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孕み女と「うない」(求菩提山・国玉神社)

図書館で借りてきたビデオ『九州の民俗芸能ライブラリー・シリーズ』(九州電力製作)の中の「求菩提山お田植え祭」を観ていて「あれっ、ここでもやっぱり」と思った。

 同じシリーズで「阿蘇神社のお田植え祭」に登場した「うなり」という「女性の祭礼奉仕者」とそっくりの「うない」が、この祭礼においても登場したのだ。

福岡県豊前市にある求菩提山は標高782mとそう高い山ではないが、大分県との県境に聳える「英彦山(1200m)」とならぶ修験道の聖地である。

 その中腹に「国玉神社」があり、毎年3月29日には「お田植え祭」が行われている。祭礼は典型的な「豊作予祝」の神事だ。523uchinouraoosakikubotesan_023

求菩提山の麓を流れる佐井川上流の谷間に国玉神社はある。523uchinouraoosakikubotesan_024

国玉神社の中宮からみこしが出て、「仮屋」と呼ばれるお宮へ行き、その前の広場に結界が設けられて「お田植え祭」が催される。529kubotesanotaueshinji_001

豊作予祝の祭礼の流れは――清めの舞い→畦刈り→田打ち→田鋤き→モミ播き→田植え――と米作りの順序どおり進行するが、小学生の扮した早乙女・早男による田植えのあとに登場するのが「孕み女とうない」である。

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孕み女もうないも、男が扮するのだが、これは「田に植えた稲が十分に実を結びますように」という予祝であることは言うまでもない。

 ここで注目したいのが「うない」という女性である(写真では右が孕み女、左が「うない」)。

 「阿蘇神社のお田植え祭」では「うなり」という一群の女性が登場して、仮屋ごとにお供物を供え、また回収して回るのだが、求菩提山の国玉神社の祭礼では「孕み女の介護をする女性」としての役目があるようだ。

 「うなり」は沖縄では「おなり(神)」と呼ばれる姉妹神であった。

 また邪馬台国のことを記述した「魏志倭人伝」中の倭人国家のひとつに「投馬国(つまこく)」があり、その国の王は「ミミ」、女王は「ミミナリ」と言ったが、女王は「ミミ(王)のなり(姉妹)」であり、これは後世の琉球王国において「国王―聞得大君(きこえおおきみ=国王の姉妹または姪のうちのひとりが就任)」という「祭政一致的国家体制」が営まれていたのと軌を一にしている。

 何が言いたいかというと、「うない」は「うなり」の転訛であり、「なり」は投馬国語の「ミミナリ」の「ナリ」と完璧に重なる「(女王に匹敵する高貴な)女性」を表しているゆえ、九州北部を除く中九州以南は「倭人伝」の一国である「投馬国」と同一文化圏にあったとしてよいのではないか――ということである。

 因みに私見の「投馬国」は鹿児島・宮崎両県をほぼカバーする広大な国家であった(戸数五万余)。

 邪馬台国は「福岡県八女市周辺」で狗奴国はほぼ今日の「熊本県」であることは動かせない。

 また「伊都国」は末盧国すなわち唐津市の東南の松浦川を抜けたところの佐賀平野の西「佐賀県小城市」あたりであって、福岡県の糸島郡や前原市では有り得ない――このことは私見のみの「新説」である。もし伊都国が糸島・前原市であったら壱岐島から直接船を着ければよいのである。なんでわざわざ唐津から海岸沿いの難儀な道を歩かねばならぬのだろうか?このことについての合理的な答えをこれまで聞いたことがない。

(邪馬台国論は別の機会に改めて書くことにしたい)

 

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飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈)

京都の聖護院を本山とする修験の係累は全国に及び、各地にその地の、今で言う支部が設けられた。

 曽於郡大崎町にあった「飯隈山飯福寺」は西国では並びなきその修験の寺院で、この寺の別当「蓮光院」は「五ヶ国法頭」、つまり日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬のトップであったという。

 由緒はめっぽう古く、慶雲五年(708)の創建で、開祖はかの修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の高弟・義学という人物であった。

 連綿、1160年余り、飯福寺はついに廃寺となった。明治初年、鹿児島の徹底した廃仏毀釈の嵐の前になすすべもなく消え去った。

 南北朝時代の正平年間、当地を治めていた救仁郷氏は島津氏久(第6代)に敗れて城を明け渡したが、当主の弟が出家して別当家を継いだといういわれがあり、その後、救仁郷氏は500年余りを蓮光院主として重きを成していたという。

先週の土曜日、肝付町を回り、大崎町へと出かけたついでに寺院跡を訪ねてみた。

 鹿屋から志布志へ向かう国道220号線が大崎町の中心部の信号「大崎上町」を過ぎ、いったん下りになったあと、登り返したところの信号「益丸」を左折する。

 ほぼ直線の道路を100㍍も行くと、あたりは閑静な屋敷が並ぶようになる。523uchinouraoosakikubotesan_021

もう少し行くとなにやら石造物と鳥居が見えてくる。523uchinouraoosakikubotesan_015

腕の部分があれば遠目でも即座にそれとわかる「仁王像」だった。しかも右側にも首のないのが一体。

 丈の高さには驚く。233センチあるというのだ。鹿児島にはこの仁王像は廃仏の騒動の中でも、大きすぎるゆえか今でも残されている所が多いが、こんなに大きいのは稀である。

 階段の上には鳥居が見えるが、仏教寺院になぜ?と思うはずだ。

 というのもこの飯福寺は別名「新熊野三所権現」とも言い、中世に始まった「本地垂迹説・反本地垂迹説」が支配するようにもなった。俗に言う「神仏混淆」の姿を留めているからなのである。523uchinouraoosakikubotesan_020

鳥居をくぐって約50mで粗末な作りの「本殿(本堂?)」に着く。

 間口2間、奥行き4間くらいの小さな建物だ。

 右側に屋根が延長され、そこには2体の仏像が安置されている。523uchinouraoosakikubotesan_017_2

 聖観音像と如意輪観音像かと思われるが、左の聖観音像には銘があり、造立者は朝安法印という。

 成仏、寺院の繁栄、庶民の安全・安楽を願う主旨が刻まれているが、残念ながら造立年が消えている。

 朝安法印は45世住持であり、南北朝の真っただ中に敗れた救仁郷氏の朝元法印が36世だったことを勘案すると、およそ戦国末から徳川時代初期に造立されたのではないかと思われる。 

 いずれにしても昔を偲ぶよすがにはなる。523uchinouraoosakikubotesan_019

お堂を西から眺める。

 牧草や夏野菜の播かれた畑に取り囲まれてこじんまりとひっそりたたずむお堂に、かって五ヶ国修験の本山だったという面影はまったくない。

 もし廃仏毀釈にさらされず、そのまま1200年を数える歴史を今に伝えていたとしたら、あるいは鹿児島で唯一「世界文化遺産」に登録されていたとしてもおかしくはないだろう。

 今は1辺が100m余の矩形の小高い丘が残るばかりである。

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内之浦と藤原惺窩(肝付町内之浦南方)

このところ大隅史談会発行の新刊『大隅』52号の販売に忙しい。

 各市町村の図書館に納入するのに、公共施設ゆえ直接販売はわずらわしいので、図書館に納入している業者(地元の書店)に売りに行っているのだが、土曜日(23日)は肝付町と東串良町・大崎町を回ってきた。

 かっては大隅の各市町村から大隅史談会に対して助成金(1万円程度)が出ていたので、その御礼として1冊をそれぞれの図書館に寄贈していたのだが、打ち切られてからは販売することになった。一般会員などへの販売・発送に一区切りついたこの時期は、いつも電話で注文を取っては業者に納入に行くのが日課だ。

 一番遠い肝付町内之浦の書店に行くことになったので、ついでに藩政時代以前からあった旧内之浦港のあたりを見たいと思い、史談会前会長の江口先生をお訪ねした。旧内之浦港に慶長の頃、江戸朱子学の祖「藤原惺窩」が大陸(明王朝)に渡ろうとやってきた時に、そこに何泊かしたというので、それを確かめたいと思ったのである。

 先生曰く――私が起案した教育委員会の説明看板が、まだそこに建っているはずですよ。

 そこで、道を教えてもらい、2キロ弱南下することにした。町の中を走り、国道448号線が大きく右へカーブする所の信号をそのまま真っ直ぐに入り、二つ目の角を左折する。道は港に近い細い路地で、左右の人家は軒を連ねていかにも旧道の感じがする。200メートルほど行くと、とある民家の長い築地壁の一角にその説明看板が取り付けられていた。523uchinouraoosakikubotesan_001

説明板によれば、ここは「津口番所」の跡だった。

 津口番所とは薩摩藩の港を取り締まる役所のことで、藩内には24ヶ所あったという。

 そのほかに遠見番所というのもあり、それはちょっとした見晴らしのいい丘の上のようなところに建てられ、おもにあやしげな異国船を発見する役所であったが、ここにも向かいの津代半島の先端「火御崎(ひのみさき)」に設けられていたそうだ。523uchinouraoosakikubotesan_004

津口番所の通りの先の左手には「内之浦漁協・本所」の水揚げ場があり、右手には河口港がある。

(内之浦漁協)523uchinouraoosakikubotesan_006

ここが河口港というのは、左手奥の山々から流れてきた「小田川」の河口だったからだ。

 今の小田川は港の左手奥で仕切られ、右手を北上して街中を流れ、内之浦最大の川「広瀬川」と合流して海に注いでいるが、かってはここに注いでいた。

 この津口番所のある小さな「岬」は、小田川が形成した砂嘴(さし)に他ならない。

 藤原惺窩はこの砂嘴の一角にあった船頭の家に逗留したという。

時に慶長元年(1596)旧暦7月12日から18日までのことである。惺窩35か6歳の頃、まさに人としての盛りの時代であった。

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さっきの小路にもどり、反対方向から津口番所を写す。

 路地のずっと奥に見える岡は「叶岳(かのうだけ)」。内之浦の平野のど真ん中に屹立する標高187mの一大展望台だ。

(注:道の真ん中に落ちている黒いものはカラスの死骸。カラスは賢い鳥でこんな醜態をさらすことはまず有り得ない。私も物心ついて以来、ハトやスズメの死骸は見たことがあるが、カラスに限ってはない。しかもつい最近どこでかは忘れたが、別の死骸を見ている。いったいどうしたことだろう?)523uchinouraoosakikubotesan_014

津口番所のある漁協本所から再びもとの道を行き、役場の手前を左折して橋を渡り、すぐ右折して山すそを走ると、やがて「叶岳入り口」の表示を見、登ること5分、頂上直下の展望台に出る。

 そこから東を眺めるとさっき居た漁協のある港町が見下ろせる。(右の杉と左の照葉樹の間に展開するのが港町だ)

 藤原惺窩は津口番所近くの船頭の家に滞在している間、琉球の話を聞いたり、ルソン(フィリピン)到来の珍品を見たり、渡航記録などを読んだりしている。

 慶長元年(1596)7月18日には肝付町の波見港に行くが、途中、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしている。同日正午に波見港に到着、あたりの風景を絶賛してもいる。

 その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡った。

 山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺(しょうりゅうじ=臨済宗)で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めた。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始祖・藤原惺窩の誕生であった。そして直弟子で将軍府の学頭となった林羅山が、幕府教学の中心としての朱子学を確固たるものにしたのである。

 その論語の新訓を大成させた儒者こそが加治木安国寺住持「南浦文之(なんぽ・ぶんし)和尚」であった。文之を含む鹿児島の薩南学派の開明性や推して知るべし、ではないか。

このことは幕末の国学徒も認識しており、ために、かの本居宣長の弟子をして『襲国偽僣考(そのくにぎせんこう)』(鶴峰戊申著。邪馬台国は襲国=クマソ国であり、大陸王朝とは通交があって文字=漢文を知っており、その女酋だった卑弥呼はそういう文化の中で、かってに大和王朝を偽称して魏に使者を送っていた―という要旨)を書かせたのだろう。

 内之浦を「内裏」と書いて「だいり」と読ませ、景行天皇の「筑紫巡幸」に付会させる説が地元にあるが、景行天皇は実際には来ていない以上、それは文字通りの付会であろう。「内」を「ウチ」ではなく「ウツ」とする私見では内之浦は「ウツの浦」であり、「ウツ」とは「すべてが整っている、完全な」という意味であるから内之浦は「浦としては完全な、つまり停泊の安全も、水も、食料もすべてが整っている港」となり、歴史的にも上述のように異国船までがやってくる良港だったことで証明されよう。

(注:藤原惺窩の大隅滞在については『高山郷土誌』を参照した)

 

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県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口)

肝付郡の文化財審議委員会総会が旧根占町で開催された。

案内を受けていたので、大隅史談会として5月21日の午後、史跡めぐりに参加した。

上諏訪地区にある紀年銘のある物としては県内の「宇都の板碑」と「宇都のやぐら」が、やはり圧巻であった。521nejimesisekimeguri_002

「二つ(並び)鳥居」で有名な諏訪神社に向かって右手、5~60㍍行った所に、小さな標識があるからそこを左手の崖に向かって登って行く。521nejimesisekimeguri_004

比高にして12~3m、距離にして100メートルほど登った先に、高さ1メートルくらいの板碑が立つ。

 これが県内最古の正応6(1283)年に建立の板碑だ。

 正面には「キリーク」という梵字で仏の種類を表した文字が刻まれている。

梵字は「カーン」と読むそうで「阿弥陀仏」を表しているという。521nejimesisekimeguri_006

正応の板碑から少し上がった所には2基の板碑が立つ。

 手前のは80センチくらいだが、奥のは180センチ近い長身だ。こちらは正応の板碑に遅れること11年、永仁2(1294)年に造られている。

 合計で3基の鎌倉時代の板碑が至近距離に三基もあるのは珍しい。

 供養の対象は祢寝(ねじめ)氏初代清重から3代までだそうだ。

 「やぐら」はさらにその上の凝灰岩で造られた比高25メートルの断崖絶壁の場所に掘り込まれていた。521nejimesisekimeguri_008

凝灰岩の崖が間口2.7mm、高さ2m、奥行き1.8mくらいにくり抜かれている。

 左右と奥には、棚状の仏像を安置するくり抜きがある。521nejimesisekimeguri_009

天正年間(1573~1591)の銘のある五輪塔。

 山川石製だ。もちろん指宿市山川から切り出され、船で運ばれたはず。

 旧根占ではこのような石造物の多くが「山川石」で作られている。

「やぐら」は鎌倉の凝灰岩の崖にも数多く造られ、その役割は「墳墓説」と「中国伝来説」に分かれるが、特に鎌倉に多いとなるとやはり中国から招聘された禅宗の僧侶の持参した文化と見るのが自然だろう。521nejimesisekimeguri_012

諏訪神社から北へ400mほど行くと、右側に「北之口公民館」(勝雄寺跡)を見るが、そのすぐ横に珍しい「月輪塔婆」がある。521nejimesisekimeguri_013

向かって右が「月輪塔婆」。県内ではここに一つあるだけという。

 向かって左は「逆修五輪塔」で、天正年間の作。

 どちらも「山川石」製である。521nejimesisekimeguri_016

 北之口公民館の左の入り口からは「祢寝(ねじめ)氏累代の墓」に至る。

 墓地の奥は草原で、その向こうは照葉樹林の丘である。521nejimesisekimeguri_018

ここには佐多に墓のある3代までを除く、4代清親から島津氏に降った16代重長(しげたけ)までの墓がある。

 主人には宝きょう印塔、正室には五輪塔が建てられ、350年の星霜を凝縮させている。521nejimesisekimeguri_021

最後に辺田海岸にある「砲台跡(台場跡)」を見学。

 ここは文久3年夏に行われた「薩英戦争」に備えて作られ砲台で、ここから鹿児島湾に入ってきたイギリス軍艦を狙い撃ちしたが、成果はゼロだったようだ。

 だが、鹿児島市の祇園洲台場に据えつけられたこれと同じガトリング砲からぶっ放された弾は、見事にイギリスの旗艦「ユーリアラス号」に着弾し、艦長はじめ9人もの戦死者を出したという。

 しかし敵艦の射程4キロというアームストロング砲の威力はすさまじく、鹿児島城下の下町一帯は焼け野原になった。

 さらに薩摩藩の秘蔵の戦艦が拿捕されるに及び、戦闘を中止して和議を結ぶことになった。これ以降、鹿児島は西洋列強の強さに目覚め、ひたすら富国強兵の道へと舵をきり、維新の立役者となっって行った。その生き証人が砲台跡に他ならない。521nejimesisekimeguri_024

史跡めぐりが済んだあと、ひとりで南大隅高校のグラウンド横にある「磯長和泉守の墓」に行ってみた。

 この墓の主は海運にすぐれ、根占から琉球まで往来していた江戸初期(慶長年間)の人物で、裏山が崩れて埋もれていたのを、最近になって当地の文化財審議委員のM氏が掘り起こし復元したものである。

 (同じ場所に後裔の磯長得三(根占書籍館の創立者=九州でも2番目にできた図書館)が、埋没した墓の代わりの「磯長家歴代墓」を建立している)

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寡黙なる春

去年から今年にかけてミツバチが大量失踪したことが話題になっている。

 そう言えば、春先になるとよく街の花壇の花々に群れ集い、ブンブン羽音をたてるミツバチの集団がいるものだが、この春はそういうのを見たことがない。

 一度、町の道路で、まるでウンカのように上下に回りながらもやっている集団に出くわしたが、そんな光景はこれまで見たことがなかったし、「ウンカのように」というほどの数ではなく、せいぜい2、30匹だったと思う。

 また、勤務先の近くのアスファルトの上に一匹の死骸を見ている。つい最近は街中の民家の入り口に咲くシロツメクサの花の周りを、これも一匹単独で飛んでいるのを見たばかりだ。

 つまり巷間で言われるように「全部が忽然と姿を消した」のではなく、いることはいるが、単独かそれに近い状態では存在し、どう見てもこれから先、繁殖して殖えていくような気配は全くなく、いずれは絶滅する(あるいはどこかへ行ってしまう)のではないか、とは十分考えられる状態だ。

 その理由の大きなひとつが「太陽黒点の極端な減少」かもしれない。

 去年の8月は一ヶ月余りまったく黒点が観測されず、またその2ヵ月後の11月から今年の4月までほとんど黒点らしきものが現れていないそうだ。こんなに長い「太陽の黒点なし」は、1913年の通算300日余に次ぐというから、金融危機に関わる「百年に一度の大恐慌」が宇宙現象にも現れていることになる(因果は逆かも知れぬ)。

 太陽の黒点は「磁気活動の象徴」だそうだから、黒点がないということは「太陽の磁気活動が低下している」ことになり、これは地球温暖化の反対の「地球低温化」を招くという。それが徐々に来るのなら対処のしようがあるが、突然やって来た日にはお手上げだ。

 考えられるのが「某火山の大爆発」―なんてことにならなければよいが・・・。火山の大爆発に伴う熱雲の発生で太陽光が遮られたら、一気に寒冷化だ。7月22日の「皆既日食ツアー」なんてのんびりしたことにうつつを抜かしている暇はないことになろう。

 ところで、我が家の庭でも今年は「モンシロチョウが来ない」という珍現象に襲われていたのだが、今朝、ようやく一匹が現れた。521monsirochou_002

 玄関先の紫の小花の蜜を吸おうとしている。521monsirochou_004_2

ようやく止まって吸いはじめた。

 それにしても久しぶりだ。4月から5月にかけては、いろいろな花が咲き、それを目がけていつも5~6匹が群れをなし、上下に戯れながら蜜を吸ったり、葉の裏に卵を産みつけたりと、せわしげな行動をするのだが、今年はとんと見なかった。

 今朝はやって来たにはやって来たが、単独である。蜜だけ吸って卵を産みつけることは無かった。521monsirochou_003

ミツバチにしろモンシロチョウにしろ、彼らは「太陽黒点の消滅による影響」を体で本能的に感じているのだろう。

 とりあえず彼らは「子孫を産んでもしょうがないから、産まない」という行動を取っているように見えるのだが、思い込みが過ぎるだろうか・・・・・。

※「寡黙なる春」は『沈黙の春』(レイチェル・カーソン女史)から取った題。

 上記書は1960年代後半「環境汚染(特に農薬の)」が社会問題になった時勢にベストセラーになり、その後開かれた「ローマ会議」の基調に大きな影響を与えた。

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サトイモの露

ゴールデンウィーク以来、もう3週間、雨らしい雨に見放されている。

この頃は毎朝と毎夕の二回、畑に定植した夏野菜(ミニトマト、ナス、ピーマンの定番三種と、枝豆・スイートコーン)に水をやるのが日課だ。

今朝もやっていると、ピーマンの隣りに芽を出したサトイモが、ぐんぐん大きくなっているのに驚く。517satoimonotuyu_001

たぶん去年掘り取らずにほったらかしにしていたやつだ。

 6、7本も芽を出している。

 水をやると、たくさん出た葉のうち、二枚に水が溜まって透明なガラス玉を作った。

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これはいわば「模造ガラス」だが、真夏になればちょっと湿度の高い日の晴れた朝、上を向いた葉には必ずガラス玉を乗せているのが見られる。

 小芋ごとに分けてやれば6,7本の立派なサトイモが林立するようになるのだが、菜園で作るには株の大きさの割りに実(芋=根)の収穫が少ないのであえて栽培はしない。

 むしろ観賞用としてそのままにしておく。

 サトイモは新芋(子芋)よりその元となった旧芋(親芋)を「ヤツガシラ(八頭)」と呼んで、「家族繁栄」の象徴として尊ばれる。517satoimonotuyu_003

今年はこの一群を掘り取ってみよう。孫芋までごろごろ現れるかもしれない。

 孫――と言えば、昨日、民主党新代表に「鳩山由紀夫」が選ばれたが、ユキオは鳩山一郎の孫である。

 他方の自民党総裁にして首相の麻生太郎は吉田茂の孫である。

 ユキオは父系の孫、タローは母系の孫の違いはあるが、どっちも戦後間もなくの「自由党」と「民主党」のそれぞれの代表で、先に自由党の吉田茂が首相を務めたあと、代わって鳩山一郎が首相に就任している。

 いわば一代遅れの因縁の組み合わせということになる。

 鳩山一郎は自由党と民主党の合同、つまり自由民主党の結成のあと、最初の党首兼首相を務め、敗戦後、西欧列強の中ではただ一国日本を認めようとしなかったソ連と平和条約を結び、国連加入を実現させた功労者だ。

 しかし一見して外交通のように思われる鳩山一郎だが、実はその前の首相・吉田茂の根回し的外交手腕の成果の果実を貰ったに過ぎない。

 外交に関してはやはりタロー芋の方に軍配が上がるだろう。

 タローの後、タローが再任されるのか、それともユキオか、予断は許さないが、一時代前の祖父たちの時のように二党が合同か、再編するかして「みぞゆー」の国難に対処するような事態にならないとも限らない。もちろん「事態」といっても悪い方向ではなく、日本の国是が他国のモデルとなるような方向に進んで欲しい。

 繰り返し言う―「非核武装・永世中立平和国家」へ。

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あふちの木(鹿屋市西原町・川東町)

万緑の5月。

照葉樹がわが世の春を謳歌している大隅で、落葉樹だけれど、今、負けてはいないぞという木がある。

「あふち」の木だ。現代仮名遣いでは「おうち」だが、「あふち」の方が語呂も見た目もよい。いま、花が真っ盛りである。かわいらしい薄い藤色の小花を群生して付けている。強い光の中では目立たぬ花だが、それもまたよい。512afuchinoki_009

小枝ごとに先端を放射状に広げ、藤に似た葉と、着生ランに似た小花を無数に咲かせている。

レンギョウ、木蓮、吉野桜、八重桜と春の高木の花が一巡した後、やっと出番が来たかと学校や公園で主役を演じている。512afuchinoki_003

鹿屋市の西原小学校(西原町)の校庭では、樹齢100年近いような大きな「あふち」がずらりと並んで花を咲かせていた。512afuchinoki_001

近くの墓地には、新緑鮮やかなシイの間に2本の「あふち」がまざっている。512afuchinoki_002

通りがかりの畑でも、大きな「あふち」の木が、畑の境界を示すが如く立っていた。

 上の学校、墓地、畑にある「あふち」はそれぞれ人が目的を持って植えたに違いないのだが、「あふち」はもともとは自然木なのである。

 この頃は山の方を見ると、鮮やかな万緑の中につつましく花を咲かせているのが眼に入る。そんな「あふち」はなかなか被写体になってくれない。

 ところが、あったのである。何と川岸に。それも2本。512afuchinoki_007

肝属川の左岸に3~40㍍おいて、二本の「あふち」が日差しの真っ只中、風にそよいでいた。

(鹿屋市川東町を流れる肝属川)512afuchinoki_008

高さ8メートルくらいか。この木は植えた物ではなく、自然生だ。

 なぜなら、大きな洪水が来たら根こそぎ持っていかれそうなこんな川岸に植栽するはずはないからだ。

 植栽するならどんな洪水でも安全なもっと土手の上の方にするだろう。512afuchinoki_010

この「あふち」を栴檀(せんだん)と呼び習わしているが、「双葉より芳しい(双葉=子供のころから優れている)」と言われる栴檀は、実は白檀(びゃくだん)のことで、この木のことではない。

 昔の中国で本当は「白檀」だったのを「栴檀」と名付け、その「栴檀」が何を間違ったか日本では「あふち」の木に付会させられ広まってしまった――という。

 一度かぶせられた「ぬれぎぬ」がなかなか解消できないのに似ている。

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照葉樹林の森を歩く(肝付町)

午後から暇ができたので、『大隅照葉樹林原生林の会』の事務局長の角田さんから案内を貰っていた「金弦橋~二股林道縦走路」を歩いてみた。

「金弦(かねつる)橋」は高山ー岸良線県道を高山川沿いに上って行き、川上小学校・中学校を見てから4キロほど上流にある。金弦橋を渡ると県道は急にジグザグの登り道になり、高度をかせぎながら3キロ弱で二股川キャンプ場に至るが、縦走路は橋を渡らずに手前から左手に入っていく。510kinturubashishouyouju_024

歩き出すとすぐに高山川の清流で、花崗岩の間を縫って流れる川の水はまろやかで美味い。

 巨岩のせり出す右岸を100㍍も行くと、左手に登山路がある。

 手を加えられていない照葉樹林の中を登ること25分ほどで、小さな尾根筋に出るので楽になる。

 巨木が現れるのもこのあたりからだ。510kinturubashishouyouju_004

「スダジイ」「イスノキ」「タブノキ」が巨木の代表で、珍しいのがこのアベック。

 左は直径60センチほどのスダジイ。右隣りは直径40センチくらいのイスノキ。

 根元を共有するかのように仲良く並んで立っている。510kinturubashishouyouju_005

さらに行くと今度はタブノキにヤマフジが絡み付いている。きつく巻いているのではなくゆるく垂れ下がっているので、タブは安泰。

 よく見るとタブの幹には「サルノコシカケ」が寄生している(上の方)。直径20センチはあろうかという大きな腰掛けだ。

 大隅半島全域にニホンザルが生息しているが、こんな木はサルの遊び場にもってこいだろう。510kinturubashishouyouju_009

珍しい「カゴノキ」もあった。

「カゴ」は「鹿児(子)」で、鹿の子(バンビ)は体に斑点を持つが、この木の幹の模様がそれにそっくりだから名付けられた。

 昔むかしは猿とともに鹿もかなり生息していたようだが、南九州特産の「鹿の皮」が奈良時代以降「貢納品」に定められたため乱獲され、激減したのではなかろうか。

 大隅を歩いていて、猿はよく見るものの鹿にお目にかかったことは全くない。510kinturubashishouyouju_011

巨大な「オガタマノキ」があったのにも驚いた(手前の右の木)。オガタマは神木で、別名が「イチイ」。九州では余り見かけないが、本州以北ではよく神社の境内にあったりする。

(向こうはタブノキ)510kinturubashishouyouju_014

原生林の中の巨木は、どれも板根が発達していて圧倒される。

 これはイスノキ。510kinturubashishouyouju_018

スダジイの板根。510kinturubashishouyouju_016

タブノキも負けてはいない。

どれも板根の周囲を測ったら3メートルは下らないだろう。

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二股川キャンプ場方面からの縦走路入り口。

「自然の環境を 百年後まで 維持しましょう」という看板が立つ。『原生林の会』の手作りだ。

 ここまで約4キロほどか、2時間半の道のりだった。510kinturubashishouyouju_021

帰りは県道・高山ー岸良線を歩く。3キロあるが、下る一方だから楽だ。

 途中から見る照葉樹林帯は、いま一年中で一番輝いている。

 新緑というには余りにエネルギッシュに見える。510kinturubashishouyouju_020

いま歩いてきた所かと思われる山腹。

 森の中は日が当たらずにほの暗いのだが、外から眺めるとこの明るさ。

 エネルギーの爆発にも見える照葉樹林の春は今たけなわである。

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「海運大国」日本の再確認

今日の夕方、毎週土曜日の6時ごろから放映されるNHK「週間こどもニュース」はよく見るテレビ番組のひとつだ。純真な小学生の、社会に向ける眼がどんなものかが感じられて面白くて見ている。

 今日は特集として「海運」があった。

 「海外から日本へたくさんの物資が輸入されるけれど、その時に海運が占める割合はどのくらいか分かる?」

 お父さん(最近キャスターが変わって若い人になった)がこう言っても、子供たちは予想さえできない。

 「99.7%なんだよ」

 お父さんがそう言うと、子供たちは「ええ!まじで?」とか何とか言いながらどよめく。小学校の高学年だったら日本の貿易の輸出・輸入の特徴や、例の「加工貿易」という言葉は学んでいるはずだ。

 ところが、輸出入にせよ「加工貿易」にせよ、それを成り立たせている「海運」については詳しく学んできていない。そしてその間の事情は海運会社や貿易商社にでも勤務しない限り、大人でも同じようなものなのである。509kouyama_020

(写真はNHK「週間子供ニュース」5月9日)のテレビ画面から撮影)

 小学生キャスターの女の子が実際に港へ行き、コンテナヤードとコンテナ船を取材しているところ。509kouyama_019

海上保安間の活躍を描いた映画「海猿」やソマリア沖の海賊船対策として海上自衛隊の駆逐艦が出動したことで、海への関心は高まりつつあるが、陸上生活中心のわれわれ一般国民は海の情報には極めて疎いのが現実である。509kouyama_018

クレーンによって荷積みされるコンテナ。

 記憶に間違いが無ければ、日本は年間10億トン近くの物資を輸入している。

 コンビニやスーパーマーケットに並ぶ商品の6、70パーセントは輸入物でそのほとんどが船で運ばれて来たのだが、消費者は「○○国産」には気を配るが、はるかな航路を経てそこに陳列されているのだ、なんてことは全く意識のほかだろう。

 それほど「海運」は日常から遠ざけられている。 

 そのことは「白村江の戦い」(663年)で九州島を中心とする航海系倭人が敗れて壊滅状態になった7世紀末の時代と、はるかに飛んでアメリカとの戦い(太平洋戦争)で「海軍大国・日本」が敗れて壊滅状態になった戦後に特にひどくなった。

 白村江戦役以後は、陸上の「米」を機軸とする「律令国家」構想が大和王権のコンセプトとなって中央集権国家を実現し、太平洋戦争後は、陸上の「工業生産」を機軸とする「加工貿易国家」構想が戦後のコンセプトになり、高度経済成長国家が実現されたのだが、どちらにしても「海運」は土台の部門として日の当たらない状態が続いてきた。

 その中で原油のタンカーだけは、生命線であるエネルギー資源の運搬ということで若干の注目は浴びたことがあったが、総体的に見て陸上部門の話題性にははるかに及ばなかったし、今でも、実情はこの番組が示した通りである。

 「海の日」(7月20日)が制定されてだいぶ経つが、海水浴をはじめとする海のレジャーを楽しむ日という風に矮小化されてしまっているのが現状だ。もう少し世界大の交易に眼を振り向けないといけないだろう。歴史のなぞも、海運を理解しないと解けないものが多いのである。

 

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打馬(うつま)町界隈(鹿屋市打馬町・王子町)

鹿屋市中心部の大手町信号から、鹿屋城とは反対の寿町方面への広い坂道を上がると200メートルほど行った左手に「市営緑山墓地」がある。墓地の中の道はそのまま打馬方面へ下っていくので入ってみる。506utsuma_002

入って最初の墓を過ぎるとすぐに見晴らしがよくなる。打馬地区の展望台といってよい。

 手前の田んぼは県立鹿屋農業高校の田で、毎年6月に田植えされた後、アイガモを放して無農薬栽培をする。

 その田んぼの家並みの向こうを肝属川が流れ、対岸には鹿屋小学校が見える。

 小学校の左手奥の高いビルは旧県立病院で、今は札元地区に移転して「鹿屋健康増進センター」の医療部門として統合発展した機関だが、廃ビルを撤去する予算が無かったかとか、地元の反対があったとかで、廃墟のまま放置されている。

 ミステリーの舞台にならなければよいが・・・。506utsuma_003

視点を右に(東に)ずらすと、打馬の中心地区が広がって見える。

 小学校の右手方向には裁判所、法務局、県の合同庁舎などが、国道504号線沿いに立ち並ぶ。

 そして家並みの中に一つの森がこんもりと茂っているのが分かる。506utsuma_005

撮影場所を変え、ズームアップして見ると、森の真ん中に社殿のような建物がある。

 あれは打馬地区の総鎮守「春日神社」だ。

 墓地公園を下りて、正面に回ってみる。 506utsuma_015

大手町に戻り、信号を右折して国道504号線を北に向かう。

 約400メートル先の二つ目の信号を右折し、100㍍も行くと鳥居が目に入る。506utsuma_012_3

鳥居から拝殿まではほぼ一直線で、周囲の道路からは少しずつ登り坂となり、拝殿の手前で一段高くなる。506utsuma_014_2

拝殿の奥に鎮座する本殿は千木を乗せた立派なものだが、そこはさらにまた一段高くなっている。

 どうも円墳の上に乗っかっているようなのだ。手前の鳥居からの一直線の高みは前方後円墳の「方」の部分ではないだろうか。

 以前からそんな気がしていたのだが、今回、緑山墓地から眺めてみて、いよいよその感を深めた。

 因みにこの神社は祭神は奈良の春日大社と同じ「タケミカヅチ神、アメノコヤネ命」で、再建の棟札に「天文3年(1534)藤原忠吉」とあるそうだ(『鹿屋市史』による)。506utsuma_011

春日神社を後にして、左手の道を進むと100㍍余りで肝属川に出る。そこに架かるのは「山中橋」で、橋から下流を見るとすぐそこで川が二手に分かれる。

 右手は本流だが、左手は分水路だ。

 これは昭和51年に起きた鹿屋大水害を教訓に、災害対策を立てた時に考え出された放水路計画の中の「トンネル(隧道)案」が実現したもので、珍しい対応策だったといえる。

 肝属川が右に大きくカーブをするその一角を切り裂き、向こうに見えるシラス台地の下をくぐらせたもので、全長2,7キロ、うちトンネル部分は1,6キロ強。平成12年に完成を見て以来、たしかに水害は発生していない。506utsuma_007

鹿屋分水路の入り口。ぶち抜くシラス台地の高さは比高で40メートル弱。506utsuma_001_2 手前を横切るコンクリートは川東用水路。こちらは鹿屋中心部を迂回し、分水路の出口(新川町)の前を通過して川東地区の田んぼ地帯まで通じている。

 トンネルが無い分、分水路より2キロ以上は迂回して流れることになる。506utsuma_010

鹿屋の中心部を通る川東用水の取水口がこれ。「和田井堰」といい、分水路の分岐点より500メートルほど上流にある。506utsuma_009_2

和田井堰の下流左岸には「和田井堰公園」がある。

 広い芝生広場と、右手のシラス台地からの湧き水を引いた人工の流れと池が、憩いの場を提供している。

 9月になると川東から水神祭りの踊り連がやって来て、感謝の踊りを奉納する場所でもある。

 

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アカメガシワ

我が家の庭のオオバベニガシワのことを最初「アカメガシワ」と思い込んでいて、その誤りに気付いたのだったが、件のアカメガシワが鹿屋市立図書館に行く途中の上谷川沿いに数本生えていた。504sendan_005

そんなに大きなものではなく、ガードレールの下のアスファルトと護岸のコンクリ^とのわずかな隙間から高さ2メートル余りにも伸びている。

 これも「根性物」に数えられるのか・・・。

 横への枝の張り出し方は見事なもので、庭のオオバベニガシワとは対照的だ。504sendan_004

 枝の先々には互生する柏に似た葉を広げ、先端に近い二段くらいが赤々としている。

 ただその赤い葉が下の緑の葉と比べて極端に小さいので、一見すると花のようにも見える。

 それで思い出したのが「ポインセチア」だ。クリスマスが近づくと決まって花屋の店先を彩る植物だが、あれも花と見まごうほどの見事なまでに赤い葉を、先端につける。

アカメガシワは構造的にそれとよく似ているが、ほんのりとした紅色と穏やかなグリーンのグラデーションが上品で涼しげに見える。

 近写してしげしげ眺めてみると、野に在る物もなかなかどうしてお洒落なものだ。

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