旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-④1月4日(その二)
「三の柴」の柴立て神事が済むと、最後の目的地「高尾神社」だ。「三の柴」からは1キロ余り、大根占の市街地から上がってくる道が左から合わさった所に高尾神社がある。すぐ前には「貯水タンク」が聳える。
急な階段を登った上に高尾神社はあり、階段の途中から俄然眺めがよくなる。
意外と広い境内の奥にある「高尾神社」。
宮司の話では元来は「高穂神社」であるが、転訛して「高尾神社」になったとのこと。
私見だが、この神社は「高千穂神社」ではないか。「高千穂」が天孫降臨の舞台であるのは周知のことだが、池田地区の「高千穂」がここではなかったか。
遠い祖先がこの地にやってきた最初のその場所が「高穂(高千穂)」なのだろう。
境内の中ほどに立つタブとおもわれる木を依り代として最後の神事が行われた。
拝礼が終わって、宮司の切り分けた「藁苞のシトギ」を皆で食べて、神事は終了。
ところで、神社の裏手には国土地理院の「三等三角点」が立っている。
そこからの眺めは素晴しい。
はるか向こうには「肝属三山(甫余志岳・黒尊岳・国見岳)が屏風のように連なって見える。
高尾神社の建つピークはこのように屹立しているため、修験道の霊地だったとみえて、三角点のすぐそばには「役の行者」像がある。
役の行者は大和葛城山の修験者だが、古書『山城国風土記』によれば、南九州の曽の峰に天下った「カモタケツヌミ」は神武東征の頃、大和に遷り、葛城地方を治めていたので、同じ葛城出身の「役の行者」はもしかしたら南九州との縁者かもしれない。
それはそれとして・・・・・。旗山神社は島津忠国時代にそう命名される以前から、ずいぶん古い歴史がありそうだ。
というのは本殿には「天神七代および地祇」が祭られているが、その横に並んで建てられている「狩長神社」こそが、本来の祭神だろうと思われるからだ。見るからに「狩猟の神様」ではないか。考えようでは弥生時代の怒涛の「米米時代」をやり過ごした縄文の残り香がするといってよい。
今回、厳しい寒さの中の取材だったが、宮迫宮司はじめ神職の方々、宮迫夫人には温かいもてなしを受けたことに感謝したい。
できれば来年も参加して、大隅の歴史の謎解きに挑戦しよう。
(第二部終り・完結)
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コメント
おもしろいですね~。江戸時代でもどのような話し言葉が一般的かまだ確定はできません。でも英語だと結構調べられるのですね。アフリカの奥地で古代英語が生きているのですね~。薩摩半島と違い私はきっと何か恐ろしいほどの秘密が隠されているいような気がしてしょうがありません。
きっと近いうちに、大隅半島に、日本を揺るがす大発見があるような気がしてしょうがありません。
投稿: わん | 2009年1月 7日 (水) 02時37分