« 県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口) | トップページ | 飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈) »

内之浦と藤原惺窩(肝付町内之浦南方)

このところ大隅史談会発行の新刊『大隅』52号の販売に忙しい。

 各市町村の図書館に納入するのに、公共施設ゆえ直接販売はわずらわしいので、図書館に納入している業者(地元の書店)に売りに行っているのだが、土曜日(23日)は肝付町と東串良町・大崎町を回ってきた。

 かっては大隅の各市町村から大隅史談会に対して助成金(1万円程度)が出ていたので、その御礼として1冊をそれぞれの図書館に寄贈していたのだが、打ち切られてからは販売することになった。一般会員などへの販売・発送に一区切りついたこの時期は、いつも電話で注文を取っては業者に納入に行くのが日課だ。

 一番遠い肝付町内之浦の書店に行くことになったので、ついでに藩政時代以前からあった旧内之浦港のあたりを見たいと思い、史談会前会長の江口先生をお訪ねした。旧内之浦港に慶長の頃、江戸朱子学の祖「藤原惺窩」が大陸(明王朝)に渡ろうとやってきた時に、そこに何泊かしたというので、それを確かめたいと思ったのである。

 先生曰く――私が起案した教育委員会の説明看板が、まだそこに建っているはずですよ。

 そこで、道を教えてもらい、2キロ弱南下することにした。町の中を走り、国道448号線が大きく右へカーブする所の信号をそのまま真っ直ぐに入り、二つ目の角を左折する。道は港に近い細い路地で、左右の人家は軒を連ねていかにも旧道の感じがする。200メートルほど行くと、とある民家の長い築地壁の一角にその説明看板が取り付けられていた。523uchinouraoosakikubotesan_001

説明板によれば、ここは「津口番所」の跡だった。

 津口番所とは薩摩藩の港を取り締まる役所のことで、藩内には24ヶ所あったという。

 そのほかに遠見番所というのもあり、それはちょっとした見晴らしのいい丘の上のようなところに建てられ、おもにあやしげな異国船を発見する役所であったが、ここにも向かいの津代半島の先端「火御崎(ひのみさき)」に設けられていたそうだ。523uchinouraoosakikubotesan_004

津口番所の通りの先の左手には「内之浦漁協・本所」の水揚げ場があり、右手には河口港がある。

(内之浦漁協)523uchinouraoosakikubotesan_006

ここが河口港というのは、左手奥の山々から流れてきた「小田川」の河口だったからだ。

 今の小田川は港の左手奥で仕切られ、右手を北上して街中を流れ、内之浦最大の川「広瀬川」と合流して海に注いでいるが、かってはここに注いでいた。

 この津口番所のある小さな「岬」は、小田川が形成した砂嘴(さし)に他ならない。

 藤原惺窩はこの砂嘴の一角にあった船頭の家に逗留したという。

時に慶長元年(1596)旧暦7月12日から18日までのことである。惺窩35か6歳の頃、まさに人としての盛りの時代であった。

 523uchinouraoosakikubotesan_008

さっきの小路にもどり、反対方向から津口番所を写す。

 路地のずっと奥に見える岡は「叶岳(かのうだけ)」。内之浦の平野のど真ん中に屹立する標高187mの一大展望台だ。

(注:道の真ん中に落ちている黒いものはカラスの死骸。カラスは賢い鳥でこんな醜態をさらすことはまず有り得ない。私も物心ついて以来、ハトやスズメの死骸は見たことがあるが、カラスに限ってはない。しかもつい最近どこでかは忘れたが、別の死骸を見ている。いったいどうしたことだろう?)523uchinouraoosakikubotesan_014

津口番所のある漁協本所から再びもとの道を行き、役場の手前を左折して橋を渡り、すぐ右折して山すそを走ると、やがて「叶岳入り口」の表示を見、登ること5分、頂上直下の展望台に出る。

 そこから東を眺めるとさっき居た漁協のある港町が見下ろせる。(右の杉と左の照葉樹の間に展開するのが港町だ)

 藤原惺窩は津口番所近くの船頭の家に滞在している間、琉球の話を聞いたり、ルソン(フィリピン)到来の珍品を見たり、渡航記録などを読んだりしている。

 慶長元年(1596)7月18日には肝付町の波見港に行くが、途中、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしている。同日正午に波見港に到着、あたりの風景を絶賛してもいる。

 その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡った。

 山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺(しょうりゅうじ=臨済宗)で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めた。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始祖・藤原惺窩の誕生であった。そして直弟子で将軍府の学頭となった林羅山が、幕府教学の中心としての朱子学を確固たるものにしたのである。

 その論語の新訓を大成させた儒者こそが加治木安国寺住持「南浦文之(なんぽ・ぶんし)和尚」であった。文之を含む鹿児島の薩南学派の開明性や推して知るべし、ではないか。

このことは幕末の国学徒も認識しており、ために、かの本居宣長の弟子をして『襲国偽僣考(そのくにぎせんこう)』(鶴峰戊申著。邪馬台国は襲国=クマソ国であり、大陸王朝とは通交があって文字=漢文を知っており、その女酋だった卑弥呼はそういう文化の中で、かってに大和王朝を偽称して魏に使者を送っていた―という要旨)を書かせたのだろう。

 内之浦を「内裏」と書いて「だいり」と読ませ、景行天皇の「筑紫巡幸」に付会させる説が地元にあるが、景行天皇は実際には来ていない以上、それは文字通りの付会であろう。「内」を「ウチ」ではなく「ウツ」とする私見では内之浦は「ウツの浦」であり、「ウツ」とは「すべてが整っている、完全な」という意味であるから内之浦は「浦としては完全な、つまり停泊の安全も、水も、食料もすべてが整っている港」となり、歴史的にも上述のように異国船までがやってくる良港だったことで証明されよう。

(注:藤原惺窩の大隅滞在については『高山郷土誌』を参照した)

 

|

« 県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口) | トップページ | 飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈) »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 県内最古の板碑と祢寝(ねじめ)氏累代の墓(南大隅町諏訪上・北之口) | トップページ | 飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈) »