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大塚山公園(鹿屋市串良町大塚原)

串良町の旧役場付近から北へ2キロ、平和公園からは南東に3キロほどの所に「大塚山」がある。410kushiraheiwakouen_009

大塚山は、広大な笠野原シラス台地が肝属川支流の串良川によって抉り取られた崖っぷちにそびえる小さな丘である。

 標高は108m、台地の高さはこのあたりで60メートルはあるから、差し引き比高50mほどの丘で、頂上までは舗装された道があり、5分ほどで登ることができる。410kushiraheiwakouen_002

頂上に着くとその先には、かなり大きな石碑が3基建っている。奥の2基はよくある「開墾碑」と公園の由来碑だが、一番手前のは余り例を見ない石碑だ。

 その名を「献穀碑」といい、宮中の祭祀である「新嘗祭」の時に使用するお供物である「粟」を当地から献上した――ことを記念している。

 新嘗祭は内容的には「五穀豊穣感謝際」で、その歳に収穫された米・粟・麦などの穀物をお供えして行われる、平安時代からわが国に連綿として伝えられた祭事である。410kushiraheiwakouen_001

献穀碑の反対側を振り返ると、12,3台は停まれる駐車場越しにさらに小高い部分がある。

 駐車場からは比高5mほどで、以前は開けられていた研修棟にいたるが、途中左手に祠がある。410kushiraheiwakouen_007

410kushiraheiwakouen_006 この祠の前面に三つの神名が刻まれているが「秋葉神社」は分かるが後のは判然としない。

 秋葉さんは「火の神」であるから、ほかは「水の神」と「土の神」あるいは「木の神」「金の神」だろうか。このどれかであることは間違いないだろう。

 いずれにしてもこの大塚山がもし大都市の近くにあったら、この祠は立派な社殿にちんと収まり、老若男女の参詣ひきもきらぬ名所となっていたかと思われる。410kushiraheiwakouen_004

 頂上の研修棟には屋上があってそこまであがると、展望は素晴しい。東はこのシラス台地を串良川が抉り取った広大な水田地帯で、今まさに早期米の田植えの真っ盛りで、きれいに四角く整備された田に水が張られているのが見える。

 ここから眺めると水田とは「天然の太陽電池」ではないかと思われてくる。直接の電気エネルギーは発生しないが、太陽光による光合成で稲が実を結ぶと米になり、われわれの胃の府に収まって生命活動のエネルギーとなる。電気も何かを活動させるエネルギーである点で、結果的には全く同じ仕事をしていることになる(誰かこの理論を定式化してくれぬものか・・・)。

 閑話休題――さてこの「大塚山」。大塚と言うからには「大きな塚」すなわち「古墳」ではなかったろうか。

 古墳はその主が開いた田んぼを見下ろす小高い丘に築かれるのがほとんどだ。丘陵の尾根筋を切り取って(整形して)造るにせよ、平らな所に土を盛り上げて築くにせよ、どちらにしても古墳の主は死後いつまでも開発した田園とそこに暮らす子孫たちを見守っていたいものだ。村の「鎮守さま」もたいてい集落を見おろす小高い丘の上と決まったものだが、あれも鎮守(神社)になる以前はそのような古墳だったのではないだろうか。ひとつの方向性はあるだろう。410kushiraheiwakouen_008

頂上から引き返すと、途中に「稲荷神社」というのがある。

 道路からは比高5m弱で祠が鎮座するが、これも見立てでは古墳くさい。

 研修棟のあるマウンドが下場の水田を切り拓いたこの大塚原地区の首長の古墳。対する稲荷神社はその妻か子供の古墳としたらどうだろうか。

 現在の5万分一地図では実感できないが、明治37年発行の古い地図からは、この大塚山のすぐ下に(東に)田んぼ地帯が串良川を挟んでうねうねと広がっているのがよく分かる。420ootukayamatizu

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

こんにちは
お世話になっています、隅南風人です。
永年、笠野原平原の真中でこの辺りまで舟の往来もあったという串良川中流の絶好位置に存するこの大塚山は、古代人が後世築土式古墳を発想する以前の自然地型を利用した日本最古の古墳ではないか?と想像しているのですが、、、
それはそれとして最近「隼人と月読信仰」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~dayfornight/gesshin/hayato_gesshin/01futatsu_no_tsukuyomi/01futatsu_no_tsukuyomi.htmlに啓発されて、
宮下部落の月読神社との関係で、当時この大塚山麓に居た古代ハヤト族の信仰に関心があります。
そこで、同頁には明治4年に「一之宮大明神」から「月読神社」に社名が改称されたとありますが、何故「月読神社」とされたのだろうか。 それ以前より「月読信仰」が永年この地に残っていた故ではないだろうか。
また、志賀剛の『日本芸能の主流』によればとしてかってはもっと北の方に鎮座していたのを遷座とありますが、その元の位置はどこだろうかについて、
御所見をお伺いしたいのですが。
ちなみに、以前読んだ串良町史に、大塚山直下東麓に寺名は忘れましたが、明治初期まで25代住持続いた寺があり、中古は「高山寺」往古は確か「千寿院」と称していたと記されていましたが、
そこがその故知ではないかと想像しております。
大塚山東直下台地には小さな古墳が散在していてそこも考えられますが、
それより、古代ハヤト人の月読信仰の在り様から、その下麓かっての串良川に臨み、すぐそばに出水の湧き出る上記の場所が比定されるのでは・・・
大塚山は古墳以前はあるいは神聖な神霊の降りる神山?十五夜の夜巫女は依木を持って東麓の串良川の川中で禊ぎをして月神に再生を祈る!その東方向は朝陽の昇る位置では!?

源流故知が雲南か江南か、さてはかってのスンダランドの地か?
それはともかく月読信仰には古代我が先人「大隅ハヤト」の
文字文明など必要としなかった、おおいなる感性の豊かさを夢想します。
その「豊かな感性」こそ、文字を使用し始めて以来わけても「近代主義」に洗脳されて混迷の極みにある現代人の迷妄を晴らす手立てではと愚想します。
いつか機会があったら、十五夜の夜串良川左岸より川面に映える月影を、大塚山に昇るその姿を飽かず眺めてみたい!
月の世界に行けるかな?それとも竜宮城に行けるかな?(笑)
隅南風人  拝

投稿: 隅南風人 | 2009年9月16日 (水) 14時46分

隅南風人さん、隼人が月読命を祭る件ですが、私としては隼人の海民性を重要視しておりまして、海と月齢の関係はご存知の通り「潮の満ち干き」と密接な関係があります。
 
 海に暮らす以上、最も大切なのは船、舵、そして水手(かこ)であることは今さら言うまでもありませんが、しかし意外に次に大切な条件「潮の満ち干き」は考慮されることが少ないものです。
 
 いかに巧みな航海でも、到着して港に船を付けたあとに、潮が満ちて船が流されてしまったり、逆に潮が引いて船が横倒しになったりしたら何にもなりません。

 航海(交易)、漁労のどちらにしても、この「潮の満ち干き」の状況を確実に把握しておかないと、非常な損害をこうむるわけです。「潮の満ち干き」は何で測れるかというと「月齢」なのです。
 
 航海民たる隼人はその「月齢(月の満ち欠け)」について一定の定説、つまり「月の齢(よわい)を読む信仰」ともいえるものを身に付けていた、あるいは身に付けることを願っていたが故に、月神を祭ったのではないでしょうか。

 「月神を祭った」と記録に出てくるのは、顕宗天皇の3年(西暦487年)に、任那に使者として行ったアベ臣コトシロの同行人に月神が憑依し、「われを祭れば幸いがあるだろう」と伝えられ、帰任してから社を建てて「壱岐県主の祖先・オシミ宿禰」に祭らせた――とあるのが最初です。

 任那に行くには当然船で行くわけで、この時に月神が現れているのです。航海との関係、つまり「潮の満ち干きをよくよく注意せよ」という宣託と考えていいのではないでしょうか。

 それを祭ったオシミ宿禰は壱岐の出身か、壱岐に非常に関係ある人物ですが、そもそも壱岐は(任那のある)半島への「道の島」でして、航海民隼人との関係が濃厚な島です。

 『肥前風土記』によれば、五島列島に隼人がいたのは確実ですから、そこからたいした距離でもない壱岐島に隼人(の祖先)が行ったとして何の不思議もありません。

 隼人をはじめ南九州民を余りに南方と結びつけると、この事実を見落としてしまいます。これについては敬愛する『まぼろしの邪馬台国』の著者・宮崎康平氏も「隼人は西九州から半島に渡っている」旨の論を提示しています。

 隅南風人さんは北部九州にいますので、そのあたりについて調べていただきたいものですが、どうでしょうか?
 今日はこれまでとさせてもらいます。串良郷土史については日を改めてお答えしますので、お待ち下さい。では。

投稿: kamodoku | 2009年9月16日 (水) 23時01分

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