすぐ下からは屋根の向こうに小高い丘が目に入る。
そこを「山古城」という。「山古城」は今からほぼ千年の昔、都城の島津荘を拓いて摂政・関白家「藤原頼通」に寄進した元大宰府の大監「平季基」の弟「平良宗」が当地に下向したときに築城したとされている。
麓のメインストリートに出て左折をすると、そこには古くからの家並みが散見される。
築地塀の向こうに、ネズミモチの大木の真っ赤な実が、溢れんばかりに付いていた。
手前のイヌマキの刈り込みが、うまい具合にそれに照応している。
吾平小学校からの下り坂は吾平クリニックの所でバス通りに突き当たるが、左折して100㍍余り行った右手の家で、面白いものを見つけた。
凝灰岩製の低い石垣の中に「祥福(門)」と彫り込まれた門柱があったのだ。
写真では分かりにくいが、左の石垣の奥に門柱が一対見える。今は真ん中をブロックでふさいでしまっているが、元はこちらが正門だったらしい(今は右手の車の出入りができる方が正門になっている)。
そこからなおもバス通りを行くこと100㍍、道路の左手に「田の神」「仏像」「祠(水神?」それに一対の石灯籠が立っていた。
湧いていると言うよりは崖下の穴からとろとろと流れ出ている。
水面の高さまではちょうど1メートルくらい下がっており、そこへ降りる石段がある。昔はここの水を汲んだり、洗濯などをしたりしたのだろう。
このたたずまいは奄美諸島の石灰岩の下を流れる「暗河(アンゴウ)」を連想させる。
路地の奥へ行くとすぐそこに「山古城」が聳えている。
比高は15㍍ほどで、手前がだいぶ削り取られている。これが約千年前に姶良庄が開かれた時の守りの要だったとは信じられないほど小規模だ。
もっとも1000年代の初めの頃といえば、まださほど干戈を交える荒々しい時代ではなかったから、こんなこじんまりとした城(と言うよりか砦)くらいで間に合ったのだろう。
開発領主「平良宗」の子孫は「得丸氏」「末次氏」となって後世に繋がって行くことになる。
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コメント
知覧の武家屋敷に行ったとき、やはり武家屋敷のあったところが麓でございました。私は田代ですので麓は、山の麓とばかり思って、どうして麓に武家屋敷?と思っておりましたが府元なのですね~。納得いたしました。それにしても、吾平はいつも通る町、懐かしいですね~♪
投稿: わん | 2008年12月20日 (土) 18時45分