「百引」を「もびき」と読める人は、地元の出身者か、かなりの地理歴史通だろう。
鹿屋市と合併する前に独立した自治体として存在していた輝北町(きほくちょう)の南半分を占める地域が「百引」である。
輝北町は、昭和31年(1956)に、この肝属郡百引村と北に位置する曽於郡市成村とが合併して誕生した新しい町であり、平成の大合併でさらに新鹿屋市に統合した。
今回、旧輝北町全域を回るには余りに広いので、南半に在り鹿屋市に近いほうの「百引」だけを歩いてみた。
百引に行くには、鹿屋市の中心街から国分へ通じている国道504号線を北に向かって走ればよい。
高隈ダムを過ぎ、鹿児島鹿屋ゴルフクラブを右手に見ると、道はようやく峠にさしかかる。そこの二股を右に取ると長い下り坂になり、約2キロで「坂下三文字」に突き当たる。
突き当りを左に行けば長い上り坂となり3キロほどで旧輝北町の役場に出る(今は鹿屋市輝北総合支所)。
右折すれば大崎町方面で、志布志湾に至る。
今回はまず、右手を取って行く。
輝北町でおそらく最も古い神社「利神社(としじんじゃ)」が、宮元という集落にあると聞いていた。
坂下三文字から堂籠川沿いに下ること1.5キロ。このあたりだろうと思い、道路際の畑にいた老人に声をかけて聞くことにした。
ところが不思議なことに、その老人というのが「上京さん」といい、「先祖は利神社を 奉じて、800年か900年前にここへやって来たのだ」と言う。
畑の下には川が流れ、3~4メートルくらいの幅しかない 堂籠川には「宮元橋」が架かっているが、そこへ案内し、「後に見える平坦地が神社の跡なんだ」と、のたもう。
――あんな平らな所がですか?
「いや、明治のいつだったか、神社は百引小学校の隣りに移転し、神社跡はわしが子供の頃まで高さ5mほどの岡のまま残っていたが、戦後の農地整備で田んぼに変わってしまったんや」
行ってみると、岡どころか田んぼとして掘り下げられてしまっている。代かきが済んでいたので間もなく田植えが行われるのだろう。
上京さんと別れるとき、メモしておこうと名前まで聞いて驚いた。
「登志(とし)というんだよ」
――利(とし)神社の「とし」じゃないですか。
「まあ、そうらしい」
おそらくお父さんが移転してしまった「利(とし)神社」を忘れまいと児に名付けたのだろう。
つい最近まで、その田で採れた米を、移転先の神社へ奉納していたらしい。ぜひまだまだ続けて欲しいものだ。
上京さんに教えられた現在の利神社へ向かう。
さっきの三文字に戻り、そこを通過して真っ直ぐな道を取る。
その道は国道504号線で、坂下から200m余り行くと、のぼり坂道の途中左手に「丸山寺古石塔群」の標識が見えるので、下りて行く。
3~40メートルほど下ると、平地に出る。すぐ右手に「巨大な五輪塔」と「月輪塔」が見る者を圧倒して立っていた。
高さ3、3メートルという巨大な五輪塔には江戸時代中期の住職・快運の名が刻まれている。
また手前の「月輪塔」は非常に珍しいもので、こちらには「快如法印」の名と年号(享保5=1720年)が刻まれている。
丸山寺は坊津一乗院(真言宗)の末寺である。
国道504号線の長い坂を上りきると、こぎれいな町が広がる。なおも行くと左に旧輝北町役場跡(現・総合支所)がある。
役場の所は旧「般若寺(曹洞宗)」の跡に建てられたという。
般若寺は中世に肝付方に属していた「図師氏」の菩提寺で、図師氏は平安時代の最末期にここに入部し、430年ほどこのあたりを治めていた。先祖は藤原氏だという。
居城は総合支所の裏手に聳える山の頂で、「西原城(舞天城)」の名があった。
支所からの比高は80メートルほどだ。
車で苦もなく上がれるが、頂上の本丸跡には五輪塔をはじめ6基の石塔が並んでいた。
一角には東屋があり、そこからだけ周囲を眺め降ろすことができる。
すぐ下の道路は支所から東方へ市成地区へと通じている。道路の左手の三つの鉄筋の建物は「百引小学校」だ。
利神社はそのすぐ向こうの森の中にある。
百引小学校前を過ぎ、50メートルも行かない左手に石段がある。その上が利神社だ。
参道も拝殿・本殿も手入れが行き届いているとは言いがたいが、本殿の板壁に「虎」が色鮮やかに描かれていたのには驚いた。
利神社は郷土誌によると祭神は「アメノコヤネノ命」で、藤原氏の始祖である。これは図師氏が藤原氏一族であるのと見事に対応している。
だが「利神社」という名はどこから来たのだろう。ふつう藤原氏なら「春日神社」と相場は決まっているはずだ。
「利(とし)」が「歳」なら「五穀の実り」を意味するから、村社としてふさわしいのだが・・・。
百引の北の市成村との境に近いところに鎮座するのが「諏訪神社」だ。
この神社は肝付氏16代兼続(かねつぐ)の建立であることが、棟柱に張られた棟札の存在ではっきりしている。
永禄元年というから1558年、今からちょうど450年前のことである。
そのことは神社入り口の鳥居のそばに聳え立つ「イヌマキ」「モミ」「イチョウ」の樹齢からも推測できるという。
いやはや、たいした迫力だ。とくに左のイチョウは落雷かなんかで枯れかかっていたのが、見事に復活したそうで、御神力とすれば霊験あらたかだ。
いまいち元気のない人は、このイチョウの葉っぱでも煎じて飲んだらいいかもしれない。
諏訪神社から国道504号線を少し戻り、JAの機械センターのところを左折して、今度はかの有名な「加世田城跡」に向かう。
途中、大久保という集落を通るが、狭い河谷の川筋いっぱいにうねうねと谷地田が続いているのが見えた。
1アール、2アール程度の広さしかない田が、横になり、縦になりして谷筋を埋め尽くしているが、このような不便な地でも米作りにかける情熱はまだ衰えていない。手を合わせたくなる。
羊腸の小径のようなくね曲がった道を行くこと5キロ。ようやく平房(ひらぼう)に出る。
田んぼ地帯から望む「加世田城」は独立丘の上だが、意外に小さく感じた。
左手の道を入ると、入り口がある。
高山本城と宮崎県三股町の三股城の中間に位置し、肝付氏にとってはきわめて重要だった「加世田城(加瀬田城とも)」も、元亀年間(1570年頃)には、肝付氏の手から島津氏の勢力下に陥り、10年を経ずして天正8(1580)年、ついに肝付氏は滅亡し、大隅から追われたのであった。
城の造りは高山本城にそっくりだという。
本丸へ上がってみると、シイの大木の下に肝付氏のものと見られる「宝鋏印塔」が2基と、その上の壇に「三宝荒神祠」がひっそりとたち、主なき城砦を守っているかのように見える。
城の南側は、大鳥川の開いた田園地帯で、江戸初期まではここに領主屋形、のちの仮屋があったという。
建久図田帳(1190年頃)によると、百引郷は13町の田が開けていたというが、その多くはこの田んぼ地帯のことを指しているのだろう。
13町といえば、肝付氏が滅亡して阿多地方に改易された時にあてがわれた田の面積が12町というから、同じくらいである。米の生産量で言うと当時の技術では1反で200キロ位なものだろうから、12町で24000キロ、石高では160石。
肝付氏の実収は少なくとも10万石はあったろうから、実に0、16パーセント。ほとんどゼロに等しい。阿多に移った肝付氏の後裔で、のちに活躍した人物がほとんどいないのもうなづける。
中平房(なかひらぼう)生活改善センターの庭から望む加世田城跡(石碑のすぐ右手の丘)と善福寺跡(右端の丘)。
善福寺跡は民家となっており、中をうかがうことはできなかったが、近くに元禄3(1690)年の作という「庚申地蔵」が、五差路の安全を守るかのように立っていた。
平房からは南へ丘を越えると平南小学校の脇を通って、再び利神社の旧跡のある堂籠川の筋に出る。
坂下三叉路まで戻り、今度は国道504号線を上らずに、堂籠川に沿ってさかのぼる。
堂籠川沿いの田はちょうど田植え期を迎えていた。
2キロほどさかのぼり、「後堂橋」を渡って少し登ったところが「堂籠集落」で、藩政時代はここに平房から移ってきた「お仮屋(地頭館)」があった。
それなりに風格の漂う家々が並んでいる。
堂籠地頭館跡の下に広がる堂籠川流域の田園地帯。
百引に来るたびに坂下三文字を通過するが、その時にいつも堂籠川を眺めて目に付くのがこの「木橋」だ。
はじめて道路から川に降りてみて確かめたら、木ではなく竹製であった。
いずれにしても、川岸に近い畑の持ち主が私的に架けた手造りの橋だ。
何とも情趣を感じるたたずまい。
下流には立派な坂下橋。右手から迫る丘は「百引本城跡」というが、築城の年代も城主も不明である。
芭蕉ならずとも、戦国乱世の再び来ないことを祈る。
夏草の 中に埋もれり 偲ぶ川
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