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沖縄の旅①―南部戦跡と斎場御嶽

姪の結婚式に参列したついでに、二回目の沖縄旅行を楽しんだ。今度は一回目と違い家族4人と実姉を連れた旅であった。

 沖縄と言えば、まず思い浮べるのが教科書で習った「ひめゆりの塔」に代表される沖縄戦末期のすさまじい「鉄の暴風」だろう。

 その次が、優に500年は続いた、日本本土とは別の王朝「琉球王朝」の首府で世界文化遺産にもなった「首里城」であろう。

 ひとによってさらには「エメラルドの海」「ダイビング」などがランクされるだろうが、上記の二つだけは動くまい。

 今回、やはりその定番の見所を中心に、レンタカーの旅となった。

那覇から南に国道331号線を行き、糸満市を通過して4キロほどの国道沿いに「ひめゆりの塔」がある。

入るとすぐ巨大なガジュマルがわれわれを迎える。111okinawa_013

ひめゆりの塔」は観光オフシーズンのこの頃でも、訪れる人はかなり多い。

111okinawa_016 碑の前には献花台があり、皆で花束を供えた。

 千羽鶴を供えて吊るしているお堂などもある。111okinawa_017

いわゆる「ひめゆり部隊」とは、沖縄師範学校女子部および第一高女の女学生百数十名の、おもに傷病兵を措置する「陸軍病院第三外科」に配属されたいわば急ごしらえの看護婦団であった。

 3月から始まったアメリカ軍の沖縄上陸作戦の南下に伴って、第三外科も那覇南部の南風原から、最終的にここまで南下してきたが、米軍の猛攻すさまじく、ついに焼夷弾、手榴弾の犠牲になって命果てた場所である。生き残りは十余名。90数パーセントの16歳から20までのうら若き女性たちが未来ある命をここに捧げた。

 洞窟(がま)が見えるが、あんな息詰まる所で最期を迎えた心中はどんなだったろう。111okinawa_022

ひめゆりの塔から1キロ余りで「平和祈念公園」(平和の礎=へいわのいしじ)に着く。

 喜屋武(きゃん)岬に造られた公園では、毎年6月23日の沖縄県平和祈念日に慰霊祭が行われるが、その時に使われる会場でもある。111okinawa_029

公園の一角には「沖縄県平和祈念堂」がある。

 入館すると、真ん中に巨大な仏像が鎮座している。

 沖縄独特の赤漆で仕上げてあるこの平和祈念像の製作者は「山田真j山」といい、地元沖縄出身で芸大卒の彫刻家だ。

 この像の周りにも千羽鶴が所狭しと供えられている。修学旅行生の心尽くしだろう。111okinawa_032

館内には「平和の礎」の碑に刻まれた戦没者の名簿が備えてあり、見ることができる。

 上巻・中巻は沖縄県民専用だが、下巻には他の都道府県出身者の戦没者名が載る。

 ところが、よく見ると最後の方に米国・英国・大韓民国・台湾・北朝鮮の戦没者が記載されている。

 自国のみならず、沖縄で戦没した人たちを平等に載せているのだ。敵味方を問わぬ世界平和、への力強い後押しと思われた。111okinawa_034

平和の礎

戦火に散った人たちは実は「平和への礎」であったのだ――という崇高な理念で建てられた。

 後ろの方には各市町村ごとに亡くなった人の名を刻んだ黒御影石がどこまでも立ち並んでいる。

 3ヶ月の激戦(3月27日~6月23日)で戦没した沖縄県民は14万9000余名。他県人は7万7000余名。併せて22万6000余名。軍民でなく一般民までが巻き込まれて死んだ数としては、その時点ではおそらく戦史最高の数だったろう(東京大空襲は12,3万)。終戦直前の広島・長崎原爆死者20万に匹敵するすさまじさだ。

 ちなみに件の米国軍民は14000余名。英国軍民82名、韓国364名、北朝鮮82名、台湾34名とのことである(「平和の礎」パンフレットによる)。111okinawa_033

修学旅行生が必ず訪れ話を聞く「平和祈念資料館」の前庭には、不発で引き上げられた艦砲弾や高射砲などが、赤さびたまま展示されていた。

沖縄戦は20年6月23日未明、陸軍沖縄総司令官・牛島満中将と副司令官・長勇中将の自決により降伏終戦となったが、その17日前の6月6日に現地入りし状況をつぶさに観察していた海軍沖縄陸戦隊司令官・大田実海軍少将の次の電文の末尾は大変有名であり、沖縄県民の塗炭の苦しみと真心が伝わる一文である。

  発信者:大田実少将

  受信者:海軍省次官

   『・・・。沖縄県民、斯く戦へり。県民に対し後世、特別の御高配を賜らんこを。』

いくら県民の心が素直で一途に戦争に協力したとはいえ、もう二度と戦火が訪れることのない沖縄であってほしいものだ。111okinawa_039

恒久平和祈念の地を後にして、次に向かったのが、沖縄最東南部に位置する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」だ。

 最初に沖縄に降りて来た「あまみきょ」が、ここを聖地として祭った場所という。

「斎場(せーふぁ)」は漢字の沖縄読みで、和語では「いつき・ば」となる。伊勢神宮などの大社で今も残る「斎宮」を思い出す。

 いや、思い出すどころか、この聖地では国王の神女の最高官「聞得大君(きこえおおきみ)」の代替わりの「御新下り(おあらおり)」神事や、その他一年を通じての祭事がここで行われたのだから、「斎宮」とほぼ同じ働きをする所と言ってよい。

111okinawa_040

「三庫理(さんぐーい)」

聖地「御嶽(うたき)」の施設(自然物だから施設とは言えないが)の一つで、巨大な琉球石灰岩の断烈により人型の通路ができている。

 通路の向こうからは、晴れていれば海の中の最高の聖地「久高島」が望まれる。祭りの日には久高島の白砂が御嶽一面に散布されるそうだ。

                                     (沖縄の旅①―終り)

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