飯隈山飯福寺跡を訪ねる(曽於郡大崎町飯隈)
京都の聖護院を本山とする修験の係累は全国に及び、各地にその地の、今で言う支部が設けられた。
曽於郡大崎町にあった「飯隈山飯福寺」は西国では並びなきその修験の寺院で、この寺の別当「蓮光院」は「五ヶ国法頭」、つまり日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬のトップであったという。
由緒はめっぽう古く、慶雲五年(708)の創建で、開祖はかの修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の高弟・義学という人物であった。
連綿、1160年余り、飯福寺はついに廃寺となった。明治初年、鹿児島の徹底した廃仏毀釈の嵐の前になすすべもなく消え去った。
南北朝時代の正平年間、当地を治めていた救仁郷氏は島津氏久(第6代)に敗れて城を明け渡したが、当主の弟が出家して別当家を継いだといういわれがあり、その後、救仁郷氏は500年余りを蓮光院主として重きを成していたという。
先週の土曜日、肝付町を回り、大崎町へと出かけたついでに寺院跡を訪ねてみた。
鹿屋から志布志へ向かう国道220号線が大崎町の中心部の信号「大崎上町」を過ぎ、いったん下りになったあと、登り返したところの信号「益丸」を左折する。
ほぼ直線の道路を100㍍も行くと、あたりは閑静な屋敷が並ぶようになる。
腕の部分があれば遠目でも即座にそれとわかる「仁王像」だった。しかも右側にも首のないのが一体。
丈の高さには驚く。233センチあるというのだ。鹿児島にはこの仁王像は廃仏の騒動の中でも、大きすぎるゆえか今でも残されている所が多いが、こんなに大きいのは稀である。
階段の上には鳥居が見えるが、仏教寺院になぜ?と思うはずだ。
というのもこの飯福寺は別名「新熊野三所権現」とも言い、中世に始まった「本地垂迹説・反本地垂迹説」が支配するようにもなった。俗に言う「神仏混淆」の姿を留めているからなのである。
鳥居をくぐって約50mで粗末な作りの「本殿(本堂?)」に着く。
間口2間、奥行き4間くらいの小さな建物だ。
聖観音像と如意輪観音像かと思われるが、左の聖観音像には銘があり、造立者は朝安法印という。
成仏、寺院の繁栄、庶民の安全・安楽を願う主旨が刻まれているが、残念ながら造立年が消えている。
朝安法印は45世住持であり、南北朝の真っただ中に敗れた救仁郷氏の朝元法印が36世だったことを勘案すると、およそ戦国末から徳川時代初期に造立されたのではないかと思われる。
お堂を西から眺める。
牧草や夏野菜の播かれた畑に取り囲まれてこじんまりとひっそりたたずむお堂に、かって五ヶ国修験の本山だったという面影はまったくない。
もし廃仏毀釈にさらされず、そのまま1200年を数える歴史を今に伝えていたとしたら、あるいは鹿児島で唯一「世界文化遺産」に登録されていたとしてもおかしくはないだろう。
今は1辺が100m余の矩形の小高い丘が残るばかりである。
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