元旦の指宿にて
ブログを見てくださっている皆様、明けましておめでとうございます。今年も気に入る、気に入らないは別にして、どうぞ暇な折にはお付き合いください。
さて、31日の昼過ぎまでに正月の準備を終え、家内の実家、指宿へ渡航、大晦日から元旦を過ごしたのだったが、あいにくの荒天で、楽しみにしていた指宿国民休暇村の海辺からの初日の出は厚い雲に阻まれてしまった。
7時10分ごろに初日が出るだろうと、行ってみたのだが、30分待っても雲に覆われたままの向かいの大隅半島から、お天道様はついに現れなかった。
冬至に近いので、おそらく根占港かその南に聳える辻岳あたりから太陽が顔をのぞかせるはずだったのに・・・。
気を取り直して、すぐそこの松林の中にある「旧海軍指宿田良浜航空基地跡」を訪れる。
指宿に住んでいた20年近く前、この休暇村の田良浜には子供をつれてよく遊びに来ていて、標柱か何かでその存在は知っていたのだが、今度初めて来てみた。
直径30㍍ほどの円墳かと見まごう防空壕の上に慰霊碑が厳かに建てられていた。
「円墳」の頂上には清潔な白砂利が敷きつめられ、奥に慰霊碑、観音像そして戦没者刻銘碑が建っている。
後ろには自然生の黒松が見事で、さらにその背景には「魚見岳」の切り立った凝灰岩の巨大な岸壁が迫る。巧まざる造形美の中にあると言ってよい。
正面碑文には、当基地からは82名の若者が不帰の客になったと書かれていた。
霙が混じっているような小雨の中、二月田の近くまで戻ってくると、二反田川沿いにある「殿様の湯」が、なんと元旦から営業している。
驚いた。寒いので入りたかったが、夕べも入りに来たのでやめておく(朝風呂はなんとやら)。
何しろ、熱い湯なのだ。源泉の温度は52度で、湯船にはそのまま入ってくる。それを湯船に付いている水の蛇口をひねって調整するのだが、きのう漬かった時には誰も水を加えていなかった。
裏手に回ると、殿様湯の名前の由来が分かる。幕末近くの1800年代当時のままの姿が残されていた。
この湯殿は天保年間に、27代藩主島津斉興が別の場所に豪商浜崎太平次(5代目)に作らせたのを、ここに移築したものだそうだ。
少し塩気のある温泉で、傷、凝り、皮膚病、冷え性によく、飲用すれば胃腸病に効くという。
すぐそこには「湯の権現」が祭られている。
祭神は「オオナムチノ命」と「スクナヒコナ命」。
たしか道後温泉でも同じ神々が祭られていたと記憶するが、温泉にも命が通っているととる感性は日本人特有だろう。
殿様の湯の前を流れる二反田川をさかのぼっていくと、300㍍で「揖宿神社」に突き当たる。
小雨の中だが、すでに露店が並び、参拝客もかなり多い。
石の鳥居は大隅花崗岩製で、大根占の港から運んだという。その石工は鹿児島市内にあった五大石橋の製作棟梁「岩永三五郎」というから大した物だ。
駐車場口から入るとおおぜいの参拝客。
手水舎にある手水鉢も三五郎の作で、寄進者は大河ドラマ『篤姫』では平幹二郎が好演した幕末薩摩藩財政改革家老職「調所笑左衛門」その人という。
幸野宮司にちょっと質問してみる。
このお宮は「開聞新宮」と呼ばれるが、どうして?
――貞観年間に開聞岳が噴火し、向こうがやられたので、ここへ避難して新たに祭ったからですよ。
その前は何か祭られていた?
――天智天皇を祭り、「葛城宮」と言ってました。西暦706年の2月10日に創建したという記録があります。ただ、向こうが再建された時に、開聞神社の祭神が元に戻されたという記録は無いんです。
じゃあ、再建された開聞神社はもぬけの殻?
――いえ、あちらはもともと開聞岳を神と祭る神社ですから・・・。
天智天皇は志布志でも祭っている神社があるけれど、どう考える?
――天智天皇は亡くなられた場所が特定されていないので、こっちの方に落ち延びた。そして79歳の天寿を全うされたとも言われているんです。
ははあ、これは一理ありそうですね。面白くなってきたなあ。今後もお話の方よろしくお願いします。
それでは、今年も歴史の謎解きにご案内しますので、どうか・・・・・。
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