神野地区界隈(鹿屋市吾平町神野)
モミジを見に、鹿屋で最も山奥の雰囲気のある吾平町神野へ行ってみた。
吾平山陵入り口を左に見送り約1キロ、姶良川の清流に架かる「市ノ渡橋」を渡ると急に山中深くに入ったような気分になる。
モミジは川沿いに点々とあるが、どうやら盛りは過ぎてしまったようだ。
無理もあるまい、11月下旬以来、もう霜が降るか降ろうかという朝の冷え込みが5~6回はあったのだ。
我慢強いモミジもさすがに葉を縮ませ、赤から茶色へと変色し始めていた。
川沿いをのぼること2キロ、左カーブを回り込むと神野の中心地にある「神野小学校」と「吾平富士」が見えるが、この辺りの川の周辺はすでに晩秋を過ぎ、冬のたたずまいだ。
中心地を過ぎてさらに奥へと向かう。
名物いのしし肉の看板の向こうの山麓では、赤茶けた木々が早くも一年の終りを告げているかのようで寂しい風景だが、山里では静謐な中にも、すでに新年の準備が始まっている頃だろう。
路線バスの最終地点「永野牧」の集落。
ここの分岐を右手に入っていくと吾平町の最高峰「八山岳」(941m)だ。
分岐から300mほど行った所には「大川内神社」が、小高く突き出た丘の上にある。
神社入り口にはクスの大木があり、大きな鳥居もある。
祭神は「アイラツヒメ」(古事記では「阿比良比売」・書紀では「吾平津媛」)で、神武天皇の后に当たる。
ヒメが神武天皇の日向(大隅)から大和への「東征」には付いて行けるはずはなく、当地で行く末を案じながら一生を終えたという。
吾平山陵へは皇室の度々の御参拝があるが、神武天皇の最初の妻であるアイラツヒメの墓所ともいえる当神社へは足を運ばれたことはない。
永野牧から今来た道を引き返し、再び中心部へ戻る。
学校が見えてきたら川を渡る橋があるので、左折する。そうすると左手に公民館のような建物がある。
ここは生活改善センターで、加工施設があり、豆腐を作ったり、ちょっとした食堂もある。
施設の道路を挟んだ向かいには「神の湯」という「共同風呂」がある。
湯の沸かし方にちょっとした面白みがある。
それはマキ炊きボイラーを使っていることだ。
ビニールハウスのような場所で、ボイラーで湯を沸かし、向こうに見える赤いタンクにいったん湯を貯めておき、必要に応じて共同風呂へ流入するようになっている。
マキの材料の杉の間伐材はほぼ無限にあるので、この共同湯の絶えることはないだろう。おまけに石油に依存しないので、料金の変動もゼロに違いない。
神野地区ではどこにいても、秀麗な吾平富士が目に入る。
吾平富士は通称で、本名は「中岳」と言う。標高677mはけっして高くはないが、一度見たら忘れがたい母なる山だ。
ところで、吾平町を流れる川は「姶良川」と書き、吾平川ではない。
姶良と言えば、国分の西の方に「姶良郡」と「姶良町」がある。
どちらが本家本元かと言うと、吾平町のほうが本家なのである。明治23年施行の「郡制度(郡役所・郡議会)」の始まったとき、山田村、帖佐村、重富村などの地域にどういう経緯か分からないが「姶良郡」が置かれてしまった。そのとき今の吾平の方は「姶良村」になっていたが、郡は「姶良郡」ではなく「肝属郡」だったのである。
大正10年には郡制度は廃止されるが、戦後になって村から町へ変わった際、肝属郡姶良村は肝属郡吾平町(昭和22年)と「吾平津媛」の「吾平」を取り、姶良郡山田・帖佐・重富村の方は合併と同時にこれ幸いとばかり「姶良郡姶良町」を名乗った、という。
『和名抄』(10世紀・源順著)に載る大隅半島の4郡(曽於・大隅・肝属・姶羅)のうちの「姶羅郡」はのちに「姶良郡」となるが、現・鹿屋市吾平町こそがこの「姶羅郡」の淵源の地に他ならず、したがって姶良郡姶良町の姶良は「登録商標」の侵害になろう。
県内最大の町(町制)姶良町が合併するかして「市」を名乗るとき、果たしてそのまま「侵害」を続けるのか、はたまた全く新しい市名とするのか、見守りたいものだ。
話が横道にそれたが、とにもかくにもモミジを見に来たのであった。そこで帰りに吾平山陵に寄り道をする。去年ここの入り口のモミジは見ごたえがあった。
やはり見ごたえはある。
色あせていくのも自然なら致し方あるまい・・・・・。
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