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桜咲く(鹿屋市中央公園=新生町・向江町)

一昨日の昼時に鹿屋の市役所に近い中央公園を歩くと、桜がほぼ満開であった。325sakurachuuoukouen_012

やや肌寒くなってきたせいか、その二日前に見たときは人がちらほら来ていたのだが、一昨日は全くいなかった。

 いきなり6、7度も気温が下がったためだろう。325sakurachuuoukouen_013

鹿屋市中央公園は東を肝属川に、西を下谷川で挟まれた舌状台地で(標高30~50m)、先端は両川の合流点に向かって先細りになり、市役所(旧大隅線鹿屋駅)を過ぎたあたりで低地となり消滅する。325sakurachuuoukouen_001

西の高台(シラス台地)にある市営「八ッ尾墓地」から見た中央公園舌状台地。

 真ん中に見える建物が公園内にある武道館。その右の白いのが体育館。

 武道館の左手に照葉樹林帯(舌状台地の西のへりを縁どっている)が高隈山系の南麓のシラス台地へと続くのが見て取れる。

墓のある台地と中央公園舌状台地の間には「下谷川」が流れ、その谷あいには新生町の住宅街が写真上方へと展開している。325sakurachuuoukouen_007

市営・八ッ尾墓地からその下谷川に下り、両台地を結ぶ道路に架かる「曽原(そはら)橋」の上から中央公園の台地を見る。

 台地へは信号を過ぎて真っ直ぐ登っていく。

「曽原」とは新生町内の小字名だが、「曽」に注目しなければならない。「曽の国」の「曽」であるとしてよい。と言うのも、実はここから台地に上がり、そのまま台地を横切って下りた所には肝属川沿いに「曽田」という小字があるのだ(町名は白崎町)。

 つまりこの中央公園舌状台地は、小字ではあるが、西を「曽原」、東を「曽田」という「曽」地名に囲まれているのである。「曽」は「熊曽(くまそ)」の「曽」であり、「熊曽国」は広く古代南九州をカバーした国名であるから、その中心地のひとつ「鹿屋(カヤ)」のさらにまた中心地がこの「曽」に囲まれた地域だったろう。

 中央公園舌状台地は、二本の川に挟まれた熊曽国の一つの中心「鹿屋(カヤ)」の聖地だった可能性が高い。325sakurachuuoukouen_008

信号から台地へ上がっていくと、平坦になった先に 鳥居と満開の桜が見える。

 鳥居の奥は熊野神社だ。325sakurachuuoukouen_014

参道の奥に鎮座する熊野神社。熊野神社の本宮は和歌山である。

 祭神は「イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ」だそうで、コトシロヌシはオオクニヌシの兄弟で親はあのスサノヲとされる。つまり出雲系でもある。

 和歌山にしても出雲にしても共に南九州とは「黒潮とその分流」でつながっている、ということも視野に入れておかないといけない。

さて、この熊野神社。創設の年代は不明だが、伴姓(肝付氏流)の鹿屋兼言の応永35年(1428)の建造棟札と、肝付兼続(かねつぐ=高山本家15代)の永禄6年(1563)の棟札があったとされるから、少なくとも580年前にはあったことになる。

現在の社殿はコンクリート製で、最近塗装しなおして明るくなった。社殿の左手に大きな木が柵に囲まれているのが見えるが、あれは「イヌマキ(ひとつば)」の大木で、県下でも最大級だろうと言う。325sakurachuuoukouen_015

根回り8メートル、高さは25メートルあり、根っ子近くの幹は、太い筋肉がむき出したようになっていて見ごたえ十分だ。

 これで樹齢300年だそうだが、本当にそんなものかと疑わせるほど迫力がある。325sakurachuuoukouen_010

熊野神社を出て、武道館前を通過すると「護国神社」がある。こちらはもちろん明治以降の創立である。

 社殿はやはりコンクリート製だが、鳥居は赤く塗られていない。

 (今日のブログの最初の写真は、護国神社の奥にある芝生広場で撮った桜)325sakurachuuoukouen_011

護国神社に向かって右手の道路際には「秋葉神社」がつつましく建っている。

 これは「火除け」の神様で、愛宕神社と同じくたいていは見晴らしの良い台地上にあるが、これも立地条件に適っているからおそらくは江戸時代からのものだろう。

 道路の先は下り坂で、鹿屋の中心部「北田、向江」につながるが、今日は秋葉神社と道路を挟んだ反対側にある急坂を下る(初めは階段になっている)。こっちの方が古くからの道なのである。325sakurachuuoukouen_004

下りきった所にある「安養寺」。

 曹洞宗・池上山・安養寺は慶長2年(1597)に、当地の領主となった島津久信によって建立された。

 久信は元垂水島津家当主だったが、肝付氏が滅亡したあとに代官として入部した島津一門の伊集院忠棟が、都城に栄転したあとを襲い入ってきた。

 だが、精神に異状をきたして肝属川上流の祓川に永蟄居させられ、そこで空しくなった人物である。その後鹿屋には島津氏腹臣の平田・伊地知・野田の三氏がはいって統治することになった。

 武士の信仰厚かったこの安養寺も、明治維新後の廃仏毀釈で灰燼に帰している。325sakurachuuoukouen_005

安養寺の隣りには鹿屋幼稚園があり、幼稚園の正門の奥の方に「八坂神社」が鎮座する。

 ここは鹿屋の六月灯の皮切りの神社で、鹿児島弁で言う「おぎおん(祇園)さあ」だ。

 八坂神社は「午頭(ゴヅ)天王」こと「スサノヲノミコト」を祭っている。

 「午頭天王」は「朝鮮半島由来の神で、さらに「祇園」は「シオン」であるから、八坂神社こと「祇園社」は朝鮮半島経由のユダヤ系の神を祭っている――などという「トンでも説」を唱える研究者のいる「おぎおんさあ」でもある。

 だがさっき指摘したように、公園台地上にスサノヲの子を祭る「熊野神社」つまり「黒潮つながりの紀伊と出雲」の元締めのような存在があったことを考慮すると、この八坂神社は同じく紀伊にも出雲にも縁を持つスサノヲを祭っているわけだから、その首尾は一貫している。

 これらを祭っていたのが南九州の熊曽こと隼人の前身である航海民「鴨族」であったろう。コトシロヌシは琉球国一ノ宮といわれる「波の上宮」の祭神「事解男(ことさかお)」と同じで、スサノヲの子孫でもっとも航海民性が強い。

 その西を「曽原」とし、その東を「曽田」として鹿屋中央公園舌状台地を聖地としてあがめていた「曽人(そびと)」は、鴨族としては朝鮮半島まで往来するほどの航海民でその首長「カモタケツヌミ」(京都・下鴨神社の祭神)は船団を率いて、いわゆる「神武東征」の以前に大和入りしている(『山城国風土記』)。

 (私見では次の「神武東征」の主は、魏志倭人伝に載る「投馬(そつま)国」の王「ミミ」であり、記紀の記す「タギシミミ」がまさにその本人であると考えている。詳しくは自著『邪馬台国真論』に記してある)

 日本の春の象徴である桜を観賞するだけのはずが、「とんでもない所まで」行ってしまった――。だが、春の戯れ言と思ってもらっては困る・・・。

 

 

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