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四国徳島の「邪馬台国説」などなど。

先々日、知人のS氏がやって来て「徳島の人で、邪馬台国はじめ魏志倭人伝に記された倭人国はすべて四国にあると言っている人がおり、その人はまた、剣山にユダヤの<契約の箱=アーク>が秘蔵されているとも言うんですが、どう思いますか?」ときた。

 「日本に失われたユダヤ10支族の一部が紀元前に渡来した――という説はよく聞くし、それがどうにも雲をつかむような話で、証拠は何一つないので、否定せざるを得ないよ。だから、無い話なのにそれを剣山に引き寄せて自論を展開した所で、所詮は<自己満足>、悪くすれば<狂信>だな。」

――それじゃ、邪馬台国四国説はどうです?

 「魏志倭人伝を正確に読み、朝鮮半島中西部の帯方郡から邪馬台国までの水行・陸行、日数、方角で表された行程記事を何一つ勝手に読み替えないでたどれば、九州島を出ることはないよ。つまり邪馬台国は九州にあったんだ。ただ、従来の九州説は<伊都国=糸島・前原市>とし、そこからは変えてはいけない方角を変えてしまった(東南陸行を東北陸行に)ために、畿内説と同じ過ちをおかし、畿内説が大手を振って<南を東に変えて、北部九州から東の畿内へ持って行っている>のを厳しくとがめられないでいるのさ。困ったもんだね。」

 その時はこんな話で、彼も引き下がったのだが、つい先日は『ムー』とかいう雑誌にあったと言って、やって来るや

――これ見てくださいよ。この前の<邪馬台国四国説>どころか<大和王朝の前身はすべて四国にあった>という説が載っているんですよ。どうなんですかねえ?

 雑誌を斜め読みすると、10ページくらいに亘って<阿波国史研究会><倭国(いのくに)研究会><古代阿波研究会>などの中心人物の話題が記されている。しばらく話を交わしたあと、その部分をコピーをさせてもらい、後日、考えをまとめてみるからと別れた。

 私が目を留めたのは、この『大和王朝阿波説と阿波風土記の謎』という論説を寄稿した著者の次の一文だった。

 ・・・邪馬台国はそれだけで古代史マニアを惹きつけ、熱狂させるテーマということだが、過激なまでの神秘的解釈と熱狂の度合いで、他の追随を許さない研究者が集まった地域といえば、阿波にとどめをさす。

 こういった熱狂的な研究者が、上に挙げた研究会を主催しているのだが、内容を読むと確かに熱狂的だ。狂熱的と言ってもよい。

 邪馬台国とユダヤのアーク渡来説については、もう済んだものとして横に置き、『大和王朝阿波説』についてだけ指摘しておきたい。

 この説を唱える岩利氏は、アマテラス(ヒルメ)を祭る神社があること、イズモという地名があること、隋書に書かれた倭国王の名(号)「阿輩鶏彌」を「阿波君」と読めること、また阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とあること――などから阿波こそは大和王朝の元の国である、としている。

 さらには、那賀川流域にあった「イズモ族」と、吉野川中下流域にあったヒルメ一族すなわち天皇族とが、吉野川上流域で出会い、もともといたニギハヤヒの一統(物部氏族)を女系に取り入れた天皇族がイズモ族をも従えることになった。その天皇こそは祟神天皇こと「ミマキ(美万城)イリヒコ」に他ならない、とする。

 つまりはイザナギからヒルメことアマテラスの誕生、イズモ族の恭順、大和王朝の誕生(祟神天皇)まで、すべて阿波国の出来事であった、と言う。いやそれどころか「天智天皇まで王朝は阿波にあった」のだから驚く。いや、驚きを通り越して呆れる。

 ここまで牽強付会が過ぎると、もう付いて行けない。

 記紀説話が記紀編纂時代の「偏向」により、「隠しておかなければならない史実」や「書き改めなければならない史実」や「誇張しなければならない史実」などが多々あり、そのことは記紀編纂の時代的要請があったからで、それを踏まえて記紀の文章を分析・検討・整理し、また考古学的資料などを参照しながら、史実を可能な限り客観視できるように読み取っていかなければならないことは、古代史・上代史(古代史以前)を研究する大前提である。

 思うに、四国は余りに記紀の記述から遠ざけられている。九州や畿内周辺の諸国、また中部地方に比べて、畿内に圧倒的に近いにもかかわらず、記載されること極めてわずかである(魏志倭人伝でも同じだ。もっとも倭人伝に関しては畿内も同じだが・・・)。

 そこのところが、四国の歴史研究者、とくに郷土史を研究する人々には何とも歯がゆいのだろう。まるで「シカト(無視)」されているような屈辱感があるのではないだろうか。そのコンプレックスが逆作用して、「熱狂的な四国阿波中心説」が唱えられるようになったのではないか。

 そこで思い出されるのが『古語拾遺』という「忌部氏の祭祀が余りに無視されるので、憤ってその思いの丈を吐露した神道論・歴史論」を展開した斎部広成(いんべのひろなり)のことだ。

 斎部広成は大同2年(807)、平城天皇二年に上記の書を著して、藤原氏(旧・中臣氏)の政治界のみならず神祇界における専横を厳しく糾弾している。もともとは天孫降臨に従ってきた五伴緒(いつとものお)の仲間(藤原氏は「天児屋根命」、忌部氏は「天太玉命」が始祖)であったが、律令制以降は藤原氏の専権の前にどんどん不遇となっていったのであった。

 同書は祭祀の面でいかに古例がないがしろにされ、自分たちが遠ざけられてきたかを「遺れることども11か条」を挙げて、綿々と訴えている。

 『古語拾遺』は神道論として、また記紀に漏れた史実を補うものとして、裨益するものが多々あるが、全体を貫くトーンは以上の様である。阿波は天太玉命の後裔「天富命」が率いて下った「天日鷲命」が国を治めたことから、「阿波忌部氏」が阿波の祭祀の中心となり、したがって斎部広成と同様に、中臣氏の後裔・藤原氏の専横がひどい大和王朝に対しては極めて批判的だった。

 『阿波風土記』なるものがもしあったとしたら、そのような反体制的な所論で貫かれていたであろうことは想像がつく。ある意味では完本の全くない『大隅風土記』『薩摩風土記』などもそういう類のものであったろう。しかし、今の世に出て来ていないものから歴史論は構築できようはずはなく、「大和王朝阿波(起源)説」は牽強付会の臆説と言うほかあるまい。

  ※以下のURLに「日本史のブラックホール・四国」と題して、上記の「何でも四国中心説」に対する詳細な評論(というか批判論)があります。参照されたし。

     http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm

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桜咲く(鹿屋市中央公園=新生町・向江町)

一昨日の昼時に鹿屋の市役所に近い中央公園を歩くと、桜がほぼ満開であった。325sakurachuuoukouen_012

やや肌寒くなってきたせいか、その二日前に見たときは人がちらほら来ていたのだが、一昨日は全くいなかった。

 いきなり6、7度も気温が下がったためだろう。325sakurachuuoukouen_013

鹿屋市中央公園は東を肝属川に、西を下谷川で挟まれた舌状台地で(標高30~50m)、先端は両川の合流点に向かって先細りになり、市役所(旧大隅線鹿屋駅)を過ぎたあたりで低地となり消滅する。325sakurachuuoukouen_001

西の高台(シラス台地)にある市営「八ッ尾墓地」から見た中央公園舌状台地。

 真ん中に見える建物が公園内にある武道館。その右の白いのが体育館。

 武道館の左手に照葉樹林帯(舌状台地の西のへりを縁どっている)が高隈山系の南麓のシラス台地へと続くのが見て取れる。

墓のある台地と中央公園舌状台地の間には「下谷川」が流れ、その谷あいには新生町の住宅街が写真上方へと展開している。325sakurachuuoukouen_007

市営・八ッ尾墓地からその下谷川に下り、両台地を結ぶ道路に架かる「曽原(そはら)橋」の上から中央公園の台地を見る。

 台地へは信号を過ぎて真っ直ぐ登っていく。

「曽原」とは新生町内の小字名だが、「曽」に注目しなければならない。「曽の国」の「曽」であるとしてよい。と言うのも、実はここから台地に上がり、そのまま台地を横切って下りた所には肝属川沿いに「曽田」という小字があるのだ(町名は白崎町)。

 つまりこの中央公園舌状台地は、小字ではあるが、西を「曽原」、東を「曽田」という「曽」地名に囲まれているのである。「曽」は「熊曽(くまそ)」の「曽」であり、「熊曽国」は広く古代南九州をカバーした国名であるから、その中心地のひとつ「鹿屋(カヤ)」のさらにまた中心地がこの「曽」に囲まれた地域だったろう。

 中央公園舌状台地は、二本の川に挟まれた熊曽国の一つの中心「鹿屋(カヤ)」の聖地だった可能性が高い。325sakurachuuoukouen_008

信号から台地へ上がっていくと、平坦になった先に 鳥居と満開の桜が見える。

 鳥居の奥は熊野神社だ。325sakurachuuoukouen_014

参道の奥に鎮座する熊野神社。熊野神社の本宮は和歌山である。

 祭神は「イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ」だそうで、コトシロヌシはオオクニヌシの兄弟で親はあのスサノヲとされる。つまり出雲系でもある。

 和歌山にしても出雲にしても共に南九州とは「黒潮とその分流」でつながっている、ということも視野に入れておかないといけない。

さて、この熊野神社。創設の年代は不明だが、伴姓(肝付氏流)の鹿屋兼言の応永35年(1428)の建造棟札と、肝付兼続(かねつぐ=高山本家15代)の永禄6年(1563)の棟札があったとされるから、少なくとも580年前にはあったことになる。

現在の社殿はコンクリート製で、最近塗装しなおして明るくなった。社殿の左手に大きな木が柵に囲まれているのが見えるが、あれは「イヌマキ(ひとつば)」の大木で、県下でも最大級だろうと言う。325sakurachuuoukouen_015

根回り8メートル、高さは25メートルあり、根っ子近くの幹は、太い筋肉がむき出したようになっていて見ごたえ十分だ。

 これで樹齢300年だそうだが、本当にそんなものかと疑わせるほど迫力がある。325sakurachuuoukouen_010

熊野神社を出て、武道館前を通過すると「護国神社」がある。こちらはもちろん明治以降の創立である。

 社殿はやはりコンクリート製だが、鳥居は赤く塗られていない。

 (今日のブログの最初の写真は、護国神社の奥にある芝生広場で撮った桜)325sakurachuuoukouen_011

護国神社に向かって右手の道路際には「秋葉神社」がつつましく建っている。

 これは「火除け」の神様で、愛宕神社と同じくたいていは見晴らしの良い台地上にあるが、これも立地条件に適っているからおそらくは江戸時代からのものだろう。

 道路の先は下り坂で、鹿屋の中心部「北田、向江」につながるが、今日は秋葉神社と道路を挟んだ反対側にある急坂を下る(初めは階段になっている)。こっちの方が古くからの道なのである。325sakurachuuoukouen_004

下りきった所にある「安養寺」。

 曹洞宗・池上山・安養寺は慶長2年(1597)に、当地の領主となった島津久信によって建立された。

 久信は元垂水島津家当主だったが、肝付氏が滅亡したあとに代官として入部した島津一門の伊集院忠棟が、都城に栄転したあとを襲い入ってきた。

 だが、精神に異状をきたして肝属川上流の祓川に永蟄居させられ、そこで空しくなった人物である。その後鹿屋には島津氏腹臣の平田・伊地知・野田の三氏がはいって統治することになった。

 武士の信仰厚かったこの安養寺も、明治維新後の廃仏毀釈で灰燼に帰している。325sakurachuuoukouen_005

安養寺の隣りには鹿屋幼稚園があり、幼稚園の正門の奥の方に「八坂神社」が鎮座する。

 ここは鹿屋の六月灯の皮切りの神社で、鹿児島弁で言う「おぎおん(祇園)さあ」だ。

 八坂神社は「午頭(ゴヅ)天王」こと「スサノヲノミコト」を祭っている。

 「午頭天王」は「朝鮮半島由来の神で、さらに「祇園」は「シオン」であるから、八坂神社こと「祇園社」は朝鮮半島経由のユダヤ系の神を祭っている――などという「トンでも説」を唱える研究者のいる「おぎおんさあ」でもある。

 だがさっき指摘したように、公園台地上にスサノヲの子を祭る「熊野神社」つまり「黒潮つながりの紀伊と出雲」の元締めのような存在があったことを考慮すると、この八坂神社は同じく紀伊にも出雲にも縁を持つスサノヲを祭っているわけだから、その首尾は一貫している。

 これらを祭っていたのが南九州の熊曽こと隼人の前身である航海民「鴨族」であったろう。コトシロヌシは琉球国一ノ宮といわれる「波の上宮」の祭神「事解男(ことさかお)」と同じで、スサノヲの子孫でもっとも航海民性が強い。

 その西を「曽原」とし、その東を「曽田」として鹿屋中央公園舌状台地を聖地としてあがめていた「曽人(そびと)」は、鴨族としては朝鮮半島まで往来するほどの航海民でその首長「カモタケツヌミ」(京都・下鴨神社の祭神)は船団を率いて、いわゆる「神武東征」の以前に大和入りしている(『山城国風土記』)。

 (私見では次の「神武東征」の主は、魏志倭人伝に載る「投馬(そつま)国」の王「ミミ」であり、記紀の記す「タギシミミ」がまさにその本人であると考えている。詳しくは自著『邪馬台国真論』に記してある)

 日本の春の象徴である桜を観賞するだけのはずが、「とんでもない所まで」行ってしまった――。だが、春の戯れ言と思ってもらっては困る・・・。

 

 

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オオバベニガシワ(2)

325akamegasiwa_003_2 オオバベニガシワの葉が、二週間経ってほんのりと淡い緑色を呈してきた。

 生まれたての「赤子」から「嬰児(みどりご)」へと成長したようだ。

 今日は天気が良いが風はかなり吹く。街の中を通ると、ほとんどの桜が満開に近い。この強い風でせっかくの花びらが散ってしまわないか気がかりだ。

人間様のそんな心配をよそに、我が家の老犬ビータロー(15歳)は文字通りどこ吹く風だ。325akamegasiwa_001

ただ、最近になって、時に寝そべりながら耳から頭へと腕(?前足)でかなり激しくかきむしる動作を繰り返すようになった。

 たぶん・・・耳鳴りがするのだろう。耳が遠くなってきているのは事実だ。単車でブルブル音を言わせて帰ってきても気付かないことがある(役立たずじゃ・・・)。

 飼い主も5年ほど前から耳鳴りがし始め、最初は後頭部に何かセミでもひっ付いたのかと思い、うっかり手を当てることがあったから、飼い犬も同類(同病?)の現象に襲われているに違いない。・・・でも、食欲は旺盛だ。長生きしろよ。

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バラク・オバマと神武東征

アメリカ議会では与党の民主党、野党の共和党を問わず、政府の救援資金を受け取ってようやく息をついたAIGが、役員へ多額のボーナスを支給したことに対し、各党の議員が非常な剣幕で譴責してやまないが、どういう解決策をオバマ大統領が下すか見ものである。

 早い者勝ちのバクチ・いかさま金融が破綻して「百年に一度」と言われる経済危機が生じたわけだが、オバマ大統領はアメリカ経済の建て直しに、80年前のフーバー大統領の後継者ルーズベルトに学んで今回「グリーン・ニューディール」なるものを掲げてきた。

 国が環境に優しいクリーンエネルギー生産に大量投資をして、新規雇用を生み出し、もって国家の経済成長につなげよう――というわけだが、環境対策といえば同じアフリカに出自を持つワンガリ・マータイ女史を思い出す。

 不思議な符合だが、マータイ女史もバラク・オバマの父バラク・オバマ・シニアも同じケニアの出身だ。

 マータイさんはケニアの中央部、シニアはケニアの最西部出身の違いはあるが、アフリカのケニア出身者が、一方はノーベル平和賞(2004年度)という世界平和に資する最高の栄誉をかちえ、他方は息子ではあるがアメリカ大統領という世界の超大国の最高指導者に就任した。

 ケニアには国連環境計画という国際機関があり、環境には格別考慮を払っているからなのかもしれないが、マータイさんが緑化事業で平和賞を得た一方で、「ケニアの息子」はグリーンニューディールを標榜したのである。

 余りに出来過ぎていないか、と思うのは私だけか。

 ところで、オバマ大統領就任以後、今回で3度目のコメントを書くわけだが、アメリカにおける奴隷解放以来、140年にしてようやく黒人系の大統領が誕生したと同時に「百年に一度の経済危機」が生じたという、余りにも劇的な時代背景が重なった。われわれはまさに「百年、140年に一度」という時代の大転換に遭遇している――ということが、私をしてコメントを3度も繰り返させているゆえんだろう。

 好むと好まざるとに関わらず、われわれは大転換期にあるということを肝に銘じ、これからの地球規模の動きに注目していかなければならないのだ。

 閑話休題――つらつら思うに、このオバマ新大統領の就任はわが「神武東征」になぞらえられるのではないだろうか?

 え!何を言ってるんだ!と言い返されようが、「あの何もない素寒貧の南九州から大和へやって来て、列島の最高権力たる大和王朝など築けるわけがない。神武東征説話は南九州のクマソ・隼人という遅れた蛮族が大和王権に従わないで反抗するので、太古にさかのぼり、その昔は兄弟だったのだから、仲良くしようじゃないか――というコンセプトで創作し、書き上げたのが記紀であり、大和王朝は太古から大和にあって列島を統治していたのだ」と主張している「大和中心主義者」へのレクイエム(鎮魂歌)たり得るかもしれない。

 と言うのも、オバマ大統領の父親バラク・オバマ・シニアは先に述べたように、アフリカはケニアの出身である。しかもマータイさんと違ってケニア最西部のニャンザ州シアヤ県のニャンゴマ・コゲロ村という、いまだにテレビ放送もないような小さな農村の生まれだ。

 そのバラク・オバマ・シニアが、まあ成績は抜群だったのだろう、アメリカはハワイ州のハワイ大学へ留学した。そこで知り合ったのが白人の大学生アンであった。恋に落ちた二人は結婚し、バラク・オバマ・ジュニアすなわちオバマ大統領が生まれた。

 わずか3年で両親は離婚し、ジュニアは母方のアンの両親に育てられる。

 アンの再婚相手のインドネシア人と同居するため、ジュニアはインドネシアで5,6年を過ごすが、中学・高校生活はハワイで送り、その後はアメリカ本土に渡り、大学からロースクール大学院を出て弁護士という職業を経て、今日の大統領まで上り詰めたのである。

 アフリカの寒村に生まれた人物が、ハワイに行き、そこで知り合った現地白人と結ばれて生まれた子が、世界でもっとも文明の進んだアメリカの最高権力者になった――これはおとぎ話ではない、リアルタイムの現実の話だ。

 父のバラク・オバマ・シニアをニニギノミコトになぞらえると、ジュニアはホホデミノミコトだろう。そして母アンはカムアタツヒメになる。このあと記紀の日向神話ではウガヤフキアエズ、ワカミケヌ(のちの神武天皇)と二代続くが、いずれにしてもこのあとオバマはアメリカの最高指導者になり、南九州の日向から発った神武は大和の最高指導者になっている。

 わが日本では「何にもない素寒貧の南九州からの東征、そして大和王朝の創始などあり得ぬ」と言われる一方だが、現実の世界では「アフリカの何もない素寒貧のケニアのニャンゴマ・コゲロ村から東征した人物の子が、アメリカの最高指導者、つまりは世界の最高指導者になった」ことは認めざるを得ないではないか!

 素寒貧の南九州からの東征など有り得ない、おとぎ話だ――と主張する「大和中心主義的歴史観」に囚われた研究者は、この現実を見てどう考えるのか知りたいものだ。

 

 

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オバマは怒り心頭!

恥を知れ、呆れ果てた守銭奴め!

オバマ大統領が、もし日本語を知っていたら、こんなふうに言っただろう。

 公的資金を日本円で14兆円も注入されて破綻を救われていながら、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の役員たちが、日本円にして平均4000万円ものボーナス(本給とは別だ)を貰っていたことに対しての大統領声明が報道されていたが、そのときオバマ大統領はむせ返った。それをこう説明した。

「皆さん、どうも失礼。余りにも怒ったがために、むせ返ってしまいましたよ」――と。

 投資会社や保険会社の給与はもともと著しく高い。アメリカなどでは若くして、たとえば20代後半でそういう会社の役員になったとしたら、年齢に関係なく10億とかの年俸は例外ではないそうだ。

 アメリカで最も権力と権威を持つ大統領の年俸が3000万か4000万円くらいなのに、ふざけるなよ――とオバマ大統領は言いたいのか?いや、そうではないらしい。彼は

 <さしたるボーナスにも恵まれず、それでもいくばくかの税金を国に払っている勤労者のなけなしの金が含まれている公的資金を、お前たちは受け取りながら、感謝することもなくさも当然の分け前のように手にする感覚が理解できない――>

と、こう言いたいのだ。

 それに対して「自由主義経済」だから、いくら貰おうと自由だ、と役員たちが答えたとすれば、もう自由主義などやめたほうがましだ。金の分捕り合戦のあおりを受けて世の中はガタガタになる(今がまさにそうだ)。

 ところで自由主義をやめたら社会主義・共産主義になるのだろうか?

 そんなことはない。と言うのも日本では昔から何事においても自由であったためしはないが、社会主義にも共産主義にもならなかった。だいたい「自由民主党」の掲げる「自由」と「民主」など両立する筋合いのものではないのに、戦後60数年、ほぼ一党独裁でいられたのも、両立しないはずの「自由」と「民主」とをドッキングさせて来たからに他ならない。したたかと言うほかない。

 では本音として日本の主義主張は何であるかと言うと、私見では「自分自在主義」だ。「自分」とは「おのれの分限を知っていること」、「自在」とは「臨機応変、機に応じて変化してやまないこと」だから、別の言葉で言えば「おのれの立場をわきまえつつ、おのれを忘れて物事に対処するやり方」となろうか。「忘れて」を「捨てて」と置き換えてもよい。

こう書くと、よほどの修行を積んだ人間しかできない所業のように聞こえるが、実は身近な所では毎日、毎時行われている。それは何のことはない「子育て(育児)」がそれである。

 母親は幼い我が子のために毎日・毎時、自分つまり「○田○子」であることを「忘れて」、多忙極まりない「母親」に徹して育てている。といって抽象的な「母親」ではなく、やはり中身は「○田○子」であるし、余人を以っては替えがたい存在であることを十分知ってのうえで難儀な子育てをしている。

 仮に「○田○子」が高名な女優であっても、ピアニストであっても幼いわが子にとって何のことがあろうか、ということを十分承知の上で、言わばいったんはおのれを捨てて育児に孜々として励んでいるのである。

 こういう姿勢を「自分自在主義」と私は定義する。その時、その場で要求されるものを素直に受け入れ、臨機応変に身を以って対処する。そしてそれを充実感を持って受け止めていく――そういうやり方、生き方こそがこれからますます必要になってくるだろう。

 自由主義に名を借りた「自己中心主義の守銭奴たち」へのオバマ大統領の怒りは最もである。大統領声明でこういうことを堂々と糾弾する姿をまのあたりにする今日、われわれは地球規模での歴史の大きな転換点の真っ只中にいる、という感を深くする。

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肝属川とカモ

2月がバカ陽気で、3月に入ってからはやや平年並みに推移している気温も、このところ寒の戻りで肌寒い。今朝は庭に軽い霜が降りていた。

 昨日は、花粉症対策(?)で、久しぶりに高山温泉「やぶさめの湯」へ行ってみた。ただし温泉だけ入りに10キロ余りの道中はもったいないので、途中寄り道をして肝属川べりを探ってみた。

 カモをはじめとする冬鳥がまだいるかどうか、見ておきたかったのである。

 我が家から一番近い肝属川で水鳥が見られるポイントといえば、吾平町を流れる姶良川と肝属川との合流点「流合橋」のあたりで、行ってみると、いた、いた、まずは姶良川側の笹竹の叢林の下が、一群の集合場所のようだ。314kamo_004

その距離6~70メートルくらいに近づき、デジカメでは目いっぱいの4倍ズームにして撮ろうと構えると、カモは用心深いのか、目がいいのか、危険を感じて飛び立ち始めた。

この川面で、おそらく200羽は群れを成していたと思う。314kamo_007

同じ場所から見て対岸の藪の下を泳いでいたのは、カモよりひとまわり大きいクロガモ(?)。真っ黒な全身にくちばしだけが明るい黄色だ。

 近くにはカモの夫婦らしいのが餌を探している。この夫婦カモはクロガモの護衛(?)がついているので逃げようとしない。314kamo_015

流合橋の下流100メートルほどの対岸のケンチブロックの斜面には、カモの大群が日向ぼっこしていた。

 斜面の100㍍以上にわたって、その数300羽は居るのではないだろうか。

 カモとりごんべいならずとも、投網で一網打尽にしたら面白かろうと思ったが、許されるはずもなく、デジカメで「カモ撮り」。314kamo_027

次に高山川と肝属川の合流地点に下ってみたが、そこには見当たらなかったので、最下流の肝属川河口近くまで下る。

 土手から秀麗な「権現山」と「第二有明橋」とを望むが、いま海は引き潮らしく川の中に砂州が浮き出ているのが見える。

 カモの群れは、そこに居た。314kamo_024

うっすらと水に覆われた砂州の砂の中に首を突っ込んでは餌をあさっている。

しばらく見ていると、時おり何羽ずつかが羽根を広げてパタパタ動かすしぐさを繰り返す。そろそろ遠い北国へ帰るためのウォーミングアップだろうか。

 カモは朝鮮半島経由でさらに北の満州・沿海州方面に行き、春夏を過ごしつつ繁殖したあと、家族と共に再び日本列島を越冬地としてやって来る。

 このカモの習性と、水に浮かんですいすい泳ぎ回る能力になぞらえたのが「航海民」の姿で、鹿児島はもとより熊本・長崎・九州北岸に多数蝟集し、九州島と半島とを往来していた。これを「鴨族」といい、「鹿児島」は「鴨島」つまり「朝鮮半島までを交易圏としていた鴨族の本貫の地」ということから名付けられた、とみる。314kamo_028

肝属川河口に北から流れ入る「汐入川」にも葦の茂る10㍍余りの川幅いっぱいに、カモの群れが羽を休めていた。こういう群れ毎に一団となり、北帰行を開始するのだろう。

 カモが満州方面への2000キロ近い長旅を間違えずに行き着くその能力は、一体何に拠るものか。地磁気センサーが脳内に組み込まれているから、というようなもっともらしい説明がなされるが、やはりしたたかな「眼力」ではないかと自分なんかは思う。そうでなければ、突発的な敵の襲来や天候の激変に対応はできないに違いない。 314kamo_030

神武東征の出発地とされる柏原から、対岸に渡る「第一有明橋」の下に、さっき姶良川では二、三羽しか見なかったクロガモが10羽ほど泳いでいた。314kamo_038_3

第一有明橋から中州島に渡り、さらに300m近くある第二有明橋を渡ると旧高山町の波見地区だ。

 その岸辺近くの中州にはカモメの一群が寝そべっていた。どうやら午後の昼寝らしい。

こちらは留鳥で、人間様には馴れているようで、かなり近づいても飛び立つ気配はない。

 向こうに見える土手など鴨族が蝟集していた頃にはなく、一面の潟(ラグーン)であった。また、こちら側の権現山を最西端とする肝属山地はクスや杉の一大宝庫で、鴨族が必要とする船材はふんだんにあり、しかも船工場として使用する入り江のすぐ間近に迫って生えていた。航海民たる鴨族にとってこんなに便利な所はない。おまけに北から延びる柏原砂丘が巨大な砂嘴となってこのラグーンの防潮・防波堤の役割を果たしていてくれた。

 神武東征の大船団がここで編まれたとしても、そう奇異なことではないと思われるが、如何ぞや。

 

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オオバベニガシワ

【改定版=うろ覚えでこの木を「アカメガシワ(赤芽柏)」としてましたが、実は「オオバベニガシワ(大葉紅柏)」でした。同じ「トウダイグサ科」ではありますが、別種です。以下「オオバベニガシワ」に書き換えます=4月11日記】

 最初、手で軽く握れるくらいの苗の束だったオオバベニガシワがずいぶん増えた。今ちょうど新葉が次々に出てきつつあるが、その赤さと言ったらない。312akamegashiwa_003

よく見ると、真っ赤な葉の下につぼみらしきものが枝に、まるで昆虫の卵の塊のように付いている。

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赤いつぼみが割れて、中から粉を吹いたような黄色っぽい小さな花が顔をのぞかせている。312akamegashiwa_002

あと一ヶ月も経つと、葉もずっと大きくなって赤色が薄れて行き、淡いグリーンが主体となる。

 そのころまでは美しいと思うが、真夏になり早い台風でも来ようものなら葉がささくれ立ち、清楚なグリーンが茶色交じりの冴えない葉っぱとなってしまう。

 なんだか尾羽打ち枯らした鳥の羽のようで、「人生の悲哀」を感じてしまうほどだ。

 今年は我が家の庭に生えるこのオオバベニガシワを定点観測してみたい。

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限りなくレイムダックなイチロー

今をときめくイチローは二人いる(小沢一郎とイチロー選手)。

 後のイチローは先日のWBC戦の対中国戦では5打数ノーヒットで、あわやレイムダック化しそうになったが、次の韓国戦ではイチローらしさを取り戻して快勝した。

 いまや危ういのは、もう一人のイチロー「小沢一郎民主党代表」だ。

 公設秘書が逮捕され、今度またかっての秘書で現在は衆議院議員(民主党)となっている石川議員が、地検特捜部の事情聴取を受けたという。恩師である田中角栄元首相の轍は踏まぬと、献金についてはガラス張りにしてきたはずのイチローが、やはり身内には目が行き届かぬのか、甘いのか、西松建設からの迂回献金を12年にわたり、その総額3億円という巨額を受け取ってきたそうだ。

 時期が時期だけに「国策捜査」「検察権の濫用」という声が上がっているが、これは明らかに違法献金だろう。なにしろ長期にわたっているし、額も大きい。司直の手が入って当然だろう。

 田中角栄のころは、議員たるものたくさんの企業献金を集めることが親分たるゆえんだったが、政治資金規正法が強化されて以降、政党には「公的資金」が投入されているのだから、イチローがどう申し開きをしても言い逃れはできまい。

 イチローは「常在戦場(選挙)」がモットーの政治家で、変幻自在が似合うのだが、今度ばかりは「男を下げた」としか言いようがない。

「百年に一度の経済危機」が現在であれば、選挙などやっている暇はない。今くらい世界が「日本がどう出るか」に耳目を集めている時はないのではないか。

 思えば、かのジュンイチローが5年を務めてさっさと首相をやめてしまったときは「あれあれ、惜しいな」などと感じたものだが、もし続けていたら郵政民営化の嵐の中で「郵貯300兆円」が今度の金融クラッシュによって「紙切れ」とは言わないが、相当な損失をこうむっていたかもしれなかった。

 まずは一安心だ。この際はタローに衆智を集め、世界の注目のなか、粛々と日本流に経済危機を乗り切って行くべきだろう。そして世界が日本流を学ぶときではないだろうか。そう思われてならない。

 

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岩ツツジ(鹿屋市萩塚町にて)

鹿屋市の南部、野里―西俣線(鹿屋市環状道路)が、大姶良川に向かって下降して行く手前の台地に萩塚町が展開する。

通りすがりの人家の庭からは、今ちょうど満開に近い岩ツツジの明るいレンゲ色の花が顔を見せている。306iwatsutsuji_008

よく刈り込まれた庭園樹(多くはイヌマキでビャクシンなども見える)のまだ新葉を出していない暗いみどり色の中に、思い切ってそこだけ明るい。

 思わず足を止めたくなる。306iwatsutsuji_012

岩ツツジ、別名はミツバツツジで、南九州以外ではふつう4月中旬ごろに咲く。

 南九州のこのミツバツツジは一亜種「ハヤトミツバツツジ」と命名され、平地の早い所では2月の半ばくらいから花を咲かせる。

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とある花壇の中のミツバツツジの前と横には、大小の石をあしらっていた。

 原産地の山中の岩場の雰囲気を模したものだろう。306iwatsutsuji_011

ある家の庭の奥には、この辺りでは最大と思われる岩ツツジが満開だった。

 高さ2メートル50センチくらい。上へ行くほど花数が多いのは見事だ。306iwatsutsuji_013

萩塚町は笠野原の壺屋の分かれ、すなわち文禄の役(1592年~3年)の時に島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った朝鮮人陶工の分住の地で、彼らの尊崇した「玉山神社」がここにも祭られている。

 そのお宮ならもっと大きな岩ツツジでもありはせぬかと行ってみた。

 残念ながら岩ツツジは植栽されてなく、その代わりに高さ・幅共に7、8メートルはありそうな大きな石鳥居の前の桜が1~2分咲きであった。306iwatsutsuji_015

拝殿まで上がっていくと、たまたま宮司さんが所用で来ているところだった。306iwatsutsuji_016

挨拶をして中を覗くと、何と木製の牛車がある。

――お田植え祭があったのですね。

「いやいや、もうだいぶ前からやっていないのですよ。なにしろ人がいないので」

――そうですか。もったいないですね。

「ええ、何とか復活したいと考えてますが、そもそもお宮は荒れ放題だったんです。拝殿のサッシの窓枠や網戸なんか、私の祖母の家のお古を再利用しています。拝殿の周りの板壁も、30万かけて私が一人で塗り直しました」

 そういえばぐるりの板壁はまだ赤味が生々しく目に映る。

 鹿児島以外の神社ではこのように真っ赤に塗るのは「毒々しい。清々しさがない」として採用しないが、古来の熊襲・隼人といわれる南九州人は赤(というより朱・紅)には霊力が宿り、悪しき霊を寄り付かせない力があると信じていたようで、その証拠が石棺の内部に塗る朱の存在だ。

 他所から来た私にも、当初はなかなか馴染めない風習だったが、少なくとも古墳時代からはある習俗――として容認できるようになった。

 さて、宮司は河野さんといったが、「少しずつ、皆に呼びかけて、何とかしたい」そうである。頑張ってほしいものだ。

 玉山神社の祭神はというと、朝鮮開闢の始祖「檀君(ダンクン)」で、明治時代になってからは「スサノヲノミコト」という事になった(日本書紀に、スサノヲノミコトは子のイソタケルと共に韓国=からくに、に渡り・・・云々――と書かれている)。

 また、三国史記の「新羅本紀」によれば、新羅始祖・赫居世の重臣は倭人であり、同じく4代目は倭国の「多婆那国」の出身ということになっている。案外、史実を語っていると言えるのではあるまいか。

 

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ピンポイント花粉弾?

やられた!――と言うのが精一杯。

 昨日の4時ごろ、『大隅』52号用の自分の原稿(校正)と表紙の写真の説明・寄贈図書の紹介・名簿・編集後記など、すべてが完了したので、印刷所まで持参したのだが、その帰り道、単車で走っていると、ある地点で急にくしゃみの連発が・・・。

 曇っていたし風も無かったので、まあ大丈夫だろうと油断したのがいけなかった。なにしろ印刷所までは8キロもあったのだ。当然マスクはしていたのだが、走れば隙間はできる。

 2月の14、15日のスギ花粉のピーク時も無事やり過ごし、17日、22日の田崎神社の祭礼見物でも影響のほとんど無かったのが、過信につながったのだろう。

 夕食後から、鼻水がするすると出始め、のども痛いしかすれて来た。早めに床についたが、マスクを掛けて寝る羽目になった(そうしないと眠りに入ってからの鼻づまりで口から息をするようになるため、のどや気管支が冷え込んで咳き込んでしまう)。

 やれやれ、やっぱり来たか花粉弾。

 皆さんくれぐれもご注意ください。今日は2度目のピーク。過信は禁物ですぞ。

 七時過ぎに2重にマスクをし、ビータロー(愛犬)に餌をやり、ついでに庭の野菜畑の写真を撮りに外に出ただけで、今日は「引きこもり」の一日に・・・。301yasainohana_001

 野菜の花。

 みんな同じように見えるけれど、右から白菜、水菜、ナバナ、チンゲンサイ、そして向こうにはターサイと、5種類ある。

 どれも黄色い菜の花系。水菜はセリ科と思っていたが、アブラナ科だったのか。

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