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オバマ大統領就任

忘れもしない中学2年生だった1963年11月23日の早朝、友達3人でハイキングへ行こうと友人宅へ迎えに行き、待っていると別の友人が来るなり、

 「まっちゃん(これが私の通称であった)、ケネディ大統領が暗殺されたんだって」

 「ええっ!」

 その友人は家を出る直前にテレビニュースを見て知ったと言う。まだ世界情勢も分からぬ少年にも、ケネディ大統領の新進気鋭の素晴しさのようなものは感じていたので、「アメリカっちゅう国は、何が起こるのやら・・・」と、一抹の不安のようなものを覚えたことだけは記憶に残っている。

 その頃のアメリカは、ベトナム戦争を抱えながら、他方ではソ連との確執(冷戦)の真っ只中にあり、英国の没落に変わって自由世界の旗手を自認していた絶頂期にあった。

 しかし国内では依然として黒人には自由を与えず、それでいてベトナム戦争の前線に黒人兵を送り続けていた。

 そんな状況の下、マーティン・ルーサー・キング牧師の「公民権運動」はいよいよ現実味を帯びてきていた。

 さもあらばあれ、翌年の1964年、ケネディの後任リンドン・ジョンソン大統領はついに黒人の「公民権」を認めた。

 ・・・・・だが、事態は変わらなかった。というより白人(特に南部の)による妨害が多発したのである。とうとう4年後の1968年4月には、指導者のキング牧師が暗殺されるという事件に発展した。

 だが、時代の潮流はとどめようがなく、公共のバス、トイレ、レストランなどなどから締め出されていた黒人たちは、次第に「自由に」利用できるようになっていった。

 第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争の結果、欧米各国から植民地支配を受けていたアジア・アフリカ諸国が続々と「自由」を獲得していったが、それは1960年代であった。ところが自由の本場であるアメリカ国内で黒人が真の自由を獲得したのは、1970年代半ば頃であった。なんという皮肉だろう。「自由、自由」と言っていたが、それはいったい誰の自由だったのだろうか、真相は明らかではないか。

 まだ黒人が不自由をかこっていた1961年に、バラク・フセイン・オバマはケニヤ人の父と、アメリカ人の母(白人)との間に生まれた。

 オバマ大統領がその就任演説の最後の方で

 「まだレストランに入ることを拒否されていたアフリカ移民の父のその子が、60年後の今、こうして大統領になれた。そういうアメリカの偉大さ・・・・・」120barackobama_003

オバマ氏は「そういうアメリカの偉大であり、ふところの深いことこそが、いかなる危機にもひるまぬ再生(リメイキング)をもたらす」という風に、強調したいのだろうが、私はようやく訪れた「真の人種差別撤廃」の方に重点を置いて聞いていた。

 1919年のベルサイユ講和会議で、日本の特使の副使(全権は西園寺公望)として望んだ牧野伸顕(大久保利通の次男)が提議した「人種差別撤廃動議」(賛成多数だったが、議長のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが、全会一致でなければ承認できぬ――と突っぱね、否決された)から、実に90年かかってようやく「自由の母国・アメリカ」で、人種によらぬ自由・平等が実現されたわけである。

 牧野伸顕も草葉の陰で大喜びしていよう。

オバマ大統領の進路には大きな試練が待ち受けていようが、どうかそれを乗り越えて進んでいってもらいたいものだ。

 それにしても、今度ファーストレディになったミシェル夫人はすごい人物だ。120barackobama_006

身長180センチというのもさりながら、プリンストン大学を出て、ハーバード大学の大学院に学んだという。

 日本でなら差し詰め「京都大学を出て、東大の大学院に学んだ才女」となる。

 あの黒人国務長官で才媛として名高いライスも、今度の長官ヒラリーも真っ青だろう。

 これに匹敵するのはもしかしたら、ハーバードを出た「雅子さま」か。皇室外交の出番が、意外にも廻ってくるかもしれない。

 

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