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川東町界隈(鹿屋市川東町)

「川東」とは、鹿屋市の中心を流れる肝属川が、中心部を過ぎて東に流れを変えた辺りの広い田園地帯を言い、川東地区は川の東というよりはむしろ北側の左岸地帯を指す。

 これに対して川の南側(右岸)は「川西地区」と呼ばれている。川西地区は鹿屋市のベッドタウンとして人口増加がかなり見られるが、川東地区は川西地区と似たような条件を持つにもかかわらず、ベッドタウン化は進んでいない。それだけに古い町並みが残っている。709kawahigashi_004

川東と川西地区とを結ぶ「大正橋」からみた川東地区の町並み。

 手前に川東田んぼ、奥に笠之原台地。その間に「川東用水」が流れ、家々もそれに沿うように、左右に細長く伸びて広がる。709kawahigashi_003

大正橋から肝属川下流を眺める。

 江戸時代は波見の河口からこの下を通って、さらに3キロほど上流の田崎神社の高台を望む辺りまで、三里半(14キロ)の船運があり、川舟が往来していた。709kawahigashi_002

大正橋のたもとから眺める「川東田んぼ」。

 植えられてまだ2週間くらいの普通作田が広がっている。

 肝属川中流の和田井堰から取られた用水路「川東用水」の賜物である。

 そこに見える溜め池は用水が通じているときだけ現れる。709kawahigashi_001

そばに行ってみると「昭和14年建立の水神祠」(手前)と「文政五年建立の水神碑」とが仲良く並んでいた。

文政五年といえば1822年だから、ざっと200年近く、川東用水以前に造られ、田んぼに水を与えてきたこの小さな溜め池を見守ってきたことになる。709kawahigashi_005

笠之原台地のがけ下を縫うように流れる「川東用水」に沿って、人家が細長く立ち並ぶ。709kawahigashi_006

台地へ上がる道の途中、左手の台地からがけ崩れがあったらしく、応急措置がしてあった。

 おそらく1月近く前の入梅直後の豪雨でやられたのだろう。

 比高にして8メートルくらいか・・・。それにしても、この手当てには、うーん、と感心させられる。709kawahigashi_007

抉り取られた急峻な崖を4段で補強しているが、各段はこのようになっている。

 太い杉の丸太を打ち込み、それに真竹を切ってきて、互い違いに引っ掛けて壁にしているのだ。

 現代的な材料を一切使わず、村人が自ら切り出して運び込み、共同で必死になって造った有り様がひしひしと伝わってくる出来栄えだ。

 まさに昔の人の協同の智恵、そして汗の結晶が、今も生き続けている!

切り通しの急坂を登りきると岡の上にもいくらか人家があるが、その一角に「川東古墳群」という石柱の立つ所がある。709kawahigashi_009

狭い石段を上がると、中央と右手に直径6~7メートルの円墳が2基、目に飛び込む。709kawahigashi_010

左手手前には中央と同じほどの物、その奥にはやや小ぶりの物、さらに一番奥には頭しか見えないが、最も小さい直径3メートル位の物があり、都合5基の円墳が、ごろんごろんといった風情で並んでいる。

 本土では見られない南朝鮮型の円墳だ。おそらく半島の戦乱か何かで落ち延びてきた半島人または半島系倭人の一族のものだろう。

 詳細はもちろん分からないが、「鹿屋=伽耶」説を補強するものだと思う。

 古墳群の奥は林になっているが、木々がなければ川東の田園と母なる肝属川が望める好位置にある。しばし上古代を偲んでみるのも悪くはない。

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

初めまして
隅 南風人と申します。
旧串良町出身で現在福岡市在住ですが、郷里への愛着止み難く「スミ ハヤト」のHNを名乗っております。(大隅の大を除いたは、郷里を捨て郷里に捨てられた身、ご当地大地に根を据えて頑張っておられる諸兄に申し訳なくて・・・)
本日貴殿の当ブログを発見拝読しまして、大隅の地とその歴史を懐考される文章に感動し、止まれずキーを叩かして頂きます。
串良の月夜神社についても後日投稿させて頂きたく存じますが、
取敢えず、上記古墳について、先日亡くなった宮富の親戚の話・・・
戦前の事、多分この古墳か近辺のものか判りませんが、ある人が農作業をしていたら、ぽっくり大きな穴が開いたと。
入って調べてみたら横に長く伸びていて、奥から錆びた刀剣が出てきたので宮富神社に保管していたところ、
部落のとある女性が狂乱状態になり、たたりではないかとさる人に占ってもらったら案の定、
そこで占い人の指示通り、その刀剣を元通りの場所に納め、
懇ろに弔って元通り整地しなおしたら、その女性の狂乱も治まったと。
その跡は戦後は判らなくなったということでしたが、確か河東の大地端とか言っていました。

貴殿紹介の古墳が南朝鮮式に似ているとの説に関係があるかも知れませんが、小生の持っている明治22年頃官軍が始めて様式測量技術で作成した地図(ある歴史家からコピーを頂いたもので九州各県の図書館にも無いもの)によれば、
鹿屋串良境の笠野の国道と高山線の分岐地(現在ディオディオのある処)の地名に「高麗」とあります。
串良の郷土史家も知らず由来も判らないとのことでしたが、もしかしたら、大隅の地には半島からの渡来移住者が居たのかもしれませんね。

じっくり拝読してからまた投稿させて頂きます。
今後ともよろしくご指導お願い申し上げます。

投稿: 隅南風人 | 2009年7月16日 (木) 23時24分

上記コメント一部訂正

>確か河東の大地端<
→確か川東の上記古墳のあたり

投稿: 隅 | 2009年7月16日 (木) 23時32分

スミ ハヤトさん、コメントを有難うございます。
 お説の「宮富神社」が分かりませんが、高山町ならば「宮富小学校」が現存し、そのすぐ脇に「桜迫(おうさこ)神社」がありますが、そこのことでしょうか? 桜迫神社のあたりは神武天皇の父・ウガヤフキアエズ命が養育された所と聞いています。
 その近くで、農作業中にぽっかり穴が開いて古墳らしきものが見つかり、中から剣が見つかったそうですが、それこそはハヤト特有の墓制「地下式横穴墓」でしょう。地下式横穴墓は5世紀以降の墓制ですので、ウガヤ・神武の時代からはだいぶ後ですが、神武東征が真実ならば、ウガヤ・神武はクマソ・ハヤトの先祖ということになります。
 このことは中央史学では認められていません。中央史学はクマソ・ハヤトの地がたまたま「日向」という「佳字名」であったのと、クマソ・ハヤトが中央政権の政策に反してばかりいるので、ニニギ・ホホデミ・ウガヤ・神武の「神話」を造作し、「クマソもハヤトも皇孫が南九州にあったときから、すでに服属していたのだということを示した「単なるおとぎ話」と考えているのです。残念なことです。

 次に笠野のデオデオ近くにあったという「高麗」小字ですが、これについては笠野原に江戸時代の寛永年間に薩摩半島の東市来・美山から移住させられた「朝鮮陶工」の後裔が住んだことに因む命名だと思います。
 江戸時代の朝鮮は「李子朝鮮」でしたが、その前の「高麗国」の方が通用していましたので「朝鮮」ではなく「高麗」を名乗ったものでしょう。因みに現在の韓国は英語では「korea」、つまり「高麗」を採用しているのです。

 今後ともよろしくコメントを願います。なお、ブログのほかに下記のホームページでも南九州の歴史を展開していますのでどうぞ。

  鴨着(ど)く島おおすみ
  http://www.kamodoku.dee.cc/

投稿: kamodoku | 2009年7月18日 (土) 20時11分

早速の御教授ありがとうございます。

おおせのの通り、宮富小学校横の桜迫神社でした。
この神社も古いらしいですね。

故人の話では、この地は神武天皇の生誕地の言い伝えがあるらしく、すぐ近くの肝属川堤防下の田圃脇には戦前に建てられた「神武天皇生誕伝承の地」という碑が今も残っていました。、
この碑近辺は、その胎盤を示す名の字地名(小生失念)残っていたそうです。
史実ではないにせよ、そういう物語が言い伝えられてきたという事実は貴重なことだと思います。
また、ここより肝属川の下流、永田橋近くはかって「ミヤケ」の地名があって、つい最近まで川底に舟寄せの為の敷き石跡があったそうです。

「ミヤケ」は「屯倉」で朝廷直轄地を示すと思いますが、あるいは藤原氏の荘園地として当地の産物を都へ運んだ積み出し港跡だったでしょうか?

「高麗」地名に関してですが、故人の話でもこの大隈地には朝鮮系渡来人の陶工末裔集落が戦前まで各地に伝えられていたとのことでした。

貴ホームページも少しづつ拝読させて頂いております。
特に串良川の記事については、生まれ里ということもあり、googleの写真地図を参考に懐かしく辿らせて頂きました。

また特に大塚山は古墳跡との御説には同感で、上部は円方後円型でもあり大隈平原を一望する一等地形故、最初に自然地形利用いう発想を思えば、日本最初の古墳ではなどと夢想しております。

おいおい感想やらお尋ね等で投稿させて頂きます。
よろしくご指導お願いいたします。

なお、お恥ずかしながら小生のホームページもご覧頂けたら幸甚です。


投稿: | 2009年7月19日 (日) 02時25分

ホームページアドレスは、下記です。
 
 http://www.vks-hayato.jp

投稿: | 2009年7月19日 (日) 02時28分

小生PCのキー打ちが苦手で度々間違えて申し訳ありません。

上記投稿で、
「様式測量技術」は→「洋式測量技術」
「円方後円墳」は→「前方後円墳」の間違い。

また、「大隅」を「大隈」と変換してしまっています。
確か昔は「大隈」の字を使っていたようですが、今では「大隅」に統一されているようですね。
(「肝属」も何時から「肝付」になったのでしょうかね)

投稿: 隅南風人 | 2009年7月20日 (月) 00時45分

文字打ちの間違い・勘違いは誰にでもあることです。慣れが解決するはずです。

 ところで「大隅」ですが、大隅の初見は(日本書紀の記述が正しければ)「天武天皇」の11年に―隼人が多くやって来て、「大隅隼人」と「阿多隼人」とが天覧相撲をとった―ですので、天武天皇11年つまり682年には使われていました。

 また日本書紀の次に編纂された正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の元明天皇・和銅6年(713)には日向国から4郡を割いて「大隅国」を創設したとの記事があり、大隅が登場します。

 書紀の「大隅隼人」の方が初見なのですが、実際に編纂されたのは元正天皇・養老4年(720)なので、もしかしたら天武天皇時代の「大隅隼人」は、大隅国創設をうけてから過去にさかのぼって「大隅隼人」としたのかもしれません。

 したがいまして今のところ「大隅国」創設の和銅6年、すなわち713年の「大隅」が最も古いリアルタイムでの使用ではないかと思っています。ただ、天武天皇時代の「大隅隼人」が実際には何と呼ばれていたのか、については定説があるわけではないのですが、小生としては、「阿多隼人」に並ぶ古称の「姶羅」「阿比良」(あいら・あひら)が使われていたと推測しています。

 いずれにしても「大隅」という名称は約1300年前から使われている古名ということになります。

 次に「肝付」ですが、実は「きもつき」も同じかそれ以上に古い名称でして、上の大隅国創設の元になった4郡は「肝杯」「曽於」「大隅」「姶羅」とあります。(漢字に変更はあるものの、これらはすべて現在も使われている地名です。)
 
 「きもつき」に関しては、713年よりさらに古い文武天皇4年(700)に、人名として「肝衝難波(きもつき・なにわ)」が登場します。

 「きもつき」に充てる漢字の変遷ですが、以上から肝衝→肝杯→肝属→肝付となります。「肝属」は郡名として10世紀の『和名抄』に出てきます。また「肝付」は11世紀前半に高山に入ったとされる「肝付氏」(入部前は伴姓)から使われ出したようです。

 4つの「きもつき」のうち「肝属」と「肝付」は11世紀半ば以降、前者は郡名として、後者は姓名として並行して使用され続けました。

 今度、高山町と内之浦町の合併で新町名に「肝付」を採用したのは、おそらく、島津氏に敗れたとはいえ、それ以前から大隅半島および日向・諸県郡一帯を支配していた古大族「肝付氏」をアピールするためでしょう。内之浦氏(岸良氏)も肝付氏の分流なので、反対はしなかったのだろうと思います。

投稿: kamodoku | 2009年7月23日 (木) 06時23分

 日向の国は宮崎から鹿児島までの南九州一帯で、その中心は大隅だったのではないでしょうか?様々な遺跡・古墳が物語っています。それと、曽我氏の武内宿寝はとも弥五郎どんとも言われていますが、岩川、都城の山之口、日南の南郷の3兄弟、特に長男の様相はトルコ系の感じで、やはり渡来系だったのではと思います。
 そして武内宿寝は300歳とも言われてますが、応仁天皇など複数の伝承もあり、応仁だとしたらまさしく天皇家のルーツ、渡来系でいわゆる熊襲・隼人の首長でもあったことも肯けます。

投稿: 大隅人 | 2009年11月15日 (日) 10時31分

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