南浦文之の墓(加治木町城)
加治木町営温泉「龍門ノ滝温泉」から網掛川沿いを下り、橋のある所を左折して約400メートルほど行くと、道の左に上水道用と思われるカラフルなおおきなタンクが見えるからその手前の細い道を左折し、人家の間をうねうねと200メートルで「安国寺」に行き着く。
この寺の墓地に、戦国期にこの寺の住職だった「南浦文之(なんぽぶんし)和尚」の墓がある。
立派な追悼碑の斜め奥にブロック状の切石で囲まれた、禅宗ではよく見られる僧侶の円柱の墓塔が文之和尚の墓である。
昭和11年に国指定の史跡になったが、こんなこじんまりとした墓が指定になったわけは、やはり文之和尚の文化的業績の大きさの故だろう。
文之和尚は弘治元年(1555)日向飫肥南郷の生まれで、13歳で出家の後、修行を積んだあと、特に朱子学に優れ、有名な和訓訓読法「文之点(ぶんしてん)」を発明した。
朱子学と言えば戦国期以降の武士のたしなみ、とりわけ為政者の政道の中心的な教義でもあったから、朱子学に明るい文之は当時の島津氏3代(義久・義弘・家久)にわたって重用された。加治木のこの安国寺の住職になったのも、島津義弘の招聘による。
示寂(逝去)は江戸時代に入ってからの元和6年(1620)、66歳であった。
文之墓以下の墓群は大きな杉の木の下。
また、裏山は急峻な崖で、比高90メートルほどの崖の上には「加治木城」があった。
龍門ノ滝のある網掛川と、東を流れる日木山川とに挟まれた難攻不落、絶好の丘の上である。
加治木は加治木氏、伊地知氏、肝付氏(高山本家12代兼連からの分流)と治世が続き、戦国末期に島津氏が抑えて江戸期を迎えている。一国一城制のもと、加治木城も廃城となった。
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