田崎神社のしか祭り(鹿屋市田崎町)
田崎神社は正式名「七狩長田貫神社(ななかりおさ・たぬき神社)」で、七人(七柱?)の狩の首領と「田貫(=田主=たぬし)」とが合体した世にも珍しい神社である。
神社は浜田、大姶良方面から鹿屋中心部へ向かう県道が、田崎運動公園・グラウンドゴルフ場を左右に見て間もなくの、肝属川に向かってやや下り坂になりかかった所にある。
神社前バス停の高さは1、8mくらいはあるから、その大きさが分かろう。高さは25メートルを下らず、広がった幅は30メートルほどになる。
樹齢九百年とされるが、面白いのは、根は一つなのにすぐに二股に分かれていることだ。
田崎神社本殿。
本殿に祭られているのは「別雷命(ワケイカヅチノミコト)」で、この神様は京都の上加茂神社の祭神と同じ。一説によると永徳3年(北朝年号=1383年)に分祀されたといい、また、別の説では永正年間(1504~1520)に伊勢国の田丸玄蕃という人が捧持してやって来たという。
ワケイカヅチは雷神で、雨をもたらす農業神――とされるが、実は下鴨神社の祭神カモタケツヌミの娘の子、つまり下鴨神社の祭神の孫にあたる。そして南九州と無関係でないのは、その下鴨神社の祭神カモタケツヌミは「襲の峰に天下って、大和から京都(山城)へ移り住んだ」(『山城国風土記』)人物(神)なのである。(このことについては別論が要るので、これ以上は触れないでおく。)
本殿向かって左側には「西宮」が鎮座する。ここの神様こそが「七狩長(ななかりおさ)」なのだろう。それなりに立派なお宮である。
「狩長神社」と言えば、肝属郡錦江町池田の「旗山神社」にも本殿と並んで祭られていたのを思い出す。
また、この神社には「鼻高どん」という「猿田彦(サルタヒコ)」とみなされる面の数々があったらしい。今度の祭りではその一つと思われる面が先導役となっていた。
2月17日、午前10時に祭典が始まり、祓いと玉ぐし奉奠のあと、神輿に神を招じ入れた。
いよいよ「しか祭り」に出発する。
「しか祭り」は旗山神社でいう「しば祭り」と内容は同じで、狩長(かりおさ)の狩猟の範囲を確認するために、その領域の要所要所を祓い鎮めて歩く祭り(神事)である。
(旗山神社の祓い所が3箇所だったのに比べ、こちらは5箇所という違いはある。)
氏子代表の面々に担がれた神輿は鳥居の外に出ると、そこに待機していた車(軽トラック)の荷台に載せられた。
例によって高齢化・人手不足の当節、10キロ余りの巡拝路を歩くわけには行かなくなっている。
最初の御旅所は「打馬(うつま)の早馬(はやま)どん」だ。打馬と言えば、肝属川中流域の繁華な地域を指すが、こちらはシラス台地の上で、市立図書館や文化会館のあるゾーンから1キロ余り北に位置する所、畑の中にぽつんと森になっているのがそれである。
神輿が据えられ、さらに早馬どんの森の中の一本の木の前に先導役の「サルタヒコ」の面が立てかけられて、神事が始まった。祠は三つあるが、今日まつられるのは向かって左の祠で、お神酒・米・塩が供えられ、さらにその前に竹にシデを挟んだ物(御幣)を立てる。
お祓い・祝詞奏上・打馬地区代表と田崎地区代表の玉ぐし奉奠が粛々と行われた。
神事が済むと、両地区氏子代表者たちは直会(なおらい)に入る。
かっては酒が欠かせなかったのだろうが、昨今は車の移動が当たり前になったので、茶の「飲ん方」だ。
打馬が済むと次は「祓川の御旅所」だ。
打馬・早馬どんからはちょうど2キロほどの林の中だった。入り口の杉が、今にも花粉を飛ばしそうに胞子袋を張り切らせている。
マテバシイ、タブなど背の高い照葉樹の林に中に、御旅所が設えられていた。
早馬どんの時と同じ手順で神事が進められ、最後に祓川地区の代表が玉ぐしをお供えして終了。
やがて昼食が始まった。有り難いことに祭事を撮りに来ていた自分を入れて三人が、弁当の恩恵に与かることになった(多謝)。
昼食を済ませると、次なる御旅所「大浦」に向かう。祓川の御旅所から西に1.5キロほどの道路沿いにある。
恒例ではこの大浦では、祭事のあと「味噌田楽」がふるまわれるのだが、ここ何年かは賄い主が高齢のためお供えされなくなったそうだ。
その代わり、と言っては何だが、近所の老婆が参拝にやって来た。
大浦の御旅所での神事が済むと、本来ならもっと西の「郷ノ原(ごうのはい)」の方へ行くのだが、今回は先に済ませてある、とのことで、5キロ近く神社の方向へ戻り、最後の御旅所「新栄」にやって来た。
田崎神社氏子代表がうやうやしく参拝をし、御旅所巡りの最後を締めくくった。
やれやれご苦労様。軽トラックから神輿を降ろし、再び鳥居をくぐって拝殿に向かう。
10時から始まって帰り着いたのは午後2時過ぎ。昔はすべて徒歩で(宮司たちは馬で)回ったそうだから、丸一日をかけての祭事だったようだ。
ところで、各御旅所での神事のあと、参列の人たちにはこのような弓矢が配られる。
田崎神社境内に自生している萩の幹から作られた弓(矢は榊の葉を羽に見立てて弓に捲かれている)で、皮をむくのになかなか手間がかかるそうだ。
四つ貰って来たが、まさしく「破魔矢」の原型だと思われる。
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コメント
「七人(七柱?)の狩の首領」と「田主=たぬし)」とが合体した珍しい神社のお話、
いつものように感じ入りました。そして、早速、自分のブログにも取り入れさせて頂きました。
素晴らしい写真共々、これからも期待しております。
投稿: 八代新一 | 2009年2月25日 (水) 17時36分
コメントありがとうございます。
大隅には田崎神社のほかにも「賀茂(鴨)神社」系の古社があります。串良町の「万八千神社」などもそうで、和銅年間の建立などという伝承をつたえています。
襲の峰に天下ったカモタケツヌミの説話は『山城国風土記』にありますが、南九州とは無縁の、したがって「おらが国自慢」とは無縁の他国の風土記に書かれているということは、そこにかなりの客観性があるとして良いと思います。
これを取り上げる研究者など皆無といっていいのは残念です。南九州からの「神武東征」が有り得ぬのと同断――ということでしょうが、ちゃんと目を開けてもらいたいものです。
投稿: kamodoku | 2009年2月27日 (金) 21時48分