県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口)
肝付郡の文化財審議委員会総会が旧根占町で開催された。
案内を受けていたので、大隅史談会として5月21日の午後、史跡めぐりに参加した。
上諏訪地区にある紀年銘のある物としては県内の「宇都の板碑」と「宇都のやぐら」が、やはり圧巻であった。
「二つ(並び)鳥居」で有名な諏訪神社に向かって右手、5~60㍍行った所に、小さな標識があるからそこを左手の崖に向かって登って行く。
比高にして12~3m、距離にして100メートルほど登った先に、高さ1メートルくらいの板碑が立つ。
これが県内最古の正応6(1283)年に建立の板碑だ。
正面には「キリーク」という梵字で仏の種類を表した文字が刻まれている。
梵字は「カーン」と読むそうで「阿弥陀仏」を表しているという。
正応の板碑から少し上がった所には2基の板碑が立つ。
手前のは80センチくらいだが、奥のは180センチ近い長身だ。こちらは正応の板碑に遅れること11年、永仁2(1294)年に造られている。
合計で3基の鎌倉時代の板碑が至近距離に三基もあるのは珍しい。
供養の対象は祢寝(ねじめ)氏初代清重から3代までだそうだ。
「やぐら」はさらにその上の凝灰岩で造られた比高25メートルの断崖絶壁の場所に掘り込まれていた。
凝灰岩の崖が間口2.7mm、高さ2m、奥行き1.8mくらいにくり抜かれている。
天正年間(1573~1591)の銘のある五輪塔。
山川石製だ。もちろん指宿市山川から切り出され、船で運ばれたはず。
旧根占ではこのような石造物の多くが「山川石」で作られている。
「やぐら」は鎌倉の凝灰岩の崖にも数多く造られ、その役割は「墳墓説」と「中国伝来説」に分かれるが、特に鎌倉に多いとなるとやはり中国から招聘された禅宗の僧侶の持参した文化と見るのが自然だろう。
諏訪神社から北へ400mほど行くと、右側に「北之口公民館」(勝雄寺跡)を見るが、そのすぐ横に珍しい「月輪塔婆」がある。
向かって右が「月輪塔婆」。県内ではここに一つあるだけという。
向かって左は「逆修五輪塔」で、天正年間の作。
北之口公民館の左の入り口からは「祢寝(ねじめ)氏累代の墓」に至る。
ここには佐多に墓のある3代までを除く、4代清親から島津氏に降った16代重長(しげたけ)までの墓がある。
主人には宝きょう印塔、正室には五輪塔が建てられ、350年の星霜を凝縮させている。
最後に辺田海岸にある「砲台跡(台場跡)」を見学。
ここは文久3年夏に行われた「薩英戦争」に備えて作られ砲台で、ここから鹿児島湾に入ってきたイギリス軍艦を狙い撃ちしたが、成果はゼロだったようだ。
だが、鹿児島市の祇園洲台場に据えつけられたこれと同じガトリング砲からぶっ放された弾は、見事にイギリスの旗艦「ユーリアラス号」に着弾し、艦長はじめ9人もの戦死者を出したという。
しかし敵艦の射程4キロというアームストロング砲の威力はすさまじく、鹿児島城下の下町一帯は焼け野原になった。
さらに薩摩藩の秘蔵の戦艦が拿捕されるに及び、戦闘を中止して和議を結ぶことになった。これ以降、鹿児島は西洋列強の強さに目覚め、ひたすら富国強兵の道へと舵をきり、維新の立役者となっって行った。その生き証人が砲台跡に他ならない。
史跡めぐりが済んだあと、ひとりで南大隅高校のグラウンド横にある「磯長和泉守の墓」に行ってみた。
この墓の主は海運にすぐれ、根占から琉球まで往来していた江戸初期(慶長年間)の人物で、裏山が崩れて埋もれていたのを、最近になって当地の文化財審議委員のM氏が掘り起こし復元したものである。
(同じ場所に後裔の磯長得三(根占書籍館の創立者=九州でも2番目にできた図書館)が、埋没した墓の代わりの「磯長家歴代墓」を建立している)
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コメント
拝啓
神田三男先生の時代には「大隅史談会」の方々にはたいへんお世話になりました。町名が変わっても、地元の歴史が大事にされていることを知り、うれしく思います。
根占献一
投稿: 根占献一 | 2013年10月29日 (火) 14時11分
根占先生には史談会の運営に当たり、いつもご協賛を頂いておりまして感謝申し上げます。恐縮です。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: kamodoku | 2013年10月30日 (水) 20時33分