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前川流域散策(志布志市)―その一

前川は志布志市志布志町の旧市街地の中心部を流れる川で、20キロに満たない小河川だが、かって志布志が海運で栄えていた室町期から江戸初期の頃の、俗にいう「志布志千軒」の栄華を担っていた。118maekawa_004

写真は前川の当時の海岸線と思われるところに架かった「権現橋」。国道が通り、左手は鹿屋方面、右手は宮崎県の串間市方面に至る。

「権現」という名称の由来はよく分からない。権現と言うからには近くに何らかの神社があったものだろう。右手に渡り、信号を左に入った所に石の祠があるが、そこにかっては神社らしきものがあった可能性が強い。118maekawa_005

権現橋の200㍍ほどの下流にはJR日南線の鉄橋が架かる。国分駅から志布志駅までを結んでいた国鉄・大隅線が昭和62年に廃止になったあとも、志布志から串間を通り、日南・青島を通過して宮崎駅まで、太平洋を眺められる最南端の鉄道路線だ。

ここからさらに河口に向かうと、左手は埋立地で、今はそこに延々とコンテナヤードが続く。118maekawa_003_5

  志布志港は国際港に認定されていて、アジア各地からあるいはアメリカからのコンテナ入りの輸入物資が所狭しと並べられている。

権現橋から川上に向かうと、150㍍くらいの所に「志布志橋」があり、川筋の奥は右手に「宝満寺」の跡がある。118maekawa_006_4

  また、左のビルの奥には国指定重要文化財に指定された「志布志城」のうちの「内城」がある(小高い丘がそれ)。この内城こそが「本丸」を備えた最も重要な城址に他ならない。ほぼゼロメートルのこのあたりから見ると比高で50㍍はあるので、かなり高く聳えている。

志布志橋の上には「宝満寺橋」の赤い欄干がある。118maekawa_075_2

 ここから市街地方面を望むと、右手には「内城」、正面には「松尾城」が見える。

 このまま橋を渡っていくと突き当たりは「志布志小学校」で、裏山は「内城」である。

小学校は藩政時代の行政執行機関「御仮屋」の跡地に建てられた。

 118maekawa_007_3 このようなケースは、明治初期に学制が布かれ、急ごしらえの「小学」が次々に設置される際に、鹿児島ではかなり普遍的に見られた現象で、さほど珍しいことではない。

小学校から、川の上流をめざすと、すぐに道路沿いに鎮座するのが「若宮神社」で、祭神は「持統天皇」。118maekawa_008_2

  由来はめっぽう古く、和銅年間の建立というからもし本当なら1300年の歴史を数えることになる。

同じ志布志市でも安楽地区にある「山宮神社」の祭典のとき、ここを遥拝する神事があったのを思い出す。118maekawa_010

若宮神社からほんの500㍍も行くと、急に川幅が狭くなる。

その要衝に架かるのが「小渕橋」で、そこから下流を眺めると、市街地はこの橋の手前で終わっていることが分かる。

ここからは上流に向かい、次第に渓谷の雰囲気が漂いはじめる。118maekawa_012

クライマックスは「石踊橋」だ。河口からわずか2キロほどに架かるこの橋は、いかにもシンプルであるが、下を流れる水は谷川の透明さがある。

 この奥の岡の上に「大性院跡」があると言うが、どこから入っていいか分からなかった。中世に「大慈寺」と並ぶ伽藍があったという場所だ。

ここを過ぎると、道は台地へと向かう。

118maekawa_013

台地に上がろうかという所、わずかに開けた河谷平野に小さな水田が奥へ奥へとのびていた。前川の下流域では初めてのまとまった田園である。

約1キロで坂之上地区に到達する。標高70㍍のシラス台地だ。

118maekawa_014 広い道路の左右は見わたす限りの畑作地帯だが、途中の右側の畑に見慣れぬものが植えられていた。

 車を停めてしげしげと眺めると、それは「杉の苗」だった。

 杉苗畑とは珍しい。118maekawa_024

なおも行くこと2キロ弱、道はいよいよ山合いに入り、しばらく行くと分岐に差し掛かる。

 左を行けば前川の上流地帯、右を行けば前川を渡り、山越えして宮崎県串間市に至るルート。

 118maekawa_023 右を行くと、200㍍ほどで「船迫橋」がある。前川では唯一の石造りのアーチ型橋である。

 今はもう橋としての役目は終え、山間で静かに余生を過ごしている。

 さっきの分岐まで引き返し、左のまっすぐな道に入って行くと、やがて潤ヶ野地区だ。

 橋を渡ってたどり着いた集落はいわゆる「限界集落」なのだろうか、人っ子ひとり目につかない。118maekawa_021

だが、小学校は立派な造りで、この地区の子供教育への思い入れが分かろうというものである。

学校からさらに上にあがると、畑の真ん中に校舎のようなものがあった。

近づいてよくよく見ると、玄関口に「潤ヶ野公民館」という看板が掛かっていた。

 植え込みの前に石碑があったので、読んでみると昭和33年に建設されたとある。古い話118maekawa_018_3 だ。

 ところが面白いことに、同じ石碑に俳句が刻み込まれていた。その文面は

 村づくり 笠祇の里で 話し合い

レトロな建物といい、この俳句といい、郷愁を覚えざるを得な

かった。

(注)宝満寺・・・廃仏毀釈でつぶされたが、新しい観音堂(左)などが新築されている。118maekawa_025右は彫り込まれた神像118maekawa_027 などのある海蝕凝灰岩の崖。

                   (前川流域散策―その一 終り)

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オバマ大統領就任

忘れもしない中学2年生だった1963年11月23日の早朝、友達3人でハイキングへ行こうと友人宅へ迎えに行き、待っていると別の友人が来るなり、

 「まっちゃん(これが私の通称であった)、ケネディ大統領が暗殺されたんだって」

 「ええっ!」

 その友人は家を出る直前にテレビニュースを見て知ったと言う。まだ世界情勢も分からぬ少年にも、ケネディ大統領の新進気鋭の素晴しさのようなものは感じていたので、「アメリカっちゅう国は、何が起こるのやら・・・」と、一抹の不安のようなものを覚えたことだけは記憶に残っている。

 その頃のアメリカは、ベトナム戦争を抱えながら、他方ではソ連との確執(冷戦)の真っ只中にあり、英国の没落に変わって自由世界の旗手を自認していた絶頂期にあった。

 しかし国内では依然として黒人には自由を与えず、それでいてベトナム戦争の前線に黒人兵を送り続けていた。

 そんな状況の下、マーティン・ルーサー・キング牧師の「公民権運動」はいよいよ現実味を帯びてきていた。

 さもあらばあれ、翌年の1964年、ケネディの後任リンドン・ジョンソン大統領はついに黒人の「公民権」を認めた。

 ・・・・・だが、事態は変わらなかった。というより白人(特に南部の)による妨害が多発したのである。とうとう4年後の1968年4月には、指導者のキング牧師が暗殺されるという事件に発展した。

 だが、時代の潮流はとどめようがなく、公共のバス、トイレ、レストランなどなどから締め出されていた黒人たちは、次第に「自由に」利用できるようになっていった。

 第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争の結果、欧米各国から植民地支配を受けていたアジア・アフリカ諸国が続々と「自由」を獲得していったが、それは1960年代であった。ところが自由の本場であるアメリカ国内で黒人が真の自由を獲得したのは、1970年代半ば頃であった。なんという皮肉だろう。「自由、自由」と言っていたが、それはいったい誰の自由だったのだろうか、真相は明らかではないか。

 まだ黒人が不自由をかこっていた1961年に、バラク・フセイン・オバマはケニヤ人の父と、アメリカ人の母(白人)との間に生まれた。

 オバマ大統領がその就任演説の最後の方で

 「まだレストランに入ることを拒否されていたアフリカ移民の父のその子が、60年後の今、こうして大統領になれた。そういうアメリカの偉大さ・・・・・」120barackobama_003

オバマ氏は「そういうアメリカの偉大であり、ふところの深いことこそが、いかなる危機にもひるまぬ再生(リメイキング)をもたらす」という風に、強調したいのだろうが、私はようやく訪れた「真の人種差別撤廃」の方に重点を置いて聞いていた。

 1919年のベルサイユ講和会議で、日本の特使の副使(全権は西園寺公望)として望んだ牧野伸顕(大久保利通の次男)が提議した「人種差別撤廃動議」(賛成多数だったが、議長のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが、全会一致でなければ承認できぬ――と突っぱね、否決された)から、実に90年かかってようやく「自由の母国・アメリカ」で、人種によらぬ自由・平等が実現されたわけである。

 牧野伸顕も草葉の陰で大喜びしていよう。

オバマ大統領の進路には大きな試練が待ち受けていようが、どうかそれを乗り越えて進んでいってもらいたいものだ。

 それにしても、今度ファーストレディになったミシェル夫人はすごい人物だ。120barackobama_006

身長180センチというのもさりながら、プリンストン大学を出て、ハーバード大学の大学院に学んだという。

 日本でなら差し詰め「京都大学を出て、東大の大学院に学んだ才女」となる。

 あの黒人国務長官で才媛として名高いライスも、今度の長官ヒラリーも真っ青だろう。

 これに匹敵するのはもしかしたら、ハーバードを出た「雅子さま」か。皇室外交の出番が、意外にも廻ってくるかもしれない。

 

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沖縄の旅②―波上宮と首里城

1月12日、沖縄最後の日の朝は、まず沖縄総鎮守と言われる「波上宮(なみのうえぐう)」を参拝した。111okinawa_130

ユイレールという空港と首里城を結ぶモノレールの旭橋駅を少し北へ行ったところに5差路があり、斜め左に入って行って1キロ弱、前方に大きな鳥居が立っている。ねずみ色の鳥居というのはかなり珍しい。それでもすっきりとした見ごたえある鳥居だ。

 まだ初詣での客も多いのだろう、いくつかの露店が朝の眠りをむさぼっていた。111okinawa_128

30年前に来たときは、コンクリートに白いペンキを塗ったような寒々とした社で、本殿の向こうに海が見えるような、何にもなかった境内だったように記憶するが、今は本殿、拝殿は無論のこと、手水舎までがなんとも立派になっている。

 木立までが往時とは全く違う。

 波上宮は熊野神社と同じ神々を祭る

中心は「イザナギノ命」で、日向の橘の小戸のアワギ原でいわゆる三貴神「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」を生んだ神だ。配神が「速玉男命」と「事解男(コトサカヲ命」で、熊野本宮では「速玉男」こそが「イザナミ」であるとしている。

 また「コトサカヲ」は神格不明のようだが、私見では「コトシロヌシ(事代主)」で、いわゆる「えびすさん」の別名のある航海民の神だと考えている。

 神社に向かって右手に降りていくと、すぐに海岸でサンゴの砂浜が美しい。111okinawa_132

宮はサンゴ礁由来の琉球石灰岩の真上に鎮座するが、まさにその名にし負う波の上にある。

 この岩礁そのものを「御嶽(うたき)=聖地」とみる見方もあるが、なるほどと思わせる。

 左手の建物は社務所だが、立派な大したものだ。壁に「琉球大相撲の歴代横綱」として50年位前からの横綱名を書いてあったのが沖縄らしかった。111okinawa_050

総鎮守を参拝後、いよいよ世界文化遺産「首里城」に向かった。

 守礼の門の前では、新婚さんらしきカップルが琉球王朝衣装を着て、カメラに収まるところだった。

 (男性の被っているのは帽子ではなく実は「鉢巻」である。)111okinawa_053

王城の入り口「歓会門」

この辺りを裏側の高い所から見ると111okinawa_148

王城の壁は一部として直線的に造られていない事が見て取れる。

もちろん技術的に造れなかったのではなく、造らなかったのだ。というのは、大きく見せるためだろう。

 首里王府は大陸王朝の冊封体制下にあり、冊封使をしばしば迎えることがあった。その際に使者を大いにもてなすのだが、王城は大きく立派であるに越したことはなかった。111okinawa_136

瑞泉門などいくつかの門を経て、奉神門という深紅の建物をくぐるといよいよ王宮の前の広場だが、その奉神門の真ん前にぽつんといった感じで石垣に囲まれた小さな「森」がある。

 これこそが聖地を表す「御嶽(うたき)」で、ここは「首里森御嶽(すいむいうたき)」と名付けられている。

 首里城内には昔は10余りの御嶽があったというが、はっきりその場所を特定できたのは2ヶ所くらいしかない。111okinawa_055

奉神門を抜けると「宮殿」が華やかに広がる。

 首里城は昭和20年3月から6月までの沖縄戦において、灰燼に帰したが、アメリカからの施政権返還後の1974年に再建された。

石垣くらい残っていそうだが、それさえ全面的に造り直したのだそうだ。111okinawa_058

琉球王の玉座

「中山世鑑」によれば、沖縄最初の王統の始祖は「舜天王」で、かの鎮西八郎為朝の子だという。

 為朝は保元の乱の後、伊豆に流され、五島に至り、さらに沖縄まで渡ったと言われている。

それなら琉球王統は1180年代に始まったことになる。

 だが、三山(北山・中山・南山)を統一したのは尚氏の王統で、その名を「尚巴志」という人物だった(王位は1421~1441)。この王が即位したとき、すでに首里城はあったと言われているので、首里城は少なくとも450年の歴史を持つと言ってよい。111okinawa_138  

800円也を払い、靴を脱いで首里王城内を見学したあと、折りよく琉球舞踊の出し物を見ることができた。

 正月だけの催し物なのかどうか知らないが、入場券売り場の反対側の無料休憩所と書かれた建物の平入りの20畳ほどの座敷が舞台になっていた。

 最初はおなじみの「四ツ竹」111okinawa_140

次は「本貫花(むぅとぅぬちばな)」

愛する人に花を捧げようとする女心を切々と踊ってみせる。これは見ものだった。111okinawa_144

「浜千鳥」

船旅に出た恋人の無事を祈る踊り。111okinawa_147

「加那よー天川」

加那はかわいい娘といった意味で、相思相愛の男女の踊り(ただし踊り手はすべて女性)。

 間近で本場の琉球舞踊を見られるとは予期していなかったので、大変よい土産となった。

 ただ帰りの飛行機の時間が迫っていたので、もう一曲あったのだが、振り切らざるを得なかったのは惜しかった。

 しかし、まあ、サービス満点だったと思う。さようなら、沖縄。

                         (沖縄の旅②終り。完)

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沖縄の旅①―南部戦跡と斎場御嶽

姪の結婚式に参列したついでに、二回目の沖縄旅行を楽しんだ。今度は一回目と違い家族4人と実姉を連れた旅であった。

 沖縄と言えば、まず思い浮べるのが教科書で習った「ひめゆりの塔」に代表される沖縄戦末期のすさまじい「鉄の暴風」だろう。

 その次が、優に500年は続いた、日本本土とは別の王朝「琉球王朝」の首府で世界文化遺産にもなった「首里城」であろう。

 ひとによってさらには「エメラルドの海」「ダイビング」などがランクされるだろうが、上記の二つだけは動くまい。

 今回、やはりその定番の見所を中心に、レンタカーの旅となった。

那覇から南に国道331号線を行き、糸満市を通過して4キロほどの国道沿いに「ひめゆりの塔」がある。

入るとすぐ巨大なガジュマルがわれわれを迎える。111okinawa_013

ひめゆりの塔」は観光オフシーズンのこの頃でも、訪れる人はかなり多い。

111okinawa_016 碑の前には献花台があり、皆で花束を供えた。

 千羽鶴を供えて吊るしているお堂などもある。111okinawa_017

いわゆる「ひめゆり部隊」とは、沖縄師範学校女子部および第一高女の女学生百数十名の、おもに傷病兵を措置する「陸軍病院第三外科」に配属されたいわば急ごしらえの看護婦団であった。

 3月から始まったアメリカ軍の沖縄上陸作戦の南下に伴って、第三外科も那覇南部の南風原から、最終的にここまで南下してきたが、米軍の猛攻すさまじく、ついに焼夷弾、手榴弾の犠牲になって命果てた場所である。生き残りは十余名。90数パーセントの16歳から20までのうら若き女性たちが未来ある命をここに捧げた。

 洞窟(がま)が見えるが、あんな息詰まる所で最期を迎えた心中はどんなだったろう。111okinawa_022

ひめゆりの塔から1キロ余りで「平和祈念公園」(平和の礎=へいわのいしじ)に着く。

 喜屋武(きゃん)岬に造られた公園では、毎年6月23日の沖縄県平和祈念日に慰霊祭が行われるが、その時に使われる会場でもある。111okinawa_029

公園の一角には「沖縄県平和祈念堂」がある。

 入館すると、真ん中に巨大な仏像が鎮座している。

 沖縄独特の赤漆で仕上げてあるこの平和祈念像の製作者は「山田真j山」といい、地元沖縄出身で芸大卒の彫刻家だ。

 この像の周りにも千羽鶴が所狭しと供えられている。修学旅行生の心尽くしだろう。111okinawa_032

館内には「平和の礎」の碑に刻まれた戦没者の名簿が備えてあり、見ることができる。

 上巻・中巻は沖縄県民専用だが、下巻には他の都道府県出身者の戦没者名が載る。

 ところが、よく見ると最後の方に米国・英国・大韓民国・台湾・北朝鮮の戦没者が記載されている。

 自国のみならず、沖縄で戦没した人たちを平等に載せているのだ。敵味方を問わぬ世界平和、への力強い後押しと思われた。111okinawa_034

平和の礎

戦火に散った人たちは実は「平和への礎」であったのだ――という崇高な理念で建てられた。

 後ろの方には各市町村ごとに亡くなった人の名を刻んだ黒御影石がどこまでも立ち並んでいる。

 3ヶ月の激戦(3月27日~6月23日)で戦没した沖縄県民は14万9000余名。他県人は7万7000余名。併せて22万6000余名。軍民でなく一般民までが巻き込まれて死んだ数としては、その時点ではおそらく戦史最高の数だったろう(東京大空襲は12,3万)。終戦直前の広島・長崎原爆死者20万に匹敵するすさまじさだ。

 ちなみに件の米国軍民は14000余名。英国軍民82名、韓国364名、北朝鮮82名、台湾34名とのことである(「平和の礎」パンフレットによる)。111okinawa_033

修学旅行生が必ず訪れ話を聞く「平和祈念資料館」の前庭には、不発で引き上げられた艦砲弾や高射砲などが、赤さびたまま展示されていた。

沖縄戦は20年6月23日未明、陸軍沖縄総司令官・牛島満中将と副司令官・長勇中将の自決により降伏終戦となったが、その17日前の6月6日に現地入りし状況をつぶさに観察していた海軍沖縄陸戦隊司令官・大田実海軍少将の次の電文の末尾は大変有名であり、沖縄県民の塗炭の苦しみと真心が伝わる一文である。

  発信者:大田実少将

  受信者:海軍省次官

   『・・・。沖縄県民、斯く戦へり。県民に対し後世、特別の御高配を賜らんこを。』

いくら県民の心が素直で一途に戦争に協力したとはいえ、もう二度と戦火が訪れることのない沖縄であってほしいものだ。111okinawa_039

恒久平和祈念の地を後にして、次に向かったのが、沖縄最東南部に位置する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」だ。

 最初に沖縄に降りて来た「あまみきょ」が、ここを聖地として祭った場所という。

「斎場(せーふぁ)」は漢字の沖縄読みで、和語では「いつき・ば」となる。伊勢神宮などの大社で今も残る「斎宮」を思い出す。

 いや、思い出すどころか、この聖地では国王の神女の最高官「聞得大君(きこえおおきみ)」の代替わりの「御新下り(おあらおり)」神事や、その他一年を通じての祭事がここで行われたのだから、「斎宮」とほぼ同じ働きをする所と言ってよい。

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「三庫理(さんぐーい)」

聖地「御嶽(うたき)」の施設(自然物だから施設とは言えないが)の一つで、巨大な琉球石灰岩の断烈により人型の通路ができている。

 通路の向こうからは、晴れていれば海の中の最高の聖地「久高島」が望まれる。祭りの日には久高島の白砂が御嶽一面に散布されるそうだ。

                                     (沖縄の旅①―終り)

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姪の結婚式

22歳の姪が、縁あって沖縄出身の彼と結ばれた。

 二人とも東京に住んでいるが、結婚式は沖縄の、それもカトリック教会で行われた。姪も含めて、我が家は表向き仏教、内実は神道という日本では比較的ありふれた宗教事情にどっぷりと浸かっているのだが、彼の実家がカトリックなのだそうだ。111okinawa_072

父である兄は初めての花嫁の父となり、バージンロードで娘と腕を組むのが気まずそうだ。111okinawa_064

バージンロードの先に待っている婿にバトンタッチ。111okinawa_065

永遠に続けばいいと思っていただろうバージンロードも、父親にとってはあっという間。111okinawa_066

司祭によっておごそかに式が始まった。

 周りにいる4人は新郎・新婦それぞれの「証人」(契約不履行は許さぬぞ―というお目付け役)だ。111okinawa_086

新郎新婦の家族一同。

新郎の父親はフィリッピン人。船の機関長上がりで、今は車の販売の仕事をしている。111okinawa_077

晴れやかな二人を祝福する!

 式次第の中に「共同祈願」というのがあり、司祭はじめ、参会者が唱える言葉がある。

 その中でも新郎新婦の言葉がいい。

曰く「私たちが育てられた家庭、お世話になった方々に、いつも変わらない感謝の心を保つことができますように111okinawa_083

教会からのことば。

新しい門出にあったって、神がふたりの上に豊かな祝福を与え、これからの道を守ってくださいますように

 このあと近くのホテルに移り、祝宴となった。

 

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ダンベル体操

五十肩はとっくに過ぎて忘れていたが、去年右肩を再発したので、百均ストアで購入した水入れダンベルを持ってラジオ体操をすることにした(ある健康増進機関ですすめられた)。

 右肩だけと思い、やってみると左肩も油切れだったようで、チクリチクリと痛む箇所がある。どっちにしても無理しないように痛みを余り感じない範囲で、そうっとやることにしている。

 一ヶ月目のころ、そのダンベルを交差したときに互いをぶつけてしまい、水漏れがするようになった。そこで水の代わりに、正月の門松を作ったときに余った砂をいれてみた。110hinode_005

これなら水漏れの心配はない。重さも1キロ強と、水の時とほとんど変わらない。

 長続きしそうである(しなければならない)。

 折りしも遅い日の出が、肝属連山を覆う厚い雲の上にあがってきた。110hinode_006

数ヵ月後には痛みもとれ 、健康が保たれるようにとお願いしておいた。

 今日から三日間、姪の結婚式に出席するため沖縄に行く。家族四人揃っての十年ぶりくらいの旅行を兼ねて、行ってきます。

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-④1月4日(その二)

「三の柴」の柴立て神事が済むと、最後の目的地「高尾神社」だ。「三の柴」からは1キロ余り、大根占の市街地から上がってくる道が左から合わさった所に高尾神社がある。すぐ前には「貯水タンク」が聳える。

 急な階段を登った上に高尾神社はあり、階段の途中から俄然眺めがよくなる。104hatayamajinja_039

遠くの山々のすぐ手前の白い建物は「宿利原小学校」だ。104hatayamajinja_035

意外と広い境内の奥にある「高尾神社」。

 宮司の話では元来は「高穂神社」であるが、転訛して「高尾神社」になったとのこと。

 私見だが、この神社は「高千穂神社」ではないか。「高千穂」が天孫降臨の舞台であるのは周知のことだが、池田地区の「高千穂」がここではなかったか。

 遠い祖先がこの地にやってきた最初のその場所が「高穂(高千穂)」なのだろう。104hatayamajinja_034

境内の中ほどに立つタブとおもわれる木を依り代として最後の神事が行われた。104hatayamajinja_040

拝礼が終わって、宮司の切り分けた「藁苞のシトギ」を皆で食べて、神事は終了。104hatayamajinja_037

ところで、神社の裏手には国土地理院の「三等三角点」が立っている。

 そこからの眺めは素晴しい。

 はるか向こうには「肝属三山(甫余志岳・黒尊岳・国見岳)が屏風のように連なって見える。104hatayamajinja_036

高尾神社の建つピークはこのように屹立しているため、修験道の霊地だったとみえて、三角点のすぐそばには「役の行者」像がある。

 役の行者は大和葛城山の修験者だが、古書『山城国風土記』によれば、南九州の曽の峰に天下った「カモタケツヌミ」は神武東征の頃、大和に遷り、葛城地方を治めていたので、同じ葛城出身の「役の行者」はもしかしたら南九州との縁者かもしれない。

 それはそれとして・・・・・。旗山神社は島津忠国時代にそう命名される以前から、ずいぶん古い歴史がありそうだ。

 というのは本殿には「天神七代および地祇」が祭られているが、その横に並んで建てられている「狩長神社」こそが、本来の祭神だろうと思われるからだ。見るからに「狩猟の神様」ではないか。考えようでは弥生時代の怒涛の「米米時代」をやり過ごした縄文の残り香がするといってよい。

 今回、厳しい寒さの中の取材だったが、宮迫宮司はじめ神職の方々、宮迫夫人には温かいもてなしを受けたことに感謝したい。

 できれば来年も参加して、大隅の歴史の謎解きに挑戦しよう。

 (第二部終り・完結)

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-③1月4日(その一)

旗山神社の正月行事の三日目は、これこそが「柴祭り」の語源と思われる「柴立て神事」である。

 朝9時に本殿の前で神事が行われ、そのあと、本殿に納められていた諸道具を拝殿まで取り出して並べる。104hatayamajinja_009

一通りそろったところで、いよいよ柴立てに出発する。

 昔は約2キロ北西にある「高尾(高穂)神社」まで、「一の柴」「二の柴」「三の柴」と立てて行き、最後の高尾神社まで徒歩で行ったそうだが、今は文明の利器の車を使うようになった。

 致し方あるまい、雨でも何でも遂行しなければならない神事である。104hatayamajinja_010

「一の柴」は神社から北西に約300mの、とある自然木の森である。

 道路から一段上がった所に、椎の巨木があるが、それが神の依り代になった。104hatayamajinja_012

椎の巨木の前に、神社から持参の榊、神面などを立て掛けて行く。104hatayamajinja_015

前迫宮司が神降ろしをし、そのあと参列の皆が参拝した。104hatayamajinja_021

「二の柴」は県道68号線(鹿屋・吾平・佐多線=通称は中央線)を300mほど行った道路脇の竹やぶだった。

 依り代となる大木はない。怪訝に思っていると、ここから池田地区の北はずれの「段・中野集落」方面を遥拝するのだそうだ。104hatayamajinja_024

宮司の神降ろしの祝詞奏上のあと、次々に参拝をする。104hatayamajinja_026

拝礼の後はどういうわけか「直会」が始まった。

 実は、かっては徒歩で高尾神社に向かったので、ここら辺がちょうど休憩地点だった、というわけ。

 たっぷり1時間をかけて、茣蓙の上で「飲ん方」だ。104hatayamajinja_030

「三の柴」は県道から神川・宿利原方面へ入り、200mほど行った道路際の杉が依り代だった。

 例によって「神降ろし」と「参拝」が行われた。

(第一部終り)

 

 

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-②1月3日

1月3日、旗山神社「柴祭り」の2日目「シシ狩り神事」に出かける。今朝は我が家の玄関口で-2.5度、この冬一番の寒さだった。

 鼻をズルズル言わせながら、18キロの山道を単車で行くのは辛いが、一年待った祭礼行事だから―と気合を入れながら神社に向かう。幸い、路面の凍っていることもなく9時に到着した。

 拝殿の横ではもう「弓矢」や「イノシシ」の形代が作られつつあった。 103hatayamajinja_002_2

竹はコサンダケという自生している青竹、弦はごく普通のシュロ縄で、子供が喜びそうな出来栄えだ。103hatayamajinja_004

イノシシは藁苞にシュロの皮を着せていた。小ぶりだがなかなかの物。103hatayamajinja_008

最後に作られるのが「イノシシの肉」に模した「シトギ」(うるち米の粉を水で練った物=団子の原料)を藁苞に詰め込む。

 見た目は苞納豆(ツトナットウ)だ。

 これにあと8種類の常緑樹の枝葉でつくった「山ノ神シバ」(やまんかんしば)をこしらえて、午前中の準備は終わる。103hatayamajinja_018

午後一時に神事が始まった。

 午前中に作っておいたシシ狩りの道具と「山ノ神シバ」が、納められていた本殿から取り出される。103hatayamajinja_021

今日の行事の無事と、シシ狩りに代表される諸事万端の恙が無きを祈る祝詞奏上のあと、神社を後にしてシシ狩り神事のおこなわれる場所まで行列で歩いて行く。103hatayamajinja_024

神社から約500㍍、一行は山中の「この坂」に向かう。

「この坂」はシシ狩り神事をおこなう場所だが、「この坂」の意味はよく分かっていないようだ。

 私見では「この境」で、おそらく池田地区を見守る「山ノ神」の守備範囲の境目のことだろう。103hatayamajinja_025

シシ狩りの「この坂」に到着すると、すぐ近くの大木に持参した「山ノ神シバ」(榊の束と同じ)と鈴、神面などを立て掛け、宮司が祝詞をあげる。103hatayamajinja_026

そのあとが面白い。餅盗人(もちぬすと)」という神事があるのだ。

山ノ神の前で「餅泥棒」の絵を広げて、なんやかやぶつぶつ言いながら、絵に竹串を刺していく。

「こら、こら、お前は、ないごて盗んとか!」などと言いながら、十数本も餅泥棒の体に刺すのだが、ユーモアたっぷりの口上には思わず笑ってしまう。103hatayamajinja_027

そのあと、あらかじめ作っておいた「シシ小屋(ねぐら)」に向かって、神職が弓矢で射かける。103hatayamajinja_031

木の枝で設えられたシシ小屋をぐるぐる回りながら、ようやく4頭を仕留めて終了した。

 そのあとはシシを焼く。103hatayamajinja_033_2

焼けたシシは、神社で作っておいた藁苞入りのシトギがそれだとし、別の場所に行って祝詞を上げたあと、宮司が切り分けて参加者全員に食べさせる。

 神事はそれで終り、神社に戻って行く。

 この行事は昨日が「田の豊穣を願う予祝」だったのに対し、狩猟(山の幸)の豊かならんことを願うもので、当然ながら、米作りより一段と古い予祝神事であることは間違いない。

 

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旗山神社の柴祭り(肝属郡錦江町池田)-①1月2日

旗山神社は錦江町(旧大根占町)の山中の池田地区・川南に鎮座する古社である。102hatayamajinja_002_2

薩摩藩第9代島津忠国のとき、戦場に必要な幟旗用の竹竿を確保するため池田地区に竹を植えさせたことから「旗山神社」と命名された。今からおよそ560年ほど昔のことである。

 竹については由来を聞かなければ分からないが、神社に来て見た目にはっきりと知れるのが大楠で、神社の向かいに壮絶な姿を見せている。102hatayamajinja_004_2

現況で高さは17~8メートル、幹周りは15メートルほどか。壮絶と言ったのは、戦後間もなくクスの洞に宿を借りていたある人物が、誤って火事を起こしたため、洞の内部、つまり幹の中が焼けてしまい(大やけど―と言うべきか)、樹勢がいちじるしく衰えたからだ。

 宮司の前迫芳文さんによると、皮一枚でかろうじて生きているそうだ。102hatayamajinja_010_2

 

1月2日から4日まで、この神社の正月行事「柴祭り」があるというのでお邪魔した。

 前迫さんの家の入り口には、正月らしく結界を示す竹が立てられその間に注連縄が張られていた。102hatayamajinja_011_2

 

9時ごろ集まってきた地区の神職方が、前迫宮司を囲んで新年の挨拶を交わすところから始まる。

正月の祝い膳を食し、茶を飲んだあと、おもしろい行動に出た。銘々が赤い化粧箱から櫛、かみそりを取り出しては、髪をすき、ひげを剃ったのである。102hatayamajinja_015_2

 1月2日は何でも「事始め」とのことで、「櫛起こし」「かみそり起こし」だという(「起こし」は「始め」の意味)。102hatayamajinja_017_2

それが済むといよいよ今日の神事の場所である「安水の立神神社」に向かう。

 安水集落は池田から西へ約3キロの所にある集落で、そこから広域農道を神ノ川に向かって下ること500メートルの川向かいに「立神神社」はある。 102hatayamajinja_018_3

神社前には安水集落の人たちがおおぜい一行を待っていた。

赤い社殿の左手に聳えるのが「立神」で、数万年前にこの地を覆った噴火の噴出物「阿多凝灰岩」が流水によって削られ、高さ30メートルくらいのローソク岩となって残ったものだ。 ご神体は岩だが、修験の聖地となったため「六所・立神権現」と命名されている。102hatayamajinja_023_2

社殿の中で、早速祭礼の準備がなされた。

榊にシデを取り付ける。「田の神」の依り代である。102hatayamajinja_028_2

ここでは「田の神」を招き、安水集落の豊作祈願を行うという。

民俗学的には「豊作予祝」だ。102hatayamajinja_032_2

外では子供たちが「かぎ引き」に使うような二股の木の枝を手に手に、盛り上げられた土をかき撫で始めた。

 牛が田起こしをしているのだという。102hatayamajinja_034_2

牛が田起こしをしている間、神職たちが唱えごとをする。その歌の内容は、立神様への豊作へのお願いと、田起こしの良からん事への期待で、五七五の和歌のリズムに沿って歌われる古雅なものである。

 だが、巧まざるユーモアも織りこまれている所が面白い。

このあと、牛が暴れて周りの大人たちに土を投げて回るという一幕があり、最後に子供たちの耕した田に宮司が籾を撒いて終了した。「田ほめ」「籾ほめ」「苗ほめ」など、とにかく誉めることで健やかな生育と、収穫がもたらされるという「予祝行事」がこれである。

2日はこのあとに安水公民館で「針起こし(裁縫の始め)」と「直会(なおらえ)」があってお開きとなった。

(写真はクリックすると拡大する)

マップ:県道68号線=鹿屋・吾平・佐多線で吾平から12~3キロ南下すると池田地区。その中心地の川南に旗山神社はある)

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高隈連山を望む(鹿屋市川東町)

ブルっと冷え込んだ今朝。県内は軒並み零下を記録。この冬一番の寒さだったそうだ。

午前七時の我が家の玄関口で氷点下2.5℃、は確かに厳しい。昨日よりさらに1度下がっている。

 昨日から見学に行っている肝属郡錦江町池田の「旗山神社」の正月神事「柴祭り」の帰りに、肝属川の土手を走ってみると、清澄そのものの大気の中に、高隈連山が余す所なくその全容を見せていた。103hatayamajinja_016

鹿屋市川東と川西の間を結ぶ「大正橋」の上からは、高隈山が山岳信仰のメッカだった頃に登る対象とされた「高隈七岳」のすべてを見ることができる。(川は肝属川)

 向かって左から横岳、平岳、二こぶの双子岳、小さくとんがっている妻岳、そして名峰・御岳(権現岳)。

 右手へ下ってまた登りかかる所にあるコノガラ岳、最後の右端のピークが最高峰のオオノガラ岳。

 これらはすべて千メートルを超える山々で、最高峰はオオノガラ岳の1246mだが、山岳信仰時代の盟主は御岳(権現岳=1182m)だ。

 ところで連山の名の「高隈」。

 使われれる漢字の「隈」が「くぐもった様子。屈曲のある蔭の部分」の意味であることから、王化に浴さぬ「クマソ」の「クマ」のイメージとダブらせて解釈する向きが多いのだが、どう見てもこの連山は蔭にあるようには見えず、それどころか明々白々、堂々と空に突き出ているのであるから、そうは言えまい。

 私見では「隈」は「熊」であり、「熊」は本来「火を能くする、火の盛んな」であるから、「タカクマ」は漢字を当てるならば「高熊山」が正解で、その意義は「おおいに火=日=霊の盛んな山」である。

 ついでに「熊襲」も言っておくと、「熊」は「隈」でもなんでもなく、上で述べたように「火の盛んな」の意味であり、「熊襲」とは「火の盛んな(性格を持つ、またそのような火山地帯に住む)襲人」のことであり、大カルデラ火山を4つも5つもその領域に持ち、火の洗礼を物ともせずにたくましく生きる南九州人の、むしろ尊称(自称)とも言える名称なのである。

 同じ南九州人を後世「隼人」と名称換えするが、記紀の天孫降臨説話で「隼人の祖はホスセリ(ホデリ)」と記されるのは共に「火が盛ん」の意味であるから、まさに「熊」の原義に適っている。このことをよくよく考えなければなるまい。

 

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元旦の指宿にて

ブログを見てくださっている皆様、明けましておめでとうございます。今年も気に入る、気に入らないは別にして、どうぞ暇な折にはお付き合いください。

 さて、31日の昼過ぎまでに正月の準備を終え、家内の実家、指宿へ渡航、大晦日から元旦を過ごしたのだったが、あいにくの荒天で、楽しみにしていた指宿国民休暇村の海辺からの初日の出は厚い雲に阻まれてしまった。101ibusuki_009

7時10分ごろに初日が出るだろうと、行ってみたのだが、30分待っても雲に覆われたままの向かいの大隅半島から、お天道様はついに現れなかった。

 冬至に近いので、おそらく根占港かその南に聳える辻岳あたりから太陽が顔をのぞかせるはずだったのに・・・。

 気を取り直して、すぐそこの松林の中にある「旧海軍指宿田良浜航空基地跡」を訪れる。101ibusuki_012

指宿に住んでいた20年近く前、この休暇村の田良浜には子供をつれてよく遊びに来ていて、標柱か何かでその存在は知っていたのだが、今度初めて来てみた。

 直径30㍍ほどの円墳かと見まごう防空壕の上に慰霊碑が厳かに建てられていた。101ibusuki_011

「円墳」の頂上には清潔な白砂利が敷きつめられ、奥に慰霊碑、観音像そして戦没者刻銘碑が建っている。

 後ろには自然生の黒松が見事で、さらにその背景には「魚見岳」の切り立った凝灰岩の巨大な岸壁が迫る。巧まざる造形美の中にあると言ってよい。

 正面碑文には、当基地からは82名の若者が不帰の客になったと書かれていた。101ibusuki_001

霙が混じっているような小雨の中、二月田の近くまで戻ってくると、二反田川沿いにある「殿様の湯」が、なんと元旦から営業している。

(写真の遠方の山は魚見岳)101ibusuki_008

驚いた。寒いので入りたかったが、夕べも入りに来たのでやめておく(朝風呂はなんとやら)。

 何しろ、熱い湯なのだ。源泉の温度は52度で、湯船にはそのまま入ってくる。それを湯船に付いている水の蛇口をひねって調整するのだが、きのう漬かった時には誰も水を加えていなかった。

 慣れがあるのかもしれないが、血圧の高い自分にはきつい。101ibusuki_007

裏手に回ると、殿様湯の名前の由来が分かる。幕末近くの1800年代当時のままの姿が残されていた。

 この湯殿は天保年間に、27代藩主島津斉興が別の場所に豪商浜崎太平次(5代目)に作らせたのを、ここに移築したものだそうだ。

 少し塩気のある温泉で、傷、凝り、皮膚病、冷え性によく、飲用すれば胃腸病に効くという。101ibusuki_006

すぐそこには「湯の権現」が祭られている。

祭神は「オオナムチノ命」と「スクナヒコナ命」。

 たしか道後温泉でも同じ神々が祭られていたと記憶するが、温泉にも命が通っているととる感性は日本人特有だろう。101ibusuki_014

殿様の湯の前を流れる二反田川をさかのぼっていくと、300㍍で「揖宿神社」に突き当たる。

 小雨の中だが、すでに露店が並び、参拝客もかなり多い。

 石の鳥居は大隅花崗岩製で、大根占の港から運んだという。その石工は鹿児島市内にあった五大石橋の製作棟梁「岩永三五郎」というから大した物だ。

101ibusuki_013

駐車場口から入るとおおぜいの参拝客。

手水舎にある手水鉢も三五郎の作で、寄進者は大河ドラマ『篤姫』では平幹二郎が好演した幕末薩摩藩財政改革家老職「調所笑左衛門」その人という。

 幸野宮司にちょっと質問してみる。

 このお宮は「開聞新宮」と呼ばれるが、どうして?

――貞観年間に開聞岳が噴火し、向こうがやられたので、ここへ避難して新たに祭ったからですよ。

 その前は何か祭られていた?

――天智天皇を祭り、「葛城宮」と言ってました。西暦706年の2月10日に創建したという記録があります。ただ、向こうが再建された時に、開聞神社の祭神が元に戻されたという記録は無いんです。

 じゃあ、再建された開聞神社はもぬけの殻?

――いえ、あちらはもともと開聞岳を神と祭る神社ですから・・・。

 天智天皇は志布志でも祭っている神社があるけれど、どう考える?

――天智天皇は亡くなられた場所が特定されていないので、こっちの方に落ち延びた。そして79歳の天寿を全うされたとも言われているんです。

 ははあ、これは一理ありそうですね。面白くなってきたなあ。今後もお話の方よろしくお願いします。

 それでは、今年も歴史の謎解きにご案内しますので、どうか・・・・・。

 

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