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日木山の宝塔(姶良郡加治木町里)

国指定史跡「南浦文之の墓」のある安国寺から東へ直線にして1キロほどの所には、県指定史跡「日木山宝塔」がある。

県道<栗野・加治木線>が九州道と隼人道路の高架をくぐってから約300m、左手に加治木工業高校があるが、その手前の信号を左折し、工業高の裏手を目指すと日木山川に架かる橋を渡る。渡るとすぐ右折し(案内板あり)、約100メートル先のТ字路を左折(案内板あり)。200メートルも行くと前方に石塔が見えてくる。215hatuumasaitohikiyama_040

そばまで行くと、その大きさには驚かされる。

 台座の上の部分だけで150センチはあるだろう。どちらも重さ500キロは下らないのではないだろうか。215hatuumasaitohikiyama_038

大きさも大きいが、古さも古い。

 かっては読み取れていたと言うが、現在は薄れてよく分からなくなっている年号は「仁治3年(1242)」と「寛元元年(1243)」である。

 これだけ古い宝塔は鹿児島では2番目、九州全体でも6番目だそうだ

 地元の伝承ではこれを「ウバカサア」と言っている。「ウバカ」とは「大墓」のことである。

 以前は「供養塔」だとされていたが、丸い部分から遺骨が発見されたことから墓であることが確実となった(宝塔に並んで石柱が立っているが「昭和六年・改修」と彫り込まれている。この時のことだろう)。

 では誰の墓かと言うと、決定打はないが、当地を古くから治めていた「加治木氏」のもので、その主は八代・加治木親平夫婦か、その甥である木田信経夫婦のものとされている。

 加治木氏は大蔵姓であり、大蔵姓は応神天皇に仕えていた帰化人「阿知使主(あちのおみ)」の後裔である。阿知使主は後漢の霊帝(168年~188年)の三世孫であるという(『新撰姓氏録』)。漢文文書に詳しい大蔵氏はおそらく太宰府か鹿児島神宮の事務官僚で、加治木に所領を持ち、土着したのであろう215hatuumasaitohikiyama_041

ただし、明応年間(1492~1500)に島津氏との戦いに敗れ、薩摩半島西部の阿多地方(現在の金峰町)に移封されている。

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コメント

いつも興味深く
拝見しています。
次をご参照下さい。

===>>広報加治木(平成19年12月)
加治木氏の供養塔もしくは
加治木氏の夫婦墓ともいわれてきましたが、
今回の人骨発見で墓であることが判明しました。

投稿: 今井より | 2015年8月24日 (月) 16時56分

今井さんへ。
 ご指摘ありがとうございました。

投稿: kamodoku | 2015年8月27日 (木) 20時31分

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