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四国徳島の「邪馬台国説」などなど。

先々日、知人のS氏がやって来て「徳島の人で、邪馬台国はじめ魏志倭人伝に記された倭人国はすべて四国にあると言っている人がおり、その人はまた、剣山にユダヤの<契約の箱=アーク>が秘蔵されているとも言うんですが、どう思いますか?」ときた。

 「日本に失われたユダヤ10支族の一部が紀元前に渡来した――という説はよく聞くし、それがどうにも雲をつかむような話で、証拠は何一つないので、否定せざるを得ないよ。だから、無い話なのにそれを剣山に引き寄せて自論を展開した所で、所詮は<自己満足>、悪くすれば<狂信>だな。」

――それじゃ、邪馬台国四国説はどうです?

 「魏志倭人伝を正確に読み、朝鮮半島中西部の帯方郡から邪馬台国までの水行・陸行、日数、方角で表された行程記事を何一つ勝手に読み替えないでたどれば、九州島を出ることはないよ。つまり邪馬台国は九州にあったんだ。ただ、従来の九州説は<伊都国=糸島・前原市>とし、そこからは変えてはいけない方角を変えてしまった(東南陸行を東北陸行に)ために、畿内説と同じ過ちをおかし、畿内説が大手を振って<南を東に変えて、北部九州から東の畿内へ持って行っている>のを厳しくとがめられないでいるのさ。困ったもんだね。」

 その時はこんな話で、彼も引き下がったのだが、つい先日は『ムー』とかいう雑誌にあったと言って、やって来るや

――これ見てくださいよ。この前の<邪馬台国四国説>どころか<大和王朝の前身はすべて四国にあった>という説が載っているんですよ。どうなんですかねえ?

 雑誌を斜め読みすると、10ページくらいに亘って<阿波国史研究会><倭国(いのくに)研究会><古代阿波研究会>などの中心人物の話題が記されている。しばらく話を交わしたあと、その部分をコピーをさせてもらい、後日、考えをまとめてみるからと別れた。

 私が目を留めたのは、この『大和王朝阿波説と阿波風土記の謎』という論説を寄稿した著者の次の一文だった。

 ・・・邪馬台国はそれだけで古代史マニアを惹きつけ、熱狂させるテーマということだが、過激なまでの神秘的解釈と熱狂の度合いで、他の追随を許さない研究者が集まった地域といえば、阿波にとどめをさす。

 こういった熱狂的な研究者が、上に挙げた研究会を主催しているのだが、内容を読むと確かに熱狂的だ。狂熱的と言ってもよい。

 邪馬台国とユダヤのアーク渡来説については、もう済んだものとして横に置き、『大和王朝阿波説』についてだけ指摘しておきたい。

 この説を唱える岩利氏は、アマテラス(ヒルメ)を祭る神社があること、イズモという地名があること、隋書に書かれた倭国王の名(号)「阿輩鶏彌」を「阿波君」と読めること、また阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とあること――などから阿波こそは大和王朝の元の国である、としている。

 さらには、那賀川流域にあった「イズモ族」と、吉野川中下流域にあったヒルメ一族すなわち天皇族とが、吉野川上流域で出会い、もともといたニギハヤヒの一統(物部氏族)を女系に取り入れた天皇族がイズモ族をも従えることになった。その天皇こそは祟神天皇こと「ミマキ(美万城)イリヒコ」に他ならない、とする。

 つまりはイザナギからヒルメことアマテラスの誕生、イズモ族の恭順、大和王朝の誕生(祟神天皇)まで、すべて阿波国の出来事であった、と言う。いやそれどころか「天智天皇まで王朝は阿波にあった」のだから驚く。いや、驚きを通り越して呆れる。

 ここまで牽強付会が過ぎると、もう付いて行けない。

 記紀説話が記紀編纂時代の「偏向」により、「隠しておかなければならない史実」や「書き改めなければならない史実」や「誇張しなければならない史実」などが多々あり、そのことは記紀編纂の時代的要請があったからで、それを踏まえて記紀の文章を分析・検討・整理し、また考古学的資料などを参照しながら、史実を可能な限り客観視できるように読み取っていかなければならないことは、古代史・上代史(古代史以前)を研究する大前提である。

 思うに、四国は余りに記紀の記述から遠ざけられている。九州や畿内周辺の諸国、また中部地方に比べて、畿内に圧倒的に近いにもかかわらず、記載されること極めてわずかである(魏志倭人伝でも同じだ。もっとも倭人伝に関しては畿内も同じだが・・・)。

 そこのところが、四国の歴史研究者、とくに郷土史を研究する人々には何とも歯がゆいのだろう。まるで「シカト(無視)」されているような屈辱感があるのではないだろうか。そのコンプレックスが逆作用して、「熱狂的な四国阿波中心説」が唱えられるようになったのではないか。

 そこで思い出されるのが『古語拾遺』という「忌部氏の祭祀が余りに無視されるので、憤ってその思いの丈を吐露した神道論・歴史論」を展開した斎部広成(いんべのひろなり)のことだ。

 斎部広成は大同2年(807)、平城天皇二年に上記の書を著して、藤原氏(旧・中臣氏)の政治界のみならず神祇界における専横を厳しく糾弾している。もともとは天孫降臨に従ってきた五伴緒(いつとものお)の仲間(藤原氏は「天児屋根命」、忌部氏は「天太玉命」が始祖)であったが、律令制以降は藤原氏の専権の前にどんどん不遇となっていったのであった。

 同書は祭祀の面でいかに古例がないがしろにされ、自分たちが遠ざけられてきたかを「遺れることども11か条」を挙げて、綿々と訴えている。

 『古語拾遺』は神道論として、また記紀に漏れた史実を補うものとして、裨益するものが多々あるが、全体を貫くトーンは以上の様である。阿波は天太玉命の後裔「天富命」が率いて下った「天日鷲命」が国を治めたことから、「阿波忌部氏」が阿波の祭祀の中心となり、したがって斎部広成と同様に、中臣氏の後裔・藤原氏の専横がひどい大和王朝に対しては極めて批判的だった。

 『阿波風土記』なるものがもしあったとしたら、そのような反体制的な所論で貫かれていたであろうことは想像がつく。ある意味では完本の全くない『大隅風土記』『薩摩風土記』などもそういう類のものであったろう。しかし、今の世に出て来ていないものから歴史論は構築できようはずはなく、「大和王朝阿波(起源)説」は牽強付会の臆説と言うほかあるまい。

  ※以下のURLに「日本史のブラックホール・四国」と題して、上記の「何でも四国中心説」に対する詳細な評論(というか批判論)があります。参照されたし。

     http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm

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コメント

通りすがりで失礼します
魏志倭人伝の記述からすると九州説は無理があるかと思います
仮に九州に邪馬台国があったと過程すると
周囲は海に囲まれた島との記述がありますが、九州ではこれを把握することは困難ではないかと推定されます
また、「周旋五千余里」に関しては大きすぎますし、近くに丹「水銀」の遺跡も見当たらないのが現状です
どういう解釈で九州説がでてきたか、その判断のほうが邪馬台国より神秘的ですね

投稿: 通りすがり | 2012年6月 5日 (火) 20時14分

「通りすがり」さんからコメントで、邪馬台国九州説は無理、周旋五千里も九州では大きすぎる、丹の出土する遺跡もない、から九州説は有り得ない。
 との見解をいただいた。
 
 水掛け論になるかもしれないが、倭人伝の記述からこそ九州説でなければならないのです。

 ただし、大方の九州説では「伊都国」を糸島半島(前原市)としていますが、そもそもこれが間違いのもとだったのです。

 次の間違い―というか考え足らずなのが、海峡渡海一日説、つまり<水行千里=一日行程>に気が付かなかったことです。

 半島南部の狗邪韓国(金海市)から対馬までの80キロを「水行で千里」とし、対馬から壱岐までの60キロを「水行で千里」とし、壱岐から唐津までの45キロを「水行で千里」と、距離ではメチャクチャに違っている各海峡を、まったく同じ千里で表したのはどういうことなのか、に気付けば何のことはない。上記のように「水行千里=一日行程」という等号が成り立つのです。
 なぜなら海峡を一日のうちに漕ぎ渡らないで、途中で寝ていては早い対馬海流のこと、ずんずん日本海方面へ流されて行ってしまうのですよ。したがって各海峡は距離的にはどんなに違っても「一日のうちに渡り切らなければならない」のです。そのことを無理やり距離表記にして同じ「千里」と表現したわけです。

 私は今から45年前の高校2年生の時にあの有名な宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』に出会って以来、自分なりの邪馬台国を求めて呻吟し、25年後の40歳に入ったころ、「待てよ、伊都国が糸島半島ならなぜ壱岐から船で直接入港しないのだろう?」という疑問に遅まきながら逢着し、斯界の権威である安本美典氏に問いただすも返事はなし。
 くそっ!自分で考えてみせるぞ!と一念発起、魏志倭人伝はもとより「韓伝」をも精査して一応の結論に達したのがその十年後、今から十年前の平成15年で、『邪馬台国真論』とう本にまとめました。

 結論から言うと、伊都国は佐賀県小城市、邪馬台国は福岡県八女市(筑紫の君・磐井の本拠地でもある)、狗奴国は熊本県、そして投馬国は古日向こと宮崎県プラス鹿児島県の広大な地域(倭人伝によれば戸数5万戸の大国)と比定が出来ました。 
 投馬国が古日向(宮崎・鹿児島)と比定できたことで、神武東征とは「投馬国東征」のことであり、そのことは投馬国の王が「ミミ」、女王が「ミミナリ」であることと、神武東征前に大隅の阿比良姫をめとって生まれたのが「タギシミミ」「キスミミ」、そして東征後に大和で生まれた皇子たちがこぞって「ヒコヤイ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」」というように、ほとんどすべての王子に「ミミ」という語が付くこととは完全に整合していることに気付き、したがって神武東征は「投馬国東征」に他ならず、南九州からの大和への東征(東遷)は架空の話ではなく史実であると確信できたのです。

 興味があればホームページ「鴨着く島おおすみ」を参照してもらいたい。
 また、ブログに於いても邪馬台国論を記述しているのでこちらも参照のほどを。
 

投稿: kamodoku | 2012年6月 6日 (水) 22時29分

九州は絶対にないね(笑)それに東征も九州ではない。別けの国は根の国ではないからね。別けの国から根分けの国に東征することなどありえない。答えは根の国、簡単です。朱がないのがやはり致命傷です。

投稿: | 2015年2月 4日 (水) 16時44分

地質的にも火山で作物の不安定な大地に大きな文明が長期に存在するのには無理があります。
九州じゃないことはもっと調べればわかることです。
ただ、小国が乱立していた時代にある種の勢力があったのは事実だと思います。それこそ幕府当時の島津家のように。

投稿: | 2015年2月 9日 (月) 12時24分

 神武東征とは「南九州投馬国」からの東征で、これはおっしゃる通り火山灰土による(米の)生産性の低さにからの脱却、しかし当時、火山灰土うんぬんよりも、もっと差し迫った状況があったのだと思う。
 それは火山災害。このことは著書『邪馬台国真論』にも書いたが、台風の被害とあいまって南九州からの「移住」を決意した投馬国王がいたと考える。それが航海王こと「タギシミミ」でしょう。
 安芸(広島)のエノ宮に7年、吉備(岡山)の高島宮に8年も逗留したのは「東征」というよりも「移住」の面が強いと思う。
 ちなみに、吉備の倉敷の「船元貝塚」や「鷹島(高島)遺跡」から出土する縄文土器(中期)と同じものが、鹿屋市および隣接する大崎町から出土しており、相当古い時代から彼我の交流はあったことが判明しており、そのような海の交流は4000年も前から行われていたのですよ。
 このような交易する航海民の存在抜きには半島との交流も大陸との交流も有り得ず、南九州はさっき述べた火山災害・台風災害が頻発してきた土地柄ゆえ、海に生業をもとめ、瀬戸内海、朝鮮(対馬)海峡を物ともせずに活動していたのですよ。
 四国・畿内はその点自然災害からは自由な土地柄で、地域内安全保障条件が十分にあったため、他地域との関係では温和な交流でよかったのでしょうな。
 

投稿: kamodoku | 2015年2月15日 (日) 00時41分

九州説では卑弥呼を比定できず、あくまでも九州人による倭人伝の強引な解釈にしか過ぎない。九州説では何一つ記述と合うこともなく単なる、妄想による机上の空論でしかない。だいたい、九州人の妄想には呆れる。

投稿: 新宮 | 2015年5月18日 (月) 00時58分

半島南部の狗邪韓国(金海市)から対馬までの80キロを「水行で千里」とし、対馬から壱岐までの60キロを「水行で千里」とし、壱岐から唐津までの45キロを「水行で千里」と、距離ではメチャクチャに違っている各海峡を、まったく同じ千里で表したのはどういうことなのか、に気付けば何のことはない。

とあるが、全くもって何の根拠もないですね。
馬鹿馬鹿しすぎて呆れる。ド素人、小学生でも理解できる記述を曲解しているが。

そもそも比定地がまちがっているから、そういう解釈になる。というか、その程度の説じゃ中学生すら騙せないですよ。

それじゃ、水行20日は20000里か?
何故、水行1日と書かない?

陸の100里は何日?

簡単に論破出来てしまうよ。

投稿: 通りすがり | 2015年5月18日 (月) 02時25分

新宮氏と通りすがり氏のコメントが同じ日に来たので、まとめてリコメントします。
 新宮氏のは「九州人の妄想」と罵倒的な言い方をしているので失礼千万だが、私は九州在住だが、九州人ではない。「おらが邪馬台国・卑弥呼様」的な動機で研究して来ているわけではない。客観性をもっているつもり。
 通りすがり氏は以前に初めてコメントを寄せた時より、具体的に批判をしてきているのでリコメントしやすい。
 私の『邪馬台国真論』や大隅史談会誌『大隅』、そしてこのブログがリンクしているHP「鴨着く島おおすみ』を見るか読むかしてもらえば分かるように、帯方郡からの距離表記による行程で邪馬台国までの「1万2千里」と日数表記の「水行10日、陸行1月」とは同値。
 つまり水行の10日は距離表記では1万里。これにより邪馬台国への「1万2千里」(水行10日、陸行1月)のうち、1万里が水行で、残りの2千里が陸行だと分かる。
 また水行20日は距離表記では2万里で、これは帯方郡から投馬国(古日向=南九州)までのもの(帯方郡から末廬国まで水行10日=1万里プラス末廬国から水行10日=1万里で投馬国)。
 以上は「海峡渡海1日を千里と表記した」ことが分かれば解ける(中学生くらいのほうがこの計算は理解できるし、伊都国が糸島でないことも了解してくれるよ、素直だから)。
 陸行の1日が何里に当たるかだが、水行の1日とは同値にはならない。つまり距離表記の千里では有り得ない。歩くのと水の上を走らせるのとでは相当な違いがあることはボートを漕いだことのある人なら(漕がなくても岸から観察するだけでも)よくわかるはず。その比を求めて云々して話を小難しくすることも可能だが、末廬国から邪馬台国までの陸行2千里が日数表記で1月となっていることから逆算して2千里割る30日(1月)で「70里」とでる。この70里が1日行程かというと、現実には雨の日あり、川の増水ありで実働は1月のうちの20日とみて、2千里割る20日から「100里」と考える。
 末廬国からの陸行の基本単位が「100里」と表記されていることからも、このことは正しいと思う。
 また、通りすがり氏はさかんに「朱(丹)」のことを取り上げて、「四国・畿内にはあるが九州にはないので、九州説は有り得ない」と論断するが、倭人伝では何も「邪馬台国内に朱丹が出土する」とは言っておらず、「倭の地は温暖、・・・朱丹を以て其の身体に塗る。」と「倭地」としてあるので、九州にいる倭人が四国や畿内地域から交易活動により「朱丹を輸入」して身体に塗っていて何の不思議もない。そのくらいな海上交易はすでに縄文時代中期に九州の端から端まで「黒曜石」の交易活動をしていた南九州倭人にとって造作もないことであろう。

 以上がリコメントであるが、新宮氏にしても、通りすがり氏にしても、もう少し他説への誹謗のような言い方はやめて、まだまだ学ぶことが肝要である。
 
 
 

投稿: kamodoku | 2015年5月18日 (月) 12時39分

邪馬台国がなぜ魏志倭人伝に登場したかといえば、当時の日本列島唯一の大国だからとかいうわけではありません。
単に中国と交易を持っていたからです。それは経済力を持っていた証にもなりますが、元々は日本国内で最高または唯一の航海術を持っていたからでしょうね。最初はこちらから接近してるのですから。
それならば、日本の各地にそれなりの痕跡を残しているはず。
私は海部氏を推す。

投稿: 通りすがり | 2015年5月18日 (月) 15時58分

通りすがり氏へ。
 別に邪馬台国自身が海運を保有していなくても、海運に長けている他国(他部族)に依頼してもいいわけですよ。
 ちなみに海部氏の始祖はアメノホアカリで、これは古事記の天孫降臨神話では日向に天下ったニニギノミコトの兄と云うことになっていて、どちらも南九州に関係があるのです。
 南九州(古日向)は上にも書いた通り、海運に長けており、邪馬台国のすぐ南に位置する狗奴国と違って邪馬台国とは友好関係にあったと考えるので、南九州海運族すなわち「鴨族」が朝鮮半島との水運を担っていた(請け負っていた)として何ら齟齬はないでしょう。
 なにしろ南九州海人(市来式土器人)は縄文時代の中期(4000年前)には九州一円との海路を持ち、南海遥か屋久・奄美と交易をしていたことが分かっているので、朝鮮半島へもほぼ同時期に行っていた可能性さえあり、それからはるか下って2000年前になれば、朝鮮航路を開拓していて何の不思議もないのです。
 いずれにしても朝鮮半島・大陸との交流・交易が海運なくして成り立たないのは中学生でも十分にわかることで、この担い手は誰だったのかを十二分に考えることをお勧めしますよ。

投稿: kamodoku | 2015年5月18日 (月) 20時19分

千里を1日とする根拠は何なんでしょうか。他に資料が存在するのなら参考になりますが、貴殿が考えたことでは参考になりません。やはり机上の空論でしかないようですね。

投稿: 通りすがり | 2015年5月28日 (木) 15時53分

通りすがりさんの最初のコメントへのリコメントの中で説明してあるのだが・・・。
 もう一度言うと、半島の帯方郡から邪馬台国まで「1万2000里」と陳寿は書いている。このうち1万里は帯方郡から半島最南部の狗邪韓国までの水行7000里と狗邪韓国から対馬海峡を渡って末廬国までの水行3000里を合計したもの。つまり1万里は水行の行程であるということ。ここまで異論はないはず。
 このあとの部分、各1000里で合計3000里と書いてある対馬海峡は対馬と壱岐という飛び石により三分割されている。そのそれぞれの距離は北から80㌔、60㌔35㌔と全く違っている。それなのに同じ距離「1000里」としてある。誰でも(小学生でも)ここは首をかしげる。
 私もそうだった。それではたと気づいたのが「所要日数」が同じということではないか、と。では何日かと思ったら「一日」と解けた。当たり前の話で、海峡を渡るのに途中で寝る(船内泊)をするわけには行かない。だから一日で渡り切らなければならないので「一日」。(海峡渡海一日説と名付けておく)
 陳寿が行程をすべて日数で書いてくれれば、後世のわれわれが悩む必要はなかった。
 でも、陳寿は「南至る邪馬台国。女王の都するところ。水行10日陸行1月」とも表現してくれた。この「水行10日」が上記の帯方郡から末廬国までの10日に該当する。
 この「南至る・・・」の部分を、投馬国からの行程と考えるのが通説だが、不彌国から投馬国への行程に移る際、それまで末廬国から不彌国までの行程はすべて「~里」と書いているのに急に「(南へ)水行20日」と日数表記になっていることに気付けば、投馬国にしろ邪馬台国にしろどちらも帯方郡からの日数表記となる。
 すると帯方郡から邪馬台国までの「1万2000里」という距離表記と「水行10日陸行1月」という日数表記は同値ということが言える。
 陳寿がすべての行程を日数で書いてくれれば何のことはないのに、正史に載せるということで中国伝統の距離表記にしてしまったのですな。でも言わば「両論併記」してあったので、以上のように解読ができたのですよ。
 したがって帯方郡から末廬国(唐津)までの1万里(水行10日)の後は、陸行1月でたどり着くところ、そこが邪馬台国であるということになり、邪馬台国が九州島を出るということは有り得ない―こう結論されるのです。
 (投馬国も同様に「水行20日」は帯方郡からの日数で、末廬国からさらに10日船で南に下った南九州(戸数5万戸の大国)すなわち古日向のこと。投馬国の官(王)をミミというとあり、ミミは古日向から東征したとされる神武天皇の息子「タギシミミ」「キスミミ」(古事記)と一致している。)

投稿: kamodoku | 2015年5月28日 (木) 21時22分

ご存じとは思うが、

元々が籠神社の極秘伝で、歴代当主以外に見せる事を禁じられていた事柄ですが、
先代宮司の海部穀定氏が『国宝、海部氏系図』や『海部氏伝世鏡2枚息津鏡・邊津鏡』を公開

さらには、籠神社の
極秘伝をまとめた書物
『元初の最高神と大和朝廷の元始』を表し、世に問うたことから、古代日本、
とりわけ邪馬台国と海部氏との関係が大きく取り沙汰されるようになりました。

籠神社の海部氏の持つ秘伝では
但馬周辺の国々は、もともと魏志倭人伝で言うところの投馬国だと暴露しました。

さて、この「海部氏系図」には二人の「大倭姫(おおやまとひめ)」が記載されています。

一人は始祖である天火明命の六世孫の「宇那比姫(うなびひめ)」別名として「天造日女命(あまつくるひめみこと)」「大倭姫(おおやまとひめ)」「竹野姫(たかのひめ)」「大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)」「日女命(ひめみこと)」。

もう一人は七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」 一云 豊受姫 荒魂命 一云 大宜都日女命
伊勢神宮外宮に奉祀される豊受大神の荒魂であり、大宜都比売神のことであるとの記載です。

上記の大倭姫、別名、日女命が卑弥呼だとすると

卑弥呼の次代を受けた「臺輿(トヨ)」が「豊受姫」として当てはまってしまうのです。

これで決定でしょう。

投稿: 通りすがり | 2015年5月29日 (金) 00時50分

通りすがりさんは、単なる「通りすがり」ではないようで・・・。
籠神社の社家・海部氏はここ(丹後・但馬)が投馬国である―と云うそうだが、そうなると一般説のひとつ「九州島の不彌国から海路・日本海沿岸に沿って行き、水行20日の出雲が投馬国であり、さらに水行10日で丹後か若狭あたりに上陸し、陸路で一ヶ月の大和地方が邪馬台国である」という日本海航行説のとも違うわけですな。
 投馬国が籠神社のある丹後であるとすると、そこからさらに水行10日し、陸行一ヶ月していったいどこが邪馬台国だというんですかな?籠神社からさらに水行10日だと九州島から丹後の籠神社まで20日だから、その半分の距離というと石川県の金沢あたりの海岸まで行くが、そこから一ヶ月歩いたところというと・・・???
 日本海水行説を採るのであれば、まず、そこをクリアしないといくら系図に「大倭姫」(別名・日女命)が出てくると言い、そっちのほうから卑弥呼を探したとしても「付会の説」と言われても反論できんでしょう。卑弥呼は確かに「姫子」であり、姫は「日女」とも書くわけで、これは固有名詞ではなく一般名詞であって、こんな名ならどこの系図にも見つければある範疇の名じゃないですか。豊受姫が次世代にいると言ってもこの系図では別名「大倭姫、大宜都日女」ともあって、どっちとも取れる書き方をしている(前代の大倭姫もだが)のは、後世的付会を自白しているようなもの。信用できない。
 いずれにしても邪馬台国論の基本は、まずは魏志倭人伝の記述通りの行程にしたがって場所を決めるというのが常道ですよ。
 ひとつ付け加えたいのが、丹後の宮津は実は瀬戸内海と加古川―由良川の水運でつながっていたこと。加古川の「加古」(かこ)は応神天皇紀によれば、古日向の諸縣君牛諸井という水運系(水主=カコ)の豪族が瀬戸内海を航行し、立ち寄るところだった。それで地名が「カコ」になったと云うとある。この川をさかのぼると上流部に「鴨」と名の付く地名が多く(これも「カコ」の転訛)、そのあたりからほんのひと山越えると今度は由良川水系に入り、川を下れば由良川河口の宮津湾に入りそこに籠神社があるわけですな。(籠と書いて「この」と読むのだが、普通に「かご」と読めば「かこ」であり、「鴨着く島・鹿児島」との関係も見えてくる。宮司家の始祖が古日向と関係のある「アメノホアカリ」であればなおさらである)。

投稿: kamodoku | 2015年5月30日 (土) 10時19分

言わずとしれた、酷書である「三国史記」の「新羅本記」を参照すれば、倭人伝の景初二年六月(西暦239年)に遡ること65年「卑弥呼」の記載が現れているのです。
阿達羅尼師今二十年(173年)五月
「二十年夏五月倭女王卑弥呼遣使来聘」

これはどういうことなのでしょうか?
卑弥呼が65歳以上80歳とか90歳とかの高齢を保って、倭国王の地位を守っていたのでしょうか?
誰でもそうじゃないと思いますよね、真っ当に考えれば「卑弥呼」というのは一人の人間のことではなく倭国女王の地位であるとか、階位、あるいは尊称であった可能性が高いのではないでしょうか。
もう一点「魏志倭人伝」に下記の記載があります。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 

「名付けて卑弥呼という」、解説するまでもなく「卑弥呼」と「名付けられた」のです。
つまり卑弥呼は一人ではなく世襲によって受け継がれてきた地位であることが言いたいのだと思いますよ。

投稿: 通りすがり | 2015年5月31日 (日) 22時47分

通りすがりさんへ。
 私の持っている『三国史記』(東洋文庫372。井上秀雄訳注。平凡社刊)の第1巻「新羅本紀」によると、たしかに第8代・阿達羅尼師今の条に「20年、夏5月、倭の女王卑弥呼が使者を送って来た」とあり、西暦では173年となっているのは間違いない。
 これについて通りすがりさんは173年に女王になっていた卑弥呼が、景初3年(238年)に今度は魏に使者を送っているが、それは有り得ない、いくらなんでも長生きし過ぎではないか、と考えているようだけれども、『倭人伝』によると
 「その国もとまた男子を以て王と為しとどまること7,80年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す、名づけて卑弥呼という・・・」
 とあり、邪馬台国を含む倭国内部で騒乱が続いたが、卑弥呼を立てることで収まったように書かれているわけですが、この時の卑弥呼の年齢が卑弥呼の後を継いだ「宗女・台与」がわずか13歳であったことを考慮すれば、同じくらいの年齢であったとしてもおかしくないでしょう。
 倭国内部の争乱が仮に170年頃に収まり、173年にその卑弥呼が新羅に遣使したとすると、その時点で卑弥呼の年齢は15歳くらいであったと考えても想定内で、238年に魏に遣使の時には80歳になっていたことになり、これも『倭人伝』の記す、「その人(倭人)たちは長生きで、或いは百年、或いは8・90年生きる」という記事と整合するのですよ。
 したがって新羅本紀や倭人伝に描かれた「卑弥呼」は当時の(2~3世紀の)邪馬台国のただ一人の女王(固有名詞)であったことになります。そうでなければ「台与」も「卑弥呼」と名付けられていなければならなくなるのですよ。

投稿: kamodoku | 2015年6月 1日 (月) 21時50分

しかし、後漢書を見ると
桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 桓帝と霊帝の間146-189年となっておりすでに年長なのだが?

投稿: 通りすがり | 2015年6月11日 (木) 02時15分

 『後漢書』は三国時代より前の後漢時代のことを記しているのだが、実際は『三国志』より後に、三国志などを下敷きにして「倭伝」が書かれたことは中国史研究者が明らかにしており、「桓・霊の間に倭国が大いに乱れ・・・」は後漢書だけの表記で『三国志』への付会だというのが定説ですよ。
 

投稿: kamodoku | 2015年6月11日 (木) 22時55分

台湾人の張明澄が漢文を読めない日本人は魏志倭人伝を誤読していると指摘。邪馬台国は鹿児島の出水~阿久根近辺と。

投稿: | 2015年7月 6日 (月) 11時46分

張明澄『誤読だらけの魏志倭人伝』によると、邪馬台国はお説の通り鹿児島県出水市。投馬国は薩摩半島。そして狗奴国を霧島山の東、つまり出水市の東に位置する宮崎県域としている。
 ここでは彼の行程論については目をつぶるにしても、「狗奴国は女王国連盟域の南にある」という倭人伝の記事をまったく無視しているので論外となる。
 ただひとつ正論があるとすれば、伊都国をほとんどの邪馬台国論者が糸島市に比定するところを「糸島ではない」と言っていることだけである。また彼は伊都国は伊万里市(末廬国)に上陸して東南に歩いた佐賀県藤津郡塩田町だと言っているが、これも有り得ない。

投稿: kamodoku | 2015年7月 6日 (月) 20時59分

魏志倭人伝も魏略の付会が定説だが? 後に書かれたということは訂正が妥当。
後漢書には狗奴国は東だと訂正している

投稿: 通りすがり | 2015年7月 8日 (水) 14時13分

通りすがり氏は投馬国は但馬{宮津)、そこから南(実は東)へ水行10日陸行1ヶ月で邪馬台国としたいのではなかったのか? 宮津から南(実は東)へ水行10日で金沢・能登半島あたり、そこから南(実は東)へ徒歩1ヶ月とすると邪馬台国はどこ? 越後のどこかなのか。そしてその東(実は北)が狗奴国なら狗奴国はいったいどこなのか? 海の中の蜃気楼になってしまわないか。
 後漢書は時代的には魏志倭人伝より前のことを書いているが、編著者の范曄(~445年)は三国志を編纂した陳寿(~297年)より150年もあとの人物で、倭(東夷)については魏志倭人伝等を参照した―というのが定説になっている。
 邪馬台国はじめ投馬国等、狗邪韓国から女王国の南に位置するとしている狗奴国まで全部で31か国を具体的な名で書き記しているのは魏志倭人伝だけである。つまり邪馬台国問題といえば魏志倭人伝を離れては意味がないわけで、あくまでも魏志倭人伝の範疇でその位置なり国情なりを考察して行かなければならないのである。
 私の考察はその範疇で行い、結果も出ている。あれこれ迷う必要はない。※ただ一つ、他の資料を引用したとすれば『隋書』で、「倭人は夷人(野蛮人)なので、距離を知らず、日数で二地点間を表している」(意訳)という点だけである。

投稿: kamodoku | 2015年7月 8日 (水) 21時02分

張明澄について詳しくご回答ありがとうございます。
彼は歴史学者ではなく魏志倭人伝を中国人(台湾人だが)が読んだら、至るの意味が異なることから誤読であり、方角的に阿久根方面としたようです。

彼の解読と他の古文書等からも邪馬台国畿内説派ないのはわかります。北部九州が間違いないと思われますが出水も出雲と似た発音です。薩摩半島、川内から下が狗茄国の可能性はないでしょうか。大隅はどうなんでしょうか。最近重要な遺跡が出土してますが。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 17時58分

大隅は713年に宮崎と鹿児島を領域とする「日向国」(大隅国分立後の新日向=宮崎県ではない)から分立されて「大隅国」となったが、宮崎と鹿児島を領域とする日向を新日向に対して「古日向」と名付けると、この古日向こそが「投馬国」だった。
 倭人伝では投馬国の官(一応は女王国連盟に属していたので官=女王国の一官吏、とされているが実際は投馬国王)をミミと言い、副官(実際は投馬国女王)をミミナリと言ったとあり、このミミ(投馬国王)で東征したのが記紀に載る「タギシミミ」だった。
 ここから記紀の記述は信用できると考え、以来、記紀を深く学ぶようになった。
 出水と出雲は他人の空似で、狗奴国は女王国とは南で接している今日の熊本県域で間違いない(ただし、菊池川の右岸側=北側にある玉名市は女王国連盟の一員であったと考える)。
 出雲は「伊都奴(いつな)」(厳=いつ、で武力に秀でた、という意味)で、北部九州で大倭と戦って敗れた「オオクニヌシ」(別名:八千矛の神)を首長とする土着倭人であったと考えており、敗れたあとは今日の出雲に流された。オオクニヌシを祭る出雲大社が西向きなのは本貫の北部九州を偲んでのことだろう。
 オオクニヌシの子にコトシロヌシとタケミナカタがいたが、タケミナカタの方は信州に逃れて行き、諏訪大社に祭られた。コトシロヌシは「入水した」(自殺した)ように書かれているが、実は南九州にやって来たらしい。それを先導したのが南九州、つまり投馬国の航海民(鴨族)で、コトシロヌシの後裔はのちに大和の葛城地方に移住したようである。
 葛城地方にある出雲系の鴨都波神社(祭神:鴨都味波コトシロヌシ)や高鴨神社(祭神:アジスキタカヒコネ)などの延喜式内社の存在がそれを裏付けている。
 以上、南九州古日向(投馬国)と大和地方との関係は「神武東征」的な史実があったことを証明しているのである。

投稿: kamodoku | 2015年7月11日 (土) 20時42分

丁重なご説明ありがとうございます。
大隅岩川の弥五郎どん(都城、日南同様)は熊襲の首長とも竹内宿寝とも言われてます。熊襲=渡来系と思っていますが、その竹内宿寝は曽我氏の祖であり、葛城氏の祖でもあると言われていることから事代主が南九州に来たとの伝承とつながる気がします。また、岩川の近くの末吉には諏訪の地名、住吉神社もあります。大隅の古墳と西都原や生目古墳とはつながりがあるんですか。

神武東征の碑は宮崎県日向市の美々津が有名で、ここが神武東征地と定説化してますが、大隅にも福山町宮浦、東串良町柏原にもあります。どうして幾つもあるのでしょう。どれが本当でしょうか。柏原の戸柱神社の祭神はスサノオで九州支配の拠点だったと。どういうことでしょうか。

稲作は中国の揚子江、淮河=江淮から伝わった模様ですが、同じく倭人のルーツもこの近辺の呉越と思われます。朝鮮半島南部を倭人が支配していたとの記述はこの倭人で、彼らは日本に渡り、土着の縄文人達を支配し融合していった。いわゆる縄文人の弥生化と思われます。その縄文人は国津神で出雲系、弥生人は天津神で大和系と考えていいのでしょうか。

先に大和へ移動した弥生系が土着の縄文系を支配したのが大和王朝で、神武東征もその役割を担ったのでしょうか。

投稿: | 2015年7月12日 (日) 10時21分

高速道建設で大隅から続々重要な遺跡が出土していますが、学会は大和からの贈り物とか交流があったのだろうと取り上げようとしませんがなぜでしょう。こんな田舎からこんなものが出るはずがないと言った学者もいましたが、それは今の感覚でしょう。紀元前は大隅、薩摩が大陸の玄関口であり進んでいたと思いますが。

投稿: マニア | 2015年7月12日 (日) 13時48分

 最初の名無し氏へのリコメント。
 範囲が広すぎる質問だが、最初の二段落については「古日向」(宮崎・鹿児島両県域)が倭人伝の「投馬国」であることからすれば、同じ「国内」なので同じような古墳状況があって何の不思議もない。また武内宿祢は応神天皇紀に出てくる「諸県君牛諸井(もろかたのきみ・うしもろい)」のことと考えられる。「牛(うし)」の意味は「大人」のことで、曽於市大隅八幡神社の祭礼に登場する弥五郎は「大人(おおひと)弥五郎」との俗称があり、「うし」(大人=牛)は本来は「首長」の意味なのだが、「大人」が漢字の音に引きずられて「たいじん」から「おおひと」つまり「巨大な人物」と変化して今のような5㍍近いフィギュアになったものと考えている。
 米作りについては弥生時代の中期(およそ2000年前)までに、日本列島の本土最北の青森県まで栽培が確認されているので、この時代に米作りによる国土形成が確立したものと思われる。ただし、あくまで国土形成であって国土支配ではなく、政治的というよりは経済文化的な共有感覚の滲透だったと思われる。この際に衝突したのがいわゆる天孫族(ニニギ)と葦原中津族(オオクニヌシ)で、それが渡来系弥生人と在来縄文人との衝突と単純化できるかは分からない。
 3000年前に縄文系倭人と思しき者が大陸王朝の周の二代目成王に貢献したりしているし、半島にも縄文系倭人、中でも航海民である鴨族や宗像(胸形)族などが国らしきものを造っていたからである。縄文系航海民なくしては大陸へも(からも)、半島へも(からも)文物・人物を運搬することはできないわけで、かれら縄文人航海民こそが米作りを列島に広めた貢献者であったかもしれない。
 南九州(投馬国)の航海民を鴨族というが、いわゆる弥生人系か縄文人系かと言われれば基層は縄文系だが、航海交易による文物の取得や人的交流で一般的な土着の縄文人よりかは早くに混血を繰り返していたであろうし、大陸の特に秦・漢王朝の中央集権的な政治体制などもいち早く学んでいたとも思われる。
 したがって米作りによる国土支配という考えに目覚めるのも早かった(ニニギの降臨ではコメを撒いたら明るくなったという伝承もある)のだろう。ところが南九州は火山地帯で水田を開いても生産力が乏しく、おまけに毎年秋の台風禍があって思うように国造りが進まず、ついに「東のうまし国」への東遷となった。その中心人物こそ投馬国王タギシミミだった。
 この点について最近新しい知見があった。高知大学の地質学の教授が、2000年前に「南海トラフ由来の大地震があり、巨大津波が高知、和歌山を襲った」痕跡が出たという。とすれば日向灘にも大津波が押し寄せたはずで、大隅半島部から宮崎県の海岸平野一帯は壊滅的な被害をこうむったろう。同じ2000年前の鹿屋市王子町の「王子遺跡」があるが、標高40mのシラス台地上に立地しながら、米の倉庫と思われる「棟持ち柱付住居」(伊勢神宮の原型と言われてもいる)が数軒、そのほか掘っ立て柱住居跡が30軒ばかり発掘されたのだが、下の川沿いの田んぼ地帯にではなくなぜあのように高い所に集落が営まれたのかかねてからの疑問だったのが、ようやく解けたように思っている。
 神武東征とはこのような南九州(投馬国)から避難せざるを得なかった投馬国人の「民族移動」の側面を持つ。武力による進撃でなかったことは、安芸国のエノ宮に7年、吉備国の高島宮に8年、それぞれ長期滞在したことでも分かるだろう。

 マニア氏へ。
 ここ5、6年くらい弥生・古墳各時代の発掘で、大隅では相当進んだ遺物が出ており、つい最近でも宮崎県えびの市の隼人特有と言われる「地下式横穴墓」で一つの墓から大王の存在を髣髴とさせる鉄製鎧が二つ、馬具などがまとまって出土して世間を驚かせた。もっとはるかに古く、国分の上野原遺跡からは7500年前の「縄文の壺」が出土して、考古学の概念をひっくり返したのだが、いまだに中央の学者たちは「何かの間違いじゃないか」とまともに取り上げようとしていないようだ。
 文化の中心地は歴史的には畿内、近代以降は東京であり、何でもそこが先行していたとする「文化の周圏論」とかいう催眠術にかかっているのだろう。古い物が見つかっても「それは中央ではすでに廃れているものが遠方の遅れた地域ではよく残っている」というものだが、困ったことに地元で歴史を学ぶ人たちまでが、二次催眠にかけられていることだ。
 哲学者の和辻哲郎は「列島の文化では、西から東へ大きな力が働いた」(要旨)と言っているがその通りだろう。2000年以上前は九州が先進地で、なかでも大陸・半島との交流・交易に必須だった船足を確保していた北部九州航海民(宗像族)や南九州航海民(鴨族)は物質文化も精神文化もともに先進的だったろう。
 

投稿: kamodoku | 2015年7月12日 (日) 17時14分

負け組の大隅ですからそう思うの仕方ないし、そう思わせるよう勝組の藤原等が歴史を破壊しねつ造してきたのでしょう、
戦後にGHQの手法と似ていますが、よく考えると欧米が日本の歴史を研究して藤原、秀吉、家康の政策を真似たかもしれません。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54324876.html
呉の鯨面分身ですが魏志倭人伝にも出てきます。似てますね。

話変わりますが、沖の島が世界遺産候補になりました。半島、邪馬台国とも繋がりのある遺跡です。究明されることはいいですが韓国に利用される向きもあるようです。明治産業革命遺産など政治力での決定です。その裏にあるものを知る事です。ますます日本の未来は厳しいですね。

投稿: マニア | 2015年7月31日 (金) 18時08分

 負け組の大隅とは、ズバリ言ったもんだ。
 大隅の「負け方」は養老4年(720)の画一的中央集権を推し進める大和王朝への大規模な叛乱で敗け、以後「鴨族」としての半島における権益は絶たれ、「隼人=辺境の南九州異人雑類」として貶められるようになったのだけれども、中世の島津軍団を経て徳川政権下では逼塞を余儀なくされながら、ついに明治維新の活躍となって「勝ち組」に復帰した。「人間万事塞翁馬」ということで・・・。
 もっとも西郷さんはその「勝ちさび」を嫌い、もう一度維新をやり直そうとしたが、時すでに遅しで文明開化のパンドラの箱が開いてしまっていた。あたら6000名の有能な旧隼人軍団は長州藩が中心になって組織化した西欧風の陸軍の前に壊滅してしまった。
 その後の大日本帝國は欧米化に邁進し、追い付け追い越せで頑張り、さらにその上を行く理念を追求しようとして英米仏蘭にしてやられた・・・。
 話が飛躍したが、・・・英米などが日本の歴史を研究してその手法を取り入れたなんてことは有り得ない。彼らは高飛車で有色人種を差別していたからそれは有り得ないだろう。(戦勝が目前に迫って「菊と刀」(ルースベネディクト)を纏めさせたくらいなことはあったが・・・。)
 戦前は日本人が欧米で研究者にでもなると欧米人と同列になったなどと思うのだが、結局、差別待遇は変わらず、幻滅して帰国し「反欧米」になる例が珍しくなかった。日本人がユダヤ人に同情するのもそこだろう。ユダヤ人は欧米に溶け込んで生活しているにもかかわらず、キリスト教的反ユダヤ思想は根強く、この点で日本人と同じじゃないか―と云うわけである。
 南九州隼人は「神武東征」の栄誉を担っているので、そこまでの差別はなく、むしろある意味で(特に宗教的に)畏敬の対象だった面もあるのだが、中央の学者は「在地構造」などという経済的側面を強調し、「辺境蔑視観」から抜けていないのが残念だ。
 

投稿: kamodoku | 2015年7月31日 (金) 20時47分

投稿を含め、大変興味深く読ませて頂きました。
参考になるかどうかわかりませんが、神戸の高校数学教師が邪馬台国説を自費出版し、その中に
以下の自説を述べられています。「隋書倭国伝」に「夷人、里数を知らず。ただ計るに日を以ってす。」すなわち、魏志倭人伝に里数で記載しているのは魏使自身行った所、水行・陸行で日にちで書いてあるのは倭人の云った言葉、魏使は行かずに伝え聞いた事。従って、東南に五百里で伊都国、東南に百里で奴国、東に百里で不弥国、これらは魏使の実地調査したところ。南へ水行二十日で投馬国、南へ舟で行けば十日、歩けばひと月で邪馬台国。これは倭人が述べた事。魏使の行った里程と倭人の云った言葉を並記、夷人、里数を知らず。ただ計るに日を以ってす。を記録しています。私はこの説は目から鱗に思えました。「海峡渡海一日説」は理にかなっていると思います。

投稿: himikuko | 2016年2月16日 (火) 21時04分

himikukoさんへ。
 隋書の記事によれば、当時の倭人は距離ではなく日数で行程を表現していたのは間違いありません。
 問題は距離で表したところは魏の使いの報告をもとに、史書に彼らなりの(つまり史書の読者である皇帝の)「距離」観を採用したことで、これによって行程が実に判りづらくなったこと。
 しかし対馬海峡の行程(海峡間をすべて千里で表したこと)ですべてが解けたのですよ。
 もっとも「海峡渡海一日行程説」は私のオリジナルかと思っていたら、糸島の考古学研究を先導した原田大六はすでに40年も前に考えていたようです。ただし、原田は「一日で渡らなければならないが、必ず3~4日は波待ちをしたであろうから・・・」と余計なことを導入してしまい、正確な行程論から外れてしまったのは惜しいことだった。(だが、彼は糸島=伊都国説なので、すでに誤謬に違いないが・・・)。

投稿: klamodoku | 2016年2月16日 (火) 22時04分

加治木よしひろ氏が沖縄と大隅の言葉、特に母音変化、ア
イ → エ への変化等が似通っていることから、沖縄の言葉で古代史は解明すると主張。邪馬台国は霧島市隼人の姫城、大隅は天皇家の出自と。

投稿: どしろうと | 2016年6月12日 (日) 08時15分

「あい」が「え」になるのは朝鮮半島でも同じで、「大邱」(漢音ではダイキュウ)は「てぐ」となる。
 沖縄と九州も縄文時代はほぼ「あいうえお」ではなくて「あいう」だけだった(「え」は「い」になり、「お」は「う」になる)。
 古代史の解明はやはり記紀をどう読みこなすかにかかっている。記紀を戦後の史学者は捨ててしまった(私はこれを「皇国史観に染まりすぎて汚れてしまった水だけを捨てればいいのに赤ん坊まで捨ててしまった」と表現する)が、記紀のうち特に日本書紀は朝鮮半島の南半分(いわゆる「三韓」)と九州島を中心とする倭人史をずいぶん詳しく書いている。
 これを無視するから奈良時代以前の日本史はとりとめがなく、訳が分からなくなっている。
 邪馬台国は九州島を離れては存在しないが、大隅は薩摩・宮崎とともに「投馬国」であった。そして菊池川以南の今日の熊本県が「狗奴国」、邪馬台国はその北にあり八女市こそが邪馬台国(女王国)。
 残念ながら霧島市(旧国分市)姫城は邪馬台国ではなく、「投馬国」(古日向)の一部でしかない。「姫城」(ヒメギ)の「姫」は投馬国王統に属する姫であろう。
 この投馬国から最初の「神武東征」が行われた。二番目は九州北部の「大倭」で、『先代旧事本紀』でもそう解釈するほかない記述がある。
 二番目の「神武東征」は実は「崇神東征」で、この王権は最初の投馬国王権における最後の王「タケハニヤス」と妃の「アタヒメ」を打ち破って新たに王朝(イリ王朝)を開いている。
 

投稿: kamodoku | 2016年6月14日 (火) 22時34分

阿波は天太玉命の後裔「天富命」が率いて下った「天日鷲命」が国を治めた。
間違いです。

投稿: | 2016年10月13日 (木) 16時05分

古語拾遺は私も昔読みました。
江戸期の古文書も所持しています。
最近はPDFで一般公開されているので
良い世の中になりました。

福山町の「太玉神社」や国分広瀬の「大穴持神社」繋がりで
ちょっと調べましたっけ。。
一昔前の事で記憶も途切れがちですが。。

伊予國風土記逸文

にはちょこっと大国主関連があります。

この辺りは、「大穴持神社」のページに
津軽より勧請の伝承らと掲載しています。

投稿: 今井より | 2016年10月31日 (月) 21時22分

古語拾遺は私も昔読みました。
江戸期の古文書も所持してす。

福山町の「太玉神社」や国分広瀬の「大穴持神社」繋がりで
ちょっと調べましたっけ。。
一昔前の事で記憶も途切れがちですが。。

伊予國風土記逸文

にはちょこっと大国主関連があります。

この辺りは、「大穴持神社」のページに
津軽より勧請の伝承らと掲載しています。

投稿: 今井より | 2016年10月31日 (月) 21時24分

今井さんへ。
 阿波の忌部氏後裔は斎部広成を中心とする誇り高い氏族ですが、同じ「五伴緒」として天孫に従いながら中臣(藤原)氏の繁栄(専横)を遠くから見ている他なく、そのうっぷんが古語拾遺を書かせたものと思っています。
 讃岐にいた永原氏(忌寸)が惟宗姓になっていますが、この「惟宗」は古語拾遺に書かれている「天照大神は惟れ祖にして惟れ宗」(天照大神は祖(先)であり、宗(教え)である)の後の方の「惟れ宗」から採ったものというのが持論です。
 この「惟宗」は言わずと知れた島津氏の旧姓でして、斎部広成が切歯扼腕した平安時代初期から400年後に、藤原氏の貴族政治を打ち破った源頼朝とその配下の島津氏等が中心となって新しい武家政治を始めたのを泉下の広成は大いに喜んだと思います。

投稿: kamodoku | 2016年10月31日 (月) 22時39分

最近の研究では天日鷲は天太玉と同神ということがわかってきました。
そして少なくとも6人の天日鷲が確認されています。
そして天富命もまた天日鷲なのです。

忌部系図によります。

しかもタケミナカタ、アジスキタカヒコネ、コトシロヌシの后神は全て天日鷲の血縁者です。妹、孫


投稿: | 2016年11月 8日 (火) 16時55分

何故、藤原不比等が忌部宗家からの養子である房前を後継者としたのか?
また房前もなぜ忌部から妻をもらったのか?

投稿: 田邊 | 2017年7月21日 (金) 21時07分

忌部氏の系図が間違っているのだろうね!

投稿: kamodoku | 2017年7月23日 (日) 23時51分

いや、国学院所蔵の中臣の系図ですよ?それに推測でしょう。
妄想は別にいらないです。

投稿: | 2017年7月24日 (月) 16時46分

 国学院所蔵の系図は「大中臣氏」で、大中臣氏も忌部氏と同様に時の「政局」からは疎外されていた。

 右大臣をはじめ左大臣・太政大臣その果てには関白まで輩出し、時の権力を一手に握っていた藤原北家への嫉妬というか敗北感というか、そういうものが忌部氏にも大中臣氏にもあったと考えるのが自然だ。

 そうした中で藤原北家へ娘を嫁がせるのがせめてもの自己顕彰ではなかったか。また、藤原北家にしても反対勢力に対してはその娘を受け入れるのが最良の策だったのだろう。

 系のは書き換えが可能なことは世の常識で、天皇家すら奈良朝以前はずいぶん書き換えられている。

 系図で正確無比なのはイギリスで記録されている「サラブレッド」の系図だろう。彼らはアラブ種から改良して作出した「サラブレッド」のオスの精液の一滴でも漏らすまいと完全管理のもと記録に書きとどめている。

 それでこそ「サラ=完全な」「ブレッド=血・血統」。人間のほうがむしろ「サラ」ではないのだ。

 忌部氏にしても大中臣氏にしても系図の改ざんはあったと見るのが常識だろう。

 

投稿: kamodoku | 2017年7月29日 (土) 20時30分

 国学院所蔵の系図は「大中臣氏」で、大中臣氏も忌部氏と同様に時の「政局」からは疎外されていた。

 右大臣をはじめ左大臣・太政大臣その果てには関白まで輩出し、時の権力を一手に握っていた藤原北家への嫉妬というか敗北感というか、そういうものが忌部氏にも大中臣氏にもあったと考えるのが自然だ。

 そうした中で藤原北家へ娘を嫁がせるのがせめてもの自己顕彰ではなかったか。また、藤原北家にしても反対勢力に対してはその娘を受け入れるのが最良の策だったのだろう。

 系図は書き換えが可能なことは世の常識で、天皇家すら奈良朝以前はずいぶん書き換えられている。

 系図で正確無比なのはイギリスで記録されている「サラブレッド」の系図だろう。彼らはアラブ種から改良して作出した「サラブレッド」のオスの精液の一滴でも漏らすまいと完全管理のもと記録に書きとどめている。

 それでこそ「サラ=完全な」「ブレッド=血・血統」。人間のほうがむしろ「サラ」ではないのだ。

 忌部氏にしても大中臣氏にしても系図の改ざんはあったと見るのが常識だろう。

 

投稿: kamodoku | 2017年7月29日 (土) 20時37分

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