沖縄の旅②―波上宮と首里城
1月12日、沖縄最後の日の朝は、まず沖縄総鎮守と言われる「波上宮(なみのうえぐう)」を参拝した。
ユイレールという空港と首里城を結ぶモノレールの旭橋駅を少し北へ行ったところに5差路があり、斜め左に入って行って1キロ弱、前方に大きな鳥居が立っている。ねずみ色の鳥居というのはかなり珍しい。それでもすっきりとした見ごたえある鳥居だ。
まだ初詣での客も多いのだろう、いくつかの露店が朝の眠りをむさぼっていた。
30年前に来たときは、コンクリートに白いペンキを塗ったような寒々とした社で、本殿の向こうに海が見えるような、何にもなかった境内だったように記憶するが、今は本殿、拝殿は無論のこと、手水舎までがなんとも立派になっている。
木立までが往時とは全く違う。
波上宮は熊野神社と同じ神々を祭る。
中心は「イザナギノ命」で、日向の橘の小戸のアワギ原でいわゆる三貴神「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」を生んだ神だ。配神が「速玉男命」と「事解男(コトサカヲ命」で、熊野本宮では「速玉男」こそが「イザナミ」であるとしている。
また「コトサカヲ」は神格不明のようだが、私見では「コトシロヌシ(事代主)」で、いわゆる「えびすさん」の別名のある航海民の神だと考えている。
神社に向かって右手に降りていくと、すぐに海岸でサンゴの砂浜が美しい。
宮はサンゴ礁由来の琉球石灰岩の真上に鎮座するが、まさにその名にし負う波の上にある。
この岩礁そのものを「御嶽(うたき)=聖地」とみる見方もあるが、なるほどと思わせる。
左手の建物は社務所だが、立派な大したものだ。壁に「琉球大相撲の歴代横綱」として50年位前からの横綱名を書いてあったのが沖縄らしかった。
総鎮守を参拝後、いよいよ世界文化遺産「首里城」に向かった。
守礼の門の前では、新婚さんらしきカップルが琉球王朝衣装を着て、カメラに収まるところだった。
王城の入り口「歓会門」
王城の壁は一部として直線的に造られていない事が見て取れる。
もちろん技術的に造れなかったのではなく、造らなかったのだ。というのは、大きく見せるためだろう。
首里王府は大陸王朝の冊封体制下にあり、冊封使をしばしば迎えることがあった。その際に使者を大いにもてなすのだが、王城は大きく立派であるに越したことはなかった。
瑞泉門などいくつかの門を経て、奉神門という深紅の建物をくぐるといよいよ王宮の前の広場だが、その奉神門の真ん前にぽつんといった感じで石垣に囲まれた小さな「森」がある。
これこそが聖地を表す「御嶽(うたき)」で、ここは「首里森御嶽(すいむいうたき)」と名付けられている。
首里城内には昔は10余りの御嶽があったというが、はっきりその場所を特定できたのは2ヶ所くらいしかない。
奉神門を抜けると「宮殿」が華やかに広がる。
首里城は昭和20年3月から6月までの沖縄戦において、灰燼に帰したが、アメリカからの施政権返還後の1974年に再建された。
石垣くらい残っていそうだが、それさえ全面的に造り直したのだそうだ。
琉球王の玉座
「中山世鑑」によれば、沖縄最初の王統の始祖は「舜天王」で、かの鎮西八郎為朝の子だという。
為朝は保元の乱の後、伊豆に流され、五島に至り、さらに沖縄まで渡ったと言われている。
それなら琉球王統は1180年代に始まったことになる。
だが、三山(北山・中山・南山)を統一したのは尚氏の王統で、その名を「尚巴志」という人物だった(王位は1421~1441)。この王が即位したとき、すでに首里城はあったと言われているので、首里城は少なくとも450年の歴史を持つと言ってよい。
800円也を払い、靴を脱いで首里王城内を見学したあと、折りよく琉球舞踊の出し物を見ることができた。
正月だけの催し物なのかどうか知らないが、入場券売り場の反対側の無料休憩所と書かれた建物の平入りの20畳ほどの座敷が舞台になっていた。
次は「本貫花(むぅとぅぬちばな)」
愛する人に花を捧げようとする女心を切々と踊ってみせる。これは見ものだった。
「浜千鳥」
「加那よー天川」
加那はかわいい娘といった意味で、相思相愛の男女の踊り(ただし踊り手はすべて女性)。
間近で本場の琉球舞踊を見られるとは予期していなかったので、大変よい土産となった。
ただ帰りの飛行機の時間が迫っていたので、もう一曲あったのだが、振り切らざるを得なかったのは惜しかった。
しかし、まあ、サービス満点だったと思う。さようなら、沖縄。
(沖縄の旅②終り。完)
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 人吉紀行(2018.07.22)
- 葉桜の吉野山と大阪造幣局(2018.04.14)
- 観音池公園の桜(2018.03.28)
- 美作(津山市)と大隅(2018.03.26)
- 西郷どん(せごどん)終焉の地(2017.09.10)
コメント