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ユタと沖縄のこころ

夜のテレビ番組「大人のソナタ」(KKB=鹿児島放送)を見ていたら、ありふれた「予知能力」の話であったが、途中から沖縄に今も存在する「ユタ」という「神の声を聴く心理カウンセラー」が取り上げられていた。

 ユタはすでに聞いたことがあるし、古い映像が別の番組でも放映されたことがあったから、よく知っている。628okinawanonoro_003

沖縄本島の西にある「久高島」では、「イザイホー」と呼ばれるユタになるための儀式があり、何年かにいっぺん写真のようなユタ候補たちが4日間にわたって一同に会して行われる。628okinawanonoro_006

琉球大の赤嶺教授によると、「聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とするユタたちの組織が公然と設立されたのは、世界でも類例がない」とのことである。

 要するに古代以前にあった「祭政一致」の統治体制のうち「祭」を司るのが「聞得大君」であり、ユタたちはその配下にはべり、国家の枢要事について「神がかりになって」答申していたのだ。

 番組ではこの組織は外部からもたらされたように説明していたが、むしろ逆で、古代以前の祭政一致体制が沖縄には残された――というべきだろう。628okinawanonoro_007

番組では宮古島在住の本物のユタに密着取材していた。

 65歳という彼女は23歳の時に、「カンダーり(神がかり)」に遭い、狂ったように島中を歩き回り、3ヶ月もの間、ほとんど寝られなかったそうである。

 歩き回った末、ある昔ながらの井戸が工事で埋もれそうになった事実に行き当たり、それを守って工事による消滅から救ったことで、「カンダーリ」が収まった。そこは実は古代からある「御嶽(うたき)=聖地」だったという。

(思うに「カンダーリ」とは神がかりではなく「神垂れ(カンダレ)」であろう)。

 このような人は実は古代以前の日本列島にはたくさんいた。

 日本書紀の「景行天皇紀」では、天皇自ら九州のクマソを征伐にやってくるのだが、九州には次のような女首長がいた。

 ・神夏磯媛(かむかしひめ)=豊前国の首長

 ・速津媛(はやつひめ)=豊後の速見邑の首長

 ・市乾鹿文・市鹿文(いちひかや・いちかや)=クマソ国の首長の娘姉妹。おそらく「祭」を司っていた。

 ・御刀媛(みはかしひめ)=日向国の首長

 ・泉媛(いずみひめ)=諸県君(もろかたのきみ=諸県の首長)

 ・八女津媛(やめつひめ)=八女県(やめのあがた)の首長

 この最後の八女津媛こそが邪馬台国女王ヒミコとするのが私見だが、いずれにせよ九州では女首長があまたいて、沖縄の「聞得大君」のような役割を果たしていたに違いない。それが律令制以降、中国大陸の官制が導入されるに及んで、このような女性の「祭祀権」が奪われ、ついにはたんなるシャーマンという地位に落ちてしまった。

 明治維新は「王政復古」であり、要するに「中国(唐)の官僚組織にならった天皇を頂点とする律令体制への復帰」だったわけだが、もう一度維新があるとすれば、そこをさらに遡り「女性の祭祀権をも戴く統治体制への回帰」に行き着くであろう。

 美智子皇后が垣間見せる「母性的安心感を国民に分かち与える」ことが、これからますます必要になってくるに違いない。

 そこでは「地位も名誉も金も物も、一切が相対化され、真実のココロが自他共に尊重される」はずである。

 番組の最後に沖縄出身の元チャンプルーズ・現国会議員「嘉納昌吉(かのうしょうきち)」が「花」を歌っていたが、その主題は「心の中に花を咲かそうよ」であった。そう、決して外部に対してひけらかす花(地位・名誉・金)ではなく、ココロが本当に求めている花なのである。628okinawanonoro_008

628okinawanonoro_009 「金・地位・名誉という花」なぞいらぬ。

 「心の奥にある真実の自分(花)を探そうよ」

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桜島と中世史研究会

土曜日(27日)の午後2時からの「中世史研究会」(黎明館3階会議室・主催同会代表・小園公雄先生)の発表に出かけた。

 途中、垂水市街地を過ぎ、海潟漁港にさしかかるあたりで桜島が正面に高く見えるようになるのだが、南岳火口にやけに水蒸気雲がかかっているなと思う間もなく、小噴火が起き、黒い噴煙が立ち昇った。627sakurajimatokenkyuukai_001

時計を見ると12時43分だった。

 150メートルほどの隧道を抜けたところで、左の小道に車を停めて写す。627sakurajimatokenkyuukai_003

500㍍ほど行った早崎大橋の上から見ると、噴煙はこちら(東)に向かっておらず、右手(北)方向へ流れているように見えた。627sakurajimatokenkyuukai_004

早崎大橋を渡ったT字路を左折して桜島の南側を走り、約10キロ、野尻川に架かる橋から見たら、北方向かと思っていた噴煙の向きは、西に変わっていた。

 桜島の西半分を覆い尽くすように流れる噴煙。627sakurajimatokenkyuukai_005

待つことなく乗れた櫻島フェリーから見ると、まさしくこっち(西)に向かっているように見える。

 しかし、乗り込む前に聞いたフェリーの係員の話では「姶良町方面に流れて行きますよ」―とのことだった。627sakurajimatokenkyuukai_007

黎明館には15分前には着いて、紹介を受けて2時きっかりには発表を始めることができた。

(写真は2番目の小園先生の講義)627sakurajimatokenkyuukai_006

総勢18名ほどのこじんまりとした研究会。

 例によって「中世史」ではなく「中性史」で、「古代史前史」の話を聴いてくれるだけでうれしい。

 さっき来るときの桜島小噴火を枕に話し始め、「95年前の大正4年1月に起きた桜島大爆発の結果、海峡が埋め立てられ、そこにできた道路を通ってすいすいとやって来ました」で、座が和んだ。

 話のテーマは「カヤ(鹿屋)考」で、大隅史談会会報『大隅52号』に寄稿したものをダイジェストした。

 大雨かと心配したが、行きも帰りも、雨にも灰にも降られずに済んだ、やれやれ。

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美観コレクション(大野泰秀写真集)

高校の同窓で同じクラブに属していた大野泰秀君から、貴重な写真集が送られてきた。Ohnoyasuhideshashinshuu2

今回で2冊目である。

前のは4年前だったが、その写真集のタイトルは『東・南アジアの美観』であった。

 彼は教員だったのを早期退職し、いま、<美観コレクター>として世界中を飛び回っている。

 少年期からの長年の夢をかなえるべく、得意のカメラをひっ提げて西へ東へ、地の果てまでも、その「美観」を追い続けている姿は、求道的ですらある。

 前回はアジアの伝統・民族(俗)・景観が中心のいわば「人文地理的美観」だった。Ohnoyasuhideshashinshuu1

アジアに対してわれわれ日本人には原郷回帰の親しみを感じるので、前作の写真は心地よささえ感じたが、今回のオセアニア・南極は風土が余りに違いすぎてやはりよそよそしい。

 こちらは明確に「自然地理的美観」ということができる。彼の巧まざる美観選定の基準が、2冊それぞれの特色をかもし出しているところは、見事というほかない。

 次は「欧米か!」になるのだろうか(笑)。

 それは冗談だが、今度のも前作も大野君の性格らしくらしく、ちょうど128ページで終わっている。その1ページ前の127ページの最後の4行は非常に大切なことを指摘している。

――太平洋・南極の観光では、地球の鼓動を感じ取ることができる。だが同時に、地球の悲鳴を聴き取る耳と目を持たねばならない。今こそ「地球人としての自覚」が求められている。

 

 大野泰秀写真集のホームページは次の通り。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ohno-photo/sub1.htm

※書き終わってから書棚を確かめたら、大野君の写真集はもう1冊あった。1997年、まだ教員だったときに『日本列島の美観百選』というのを出版していたのであった。追加しておきたい。

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獅子目(ししめ)界隈(鹿屋市南町獅子目)

獅子目田んぼへ行ってみる。おそらく普通作の最後の田植えが行われているだろう、その様子が見たかった。

だが、すでに、田植えは終わっていた。県道の向こうには、志々目(ししめ)城をバックに、つい今しがた植え付けられたような田が広がっている。618sisimekaiwai_010

田んぼの向こうに見える丘は「志々目城跡」。志々目氏の居城だった。

 志々目氏は中世に下向した藤原姓「冨山氏」の一族で、同族には「大姶良氏」「横山氏」「浜田氏」がいる。

 この田園地帯は「大姶良川」が育んだもので、そう深くはない河谷なので、開拓しやすかったゆえ、平安時代の末頃にはかなりの田園となっていた。

 右手奥に見える山は「陣ノ岡」(482メートル)で、室町時代に繰り返された 祢寝(ねじめ)氏と肝付氏との戦いでは、祢寝(ねじめ)氏があの頂からこちらへ攻め入っている。618sisimekaiwai_008

県道から獅子目の小さな川沿いに入っていくと、田んぼで補植(ほしょく=田植え後に苗の抜けている所を補っていく)をしている光景に出会った。

 この人に聞くと、今日(18日)に植えたばかりだと言う。

 一番遅い田植えは20日だそうだ。618sisimekaiwai_007_2

300㍍ほどさかのぼると、何やら不思議なノボリ旗の立った田んぼがある。

 よく見ると「みんなの よい食 プロジェクト」と書いてある。

 さっきの人が言っていたのはこれだった。何でも新しいい品種で、試験的に一枚の田んぼで作付けしたらしい。

 ここも今日か、昨日植えたばかりだ。618sisimekaiwai_005

長く続く迫田の右手に見えてきた岡には「志々目古石塔群」がある。

 山道を上って、いったん岡の上に上がり、迂回してその遺跡を目指す。618sisimekaiwai_004_2

杉林を抜け、ようやくたどり着いた場所は、向こうに木立がなければ、さっきの迫田が見下ろせるような位置にある。

 ここには志々目氏の五輪塔から、祢寝(ねじめ)氏の逆修塔などがあり、618sisimekaiwai_002_2

とくに左の大きな石碑が目をひく。

 これは隣りの大姶良を治めていた「伊集院三河守」の慰霊碑で、三河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵命令にさからったが、衆寡敵せず、捕らえられて斬殺された。

 その「たたり」がきつく出るというので、江戸初期に大姶良集落の総意により慰霊碑が造られることになった。

 ここは「大通寺」の跡といい、おそらく志々目氏の菩提寺だったと思われる。

 ところで「志々目(獅子目)」という名の由来は何だろうか? 同族の大姶良氏・横山氏・浜田氏はいずれも地名から来ている姓なので、獅子目も地名と見るのが順当だろう。

 私見では、播磨風土記や日本書紀の「顕宗天皇紀」に出てくる「志深里(しじみのさと)」と関連していると見る。雄略天皇に殺された「イチノベオシハ皇子」の遺児で志深里に逃れていた「顕宗・仁賢両天皇」が、時を得て赦され、都に上って皇位に就くという「目出度し、めでたし」のストーリーだが、この志深(しじみ)名こそは、唯一「志々目」を連想させるのである。

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百引(もびき)界隈(鹿屋市輝北町百引)

「百引」を「もびき」と読める人は、地元の出身者か、かなりの地理歴史通だろう。

 鹿屋市と合併する前に独立した自治体として存在していた輝北町(きほくちょう)の南半分を占める地域が「百引」である。

 輝北町は、昭和31年(1956)に、この肝属郡百引村と北に位置する曽於郡市成村とが合併して誕生した新しい町であり、平成の大合併でさらに新鹿屋市に統合した。

 今回、旧輝北町全域を回るには余りに広いので、南半に在り鹿屋市に近いほうの「百引」だけを歩いてみた。

 百引に行くには、鹿屋市の中心街から国分へ通じている国道504号線を北に向かって走ればよい。

 高隈ダムを過ぎ、鹿児島鹿屋ゴルフクラブを右手に見ると、道はようやく峠にさしかかる。そこの二股を右に取ると長い下り坂になり、約2キロで「坂下三文字」に突き当たる。605mobikitotanita_002

突き当りを左に行けば長い上り坂となり3キロほどで旧輝北町の役場に出る(今は鹿屋市輝北総合支所)。

 右折すれば大崎町方面で、志布志湾に至る。

 今回はまず、右手を取って行く。

 輝北町でおそらく最も古い神社「利神社(としじんじゃ)」が、宮元という集落にあると聞いていた。605mobikitotanita_005

坂下三文字から堂籠川沿いに下ること1.5キロ。このあたりだろうと思い、道路際の畑にいた老人に声をかけて聞くことにした。

 ところが不思議なことに、その老人というのが「上京さん」といい、「先祖は利神社を 奉じて、800年か900年前にここへやって来たのだ」と言う。

 畑の下には川が流れ、3~4メートルくらいの幅しかない 堂籠川には「宮元橋」が架かっているが、そこへ案内し、「後に見える平坦地が神社の跡なんだ」と、のたもう。

――あんな平らな所がですか?

「いや、明治のいつだったか、神社は百引小学校の隣りに移転し、神社跡はわしが子供の頃まで高さ5mほどの岡のまま残っていたが、戦後の農地整備で田んぼに変わってしまったんや」605mobikitotanita_006

行ってみると、岡どころか田んぼとして掘り下げられてしまっている。代かきが済んでいたので間もなく田植えが行われるのだろう。

 上京さんと別れるとき、メモしておこうと名前まで聞いて驚いた。

「登志(とし)というんだよ」

――利(とし)神社の「とし」じゃないですか。

「まあ、そうらしい」

おそらくお父さんが移転してしまった「利(とし)神社」を忘れまいと児に名付けたのだろう。

つい最近まで、その田で採れた米を、移転先の神社へ奉納していたらしい。ぜひまだまだ続けて欲しいものだ。605mobikitotanita_014

上京さんに教えられた現在の利神社へ向かう。

さっきの三文字に戻り、そこを通過して真っ直ぐな道を取る。

 その道は国道504号線で、坂下から200m余り行くと、のぼり坂道の途中左手に「丸山寺古石塔群」の標識が見えるので、下りて行く。

 3~40メートルほど下ると、平地に出る。すぐ右手に「巨大な五輪塔」と「月輪塔」が見る者を圧倒して立っていた。605mobikitotanita_020

高さ3、3メートルという巨大な五輪塔には江戸時代中期の住職・快運の名が刻まれている。

 また手前の「月輪塔」は非常に珍しいもので、こちらには「快如法印」の名と年号(享保5=1720年)が刻まれている。

 丸山寺は坊津一乗院(真言宗)の末寺である。605mobikitotanita_028

国道504号線の長い坂を上りきると、こぎれいな町が広がる。なおも行くと左に旧輝北町役場跡(現・総合支所)がある。

 役場の所は旧「般若寺(曹洞宗)」の跡に建てられたという。

 般若寺は中世に肝付方に属していた「図師氏」の菩提寺で、図師氏は平安時代の最末期にここに入部し、430年ほどこのあたりを治めていた。先祖は藤原氏だという。

 居城は総合支所の裏手に聳える山の頂で、「西原城(舞天城)」の名があった。

 支所からの比高は80メートルほどだ。605mobikitotanita_026

車で苦もなく上がれるが、頂上の本丸跡には五輪塔をはじめ6基の石塔が並んでいた。

 一角には東屋があり、そこからだけ周囲を眺め降ろすことができる。

 すぐ下の道路は支所から東方へ市成地区へと通じている。道路の左手の三つの鉄筋の建物は「百引小学校」だ。

 利神社はそのすぐ向こうの森の中にある。605mobikitotanita_029

百引小学校前を過ぎ、50メートルも行かない左手に石段がある。その上が利神社だ。605mobikitotanita_030_2

参道も拝殿・本殿も手入れが行き届いているとは言いがたいが、本殿の板壁に「虎」が色鮮やかに描かれていたのには驚いた。

 利神社は郷土誌によると祭神は「アメノコヤネノ命」で、藤原氏の始祖である。これは図師氏が藤原氏一族であるのと見事に対応している。

 だが「利神社」という名はどこから来たのだろう。ふつう藤原氏なら「春日神社」と相場は決まっているはずだ。

「利(とし)」が「歳」なら「五穀の実り」を意味するから、村社としてふさわしいのだが・・・。605mobikitotanita_032

百引の北の市成村との境に近いところに鎮座するのが「諏訪神社」だ。

 この神社は肝付氏16代兼続(かねつぐ)の建立であることが、棟柱に張られた棟札の存在ではっきりしている。

 永禄元年というから1558年、今からちょうど450年前のことである。

 そのことは神社入り口の鳥居のそばに聳え立つ「イヌマキ」「モミ」「イチョウ」の樹齢からも推測できるという。605mobikitotanita_035

いやはや、たいした迫力だ。とくに左のイチョウは落雷かなんかで枯れかかっていたのが、見事に復活したそうで、御神力とすれば霊験あらたかだ。

 いまいち元気のない人は、このイチョウの葉っぱでも煎じて飲んだらいいかもしれない。

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諏訪神社から国道504号線を少し戻り、JAの機械センターのところを左折して、今度はかの有名な「加世田城跡」に向かう。

 途中、大久保という集落を通るが、狭い河谷の川筋いっぱいにうねうねと谷地田が続いているのが見えた。

 1アール、2アール程度の広さしかない田が、横になり、縦になりして谷筋を埋め尽くしているが、このような不便な地でも米作りにかける情熱はまだ衰えていない。手を合わせたくなる。605mobikitotanita_050

羊腸の小径のようなくね曲がった道を行くこと5キロ。ようやく平房(ひらぼう)に出る。

 田んぼ地帯から望む「加世田城」は独立丘の上だが、意外に小さく感じた。

 左手の道を入ると、入り口がある。605mobikitotanita_039

高山本城と宮崎県三股町の三股城の中間に位置し、肝付氏にとってはきわめて重要だった「加世田城(加瀬田城とも)」も、元亀年間(1570年頃)には、肝付氏の手から島津氏の勢力下に陥り、10年を経ずして天正8(1580)年、ついに肝付氏は滅亡し、大隅から追われたのであった。605mobikitotanita_044  

城の造りは高山本城にそっくりだという。

 本丸へ上がってみると、シイの大木の下に肝付氏のものと見られる「宝鋏印塔」が2基と、その上の壇に「三宝荒神祠」がひっそりとたち、主なき城砦を守っているかのように見える。605mobikitotanita_051

城の南側は、大鳥川の開いた田園地帯で、江戸初期まではここに領主屋形、のちの仮屋があったという。

 建久図田帳(1190年頃)によると、百引郷は13町の田が開けていたというが、その多くはこの田んぼ地帯のことを指しているのだろう。

 13町といえば、肝付氏が滅亡して阿多地方に改易された時にあてがわれた田の面積が12町というから、同じくらいである。米の生産量で言うと当時の技術では1反で200キロ位なものだろうから、12町で24000キロ、石高では160石。

 肝付氏の実収は少なくとも10万石はあったろうから、実に0、16パーセント。ほとんどゼロに等しい。阿多に移った肝付氏の後裔で、のちに活躍した人物がほとんどいないのもうなづける。605mobikitotanita_060

中平房(なかひらぼう)生活改善センターの庭から望む加世田城跡(石碑のすぐ右手の丘)と善福寺跡(右端の丘)。

 善福寺跡は民家となっており、中をうかがうことはできなかったが、近くに元禄3(1690)年の作という「庚申地蔵」が、五差路の安全を守るかのように立っていた。605mobikitotanita_057

平房からは南へ丘を越えると平南小学校の脇を通って、再び利神社の旧跡のある堂籠川の筋に出る。

 坂下三叉路まで戻り、今度は国道504号線を上らずに、堂籠川に沿ってさかのぼる。605mobikitotanita_001

堂籠川沿いの田はちょうど田植え期を迎えていた。605mobikitotanita_010_2

2キロほどさかのぼり、「後堂橋」を渡って少し登ったところが「堂籠集落」で、藩政時代はここに平房から移ってきた「お仮屋(地頭館)」があった。

 それなりに風格の漂う家々が並んでいる。605mobikitotanita_012

堂籠地頭館跡の下に広がる堂籠川流域の田園地帯。605mobikitotanita_013

百引に来るたびに坂下三文字を通過するが、その時にいつも堂籠川を眺めて目に付くのがこの「木橋」だ。

 はじめて道路から川に降りてみて確かめたら、木ではなく竹製であった。

 いずれにしても、川岸に近い畑の持ち主が私的に架けた手造りの橋だ。

 何とも情趣を感じるたたずまい。

 下流には立派な坂下橋。右手から迫る丘は「百引本城跡」というが、築城の年代も城主も不明である。

 芭蕉ならずとも、戦国乱世の再び来ないことを祈る。

       夏草の 中に埋もれり 偲ぶ川

 

 

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菜園の異変

この間、銭湯に行き、いつものジェットバスで腰や背中をほぐしたあと、サウナルームに入っていて耳にした会話。

――どうもいつもと生育が違っているぞ(チゴチョッド)。

――何が?(ナイガヤ?)

――稲だが(イネジャガ)。

――どう違う?(イケンチゴチョッドヤ?)

――伸びが違う。去年と同じような水遣り、肥料。みな同じなんだが、どうも伸び切らないし、分ケツも悪い。(鹿児    島弁省略)

 そう言えば、我が家の菜園でも異変が起きている。

 夏野菜のうち、ニガウリ、ナス。ピーマンの成長が極端に悪い。とくにニガウリはひどく、種から播いて芽が出たのも遅かったが、本葉が2枚出てから植えつけてもう3週間になるというのに、それ以上まったく伸びだしてこない。609saienihen_002

正確に言うと、今朝(6月9日)、ようやくツル(手)の一本が出てきた。これから伸びていく準備か。

 例年なら植えつけて3週間も経てば本葉の5,6枚は出てネットに這っているところなのだが、この有様は今まで見たことがない。609saienihen_003

別の苗は、まだ植えつけたときのまま、本葉2枚のまま成長していない。

 植えつけてから、確かに朝は寒い日が多かったが、日中は気温は高めだったし(25度以上はあった)、日照時間も十分だった。

 それなのに一向に伸びてこない。609saienihen_007

ニガウリより早く、本葉3枚くらいの苗を購入して植えたナスも、もう1ヵ月を過ぎたといいうのに、高さ30センチを少し越えたくらいで元気がない。

 特に葉がかさかさしている感じだ。例年のようにビロード風の厚さがない。609saienihen_008

ピーマンはなお生育が悪く、高さ15センチで止まっている。

 花が咲いて実を付けたが直径3センチほどのミニピーマンだった。609saienihen_006

 夏野菜三羽ガラスのうち、順調なのはミニトマト。

 2本のうち一本は1メートルをはるかに超えた。

 さすが元南米の高原野菜だ。涼しさと乾燥にはめっぽう強い。

 今年は太陽の黒点が観測されず放射エネルギーが弱まっているらしいので、「晴れてはいるが青天ではない」というすっきりしない空模様がずっと続いている。

 今日か明日か、鹿児島は梅雨に入りそうだが、このうえ日照時間が少なくなったら「冷害」に近い状態になるだろう。

 米・野菜(とくにニガウリなどの亜熱帯系の野菜)の不作が懸念される。

 ただしトマト好きには堪えられない夏になりそうだ。

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オバマ大統領とアラブ

アメリカのオバマ大統領は精力的にブッシュの作り上げた対アラブへの壁を打ち破ろうとしている。

 それも国務長官任せの外交ではなく、自ら出向いて反米アラブ諸国との融和を図る――という、これまでのどのアメリカ大統領もなしえなかったやり方で。

 よく知られるように、アメリカは反アラブの砦であるイスラエルべったりである。かってアラブへの二枚舌外交で状況を複雑にしたイギリスに代わり、第二次大戦後に世界の「自由主義の総本山」となったアメリカは、シオニズムの結果ようやく建国(というより回復)を果たしたユダヤ人の祖国イスラエルのみをパレスチナにおける正当な国家として認め、肩入れし続けてきた。

 パレスチナはアラブ人にとっても、ユダヤ人にとっても聖地であり、どちらも歴史的にさかのぼることができる土地である。問題は今も続いている宗教だ。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教が絡んでいることが、関係をより複雑にしている。ユダヤ教とキリスト教はいわば兄弟宗教なので、小異に目をつぶれば融和はさほど困難ではないが、イスラム(ムハンマド)教は、成立自体もだが、その後の経緯で抗争と対立が長く続いたため、お互いに認め合う前にまず「憎しみ」の感情の根がはびこっていて、融和するには大きな壁が立ちはだかっている。

 オバマ大統領はそこを積極的に打開しようと精力的に飛び回っているのだ。内憂(金融危機・GMなどの大企業の倒産)よりも、外患の方こそ先決問題だと考えているかのようだ。父のケニヤ人フセイン・オバマはイスラム教徒だったそうで、であれば息子のバラク・フセイン・オバマがイスラム教に無理解なはずはない。

 アラブ諸国との融和にはうってつけの大統領ということになろう。仮にオバマが白人でありながらイスラム教徒であったとしたらどうだろうか。たぶんうまくは行くまい。何よりもアメリカ国内やヨーロッパの白人キリスト教者から激しいブーイングが巻き起こるだろう。

 混血のオバマはその点フリーハンドと言っていい。天の配剤かもしれない。世界融和へオバマの活躍を期待する。

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普通作の田植え(鹿屋市高隅町)

輝北町に用事があり、高隅町を通ったが、いま、このあたりでは普通作の田植えが真っ盛りだ。605mobikitotanita_062

写真はちょうど「代かき」をしているところ。

 トラクターの後ろに丸たんぼうを付けて、水を張った水田の泥の表面を均一にならしている。605mobikitotanita_063_2

いつもは静かで人気のない田んぼに、今日は沢山の人が出て、田植えやその準備をしている。

 たぶん明日、あさっての土曜・日曜の連休が田植えの最盛期だろう。

品種は「ヒノヒカリ」で、普通作では鹿児島で最も多く作付けされている。

 普通作は秋の台風シーズンに受精・稔実が行われるため台風の被害に遭いやすいので敬遠され、だんだんと早期米に切り替えられて来たたのだが、このあたりでは昔ながらの「入梅ころの田植え」が継続されている。

 被害に遭わなければ実収が多いうえに、寒暖の差の大きい晩秋収穫の米は実がしまっておいしく、さらに翌年の梅雨期を越しても美味しく食べられるということで、自家飯米農家には「ヒノヒカリ」の方が人気がある。605mobikitotanita_064

高隅川(串良川)のすぐ脇の田んぼでも、明日の田植えに向けて、最後の仕上げに余念がない。605mobikitotanita_061

清流に向かって段差を見せる二枚の棚田。

 昨日かおとといかに植えつけられたばかりの田んぼだ。

 一枚が一畝(ひとせ=100坪)か二畝くらいの田だが、機械(田植え機)で植えられている。

 狭い日本の過疎地の山間の田もこうして文明の利器によって、かろうじて維持されている。

 しかしいつまでこれが続くものだろうか?

 「直接所得補償」の制度を取り入れなければ――という声もあるが、それには多大の予算が必要だ。それなら、いっそのこと江戸時代の「給地」制度を復活して、給料の一部を現金の代わりに「過疎地の田んぼの米」という現物を支給するようにしたらどうだろか。金はまったくかからないうえ、過疎地も潤い、永久に存立を補償されるではないか。

 

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今一度せんたくいたし度く候(坂本竜馬)

天気がよい。ビータローがくさい。・・・で、日本をではなく、ビータローを「せんたくいたし度く候」。

 我が家の愛犬ビータローは3年前に「けなえ」(鹿児島弁で身体のマヒのこと)そうになり、ために毎朝の散歩を廃したのだが、おかげで草むらに顔を突っ込むことから解放されて、草むらに多い「ダニ」が身体に着くことがなくなった。

 あれから3年、犬の歳では18年が過ぎ、ようやく老境を迎えた今日この頃、毎日が寝たり起きたりの「日々是れ好日」を過ごしている。

いつもなら4月中旬には一回目の「せんたく」をしていたのだが、今年はほとんど「日々是れ好日」のせいで身体のよごれが少なく、ほったらかしにしておいた。だが、この一週間ばかり、餌をやるついでに顔を近づけて匂いをかぐと、結構な香りを発散するようになった。

 で、「せんたくいたし度く候」と相成った次第。531bitarouno_001

5,6年前だったら、風呂場につれてくるなり、ここを出してくれ、とばかり慌てふためいていたのだが、寄る年並みには勝てぬのだろう、神妙にかしこまった。531bitarouno_002

白湯でたっぷり下洗いしたあと、今度は犬猫用のシャンプーで洗う。

 このときも観念したようにおとなしい。531bitarouno_003

ちょうど春の抜け毛(衣替え)のシーズンとあって、ずいぶん抜け落ちている。

 ご主人様のざっと一年分は抜けているだろう。531bitarouno_004

庭の日当たりのよいところでビータローを「乾かす」。

 以前なら何度もブルブルをして身体の水分を弾き飛ばしていたのだが、後ろ足がおぼつかないせいでほとんどできなかった。531bitarouno_005

満16歳を迎える今年、人間で言えば百歳に突入だ。

 世界最高齢の犬は満21歳(人間の146歳)のアメリカの犬だそうだが、あと五年に迫ったな。

 頑張るか?ビータロー。

 え? 頑張るから、うまい物を食わしてくれ、だって!

 いや、粗食に腹八分目が長寿の秘訣だろ?

――そうは言ってもねえ。531bitarouno_006

おいおい、セロシアは敷き布団じゃないぞ。

――ちょっとくらいいいじゃん。このさき長くないんだしさ・・・。

 まあ、いいか。長生きしろよ、ビータロー。

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