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田崎神社のお田植え祭(鹿屋市田崎町)

田崎神社のお田植え祭は2月22日と日が固定されている。今年は日曜日だったので見物することができた。222tasakijinjaotauesai_002

2月22日はこの地に賀茂大社の分霊(ワケイカヅチノミコト)を捧持してきた伊勢国住人「田丸玄蕃」の縁日でもあるらしい。

 本殿に向かって左にある「田丸玄蕃・神道碑」の前には、榊と餅、野菜などが供えられていた。

 後ろには寛永3(1626)年の宝鋏印塔なども見える。222tasakijinjaotauesai_005

祭典開始は午後1時。222tasakijinjaotauesai_007

今日の主役と言っていい「七人の侍(さむらい)」の一人が、玉ぐし奉奠をする。

 赤い袖なし着が一風変わっている。222tasakijinjaotauesai_014

神事が終わると、七人の侍たちは、手に手に鍬(柄振り)に模した物を持ち、田んぼに見立てた境内に登場する。222tasakijinjaotauesai_018

続いて大きな鏡餅を担いだ「神役」と、鋤を担いだ田吾作役も現れた(小雨が降っていたので、餅にはビニールが掛けられている)。222tasakijinjaotauesai_020

境内を観客を冷やかしながら何周か歩いたあと、七人は牛を曳き出してきた。222tasakijinjaotauesai_023

まずは「七人の侍」が気勢を上げながら、田んぼに見立てた境内を縦横に走り回る。222tasakijinjaotauesai_025

しばらくすると今度は「田吾作」が出てきて、牛に着けた鋤を押して行く。

 七人の侍は田吾作が登場した以上、単なる「農夫」ではない。田吾作の耕作を加勢しているのだ。

 思うに、七人の侍とは「七狩長」のことか。狩猟の神だから耕作はしないが、田吾作が耕作するのを助けることはできる。222tasakijinjaotauesai_031

皆の息が上がったころ、ようやく耕作が終り、七人は神官から炊いた米(ご飯)を一握りずつ貰って食べるのだが、その時にめいめいが立ち上がって、観衆に向かい「うんまか米じゃ。今年の豊作まちがいなし!皆さんも豊かになりますよう」などと口上を述べる。222tasakijinjaotauesai_032

いっとき休憩したあとの次の行動が面白い。

 立てかけてあったススキかカヤの束をめいめいが手に取り、袋状のちょうど藁苞納豆状の物を作り始めた。

 何のことはない、砂を詰め込んでいるのだ。222tasakijinjaotauesai_034_2

それを見物人目がけてばら撒く。見物人はヤッケなどを着込んでかけられた砂が体に入らないよう必死に避ける。

 氏子の人に聞くとあれは「肥料」なんだそうだ。よい収穫になるようにという「予祝」なのだろう。222tasakijinjaotauesai_036

最後に「苗」に見立てた物を皆に配る。222tasakijinjaotauesai_038

榊を手に持ったまま、参会者全員で踊りまわる。222tasakijinjaotauesai_039

笛・太鼓・唄などは無く、皆して粛々と舞い回る。222tasakijinjaotauesai_041

最後に「籾播き」の代わりだろうか「アメ播き」でお開きとなった。

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田崎神社のしか祭り(鹿屋市田崎町)

田崎神社は正式名「七狩長田貫神社(ななかりおさ・たぬき神社)」で、七人(七柱?)の狩の首領と「田貫(=田主=たぬし)」とが合体した世にも珍しい神社である。217shikamaturi_049

神社は浜田、大姶良方面から鹿屋中心部へ向かう県道が、田崎運動公園・グラウンドゴルフ場を左右に見て間もなくの、肝属川に向かってやや下り坂になりかかった所にある。

 T字路交差点の角にあり、何よりも巨大なクスが目印。217shikamaturi_005

神社前バス停の高さは1、8mくらいはあるから、その大きさが分かろう。高さは25メートルを下らず、広がった幅は30メートルほどになる。

 樹齢九百年とされるが、面白いのは、根は一つなのにすぐに二股に分かれていることだ。217shikamaturi_006

田崎神社拝殿。217shikamaturi_007

田崎神社本殿。

本殿に祭られているのは「別雷命(ワケイカヅチノミコト)」で、この神様は京都の上加茂神社の祭神と同じ。一説によると永徳3年(北朝年号=1383年)に分祀されたといい、また、別の説では永正年間(1504~1520)に伊勢国の田丸玄蕃という人が捧持してやって来たという。

ワケイカヅチは雷神で、雨をもたらす農業神――とされるが、実は下鴨神社の祭神カモタケツヌミの娘の子、つまり下鴨神社の祭神の孫にあたる。そして南九州と無関係でないのは、その下鴨神社の祭神カモタケツヌミは「襲の峰に天下って、大和から京都(山城)へ移り住んだ」(『山城国風土記』)人物(神)なのである。(このことについては別論が要るので、これ以上は触れないでおく。)217shikamaturi_008

本殿向かって左側には「西宮」が鎮座する。ここの神様こそが「七狩長(ななかりおさ)」なのだろう。それなりに立派なお宮である。

「狩長神社」と言えば、肝属郡錦江町池田の「旗山神社」にも本殿と並んで祭られていたのを思い出す。

 また、この神社には「鼻高どん」という「猿田彦(サルタヒコ)」とみなされる面の数々があったらしい。今度の祭りではその一つと思われる面が先導役となっていた。217shikamaturi_012

2月17日、午前10時に祭典が始まり、祓いと玉ぐし奉奠のあと、神輿に神を招じ入れた。217shikamaturi_016

いよいよ「しか祭り」に出発する。

「しか祭り」は旗山神社でいう「しば祭り」と内容は同じで、狩長(かりおさ)の狩猟の範囲を確認するために、その領域の要所要所を祓い鎮めて歩く祭り(神事)である。

 (旗山神社の祓い所が3箇所だったのに比べ、こちらは5箇所という違いはある。)217shikamaturi_018

氏子代表の面々に担がれた神輿は鳥居の外に出ると、そこに待機していた車(軽トラック)の荷台に載せられた。

例によって高齢化・人手不足の当節、10キロ余りの巡拝路を歩くわけには行かなくなっている。217shikamaturi_019

最初の御旅所は「打馬(うつま)の早馬(はやま)どん」だ。打馬と言えば、肝属川中流域の繁華な地域を指すが、こちらはシラス台地の上で、市立図書館や文化会館のあるゾーンから1キロ余り北に位置する所、畑の中にぽつんと森になっているのがそれである。217shikamaturi_023

神輿が据えられ、さらに早馬どんの森の中の一本の木の前に先導役の「サルタヒコ」の面が立てかけられて、神事が始まった。祠は三つあるが、今日まつられるのは向かって左の祠で、お神酒・米・塩が供えられ、さらにその前に竹にシデを挟んだ物(御幣)を立てる。

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お祓い・祝詞奏上・打馬地区代表と田崎地区代表の玉ぐし奉奠が粛々と行われた。217shikamaturi_025

神事が済むと、両地区氏子代表者たちは直会(なおらい)に入る。

かっては酒が欠かせなかったのだろうが、昨今は車の移動が当たり前になったので、茶の「飲ん方」だ。217shikamaturi_027

打馬が済むと次は「祓川の御旅所」だ。

 打馬・早馬どんからはちょうど2キロほどの林の中だった。入り口の杉が、今にも花粉を飛ばしそうに胞子袋を張り切らせている。217shikamaturi_029

マテバシイ、タブなど背の高い照葉樹の林に中に、御旅所が設えられていた。

まさしく「縄文の森」の中である。217shikamaturi_032

早馬どんの時と同じ手順で神事が進められ、最後に祓川地区の代表が玉ぐしをお供えして終了。

やがて昼食が始まった。有り難いことに祭事を撮りに来ていた自分を入れて三人が、弁当の恩恵に与かることになった(多謝)。217shikamaturi_037

昼食を済ませると、次なる御旅所「大浦」に向かう。祓川の御旅所から西に1.5キロほどの道路沿いにある。

 神輿を据えて神事が始まる。217shikamaturi_039

恒例ではこの大浦では、祭事のあと「味噌田楽」がふるまわれるのだが、ここ何年かは賄い主が高齢のためお供えされなくなったそうだ。

 その代わり、と言っては何だが、近所の老婆が参拝にやって来た。217shikamaturi_041

大浦の御旅所での神事が済むと、本来ならもっと西の「郷ノ原(ごうのはい)」の方へ行くのだが、今回は先に済ませてある、とのことで、5キロ近く神社の方向へ戻り、最後の御旅所「新栄」にやって来た。

 新栄公園の一角が御旅所であった。217shikamaturi_043

田崎神社氏子代表がうやうやしく参拝をし、御旅所巡りの最後を締めくくった。217shikamaturi_046

やれやれご苦労様。軽トラックから神輿を降ろし、再び鳥居をくぐって拝殿に向かう。

10時から始まって帰り着いたのは午後2時過ぎ。昔はすべて徒歩で(宮司たちは馬で)回ったそうだから、丸一日をかけての祭事だったようだ。217shikamaturi_010

ところで、各御旅所での神事のあと、参列の人たちにはこのような弓矢が配られる。

 田崎神社境内に自生している萩の幹から作られた弓(矢は榊の葉を羽に見立てて弓に捲かれている)で、皮をむくのになかなか手間がかかるそうだ。

 四つ貰って来たが、まさしく「破魔矢」の原型だと思われる。

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日木山の宝塔(姶良郡加治木町里)

国指定史跡「南浦文之の墓」のある安国寺から東へ直線にして1キロほどの所には、県指定史跡「日木山宝塔」がある。

県道<栗野・加治木線>が九州道と隼人道路の高架をくぐってから約300m、左手に加治木工業高校があるが、その手前の信号を左折し、工業高の裏手を目指すと日木山川に架かる橋を渡る。渡るとすぐ右折し(案内板あり)、約100メートル先のТ字路を左折(案内板あり)。200メートルも行くと前方に石塔が見えてくる。215hatuumasaitohikiyama_040

そばまで行くと、その大きさには驚かされる。

 台座の上の部分だけで150センチはあるだろう。どちらも重さ500キロは下らないのではないだろうか。215hatuumasaitohikiyama_038

大きさも大きいが、古さも古い。

 かっては読み取れていたと言うが、現在は薄れてよく分からなくなっている年号は「仁治3年(1242)」と「寛元元年(1243)」である。

 これだけ古い宝塔は鹿児島では2番目、九州全体でも6番目だそうだ

 地元の伝承ではこれを「ウバカサア」と言っている。「ウバカ」とは「大墓」のことである。

 以前は「供養塔」だとされていたが、丸い部分から遺骨が発見されたことから墓であることが確実となった(宝塔に並んで石柱が立っているが「昭和六年・改修」と彫り込まれている。この時のことだろう)。

 では誰の墓かと言うと、決定打はないが、当地を古くから治めていた「加治木氏」のもので、その主は八代・加治木親平夫婦か、その甥である木田信経夫婦のものとされている。

 加治木氏は大蔵姓であり、大蔵姓は応神天皇に仕えていた帰化人「阿知使主(あちのおみ)」の後裔である。阿知使主は後漢の霊帝(168年~188年)の三世孫であるという(『新撰姓氏録』)。漢文文書に詳しい大蔵氏はおそらく太宰府か鹿児島神宮の事務官僚で、加治木に所領を持ち、土着したのであろう215hatuumasaitohikiyama_041

ただし、明応年間(1492~1500)に島津氏との戦いに敗れ、薩摩半島西部の阿多地方(現在の金峰町)に移封されている。

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南浦文之の墓(加治木町城)

加治木町営温泉「龍門ノ滝温泉」から網掛川沿いを下り、橋のある所を左折して約400メートルほど行くと、道の左に上水道用と思われるカラフルなおおきなタンクが見えるからその手前の細い道を左折し、人家の間をうねうねと200メートルで「安国寺」に行き着く。215hatuumasaitohikiyama_048

この寺の墓地に、戦国期にこの寺の住職だった「南浦文之(なんぽぶんし)和尚」の墓がある。

 宗旨は臨済宗であり、今日でも座禅会が行われている。215hatuumasaitohikiyama_045

立派な追悼碑の斜め奥にブロック状の切石で囲まれた、禅宗ではよく見られる僧侶の円柱の墓塔が文之和尚の墓である。

 昭和11年に国指定の史跡になったが、こんなこじんまりとした墓が指定になったわけは、やはり文之和尚の文化的業績の大きさの故だろう。

 文之和尚は弘治元年(1555)日向飫肥南郷の生まれで、13歳で出家の後、修行を積んだあと、特に朱子学に優れ、有名な和訓訓読法「文之点(ぶんしてん)」を発明した。

 朱子学と言えば戦国期以降の武士のたしなみ、とりわけ為政者の政道の中心的な教義でもあったから、朱子学に明るい文之は当時の島津氏3代(義久・義弘・家久)にわたって重用された。加治木のこの安国寺の住職になったのも、島津義弘の招聘による。215hatuumasaitohikiyama_043

示寂(逝去)は江戸時代に入ってからの元和6年(1620)、66歳であった。

 文之墓以下の墓群は大きな杉の木の下。

 また、裏山は急峻な崖で、比高90メートルほどの崖の上には「加治木城」があった。

 龍門ノ滝のある網掛川と、東を流れる日木山川とに挟まれた難攻不落、絶好の丘の上である。

 加治木は加治木氏、伊地知氏、肝付氏(高山本家12代兼連からの分流)と治世が続き、戦国末期に島津氏が抑えて江戸期を迎えている。一国一城制のもと、加治木城も廃城となった。

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龍門ノ滝と竜門司坂(姶良郡加治木町)

2月15日の鹿児島神宮初午祭の帰り、少し足を伸ばして加治木町の町営「加治木温泉(龍門滝温泉)」に入りに行った。24,5年前に一度来たきりでようやくの再来となった。

 国分からは国道10号線でJR日豊線・加治木駅入り口の信号から二つ目を右折する。これが県道加治木・栗野線で、直進2キロ強で高速道の高架を二つくぐってすぐの信号を左折。1キロちょっとで「網掛川」にぶつかるから、橋を渡らずに右折して川沿いに500メートル先が目指す温泉だ。215hatuumasaitohikiyama_051

網掛川に架かる「龍泉橋」から望む加治木温泉。泉質は塩素系のナトリウム泉で「リュウマチ・神経痛」に良いとある。

 2キロほど先の泉源から引いているが、沸かしではない。53度もあるという。ただ、途中で冷えて来るのはやむを得ず、厳寒の時期は「湯がぬるい」と来客から苦情を言われることもあるという。

 しかし川のすぐ奥に日本の滝百選に選ばれた「龍門ノ滝」という名勝を控えた天然温泉の入湯料がわずか250円はないだろう。文句は言えまい。

 それより驚いたのが、温泉の構造だ。2階建ての一階が男湯、二階が女湯なのである。どちらの湯船からも、向こう奥の滝つぼに落ちる滝の一部を見せるというのがその理由らしい。けっして「加治木町は女上位だから」と言うわけではないようだ。215hatuumasaitohikiyama_050

入浴後、火照った体を冷やしがてら、玄関口とは反対の展望台に行き、滝の全容を目にする。

 高さ46メートル、幅43メートルという堂々たるものだ。ただし水量がさほど多くないので迫力が欠けているのは否めない。

 「布引の滝」などという繊細な滝が全国的に多くあるが、その布引の滝を三つ四つ合わせた規模の滝と思えばよい。215hatuumasaitohikiyama_052

温泉の内部の壁に地図が貼ってあり、見ると「竜門司(たつもんじ)坂」のことが書いてある。

 平成18年に同じ姶良郡内にある「白銀坂しろかねざか)」とともに江戸期の古道を異存しているとして、国指定の文化財になったという。

 温泉からは500メートルとあったので行ってみる事にした。道なりに北西を目指すと、「高井田バス亭」の所に看板が見えた。

 三叉路の真ん中が竜門司坂だ。少し登ってみる。215hatuumasaitohikiyama_053

幅は平均して4メートルというところか、大小さまざまな平らな石が敷き詰めてある。たぶんさっきの網掛川で採取した砂岩だろう。

 今日から見れば「なんだでこぼこじゃないか」というような道だが、当時としては先端的な道だった。215hatuumasaitohikiyama_055

右カーブの谷側の低くなっている部分には、かなりの厚さで石が積み上げられている(1メートル近い)。

 これなど重機のない時代、大変な労力を要したろうと思われる。それが300年以上もびくともしないでいるのは、当時の技術がいかに優れていたかを示すものだろう。215hatuumasaitohikiyama_054

竜門司坂の途中から望む加治木平野。

 小さな山の麓には、鹿児島神宮初午祭で御神馬を最初に奉納する木田地区がある。

 また、その延長線上6キロほどの所に、竜門司坂とともに国指定となった重富の「白銀坂」入り口がある。「白銀坂」を登って行くと吉野台地から鹿児島城下へ、この竜門司坂を登ると溝辺台地から栗野を経て人吉方面へつながる当時の幹線道路であった。

 

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鹿児島神宮初午祭(霧島市隼人町)

旧暦1月18日に最も近い日曜日に催される鹿児島神宮の初午祭が、今年は2月15日(日)にあった。215hatuumasaitohikiyama_001

 朝9時半、加治木町木田の奉納馬が神宮の参道の入り口交差点に鎮座する「保食(うけもち)神社」の前にスタンバイした。

 腹には「奉納 木田郷」の垂れ幕、背には米俵とそれに刺した鮮やかな花飾り、さらによく見ると神社の御札や「合格祈願」「厄払い」「還暦祝い」などと書かれた旗のたぐい215hatuumasaitohikiyama_002が所狭しと飾り立ててある。

信号機のある交差点だが、通行止めにしてあり、この交差点でまず最初の馬の踊りが行われる。

 馬にかけられた沢山の鈴の首飾りが、掛け声、太鼓の音と共に独特のリズムを作り出す。

これが「馬のマンボ」と言われるゆえんだろう。215hatuumasaitohikiyama_005

加治木町木田の人々はそろいの法被を着て、神宮まで馬を連れて歩く。

 その傍を多くの見物客がカメラや携帯を持って、追いかけて行く。周りは露店でいっぱいだ。215hatuumasaitohikiyama_006

最大の第2鳥居をくぐる頃、人出は最高潮に達していた。215hatuumasaitohikiyama_013

参道の右手にある「宮内小学校」に入ると、なにやら物々しい格好の男衆がたくさん集まっている。

 校庭の遊具のそばには飾り立てた馬が繋がれていたので行ってみると、「隼人中 厄払い」の垂れ幕。

 すぐ近くにいた長い法被も勇ましい人に聞いたら、「隼人中卒業生で、今年の厄男が奉納するしきたりなんです」とのこと。許可を得て並んで立ってもらった。215hatuumasaitohikiyama_015

石造りの古風な第3鳥居をくぐると、いよいよ神宮の森が近くなる。215hatuumasaitohikiyama_019

黄色地の浴衣姿も鮮やかな木田の踊り連も加わり、ここで本式の奉納踊りが披露される。

 踊りの場には竹囲いして人が入れないようにしてあり、さらに御幣を付けた荒縄を張り巡らしてある。結界、つまり清浄を保っている。奉納はすべからく神事でもあるからだろう。215hatuumasaitohikiyama_021

二番手に控えているのは愛らしいポニーだった。名は「舞姫」だ。ポニーも4,5頭参加しているようだが「篤姫」がいたかどうかは確認していない。

 今年はポニーを含め全部で25頭の奉納があった。215hatuumasaitohikiyama_022

広場から階段横の車道を通って、いよいよ上の神宮境内に向かう木田の神馬。

一方で樹齢6、700年と思われる大楠。そしてこれとさほど変わらぬ長い歴史を持つ初午祭の神馬奉納神事。

 今ここで、その二つの歴史がクロスするかのような感慨に浸るのは自分だけか・・・。215hatuumasaitohikiyama_027

神宮の拝殿に向かって右手、武内神社などの摂社のある境内広場でも、厄払いの神事の後に奉納踊りが行われる。215hatuumasaitohikiyama_031  

摂社横での奉納が終わるといよいよ最後の奉納踊りだ。

 拝殿前の広場には、やはり竹囲いと荒縄に御幣で結界を作ってある。

 木田郷中の歌声が威勢よく響き、踊り連も華やかに加わって、見物客のにぎわいもピークを迎えていた。215hatuumasaitohikiyama_034

木田郷中の最後の奉納踊りが終わって拝殿に向かうと、何やら異様な男連が勢揃いしている。

 立てられた幟旗を見れば「日当山中卒業生の厄払い」だった。こちらもさっきの「隼人中 厄払い」と同様、伝統あるものに違いない。

初午祭は一種の豊作予祝・五穀豊穣の祈年祭のようだ。

 行き会った神官の一人に聞くと「馬を奉納するのは神への最高の儀礼」だそうで、馬の踊りは「土の霊を目覚めさせる」ということらしい。また、馬が奉納できないとき、代わりに奉納するのが「絵馬」とのこと。なるほど、なるほど。

 また別の神官Kさんは「島津貴久公が霊夢を見て、それから初午祭が始まったと伝承していますが、木田の馬がまず第一に奉納されるというのが当時からのものなのかは定かではありません」と言う。ただ「神宮の歴史を考えると、島津氏以前からあったと考えてもおかしくない」とも。

 ちなみに鹿児島神宮の概略を「由緒略記」から――

  御祭神  天津日高彦ホホデミノミコト(山幸彦) トヨタマヒメ

   相殿  仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 ナカツヒメ(皇后)

  由緒  

 俗に「正八幡」「国分八幡」「大隅正八幡」と称し、全国正八幡の本宮。 大隅一ノ宮として朝野の崇敬篤く・・・、建久年間の図田帳(1198年)によれば、社領2500余町(2500ヘクタール)の多きに至り、江戸末期まで1000石を領有していた。明治28年には官幣大社に列せられた。現社殿は宝暦6(1756)年、第24代島津重年公の造営寄進によるものである。

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ミュージカル『ヒメとヒコ』(鹿屋市リナシティホール)

2月14日バレンタインデー、鹿屋市リナシティで高校生による『ヒメとヒコ』というミュージカルが開催され、見に行く機会があった。

「素晴しい」のひとことだった。214himetohiko_001

どうせ高校生のやることだから――と高を括って見に行ったのが恥ずかしかった。

 予想の3倍は面白かった。

 生演奏も、舞踏も、台詞も、そして照明も、堂に行っていた。

 作・演出の松永太郎氏は鹿屋高校出身。生演奏の唄者兼ギタリストでもあった。214himetohiko_003

 鹿屋女子高、志布志高、国分中央高校の合計50名近い出演者たちは、半年以上の訓練を経て舞台に上がっているという。

 大隅の古墳の主も喜んだであろう見事なミュージカルに仕上がっていた。

 仕事場の関係で2000円也の前売り券を買った(買わされた)のだが、6000円分楽しめたな。

 フィナーレの挨拶で、松永太郎氏は

 「大隅発の大隅でしか作れないこのミュージカルを、大隅回帰・見直し・発展につなげていきたいと思います」

 などと言っていた。次回、さらなる進化を楽しみにしたい。

 

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森永卓郎講演会(09.2.05鹿屋市リナシティホール)

2月5日の夜、鹿屋市の中心部にあるリナシティのホールで経済評論家・森永卓郎氏の講演会があったので、聴きに行った。

 颯爽と、とはお世辞にも言いがたいテレビで見る通りの風貌で現れた森永氏は、話の枕によくテレビで共演するハマコーこと浜田幸一・元衆議院議員のことを持ち出した。

 いわく――「ハマコーさんは、よく、やくざが国会議員になったような男だ――と言われますが、やくざなんですよ、本当に。今でも自民党議員の集まりには顔を出して演説をぶっています。誰も聞いていないけれど、誰も止めることはできません。怖いですからね。」

 こう言って笑いを誘った後は、いま話題の「金融危機」の話に移る。

 いわく――「アメリカの金融がサブプライムローンの焦げ付きで危機に陥ったことは、皆さんよくご存知でしょうが、サブプライムローンが単独で証券化されて市場に出回ったとしたら誰も買いはしませんよ、危ないことは分かっていますから。でも<福袋>に入れられて他の金融商品と混ぜられて売られたんですね。」

 なるほど「福袋」か。それならみんな「お得だろう」と思って買うかもしれない。

 いわく――「格付け会社があるでしょ。皆さんあれは公的機関と思ってらっしゃるようですが、あれは純然たる民間機関なんです。その格付け機関がサブプライムローンを元とするどうしようもない証券化商品を入れたその<福袋>に、最上位のトリプルAと格付けしたんです」

 なるほど、そりゃひどい話だ。

 いわく――「要するにババ抜きのババですよ。それもうんとこさ混ぜられていたんです。だから、普通のババ抜きではプレイヤーのうちたった一人がババを引いて負けるだけなのですが、今度のは皆がババを引いてしまったと言うわけです。詐欺に引っかかったようなもんですよ」

 むむ、こうなるとハイリスク・ハイリターンという何とかファンドの遣り口が可愛く見えるよ。アメリカの仕組んだ国家的詐欺なのか?いや、アメリカ自身の投資ファンドが軒並みがたがたになっているところを見るとそうではないだろう。第一、格付け機関は「民間」だからな。

これで思い出したのが「耐震偽装問題」で槍玉に上がった日本の「建築基準お墨付け機関」だ。あれは――国が規制していると建築確認がやたらに遅くなるから、民間に任せればよい――という「民主的」発想から始まったのだったが、結局、それに便乗したマンション販売会社が耐震欠陥商品を売りまくり、問題が発覚し、自らの首をしめてしまった。

 金が金を生むのが金融の世界だが、金を動かすのも、使うのも結局は人間だ。人間が金の洪水に押し流されては元も子もなかろう。

  人が金を使う。(正常だが、分相応という限度がある)

  金が金を使う。(異常とまでは行かないが、限度がある)

  金が人を使う。(こうなると明らかに異常だ)

 最後に森永氏は江戸時代の「夜這い」を挙げてこう言う。

 いわく――「江戸時代には夜這いという風習がありました。これはある家の娘の所へ、何人かの若者が夜忍び込むわけです。そうすると子供を孕みますよね。誰の子かは分からないので、当の娘に相手を決めてもらうわけです。逆指名ですよ。女の方に夫を決める権利があったんです」

 夜這いの話はいったい何のために出したのか、よく分からない。あるいはこの講演会の副題が「男と女の共生」だったか「平等」だったか忘れたが、何かそのようなカテゴリーのことを話さないといけないと考えたのだろうか。

 まず、これについては反論をしておく。「夜這い」は決して氏の言うような「乱交」のようなものではない。

 鹿児島には「嫁盗み(嫁おっとい)」という風習があり、実は若衆宿でワイワイ、喧々諤々やっている時に「誰がどの娘を気に入っている」とか、その反対に「どこそこの娘が誰それを気に入っている」などという情報が飛び交い、ある程度めぼしを付けた上で忍び込むのだ。言わば「確信犯」なのである。しかし、もし娘の親がどうしても反対したら、仲間が娘を「盗んで(拉致して)」、相愛の若者のもとへ連れて行ってしまう、という風習である(結局、親が折れる)。

 「若衆宿」はのちの「学舎制度」につながる、村々の立派な「青年男女の教育・評議機関」だったのだ。学舎制度がイギリス発祥のボーイスカウトに多大な影響を与えたことは周知のことだが、その淵源はこの「若衆宿」にあったといっていい。

 ところで、森永氏が江戸時代に盛んになった「夜這い」が、実は男の一方的な仕組みではなく、女に(身ごもった子の男親の)選択権すらあったと述べたことで、何が言いたかったのか、を類推してみると――

 米の相場以外、すべてが「実体経済」に裏付けられていた江戸時代をもう一度考え直してみよう、これからの世界経済のモデルになるかもしれない。

――というのではなかろうか。

 サラリーが米で換算されたりして・・・・・。そこまでは無理にしても、サラリーの一部に米を当てるというのもいいかもしれない。米の評価は、即、農村の評価につながり、過疎地や限界集落の再建を促す助けにもなろう。

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この木なんの木、気になる木(鹿屋市田崎町にて)

いま満開を迎えている梅を写しに出かけたところ、不思議な木に出会った。205hikaruhatoume_027

鹿屋市の田崎町から下堀町へ抜ける道路沿いを走っていると、凝灰岩製の赤い塀越しに満開に近い梅が目に入った。

 隣りにはサザンカもまだ白い花を残している。対比が面白いので写したのだが、その向こうに何だこれは、という形のまん丸い不可思議な木が見える。205hikaruhatoume_028

近寄って写したのがこれ。

 万歳をした裸の人間が、巨大な丸い物を頭の上に載せているようにも見える。

 よく見れば、ヒトツバの木だった(手前の生垣もヒトツバ製である)。

 ヒトツバは鹿児島独特の命名で、イヌマキのことだ。イヌマキはもちろん槙の一種だが、本槙とされるコウヤマキに対して、それより劣るもの(亜流のもの)という意味で「イヌ」が冠せられたという。言わば「差別用語」。

 もっとも本槙(コウヤマキ)は、記紀のスサノヲノ命の段によればスサノヲによって「棺おけに良い」とされた木であるあるから、今日風に考えれば「縁起でもない木」だろう。

 だが、本来、人生最期に身を入れる棺おけは「聖なる物」であったから、「縁起の悪い木」ではない。

 話が少しそれたが、このおそらく百年は経とうという木がかくも見事に刈り込まれるには、少なくとも50年はかかっているのではあるまいか。何とも気の長い話ではある。205hikaruhatoume_029

鹿児島では、庭園樹としては普通このように刈り込まれる。

 ヒトツバが一番利用されるのは防風林としての垣根である。この木は風にめっぽう強く、台風銀座鹿児島にはなくてはならない存在となっている。

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日本人とユダヤ人

2月5日は面白い日だった。

 午前中で仕事が終り、午後、笠野原台地を走っているときに「照葉樹」の美しさに出会い、夕方からは「森永卓郎講演会」を聴いた。

 「森永卓郎講演会」については日を改めて書くことにするが、実はその講演会まで時間があったので古本屋に入り、適当な本を物色していたら『日本人とユダヤ人(大使が書いた、という前書きあり)』(青木偉作訳・中経出版発行・2006年8月刊)という本があったので買い求め、合間合間に読み継ぎ、今朝、読み終えたのだが、いろいろ考えさせられた。

 日本人とユダヤ人に関しては、一世を風靡した『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン=実名・山本七郎)以来、間欠泉的に世に問われるテーマで、「日猶同祖論」なる「異論」もひそかに囁かれることもあって、興味は尽きないのだが、今度の著者はすごい。

著者エリ・コーヘンという人物は現在59歳で、2006年の発刊当時は駐日イスラエル大使であり、専攻は数学・物理学だったが、ある市の副市長から国防大臣補佐になり、数企業の社長業を経て、国会議員となり、2006年当時は大使として日本に駐在した(著者履歴より)。

 多くの日本人による「ユダヤ人論」や「日猶同祖論・同文化論」が、どうも眉唾的な取り上げ方しかしていないのに比べ、こちらは本物のユダヤ人(イスラエル人でもある)が比較検証しているという点で、信頼が置けそうに思われた。

 しかも、「今度の著者はすごい」といった訳を言うと、もっと驚くだろう。

 エリ・コーヘンの「コーヘン」とは「ユダヤ教祭司」のことで、この人の家系は第二次大戦後のイスラエル建国(1947年)以後はたしかにイスラエルに住んでいるが、それ以前は地中海のアフリカ最北端の国家・チュニジアのジェルバ島というほんの小さな島(と言っても種子島くらいはありそうだが)にあった。

 ただ単純に「あった」のではなく、何とイスラエル(シオンとも言う)に築かれていたユダヤ王国の神殿がバビロニアの侵攻によって破壊され、ユダヤ人が信仰(ユダヤ教)ともども最初の離散を余儀なくされた時に、その小さな島へ移り住み、ユダヤ教に基づく生活を祭司として連綿と続けていた、という。

 バビロニア侵攻は紀元前722年のことであるから、1947年までの実に2669年を異国(異教)の地で過ごしていたことになる。今でもコーヘン家は祭司の家系であり続けているから、正確に言えば、コーヘン家は少なくとも2730年の歴史を持つ「祭司の家柄」である。

 このことと、神武東征以来の天皇家皇統が「2669年=平成21年現在)」の歴史を有することとを結びつけ、エリ・コーヘン氏は再々親近性を表明しているが、とにかくそれほどの長い歴史をユダヤ教が持っていることには驚かされる(注:天皇家の天皇としての歴史は2669年も無いことは常識であるが、ここでは指摘だけにとどめる)。

 コーヘン氏は、イスラエルと日本が遠く離れているにもかかわらず宗教上、慣習上にいろいろな共通点があることを挙げている。神社参拝のときに手水を使うこと。神道儀礼の際、酒・米・塩・水を欠かさないこと(ユダヤ教では酒=ぶどう酒・米=パン・塩・水)。神殿の造りには鉄などの金属を使わないこと(神社は白木造り・神殿は石造り)・・・など。

 しかし、氏は多くの日本人の手による「ユダヤ論」のようには、性急にあるいは興味本位的に「同祖だ」、とは言わない。

 ただ、あのバビロニア侵攻によるユダヤ王国の崩壊(紀元前722年)とそれに伴う「北部ユダヤ王国10支族」の消滅・離散後の行方について、一番日本に近いところではミャンマー国内にその一分派があったということを伝えるのみである。

 1947年のイスラエル建国(ユダヤ人によればシオンへの帰還=シオニズム)当時、約300万の人々が「われもユダヤ支族なり」として帰ってきたそうだが、その後も連綿として帰国者は続いており、今では本当にユダヤ人かどうかを認定するのが難しくなっているらしい。

ところが、その中に日本から「われはユダヤ人なり」として行った(帰還した)者はいないようである。

 もし遠い昔に「失われた10支族」の一分派が日本列島に来ていたとしたら、上で触れた「コーヘン家」のように、異郷に行ってもそのユダヤ族としての教えは厳密に、連綿と守り伝えるのが離散ユダヤ人のユダヤ人たるゆえんであるから、シオニズムがおおっぴらにできるようになった1947年のイスラエル建国の時に、待ってましたとばかり帰って行こうという人物なり家系なりがあってよさそうなものだが、現実にはいなかった。

 つまり、日本には、日本人による「ユダヤ論」でよく言われるような「失われた10支族の末裔の意図的な移住」――はなかったと考えるべきなのである。

 ではよく似た風俗・慣習はどうして存在するのか?

 それはコーヘン氏も言っているが、離散ユダヤ人は異郷(異教)の地でかたくなに離散当時の宗教と慣習を「唯一の神に選ばれた民として」、2700年もの間、連綿と伝えてきた。その一方で、日本人は四面が海に囲まれ、多民族からは隔絶された環境の下で驚くべき古代から(縄文時代からと言い換えられる)の宗教(神道という多神教、アミニズム)と慣習を、自然に伝えてきた。

 伝え方に「かたくなに」と「自然に」の違いはあるが、どちらもギリシャ・ローマ以降の近代文明に繋がる「人間中心主義」の悪弊に染まらなかった古い宗教・慣習を持ち伝えてきた――という共通性の故だろう。

 つまり、世界宗教であるキリスト教、仏教より以前の超古代の宗教・慣習は実はどこでも同じようなものだったのではないか―ーという結論に達するわけである

 ただし一つユダヤ教とは真っ向から対立する観念がある。それはユダヤ教の「モーゼの十戒」の第二戒の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という「唯一一神教」の根本教義である。これは日本神道の「八百万神=万神教」の教えと真反対の観念で、これあるが故にキリスト教とイスラム教との敵対・敵視のやむことがない、いわくつきの教義である。

 ただ、この本ではじめて知ったのだが、イスラム教を信仰しているアラブ人の祖先はユダヤ人の始祖アブラハムの子イサク・イシマエル兄弟の内の弟イシマエルであり、紀元前1700年前に今日のイスラエルに繋がるユダヤ王国を築いたヤコブ(イサクの子。この人の別名がイスラエルで、12支族の産みの親)の叔父に当たるそうだ。

 何のことは無い、イスラエルのユダヤ人と敵対しているイスラム教のアラブ人は、3800年ほど前は、ユダヤ人とは兄弟だったのである。

彼らは、このことを知っていてなおかつ敵対しているのだろうか?

 そうだとすれば太祖アブラハムに面目が立つまい。ここで思い出したことがある。それは記紀の天孫降臨神話で、皇祖ニニギノミコトの子供がホホデミ(海幸)とホオリ(山幸)で、二人は敵対したが結局弟のホオリが勝って皇孫を継ぐが、負けたホホデミは隼人の祖となり、以後は代々服従する、という話だ。つまり隼人は天孫降臨2代目でありながら、弟のホオリ系の皇統に一歩譲って臣従したのであった。何と奥ゆかしいことよ。

 この話をユダヤ人、アラブ人双方に言って聞かせたら、なんとか鉾を収めないだろうか。そんなこと言えば「隼人はなぜその時の敵討ちをしないのだ?」とアラブ人に言い返されてしまうだろうか。

著者エリ・コーヘン氏は「あとがき」で日本の役割をこう述べている(括弧は引用者の挿入)。

 『日本民族には古来、(ユダヤ人のように)自分たちは選民であり天孫民族である、という自覚があった(ここにもコーヘン氏はユダヤとの共通点を見ている)。そしてユダヤ人のように「他民族の光になろう」ということは言わないが、「和をもって尊しとなす」という言葉もあるように、日本人は民族間に平和のメッセージをもたらす使命をもった民族であると思う』

 まったくもって同感である。

 この際やはり「永世中立平和国家宣言」なるものを発して、世界の平和に大きく貢献することを宣言しておきたいものだ(頼むよ、タローさん)。

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照葉樹・常緑樹(鹿屋市東原町で)

鹿屋市の北半分は笠野原台地が大部を占めている。

名高いシラス台地だが、台地上の道路はどれも真っ直ぐで、北部から南部に位置する鹿屋市街地まで、最長で12キロの直線道路が走っている。

よく晴れた今日(2月5日)の午後、直線道路の一つ「水道線」を走っていると、道路沿いの生垣がやけに明るい。205hikaruhatoume_003 単調な走りで眠くなりそうなのを覚ましてくれる明るさだ。

ちょうど午後の太陽光が、生垣の葉に反射してこちらに照り返している。205hikaruhatoume_002

まるでイルミネーションだが、近くで見ると2種類の照葉樹で、手前のはおなじみの「サザンカ」だった。

 むこうのも照葉樹には違いないのだが、名前は分からない。205hikaruhatoume_005

一本東寄りの直線道路では、瀟洒な生垣の一部がてかてかと光り輝いていた。

 これは椿のたぐいだろう。石灯籠と明暗を分けているようで面白い。

 庭の内部に通じる道があったので、単車を停めて入ってみた。205hikaruhatoume_007

広い庭で、道路から20㍍もある先の植え込みに、白梅と紅梅が5~6部咲きで見事なものだ。どちらも高さは8㍍くらいの結構な古木だ。

 おまけにその間にはミカンの木もある。下の方は既にもいだのだろう、天辺に近い部分にだけたくさん実が残っている。

 剪定が行き届いていないのだろうか、野生化しているような樹勢だ。

 昔、垂仁天皇の時代、但馬出身のタジマモリが常世国に渡り、苦節十余年の末についに「トキジクノカグノ木の実」を手に入れて、天皇に献上しようとして帰還したが、肝心の天皇はもう亡くなっていた。それでタジマモリは天皇の御陵の前で「おらび泣きして自死した」という伝承があるが、その手に入れた「トキジクノカグ(常に光り輝いている)」の木の実こそが、ミカン・橘のたぐいだと言われている。

 1700年ほどして、こんな風に野生化するまで日本で繁殖していようとは、タジマモリもびっくりだろう。205hikaruhatoume_011思えば、ミカンも常緑樹で、照葉樹とともに冬でも太陽さえ出れば「光合成」を行い、われわれに酸素を供給してくれる。

 実も有り難いが、常緑樹・照葉樹のそういう能力は、われわれを裨益すること甚大ではなかろうか。

納屋の柱ごとに繋がれた3匹の茶色系の犬たちが、「怪しい奴め」とばかり吼えていた。

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山宮神社のダゴ祭り(志布志市田之浦)

志布志市田之浦地区宮地に鎮座する「田之浦山宮神社」は天智天皇を祭神とする神社である。

 社伝によると創建は和銅2年(709年)といい、東北に聳える「御在所岳=530m」を天智天皇の御廟とし、里宮に子の大友皇子を祭っていたのが由来だそうだ。しかし約百年後の大同2(807)年、同じ志布志市の安楽地区にある名も同じ「山宮神社」に合祀されて、向こうが天智・大友両祭神とその后妃一族をあわせて「郷社・六所大明神」となってからは、地元で細々と祭祀が続けられ今日に至っている。201dagomaturi_001

田之浦へ向かう途中から見た秀麗な「御在所岳」。201dagomaturi_012

山宮神社の全景。201dagomaturi_013

神社の周辺には田んぼが広がる。田の数にして17,8枚ほどか。面積にして1,5ヘクタール位なものだろう。

 左手に見える集落各家の耕す土地だが、神社横に神田らしきものがうかがえる。201dagomaturi_024

神社の右手(東側)は安楽川の清流で、県道からは向こうに見える橋を渡って来るようになっている。201dagomaturi_010

神社脇の生垣にも注連縄が張り巡らされ、祭りの厳粛さを予感させる。201dagomaturi_056

のぼり旗の立ち並ぶ境内は、春一番の大祭に繰り出す人出が多く、にぎやかだ。201dagomaturi_006

拝殿前には今日の祭りの由来「ダゴ飾り」が美しく供えられている。

 ダゴとは紅白の餅を丸めて竹串に刺したもので、さらにそれを太い竹の上部に荒縄で捲いた藁苞状の物に挿し込んで「ダゴ飾り」となる。

 直径が8~90センチはあろうかという大きなもので、ダゴ以外に椿の葉、梅の枝、金柑などの縁起物も挿し込まれ、見ていて浮き立つような明るさがある。

 各集落や婦人会のお供えだが、今年は向こうに見える田之浦小学校生徒のダゴ飾りもあった(ピンク色の短冊がひらひらしていたが、それに各自の願い事が書いてあった)。201dagomaturi_007

本殿の入り口にもダゴ飾りを供え付けて、いよいよ準備は整った。201dagomaturi_021

午前11時、祭典が始まった。

 宮司の修祓のあと神招ぎの拝礼、供献をし、それから参列者の玉ぐし奉奠と神事は進み、30分ほどで終了。

 この後は拝殿前に設えられた舞台で「神舞」の奉納が行われた。

 神舞保存会の解説によると、昭和58年に復活した神舞は33番あり、今年はその中の6番が奉納されるという。201dagomaturi_028

まずは「彦舞(ひこまい)」。

彦とは猿田彦のことで、天孫降臨を道案内した国津神であるから、トップバッターにふさわしい。

 四方を祓って回るので、舞と言うよりは「祓い歩き」である。

 真ん中に置かれた注連縄付きの木の切り株台にのって、四方をお祓いしているところだ(上に吊るしてあるのは四方八方を表す物で、子・丑・寅・・・という十二支を書いた御幣もぶら下がっている。これも方角を示しているのだろう)。201dagomaturi_029

2番目は「帯舞(おびまい)」。

 白装束の男二人が、それぞれ紅白の帯状の布を手にして舞う。

 こちらは「地を祓い清める」所作が多かったように思われた。201dagomaturi_031

初めて目にするタイプの舞で、見ごたえがあった。201dagomaturi_033

3番目は「児鬼神舞(こきじんまい)」。

 田之浦小学校の高学年の男子二人が舞った。

 33番の中にはこの他に「稚児鬼神舞」というのもあるようだが、もっと小さな子が舞うのだろうか。

 どちらにしても大人が舞う勇壮な「鬼神舞」の前座なのかもしれない。201dagomaturi_035

4番目は「弓舞」。

男性二人が、弓を手にして舞う。腰には矢も挿している。

 保存会の解説では、祭神の天智天皇が狩猟をされた故事に倣って舞われるもの―だそうだが、別に天皇を持ち出すまでもなく、縄文時代からの習俗を儀礼化した舞、と見ていいのではないかと思うが・・・。201dagomaturi_036

最後は舞いながら、実際に的(イノシシ?)に見立てた俵に矢を放つ。

 今年は4本のうち3本が刺さった。201dagomaturi_037

5番目は「田の神舞」。

「舞」というのは当たっていない。田の神と農民(田吾作)との「掛け合い万歳」というのに近い。

「田の神(かん)さあ、田の神さあ」―と田吾作がおどおどしながら呼びかける。201dagomaturi_038

「ない(何)か、ゆ(用)か?」―と田の神が振り向く。

「へっ、ない(何)か珍しかもん(物)をば、背中にからっちょい(背負っている)もしたげな」

「ア、ハアハアハア!こい(これ)かや。こんた(これは)メシゲじゃらいよ」

「い、いけんして(どうやって)つこう(使う)もんな、そんた(それは)」

 などなど鹿児島弁で珍妙かつ間合いよくやり取りを繰り返し、結局、気のいい田の神は田吾作に「メシゲ(しゃもじ)」と「すいこぎ(すりこ木)」を与えてしまう。

 その上に、田の神の最後の持ち物である「稲穂鈴(山伏の持つ錫杖の頭に似た格好の物で、振ると鈴の音色がする)」をも所望するが、「こんたぁ、やれん(これはやれない)」と断り、舞台を去って行く。

思うに――田の神は道具は授けるが、それを使って田を耕し、稔らせるのは人間の仕事であり、あとは自分で努力せよ ――と言いたいのだろう。

 ただし、メシゲを「女性の象徴」、すりこ木を「男性の象徴」と考え、実らせることを「子産み」になぞらえる性風俗的な観方もある。しかしそれは余りにも限定し過ぎた見解だろう。201dagomaturi_047

本日の最後、6番目の舞は「四方鬼神舞」。

東西南北を表す「青・白・赤・黒」の4種の鬼面を付けた四人が、所狭しと激しく動きまわる舞である。201dagomaturi_053

4鬼神の最終的な狙いは舞台の真ん中の「金の鉾」を獲得することで、黒鬼が敗れ去り、白鬼が去りして、最後は青鬼と赤鬼が競り合う。201dagomaturi_055

とうとう右の赤鬼が金鉾を手にして、長く激しい舞が終わる。

保存会の解説では「赤鬼神が勝ったのは、赤は東を意味していますから、太陽が昇ることの寓意なのでしょう」―ということだったが、赤は南ではなかったか。

 南が勝ったのは、太陽の極盛が穀物でも何でも、大きな実りをもたらす、ということの象徴だろう。

(青龍が東、白虎が西、朱雀が南、そして玄武は北を表すというのが中国伝来の陰陽道にある。)201dagomaturi_057

奉納の舞が終り、いよいよ待ちに待った「ダゴ取り」が行われる。

 数えたら全部で13本あったダゴ飾りが、境内に持ち出された。201dagomaturi_059

はよ、「始めっ」ち言わんかよ―と皆、スタンバイ。201dagomaturi_062

はら、開始やっど!

それ取れ、やれ取れ!201dagomaturi_063

やれやれ、これで今年も家内安全・無病息災。

 取ったダゴは家に持ち帰って食べるか、神棚に一年飾っておくらしい。

食べる際には、そのままか、煮るのはよいが、けっして焼いてはならないそうだ。火事・火難に遭うからという。201dagomaturi_064

少女は誰かからおすそ分けを貰ったらしい。

ヨモギ入りのダゴも混じっている。健康によさそうだ。

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前川流域散策(志布志市)―その二

潤ヶ野小学校から再び県道に戻り、上流を目指す。

行くとすぐ左手には出水中学校があるのだが、道路からはかなりの高台にあって見えない。

1,5キロ余りでちょっとした集落があり、通り抜ける所に「御手洗橋」が架かる。2010057

御手洗というからには、近くに神社がありそうだが、見当たらない。

 それよりこのあたりは「カワゴケソウ」が自生しているという。

 下を覗いたが、例によって凝灰岩を切り込んだ深い谷で、そう言われても目視さえままならない。

橋を渡ってすぐ右の道を取ると、前川の左岸沿いに、約2キロで「倉園集落」が見えてくる。2010051

標高はまだ100㍍に満たないのだが、シラス台地の河岸段丘と思われる等高線に沿ったなだらかな高原上の土地が続く。2010050

右岸にある倉園集落への分岐道。

河谷のえぐれは深いが、集落の点在する所はなだらかだ。2010054

さらに1,5キロ。八郎ヶ野集落に入る。

 2010055

最奥の簡易郵便局の手前を左に折れると、すぐに「八郎ヶ野橋」がかかる。

 これを渡って2キロ行くと「八野小学校」のある「姥ヶ谷集落」があり、さらに2キロ行けば「馬庭集落」で、藩政時代に抜け駆けを取り締まった「馬庭辺路番所跡」がある。2010056

八郎ヶ野橋の上から、ようやく流れが間近く見えた。

 川面まで比高5メートルの左の家は、凝灰岩の上に建っている。

 手前の桜が咲く頃には、「桃源郷」のような風情のある光景が見られるだろう。2010052

馬庭方面の道(北の方向)をとらずに、今回は東へ行ってみた。

 道は次第になだらかになり、2キロ足らずで県境を越え、宮崎県串間市に入って行くが、その手前、このあたりとおぼしき場所で、30年ほど前にとてつもない発見があった。

 道路の拡張工事の際に、約11500年前の「ドングリ貯蔵穴」が多数のドングリと共に見つかったのだ。

これを「東黒土田遺跡」という。匙形石器や土器片も出土しており、縄文草創期(10500年前より古い)の遺跡とされている。

 この前川の上流域には他にも「石踊遺跡」「鎌石橋遺跡」「倉園遺跡」「片野洞穴遺跡」という縄文早期(10500年~7000年前)の遺跡が見つかっていて、狭い地域にこんなに早期以前の遺跡がかたまっているのは珍しい。

 人煙稀な地帯だから荒らされずに残ったのだろうか。

 もちろんそれも大きな要因だが、水田が極めて少ないという流域の地理的状況から見ると、結局のところ水田開発による攪乱がなかったためだろう。

 水田開発による地形的改変は古く見積もれば弥生時代から行われていた、ある意味で環境破壊でもあった。その最も大きな「被害者」は野生動物であるとともに「縄文遺跡」でもあった。

 幸い、と言うべきか、前川上流域には水田適地が稀であったので、弥生的な「地形の攪乱」が最小限で済んだのであろう。

 また上の「片野洞穴遺跡」の洞穴内に残された貝類(ミニ貝塚)のうち、90パーセントが海産だったという。山中とはいえ、海との交流は頻繁だったことが示され、南九州は太古の昔から海との関わり抜きには考えられない人々が住んでいたことが分かる。

            (前川流域散策―その二・終り・完)

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