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根性コスモス

4,5日前は蕾だったのに、昨日、コスモスが花を開いた。430konjoukosumosu_005

去年の零れダネが芽を出したのだが、よくある事ながら、こんなに早く咲くのは初めてだ。

 タネを播くとすれば今ごろ播き、7月中旬前後から咲き始めるのが普通だ。

 3月の初旬から中旬にかけての高温と、4月も中旬まではかなり温度が高かったのが作用したのだろう。

 「秋桜」がコスモスの和名だが、これではずばり「春桜」になってしまう。異常気象もここまで来たかと怖れるほどだ。430konjoukosumosu_003

咲いたのは隣家との境界に近い二株だけかと思っていたら、何と、足元にも咲いていた。

 しかし、よく見て唖然とした。何という姿・・・・・。

 根元から2センチちょっとのところが無残にも90度折れ曲がり、10センチ弱右へ平行に伸びたあと、今度は首を垂直にもたげて伸び、その上に結構な大きさの花をつけている。

 いやあ、驚いた。しかも土壌は最悪に近い。シラスで造成した宅地だったので、乾燥した時に強風が吹くとシラス埃りがひどいので細かい砂利を敷き詰めたてあるのだが、その砂利の間から芽を出している。430konjoukosumosu_004

こんな姿勢のまま大輪の花を咲かせるなんて、見上げたものだ。

 世に「根性大根」「根性スイカ」など出現したが、この可憐さはないだろう。泣けるよな(最近、可憐な物にひどく弱くなっている・・・)。

 彼女(?)は、2センチほど伸びた頃に、車に踏んづけられたらしい(誰だ!)。それでもめげずに伸びた、横に。

そして早く咲かなくちゃ、と思ったのだろう、むんずと上体を起こそうとしたが、起こしきれないので、首だけをやっとこさ伸ばして花を咲かせた。

偉い!!「ど根性・クランク・コスモス」!!430konjoukosumosu_002

それにつけても、土壌はよく、日当たりもよく、何の不自由もなくスクスクと伸びまくった「オオバベニガシワ」の方は、ベニ(紅)を捨てて緑一色になろうとしている。

 名が体に現われておらんぞ「オオバベニガシワ」!

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後期高齢者御一行さま御案内(あちこち)

一週間前に鹿児島市内に住む義理の叔父から突然の電話があった。

「6月1日に老人会の一日旅行でかのやばら園に行く予定だが、老人会の役員で下見をしておきたい。ついては案内を頼めぬか」――という内容であった。ばら園だけでなく、他にも見所があったら行ってみたい、というので2、3箇所の候補地を頭に入れて、今日を迎えた。

 まずは本命の「かのやばら園」。428kyakujinannai_005

鹿児島市某老人会の三役。

―右から75歳(義理の叔父=前事務局長。現在は何とか部長)、81歳(会長)、72歳(事務局長)、平均年齢76歳だが、いまどきの高齢者は若い―

 聞けば40人の参加だという。それも大型バスを借り切ってだそうだ。

 ずいぶん豪勢な旅行だと思ったら、何と鹿児島市ではバスを無料で提供するという(ただしフェリー代は自己負担)。

「それだと、弁当代に飲み物代併せてひとり千円も徴収すればいい」そうだ。老人会自体からも補助が出るので、そういうことになるという。結構な話だ。428kyakujinannai_003

「ばあさんたちは喜ぶだろうな」

全体の3分の1ほどしか回らなかったが、そこここに鮮やかに咲き乱れるバラを見渡して、事務局長はそうのたもうた。

 ただ、問題があった。というのは予定の6月1日まで果たしてこの鮮やかな開花状態が続くものだろうか――ということだ。

 「まあ、そうなったらそうでもいいさ。公園の中の芝生の木陰で、みんなで弁当を広げるのが楽しみなんだから」428kyakujinannai_006

ばら園を出て、肝付町の国見トンネルを抜けた北方にある「銀河荘」まで走って昼食をとり、再びトンネルをくぐってから「二階堂住宅」(国指定文化財)を見学。

 「おもて・なかえ」のL字型萱葺き住宅よりも、奥にある二階堂家の墓前に建てられた「献辞」碑に興味深々の三役。

 「献辞」の主はカミソリの異名を取った故・後藤田正晴代議士だ。

 そこには「対米戦に絶対反対を貫いた二階堂進氏」の文脈が踊っている。

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続いて行ったのが「吾平山上陵」。神武天皇の父であるウガヤフキアエズ命の墓所である。

 川向こうに見える鳥居の奥に大きな洞窟があり、その中に円墳がある――と古書には記されている。428kyakujinannai_010

吾平山上陵から鹿屋市街地へ向かう途中、鶴峰小学校に立ち寄る。

 この小学校は義理の叔母が、戦後間もなくのころ初めての教員生活を送ったところだという。60年も前の話だ。

 学校はずいぶん立派な建物になったが、肝心の生徒の数は当時の5分の1もいないだろう。過疎地の小中学校はどこもそんなものだ。

 まったく「隔世の感あり」だ。

 一行は桜島周りでかえると言う。途中の「鹿屋航空隊基地史料館」入り口まで案内してから別れた。

 6月1日の天気がよく、また、まだバラが鮮やかに咲き続けていることを願いつつ・・・。428kyakujinannai_004

  

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エコ・ビル発見(鹿屋市本町)

鹿屋市の中心部を流れる肝属川が、昨日からの雨で水かさを増していた。水量の少ない時は川幅の半分くらいに水草が生えているのだが、今日はほとんどが水の下になっている。425ecobiru_010

真ん中上に見える3階建てのビルの右手にかっては大きな病院が建っていたのだが、最近取り壊されて隙間ができた。

 そのためこれまで見えなかった密集地域の中身が垣間見えるようになった。

 川沿いに入って行って驚いたのが「エコ・ビル」だ。425ecobiru_002

レンガ造り風の外壁と屋上の小部屋が、ツタに覆われている。

 裏手に回るともっと驚く。425ecobiru_003

まるでツタのカーテンを垂らしたようだ。

 いったい何年経っているのだろう?

 肝属川沿いのこのあたりは水害の常襲地帯だった。特に昭和53には大水害があり、人や建物に大きな被害が出た。

 おそらくそのころ被害に遭い、新築されたビルだろう。したがってツタは最大で30年生ということになる。

 しかし驚くのはまだ早かった。向こうにも「エコ・ビル」が見える。425ecobiru_004

駐車場の向こうに、ここよりもっと大きなグリーンモンスターがあった。425ecobiru_008

大通りから少し入った所にあるスナック・居酒屋の入居したテナントビルであった。

 壁一面に密生したツタは、飲み屋街で夜な夜な焼かれる串焼きや焼き魚の出す二酸化炭素を吸収してくれているはずだ。

 それで「エコ・ビル」と名付けてみた。425ecobiru_006

 

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かのやばら園(2009)

明日(4月25日)から6月7日(日)まで開催される2009・かのやばら祭りに一日先んじて出かけてみた。

ここ二年続けて購入している年間パスポート(カード)が、今日で期限切れだったこともあり、入場口の券売機で「パスポート更新券」を1200円で買う。これを持ってパスポート発行窓口へ行くと、更新の日付を入れてくれて一年延長になるのだが、カードが汚れているとのことで新しいカードを発行してくれた。テレホンカードと同じ大きさである。

424kanoyabaraen2009_001 去年は記録的な遅咲きで、ゴールデンウィークが過ぎてからようやく見頃を迎えたのだが、今年は早い。

 4月24日現在で、おおむね3分咲きといったところだ。もう十分観賞に値している。424kanoyabaraen2009_004

どこかのカトリック修道院のシスターが三人、ツルバラの棚の下のベンチで休憩している前を、トロッコ花車が通り過ぎて行く。

 今日は子供連れはほとんどいないので、乗っているのは高齢者ばかりだが、園内を3分ほどで一回りして300円だったか、もし子供が「乗りたい」と駄々をこねたら、たいていの母親は「あんたには足があるんでしょ。立派な足が!」とどやすに違いあるまい。

 (それとも「ソフトクリームとどっちがいいの!?」とうまいこと関心をそらす母親もいるだろう。こっちのほうが子供にとっては絶対的だ)424kanoyabaraen2009_005_2

ドイツ作出の花の色はこんな色が多い。オーソドックスで、そういう意味では最もバラらしいバラ。424kanoyabaraen2009_010

しかしやはりバラといえば真紅だよな、と言う向きにはこれ。424kanoyabaraen2009_012

いや、もう、あまり濃厚なのは胃が(?)受け付けない、と言う手合いにはクリームイエローなんてのもある。424kanoyabaraen2009_014

そうだよな、でも、可憐でなくちゃいけない、というおじさん好みだったらこれだな。424kanoyabaraen2009_007

あれもいい、これもいいと品定めにきょときょと歩き回っているうちに、昔のバラ園に出た。

 昔の、といっても今もバラ園の一部で、現在の「かのやばら園」がグランドオープンする前は、展望所のすぐ下に2~3ヘクタールの広さしかなかったのだが、4年前にここを含めて全体が8ヘクタールに拡張され、名実ともに西日本一のバラ園となった。424kanoyabaraen2009_008

同じ場所から目を少し東に転じると、バラ園の向こうに「横尾岳・陣ノ岡」の山系が望まれる。

 陣ノ岡(482m)は南北朝時代後期から室町時代にかけて、大隅半島南部を二分して争った「肝付氏」と「祢寝(ねじめ)氏」の境界線で、祢寝(ねじめ)氏はしばしば南からあの陣ノ岡を越え、肝付側に攻め入ってきたという。424kanoyabaraen2009_016

歴史に浸りつつ、鮮やかな余りにも鮮やかな色とりどりのバラたちの間を逍遙していると、その可憐さにはっとさせられるバラがあった。

 これは日本の作出で、作出は「京成バラ園」とあった。例によって名は覚えないのだがたしか「(何とか)の舞」であった。名なぞどうでもよい。ほのかに立ち昇るピンクが何ともいえない可憐さだ。

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ばら園をぐるっと回ってきて最後の花園にあるのが「プリンセス・かのや」。

 赤白のコントラストが愛らしく、また気品をも生んでいる。424kanoyabaraen2009_019

それでも、プリンセス――と呼ばれるのはこの花くらいまでか、今年のプリンセスはどれも花がとても大きいように思われた。424kanoyabaraen2009_018

こうなると王女様ではなくて皇后様、いやそれを通り越して皇太后様か。

 メタボリックは人間様だけではないようだ。424kanoyabaraen2009_022

今日ひと通り回って見た中で、色合い、形ともに揃った最高のバラと感じたのがこれ。ただし例によって名は覚えられなかった。

 ただ、一株だけ忘れようにも忘れられぬ名の持ち主があった。それは・・・・・424kanoyabaraen2009_021_2

「チンチン」だった。

フランスの作出だからフランス語だと思うが、何という意味だろう。

まさかおなじみのあのチンチンではあるまい。

<かのやばら祭り案内>

期間 4月25日(土)~6月7日(日)

開園 9:00~18:00

入園料 大人600円

年間パスポート 1800円(初回のみ。更新は1200円)

※期間中は特別バスなど運行される模様。また、イベントも多い。かのやばら園のサイトはここ

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大塚山公園(鹿屋市串良町大塚原)

串良町の旧役場付近から北へ2キロ、平和公園からは南東に3キロほどの所に「大塚山」がある。410kushiraheiwakouen_009

大塚山は、広大な笠野原シラス台地が肝属川支流の串良川によって抉り取られた崖っぷちにそびえる小さな丘である。

 標高は108m、台地の高さはこのあたりで60メートルはあるから、差し引き比高50mほどの丘で、頂上までは舗装された道があり、5分ほどで登ることができる。410kushiraheiwakouen_002

頂上に着くとその先には、かなり大きな石碑が3基建っている。奥の2基はよくある「開墾碑」と公園の由来碑だが、一番手前のは余り例を見ない石碑だ。

 その名を「献穀碑」といい、宮中の祭祀である「新嘗祭」の時に使用するお供物である「粟」を当地から献上した――ことを記念している。

 新嘗祭は内容的には「五穀豊穣感謝際」で、その歳に収穫された米・粟・麦などの穀物をお供えして行われる、平安時代からわが国に連綿として伝えられた祭事である。410kushiraheiwakouen_001

献穀碑の反対側を振り返ると、12,3台は停まれる駐車場越しにさらに小高い部分がある。

 駐車場からは比高5mほどで、以前は開けられていた研修棟にいたるが、途中左手に祠がある。410kushiraheiwakouen_007

410kushiraheiwakouen_006 この祠の前面に三つの神名が刻まれているが「秋葉神社」は分かるが後のは判然としない。

 秋葉さんは「火の神」であるから、ほかは「水の神」と「土の神」あるいは「木の神」「金の神」だろうか。このどれかであることは間違いないだろう。

 いずれにしてもこの大塚山がもし大都市の近くにあったら、この祠は立派な社殿にちんと収まり、老若男女の参詣ひきもきらぬ名所となっていたかと思われる。410kushiraheiwakouen_004

 頂上の研修棟には屋上があってそこまであがると、展望は素晴しい。東はこのシラス台地を串良川が抉り取った広大な水田地帯で、今まさに早期米の田植えの真っ盛りで、きれいに四角く整備された田に水が張られているのが見える。

 ここから眺めると水田とは「天然の太陽電池」ではないかと思われてくる。直接の電気エネルギーは発生しないが、太陽光による光合成で稲が実を結ぶと米になり、われわれの胃の府に収まって生命活動のエネルギーとなる。電気も何かを活動させるエネルギーである点で、結果的には全く同じ仕事をしていることになる(誰かこの理論を定式化してくれぬものか・・・)。

 閑話休題――さてこの「大塚山」。大塚と言うからには「大きな塚」すなわち「古墳」ではなかったろうか。

 古墳はその主が開いた田んぼを見下ろす小高い丘に築かれるのがほとんどだ。丘陵の尾根筋を切り取って(整形して)造るにせよ、平らな所に土を盛り上げて築くにせよ、どちらにしても古墳の主は死後いつまでも開発した田園とそこに暮らす子孫たちを見守っていたいものだ。村の「鎮守さま」もたいてい集落を見おろす小高い丘の上と決まったものだが、あれも鎮守(神社)になる以前はそのような古墳だったのではないだろうか。ひとつの方向性はあるだろう。410kushiraheiwakouen_008

頂上から引き返すと、途中に「稲荷神社」というのがある。

 道路からは比高5m弱で祠が鎮座するが、これも見立てでは古墳くさい。

 研修棟のあるマウンドが下場の水田を切り拓いたこの大塚原地区の首長の古墳。対する稲荷神社はその妻か子供の古墳としたらどうだろうか。

 現在の5万分一地図では実感できないが、明治37年発行の古い地図からは、この大塚山のすぐ下に(東に)田んぼ地帯が串良川を挟んでうねうねと広がっているのがよく分かる。420ootukayamatizu

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玉泉寺の藤(鹿屋市吾平町上名)

いま玉泉寺跡の藤が見頃を迎えている。

玉泉寺跡は吾平町の小鹿酒造工場の南東200㍍ほどのシラス崖の下、地下水がこんこんと流れ出る所に開基された「清池山・玉泉寺」の寺域の跡で、現在は公園となって開放されている。416gyokusenjinofuji_001

中福良橋付近jから望む「玉泉寺公園」。

 4月10日頃に植えられた早期米の田園の向こう、真ん中の森の中に公園がある。416gyokusenjinofuji_002

公園口を入るとすぐにうねうねと長く横に伸びた藤が目に飛び込む。

 手前は蓮の池、蓮と藤との間は花菖蒲の一群だ。416gyokusenjinofuji_004

長さ20メートルはあろうか、一房の咲き残しもない完全満開で、 ミツバチやクマバチがせわしげに飛び交っている。416gyokusenjinofuji_006

反対側の池の方から写すと、池の中にも姿を映し出ている。416gyokusenjinofuji_007

池の源は比高20メートルほどの崖の下だ。その出方はちょろちょろなどという生易しいものではない。崖下から出てくるなり、もういっぱしの渓流の音を立てて流れて来る。

 左手に見えるのは最近新設された丸太の階段で、上がっていくと玉泉寺代々の住職の墓と供養塔がある。416gyokusenjinofuji_008

墓と供養塔それにお地蔵さんが一基、都合14基の石造物が立ち並んでいる。

 墓(供養塔)といっても曹洞宗(禅宗)だから質素なもので、丸い部分(無縫塔)に飾りは全く無く、ただ示寂の年月と出家名が刻まれているだけである。

 刻字で分かる最も古いものは「寛保三年」で、これは西暦1743年にあたる。416gyokusenjinofuji_005

池の回遊橋から、寺が建っていたであろう東屋付近の丘を望む。

 玉泉寺は下野国(今の栃木県)の那須にあった「曹洞宗・泉渓寺」の末寺として、応永二年(1395)に建立されたという。

 開基は源翁(げんのう)和尚という人で、70歳の時にはるばるやって来たそうだ。どんな経緯だったかは「吾平町誌」などを見ても分からない。土地の有力者の招きだったろうとは思われるが、誰がどうだったかなどは不明である。なにせあの廃仏毀釈の嵐の中、開基以来470年に及ぶ証拠文書類の一切が灰燼に帰してしまったのだろう。

 今は「玉泉」と名付けられた湧水と、廃寺跡に残された趣のある庭園が、往時を偲ぶよすがとなるばかりである。

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オオバベニガシワ(3)

今日はオオバベニガシワを最初に写した日からちょうど一ヶ月目だ。このところ葉の成長が早く、あれよあれよと言う間に少年少女くらいな感じになってしまった。412oobabenigashiwa_001

葉に葉緑素が増えてきたのだろう、紅色がどんどん抜けていく。

 3㍍ほどもあるひょろりと伸びた天辺の方の葉のほうが大きく、数も多い。そっちのほうに緑色が目立つ。太陽に近いせいか?

 太陽といえば、午前中のテレビで、今年に入ってから百何十日か太陽の黒点が観測されない――という話題を取り上げていた。ここ何年かでは最も長い<黒点消失現象>だそうだ。

 黒点の数は周期的に変わっていて、増加のピークの年にしろ減少のピークの年にしろどちらの場合も「大きな地震の発生がある」というから不気味だ。ついこの間の月曜日にイタリアで大規模な地震があって200人以上が死んでいるが、それもカウントされるのかもしれない。

 それより、日本だったら・・・・・。東海地震、南海地震、相模湾地震などいつ起きてもおかしくない大地震が目白押しだ。いつ来てもいいように気を付けておかないといけない。つい三日前、こちらでは日向灘を震源とする震度4規模の地震があり、鹿屋でも震度は3だったが、久しぶりだったせいか、かなりの揺れを感じた。

 

 庭に出たついでに、菜園、花壇などの草刈りをビーバー(草刈機)で行い、汗を流す。気温はぐんぐん上がり、午後2時に寒暖計を見たらは24度を超えていた。412oobabenigashiwa_002

15歳の老犬ビータローも、昼ごろにはハアハアと暑そうだった。412oobabenigashiwa_003

昼飯のあと庭を覗くと、ビータローは頭を日陰に入れて爆睡中。尻が暑かろうに・・・。

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串良平和公園(鹿屋市串良町)

午後から休みが取れたので、串良平和公園に行ってみた。410kushiraheiwakouen_010

桜の咲き残りを期待したのだが、ほとんどが葉桜となっていた。

 その代わりに咲き始めたのがツツジで、桜まつりの旗や提灯をを尻目に、見ごろをむかえているのが多い。

 今度の日曜日(4月12日)まで「くしら桜まつり」だが、言い替えて「ツツジまつり」としてもおかしくないほど見事だ。410kushiraheiwakouen_011

剪定の行き届いたツツジの群落の間には、旧海軍特攻隊の部隊ごとの慰霊碑が建ち、特攻に命を散らした隊員の名が刻まれている。

 その間を抜けて向こうにそびえる「慰霊塔」に行ってみる。410kushiraheiwakouen_012

平和公園のシンボルタワー「慰霊塔」。

 円墳のようなマウンドの頂上に、最上部にハトをあしらった白亜の塔が建つ。

 斜面には「平和」と刈り込まれたツツジが見事だが、ようやく咲き始めたばかり。あと十日もすると全面的に開花し、目もまばゆいほどに咲き誇るはずだ。410kushiraheiwakouen_013

塔に刻まれた「慰霊」という字は、建設時の内閣総理大臣「佐藤栄作」の文字である。

 日本人でただひとりノーベル平和賞を受けた政治家だ。

 沖縄施政権返還交渉に力を発揮し、ついにアメリカから返還をもぎとった。戦後日本ではアメリカと対等に渡り合えた数少ない政治家と言ってよい。

 昭和20年3月に沖縄への米軍上陸が始まったが、それに打撃を与えるべくアメリカ艦船への体当たり(特攻)を実施するために各地から集められた勇士のうち、360余名が帰らぬ人となった。その名が慰霊塔の基台部分にぐるりと刻み込まれている。

 大隅半島から特攻して散華した隊は、霧島市・曽於市・志布志市・鹿屋市・垂水市とほぼ全域にわたり、帰らぬ人となった隊員が飛び立った基地のある市町村では、鹿屋と旧串良町をあわせた1200余名というのが圧倒的に多い数字だ。知覧の陸軍航空隊基地からの900余名より多いにもかかわらず、あちらほど有名でないのは、ひとえに県都・鹿児島市から遠いからだろう。観光ツアーの対象から外れるほかなかったのは致し方ない。

 もっとも特攻隊員に「有名だ、無名だ」などと言うのは失礼かもしれない。「どっちでもいいさ、日本が平和であるのなら・・・」という隊員の声が聞こえてきそうだ。

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田んぼ二景(鹿屋市寿8丁目・同名貫町)

早期米は鹿屋市吾平町が有名だが、こんなところでも作っている。408tauenoato_001

鹿屋市寿といえば、鹿屋市の笠野原台地上では繁華街の代名詞だが、その8丁目の道路際に結構な広さの田んぼがある。

 今日植えたばかりで、手前には田植え機が道路から出入りした轍が生々しく残っている。

 広さは推定だが40m×30mで1200平方メートル、坪数では360坪ほどだろうか。

 笠野原台地の上の標高60メートルくらいのここに水が引かれたのは、昭和42年に串良川上流の高隈町に「高隈ダム」が完成してからだから、この田んぼは新田中の新田だ。

 ここはそれまではサツマイモや麦、ナタネなどの畑作物しか作付けができなかったシラスの台地で、下場の串良川流域や肝属川流域が米の大きな産出を誇っていたのに比べ、価格の安い畑作物からの脱皮を何とか図りたい――という台地農民の悲願がやっと実ったのである。

 ところが皮肉なことに、そのころから全国的に米余りが続くようになり、ついには「減反」政策が始まってしまった。笠野原台地農業の方針転換の先が、生産性の高いお茶や酪農・畜産であった。それはそれで進展し、大規模農家がどんどん生まれてきたが、上の田のように小さな土地はその方針転換から取り残されて行った。408tauenoato_002

(すぐそばには住宅が迫り、アパートもある)

地主が、せっかくの導水を利用しない手はあるまい―と考えたのか、せめて自分の米ぐらいは作りたい―と考えたのか、あるいはそのどちらもかは憶測しかねるが、このあたりの土地は仮に売買が成立したとしたら最低でも「坪7~8万」だろうから、この田んぼは時価相場で3000万近い資産価値がある。

 つまり3000万の土地で、白米にして約400キロ、販売価格約16万の品物を年に一回だけ作っている――という勘定になる。土地生産性からいうと愚の骨頂という訳だが「自分だけのオリジナル米を作り、自分だけ(と家族や親類)が味わう」というのは、もしかしたら究極の「貴族的趣味の園芸」かもしれない。

 ため息をつきながらシラス(笠野原)台地を下り、帰宅途中、昔から豊富な「名貫湧水」で知られる「名貫川」沿いに行ってみた。まだ全体と言うわけではないが、そこここに早期米が植えられている。408tauenoato_004

右手に写る名貫川の土手は真っ直ぐに改良され、両側の田んぼもそれに合わせて基盤整備はされているが、なにせ狭い河谷ゆえ規模拡大も制限され、昔ながらの田んぼの風景が展開している。

 たぶん、販売するというより自家消費用の米作りではないだろうか。408tauenoato_003

やはりまだ田植え機の轍のあとが生々しい。おそらく昨日の田植えだったろう。

 今年の田植えは例年より10日くらい遅れているが、あと4ヶ月、八月の旧盆の前には刈り入れとなる。

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女男河原祭り(垂水市高城)

「女男河原」という字を「おんだんこら」と読めるのは、垂水市民とそれ以外では余程の祭り好きな鹿児島県人だけだろう。

 後者に属する私も、印刷物などで目にするだけで実際にはどんな祭りなのかは知らなかった。行われるのは4月の第一日曜日で、いつもこの時期は集落の総会やら、花見やらで行事が多く、見たくとも見ることができなかった。

 最近になってフリーになったので、今回、行くことができたのである。

 午前10時に始まると聞いていたので、9時に家を出、祭典のおこなわれる場所「三和センター」という当地の中心的な公民館に到着したのが9時40分であった。405ondankoramaturi_007

あいにくの小雨だったが、すでに多くの車が入り込んでいる。

 この大きな建物は何です?――と駐車誘導係の人に聞くと、三和センターの体育館で、そこでは祭りのあとの「演芸大会」が行われ、祭典は体育館の裏手でやる、という。405ondankoramaturi_002

駐車場に車を入れて裏に回るとそこはかなり広い、運動会でもできそうな広場だった。

 その一角、なるほど体育館の裏側近くの桜の木の脇に、テントが三つ張られており、その中を覗くと桜の木の下に祭壇が設けられてあった。

 程なくして、神事の開始を告げるアナウンスがあり、テントの中の人たちも立ち上がった。405ondankoramaturi_001

テントでよく分からないが、祭壇の奥には20年生くらいの桜が生えている。そしてその手前には、竹の棒を支柱にし、麻(すがそ)を付けた御幣と榊の束が「ひもろぎ(霊降木)」として立てられてあった。405ondankoramaturi_004

祭式次第通りに「招神」「祝詞奏上」「玉ぐし奉奠」「昇神」とすすみ、最後に大太鼓がたたかれて祭事は無事終了。

 氏子代表らと神主はこのあと直会(なおらい)に移るというので、その前に神主さんをつかまえて祭りの由緒と風変わりな祭りの名の由来を伺った。

 宮司さんは林さんという地元の方だ。

 話によると・・・・・

「女男河原」とは「御田河原(おんだのかわら)」のことで鹿児島弁では河原は「こら」となり、「~の」は「ん」になるので「おんだんこら」。この祭りは白山神社の祭りで(神社は高隈山系の白山=830m=に本社がある)、白山神社の領有する御神田のことを「御田(おんだ)」というが、その御田は本城川の近くにあって、それを管理するお百姓たちが一年の耕作の初めに本城川の河原に集まり、お祭りをする。祭礼というのではなく、むしろ今でもやっている集落の「おでばい(お出張い)」つまり一種の花見に近いもので、そこには「男女の逢引」のような雰囲気もあったろう。それで「おんだん」に「女男」を当てたのではないか。「男も女も誰も彼もこぞって」という意味の当て字でしょう・・・・・。

 というようなお話であった。さらに・・・・・

 お祭りは550年ほどは続いており、そもそも白山神社をこの山に祭ったのは、島津氏以前に垂水を統治していた「伊地知氏」の出身が越前で(居城だった越前井筒城から、井筒を伊地知に変えたらしい)、ここに入部した時に、越前と加賀の境に祭られている「白山神社」(祭神は菊理媛=くくりひめ。白山姫=しらやまひめ、とも言う)の分霊を当地に祭ったのが縁起である。春の例祭は3月19日に済んでいて、その時は実際に白山に登り、榊に御祭神を移して麓に下りてくる。祭る集落は「段」「上馬込」「下馬込」の持ち回りになっている。この三つの集落の人たちが、先に述べた「御田」の管理をする人たちで、いわば今日の「おんだんこら祭り」の当事者である・・・・・。

 とも言われた。

 なるほど、鹿児島ではきわめて少ない「白山神社」のある由来がよく分かった。

 また、「河原で花見(おでばい)」的な楽しみ方は、実は白山神社の御神田かれこれ以前のごくごく古い習俗だったのではなかったかとも思い至る。そのような例で歴史的に見えるものでは筑波山や佐賀の杵島山の「かがひ」があり(いずれも風土記に記載)、東アジアの山岳少数民などでは今日でも行われているのである。

 

 祭典はあっけなく終わったので、広場の刃物や鉢物、植木などの露店をひやかしたあと、かっては「おんだんこら」が開かれていたであろう本城川の川べりを辿ってみた。405ondankoramaturi_008_2

祭りの会場「三和センター」から南へ150㍍ほどの本城川に架かる「高城橋」から上流を望む。

 山塊のほぼ真ん中の二こぶピークの高い方が「白山」。405ondankoramaturi_012

「高城橋」から上流約1.2キロに架かる「田畑橋」。この右手(左岸)の集落が白山神社の御神田を耕作・管理していた馬込集落。

 白山のピークがまだわずかに頭を出しているのが見える。405ondankoramaturi_013

さらに上流に行くと「的場橋」が見える。いよいよこのあたりから本城川は渓谷となる。橋の右手(左岸)が段集落である。

 その割には広い河原がひろがっている。女男の(おんだん)集会のできそうな河原だ。せせらぎの音を聞きながらの「おでばい」は楽しかったろう。

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阿蘇神社「御田祭」の「うなり(宇奈利)」

図書館で借りたビデオを返す期限が明日に迫ったので、もう一度見ておくことにした。404asojinjagosinkou_001

その中で、一つ発見というか再確認したことがあった。

(写真は肥後国一の宮と言われた「阿蘇神社」)

阿蘇神社では毎年7月28日に「御田祭(おんださい)」が行われる。

 その模様を記録したビデオだが、神輿が4基も「出御(しゅつぎょ)」するのは、大社であるからいいとして、興味あるのは神輿行列の中に「うなり(宇奈利)」という女性の行列があることだ。404asojinjagosinkou_003

「うなり」は14人いて、すべて社家の関係者だそうである。詳しい紹介は無かったが、おそらく社人の妻や姉妹などの親族だと思う。404asojinjagosinkou_007

その出で立ちも興味をそそる。白装束に身を固め、顔まで白い布で覆っているうえ、古式の頭上運搬法で高膳に載せた「御櫃(おひつ)」を運んで行くのである。

 このまま「一の御仮屋」「二の御仮屋」を経て街中を、また田んぼの道を歩いて行く。なかなかの重労働だろう。

 お櫃の中には御仮屋で神々に供えられた物を入れているようだ。

 このようなしきたりは御田祭の開始当時からのものだそうで、他の祭礼ではまず見ることのできない貴重な祭礼風俗だろう。

 そのこともだが、私にとってうれしいのは運搬する女性たちが「うなり」と呼ばれていることだ。「うなり」は琉球では「おなり神」と言われる「女性(のうちでも、兄弟に対する姉妹)特有の霊力・霊感に優れた女(神)」と同じであろう。

 「う」も「お」も接頭語なので省くと、残りは「なり」である。「なり」と言えば、魏志倭人伝の中の倭人国の一つ「投馬国(つまこく)」の「官にミミ(彌彌)、副官にミミナリ(彌彌那利)がある」として登場する「国王ミミ(耳)と女王ミミナリ」の「ナリ」を想起する。

 私見では「帯方郡から南へ水行(船行)二十日」の所に「投馬国」があり、それこそは「曽の国(鹿児島・宮崎)」を指す、と考えている。

 旧阿蘇国はのちに肥後国の一部となるが、肥後国つまり今の熊本県は魏志倭人伝では「狗奴国(くなこく)」と記されるが、熊本・鹿児島・宮崎をひっくるめて古事記では「熊曽国を建日別(たけひわけ)といふ」とあり、同族であった。

 熊本の中でも古国に属する阿蘇国の大社の祭りに「う・なり」という「女性」が登場するのは、投馬国の「ミミ・ナリ(ミミのナリ=国王の妻・姉妹)」の「ナリ」と共通であり、私見の<投馬国=曽の国=熊曽国の一つ=鹿児島・宮崎>説を別の角度から裏付けてくれている。

 ちなみに阿蘇神社の祭神は「建磐竜(たけいわたつ)命」であるが、これにも熊曽国を意味する「建(たけ)」が付いているし、古事記の「神武天皇記」によれば、神武天皇の大和平定後に生まれた長子「神八井耳(かむやいみみ=ミミ)」の子孫は「意富臣(おおのおみ)、小子部連、坂合部連、火の君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連・・・・・(全部で19姓)」とあり、九州の君姓の支族を持ち、中でも「阿蘇君」は注目に値する。

 この「阿蘇君」の始祖が「建磐竜(たけいわたつ)命」であれば、神武東征とはやはり史実であり、南九州・熊曽国の中でも鹿児島・宮崎県側の「曽の国=投馬国」からのものであった、という私見を補強してくれる。

 ところでもう一つ、この「御田祭」の先導をする鉾に見えるのが、鹿児島の御田植え祭に必ず登場するサルタヒコ神、通称「鼻高どん」であるのには驚く。これも共通だ。404asojinjagosinkou_004

猿田彦神は国津神で、天孫二ニギが地上に降りてきたときに道案内をした神だが、こう各地の御田植え祭ごとに登場しては「天孫降臨の有難み」が薄れはしないかと心配になる。

 だが、こう考えたらどうだろう。

 つまり「豊葦原ナカツ国では御田植えこそが最も重要な行事であり、それは天孫降臨にも匹敵する祭事なのだ。御田植えの祭には祭神が田に降りてくる。それはまさに天孫降臨ならぬ祭神降臨であるから、サルタヒコを必要とする」と。

 この天狗のような「鼻高どん」はぎょっとするほど異様で、道案内と言うよりは「悪霊払い」の役回りと言っていいのかもしれないが・・・。

※写真は『九州民俗芸能ライブラリー・阿蘇神社の御田祭』(平成11年7月28日―発行・九州電力)を放映中に、テレビ画面より撮影。

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クス若葉は紅葉?(鹿屋市横山町)

今朝はえらく冷え込んだ。午前六時半、いつものように負荷付きのラジオ体操をしようと庭に出るとき、玄関口の温度計を見たら1.5度。庭には至極うすいが霜が降りていた。大寒ッ!!

それでも風は無いので日が昇るとどんどん温かくなった。横山町にある最寄りの郵便局に自転車で行く途中、畑の向こうの高隅山が春霞に全容を見せているのを写すと・・・402kusuwakaba_010

春なのに紅葉が見える。

 正体はクスなのであった。近づくとクスの森・・・というより林が畑の中に古墳か浮島のように茂っている。402kusuwakaba_001

土地の主が園芸用か街路樹用に売ろうとして植えておいたのだろうが、もう売ろうにも大きくなり過ぎているようだ。

 こんなタイプのクスの林は横山町ではよく見かける(笠野原台地の方にも多い)。

 植えた主の思惑をよそにクスはすくすくと育った(笑)。402kusuwakaba_005

道路際のクスが最も「紅葉」していた。

 「黄葉」しているのもある。402kusuwakaba_006

正体はクスの新葉だが、こちらの赤はアカメガシワの血の様な紅色ではなく、抑えたパステルカラーの赤色で、結構、品のよい色合いだ。

 少し日が経つと、下の葉のように黄色味を帯びてくるので、まるで「黄葉」。

 ひとり二役、あたかも秋の紅葉・黄葉の極く少ない南国人へのプレゼントの如し。402kusuwakaba_007

横山町の里山(頂上の平坦地には、ばら園がある)「霧島が丘」の山腹にも、杉や椎などの常緑樹に混じって、クスの若葉が燃え立って見えるようになって来ている。

 杉もクスも『書紀』の神話によれば、高天原で狼藉を働き、追放されたスサノヲノミコトが「韓郷之嶋」に渡る際に無くては困るからと作らせた「浮宝(うきたから=船)」の材料の木だ(「一書の五」による)。

南九州に圧倒的に多いのがこのクスであり、杉も屋久島をはじめ巨木・古木が多い。スサノヲはどうもやはり南九州と関係が深いように思える。

 『後漢書』安帝紀に見える「帥升(ソッショウ)」は倭語の「そつしお」で、意味を漢字化して表すと「曽津之男」、つまり「曽の王者」であり、私見ではこれがわがスサノヲのことではないか――と考えるのだが、如何?

 閑話休題・・・・・今年は春一番までの厳寒と、春一番から一ヶ月近くの暖冬、そして3月半ばからの冷え込みで、早春の花は遅れて咲き、陽春の花や若葉は早まっているので、早春と陽春がごちゃ混ぜになっている感じがする。

 同じ横山町の街中では、ソメイヨシノが満開を過ぎてもなかなか散らずに残り、一方ではもう八重桜が満開になった。402kusuwakaba_008

また、いつもは4月半ばくらいから咲き始め、ゴールデンウィークの直前ごろに満開になる大ぶりのツツジが、鮮やかな花を見せている。402kusuwakaba_009

これだと、あと4、5日で来る小中学校の入学式の時、児童・生徒たちは咲き残ったソメイヨシノと満開の八重桜、それに見ごたえのある鮮やかなツツジの群れに迎えられるだろう。結構なことである。

 

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