獅子目(ししめ)界隈(鹿屋市南町獅子目)
獅子目田んぼへ行ってみる。おそらく普通作の最後の田植えが行われているだろう、その様子が見たかった。
だが、すでに、田植えは終わっていた。県道の向こうには、志々目(ししめ)城をバックに、つい今しがた植え付けられたような田が広がっている。
田んぼの向こうに見える丘は「志々目城跡」。志々目氏の居城だった。
志々目氏は中世に下向した藤原姓「冨山氏」の一族で、同族には「大姶良氏」「横山氏」「浜田氏」がいる。
この田園地帯は「大姶良川」が育んだもので、そう深くはない河谷なので、開拓しやすかったゆえ、平安時代の末頃にはかなりの田園となっていた。
右手奥に見える山は「陣ノ岡」(482メートル)で、室町時代に繰り返された 祢寝(ねじめ)氏と肝付氏との戦いでは、祢寝(ねじめ)氏があの頂からこちらへ攻め入っている。
県道から獅子目の小さな川沿いに入っていくと、田んぼで補植(ほしょく=田植え後に苗の抜けている所を補っていく)をしている光景に出会った。
この人に聞くと、今日(18日)に植えたばかりだと言う。
300㍍ほどさかのぼると、何やら不思議なノボリ旗の立った田んぼがある。
よく見ると「みんなの よい食 プロジェクト」と書いてある。
さっきの人が言っていたのはこれだった。何でも新しいい品種で、試験的に一枚の田んぼで作付けしたらしい。
長く続く迫田の右手に見えてきた岡には「志々目古石塔群」がある。
山道を上って、いったん岡の上に上がり、迂回してその遺跡を目指す。
杉林を抜け、ようやくたどり着いた場所は、向こうに木立がなければ、さっきの迫田が見下ろせるような位置にある。
ここには志々目氏の五輪塔から、祢寝(ねじめ)氏の逆修塔などがあり、
とくに左の大きな石碑が目をひく。
これは隣りの大姶良を治めていた「伊集院三河守」の慰霊碑で、三河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵命令にさからったが、衆寡敵せず、捕らえられて斬殺された。
その「たたり」がきつく出るというので、江戸初期に大姶良集落の総意により慰霊碑が造られることになった。
ここは「大通寺」の跡といい、おそらく志々目氏の菩提寺だったと思われる。
ところで「志々目(獅子目)」という名の由来は何だろうか? 同族の大姶良氏・横山氏・浜田氏はいずれも地名から来ている姓なので、獅子目も地名と見るのが順当だろう。
私見では、播磨風土記や日本書紀の「顕宗天皇紀」に出てくる「志深里(しじみのさと)」と関連していると見る。雄略天皇に殺された「イチノベオシハ皇子」の遺児で志深里に逃れていた「顕宗・仁賢両天皇」が、時を得て赦され、都に上って皇位に就くという「目出度し、めでたし」のストーリーだが、この志深(しじみ)名こそは、唯一「志々目」を連想させるのである。
| 固定リンク
「おおすみウォッチング」カテゴリの記事
- 雄川の滝(2018.06.26)
- 鬼界カルデラが再噴火?(2018.06.01)
- 吾平神野の春(2018.04.19)
- 鯉のぼり(2018.04.09)
- ソメイヨシノの開花(2018.03.17)
コメント