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日本人とユダヤ人

2月5日は面白い日だった。

 午前中で仕事が終り、午後、笠野原台地を走っているときに「照葉樹」の美しさに出会い、夕方からは「森永卓郎講演会」を聴いた。

 「森永卓郎講演会」については日を改めて書くことにするが、実はその講演会まで時間があったので古本屋に入り、適当な本を物色していたら『日本人とユダヤ人(大使が書いた、という前書きあり)』(青木偉作訳・中経出版発行・2006年8月刊)という本があったので買い求め、合間合間に読み継ぎ、今朝、読み終えたのだが、いろいろ考えさせられた。

 日本人とユダヤ人に関しては、一世を風靡した『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン=実名・山本七郎)以来、間欠泉的に世に問われるテーマで、「日猶同祖論」なる「異論」もひそかに囁かれることもあって、興味は尽きないのだが、今度の著者はすごい。

著者エリ・コーヘンという人物は現在59歳で、2006年の発刊当時は駐日イスラエル大使であり、専攻は数学・物理学だったが、ある市の副市長から国防大臣補佐になり、数企業の社長業を経て、国会議員となり、2006年当時は大使として日本に駐在した(著者履歴より)。

 多くの日本人による「ユダヤ人論」や「日猶同祖論・同文化論」が、どうも眉唾的な取り上げ方しかしていないのに比べ、こちらは本物のユダヤ人(イスラエル人でもある)が比較検証しているという点で、信頼が置けそうに思われた。

 しかも、「今度の著者はすごい」といった訳を言うと、もっと驚くだろう。

 エリ・コーヘンの「コーヘン」とは「ユダヤ教祭司」のことで、この人の家系は第二次大戦後のイスラエル建国(1947年)以後はたしかにイスラエルに住んでいるが、それ以前は地中海のアフリカ最北端の国家・チュニジアのジェルバ島というほんの小さな島(と言っても種子島くらいはありそうだが)にあった。

 ただ単純に「あった」のではなく、何とイスラエル(シオンとも言う)に築かれていたユダヤ王国の神殿がバビロニアの侵攻によって破壊され、ユダヤ人が信仰(ユダヤ教)ともども最初の離散を余儀なくされた時に、その小さな島へ移り住み、ユダヤ教に基づく生活を祭司として連綿と続けていた、という。

 バビロニア侵攻は紀元前722年のことであるから、1947年までの実に2669年を異国(異教)の地で過ごしていたことになる。今でもコーヘン家は祭司の家系であり続けているから、正確に言えば、コーヘン家は少なくとも2730年の歴史を持つ「祭司の家柄」である。

 このことと、神武東征以来の天皇家皇統が「2669年=平成21年現在)」の歴史を有することとを結びつけ、エリ・コーヘン氏は再々親近性を表明しているが、とにかくそれほどの長い歴史をユダヤ教が持っていることには驚かされる(注:天皇家の天皇としての歴史は2669年も無いことは常識であるが、ここでは指摘だけにとどめる)。

 コーヘン氏は、イスラエルと日本が遠く離れているにもかかわらず宗教上、慣習上にいろいろな共通点があることを挙げている。神社参拝のときに手水を使うこと。神道儀礼の際、酒・米・塩・水を欠かさないこと(ユダヤ教では酒=ぶどう酒・米=パン・塩・水)。神殿の造りには鉄などの金属を使わないこと(神社は白木造り・神殿は石造り)・・・など。

 しかし、氏は多くの日本人の手による「ユダヤ論」のようには、性急にあるいは興味本位的に「同祖だ」、とは言わない。

 ただ、あのバビロニア侵攻によるユダヤ王国の崩壊(紀元前722年)とそれに伴う「北部ユダヤ王国10支族」の消滅・離散後の行方について、一番日本に近いところではミャンマー国内にその一分派があったということを伝えるのみである。

 1947年のイスラエル建国(ユダヤ人によればシオンへの帰還=シオニズム)当時、約300万の人々が「われもユダヤ支族なり」として帰ってきたそうだが、その後も連綿として帰国者は続いており、今では本当にユダヤ人かどうかを認定するのが難しくなっているらしい。

ところが、その中に日本から「われはユダヤ人なり」として行った(帰還した)者はいないようである。

 もし遠い昔に「失われた10支族」の一分派が日本列島に来ていたとしたら、上で触れた「コーヘン家」のように、異郷に行ってもそのユダヤ族としての教えは厳密に、連綿と守り伝えるのが離散ユダヤ人のユダヤ人たるゆえんであるから、シオニズムがおおっぴらにできるようになった1947年のイスラエル建国の時に、待ってましたとばかり帰って行こうという人物なり家系なりがあってよさそうなものだが、現実にはいなかった。

 つまり、日本には、日本人による「ユダヤ論」でよく言われるような「失われた10支族の末裔の意図的な移住」――はなかったと考えるべきなのである。

 ではよく似た風俗・慣習はどうして存在するのか?

 それはコーヘン氏も言っているが、離散ユダヤ人は異郷(異教)の地でかたくなに離散当時の宗教と慣習を「唯一の神に選ばれた民として」、2700年もの間、連綿と伝えてきた。その一方で、日本人は四面が海に囲まれ、多民族からは隔絶された環境の下で驚くべき古代から(縄文時代からと言い換えられる)の宗教(神道という多神教、アミニズム)と慣習を、自然に伝えてきた。

 伝え方に「かたくなに」と「自然に」の違いはあるが、どちらもギリシャ・ローマ以降の近代文明に繋がる「人間中心主義」の悪弊に染まらなかった古い宗教・慣習を持ち伝えてきた――という共通性の故だろう。

 つまり、世界宗教であるキリスト教、仏教より以前の超古代の宗教・慣習は実はどこでも同じようなものだったのではないか―ーという結論に達するわけである

 ただし一つユダヤ教とは真っ向から対立する観念がある。それはユダヤ教の「モーゼの十戒」の第二戒の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という「唯一一神教」の根本教義である。これは日本神道の「八百万神=万神教」の教えと真反対の観念で、これあるが故にキリスト教とイスラム教との敵対・敵視のやむことがない、いわくつきの教義である。

 ただ、この本ではじめて知ったのだが、イスラム教を信仰しているアラブ人の祖先はユダヤ人の始祖アブラハムの子イサク・イシマエル兄弟の内の弟イシマエルであり、紀元前1700年前に今日のイスラエルに繋がるユダヤ王国を築いたヤコブ(イサクの子。この人の別名がイスラエルで、12支族の産みの親)の叔父に当たるそうだ。

 何のことは無い、イスラエルのユダヤ人と敵対しているイスラム教のアラブ人は、3800年ほど前は、ユダヤ人とは兄弟だったのである。

彼らは、このことを知っていてなおかつ敵対しているのだろうか?

 そうだとすれば太祖アブラハムに面目が立つまい。ここで思い出したことがある。それは記紀の天孫降臨神話で、皇祖ニニギノミコトの子供がホホデミ(海幸)とホオリ(山幸)で、二人は敵対したが結局弟のホオリが勝って皇孫を継ぐが、負けたホホデミは隼人の祖となり、以後は代々服従する、という話だ。つまり隼人は天孫降臨2代目でありながら、弟のホオリ系の皇統に一歩譲って臣従したのであった。何と奥ゆかしいことよ。

 この話をユダヤ人、アラブ人双方に言って聞かせたら、なんとか鉾を収めないだろうか。そんなこと言えば「隼人はなぜその時の敵討ちをしないのだ?」とアラブ人に言い返されてしまうだろうか。

著者エリ・コーヘン氏は「あとがき」で日本の役割をこう述べている(括弧は引用者の挿入)。

 『日本民族には古来、(ユダヤ人のように)自分たちは選民であり天孫民族である、という自覚があった(ここにもコーヘン氏はユダヤとの共通点を見ている)。そしてユダヤ人のように「他民族の光になろう」ということは言わないが、「和をもって尊しとなす」という言葉もあるように、日本人は民族間に平和のメッセージをもたらす使命をもった民族であると思う』

 まったくもって同感である。

 この際やはり「永世中立平和国家宣言」なるものを発して、世界の平和に大きく貢献することを宣言しておきたいものだ(頼むよ、タローさん)。

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コメント

はじめましてcocoroと申します。
偶然コーヘン氏の名前でこちらのブログに参りました。

とってもおもしろく記事を読ませていただきました。
ここまでコーヘン氏の本を理解されまとめられている記事を読むのははじめてです。
仙台に青麻神社という、イスラエルの国家の紋章と同じ紋の神社があって、とあるご縁で昨年参拝に来て下さいました。
機会があったらぜひご本人をご紹介したいです。

投稿: cocoro | 2009年2月21日 (土) 21時37分

cocoroさん。コメントありがとうございました。
 例のイザヤ・ベンダサン以来、私もユダヤ人と日本人との関係について興味は持ち続けていました。
 知人で二人ほど、ユダヤ問題に漬かっている人がいます。
 一人は「アークは日本に運ばれ、四国の剣山に埋納されている」と言い、もう一人は「京都の大避神社はダビデが祭神」「三つ鳥居はユダヤの紋章をかたどっている」「祇園祭の祇園とはシオンのことだ」と言っています。
 これに対して私は「アークのような肝心要の物なら、イスラエル建国に際して本家帰りさせる動きが無いのはおかしい」「大避は大酒で秦氏の祖先に、酒公がいたので祭ったのだろう」「それならサントリー(鳥居三兄弟)はユダヤ資本か」「祇園は仏教の祇園精舎からきたのではなかったのか」などとその都度反論しています。
 思うに結局は「日本人論」なのでしょう。「日本人はどこから来たのか」という設問をわれわれは好みますが、その根底には「もともと列島にいた日本人の祖先は劣等(笑)だった」というような抜きがたい劣等感(戦前は西欧に対して、戦後はアメリカに対して)があります。
 たとえば戦前から「高天原はチベットだった」「いや満州こそが高天原だ」というようなことがまことしやかに言われていたくらいですから、どうも日本人は何でもかんでも外から持って来たがる癖が明治以来、トラウマと化してしまったようです。
 鹿児島では8~9000年前の縄文時代早期にすでに世界最古の壺が作られています。壺以外の甕とか皿のような一般的な土器なら12000年を下らない時期の物が出土しています。他所から持ってきたのではなく列島人のオリジナルです。決して「劣等人」ではありませんでした。
 ユダヤ人問題とはちょっとかけ離れてしまいましたが、外からやって来たとばかり考える癖はこの辺で改めるべきだと思うのです。火山の噴火で土地を追われた「離散日本人(倭人)」がいても何らおかしくないのですから。

投稿: kamodoku | 2009年2月27日 (金) 22時35分

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