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相も変わらぬ<邪馬台国論争>

昨日の日曜午後、時々見ることのある「そこまで言って委員会」(毎日テレビ?)で、<ミステリー・邪馬台国・九州説か畿内説か?>というようなタイトルを掲げ、二人の、それぞれを代表する学者が持論を展開していた。

 この番組では、質疑を交えた上で、最後にゲストコメンテーター8氏にどちらを支持するか軍配を上げさせたところ、ちょうど4対4の五分で終了した。はじめから五分五分で終わるように仕組んだ嫌いもあるが、テレビでこういう論争を取り上げること自体、よいことだと思う。

 それにしてもいただけないのが『畿内説』だ。

 春成秀爾という橿原考古学研究所だったかの所長が、畿内説の代表者だが、魏志倭人伝の行程記事の九州の北岸から「南至る邪馬台国、水行十日、陸行1月」という部分の方角「南」を「東」の誤記とする畿内説が多い中で、氏は朝鮮で15世紀はじめに描かれた地図『混一彊理歴代国都之図』に日本列島が東西ではなく南北に書かれていることを理由に、「南は誤記ではない。国都之図のように古代人は日本列島を南北に長いものと認識していた。したがって、九州島から南へ船で十日、歩いて一ヶ月をたどれば畿内に到着する」という自説を述べていた。

 ところが『国都之図』の写しで、ちゃんと東西に長く描かれているものが長崎県の寺で見つかっている。これをどう理解するのか、というか、申し開きをするのか、聞いてみたいものだ

 いずれにしても、魏志倭人伝の行程記事をよく読めば、邪馬台国は九州島を出ることはない。「畿内説」の人はもういい加減に「魏志倭人伝」から離れて、つまり魏志倭人伝など無視してもらいたいものだ。

 魏志倭人伝には「邪馬台国の東、海を渡った所にも倭人(倭種)がいる」とあり、中国地方・四国地方・畿内・それ以東にも倭人がいると言っているのだから、魏志倭人伝の内容については考慮せずに、どうぞ自由に古墳なり、弥生墳丘墓なりの考古資料から「倭人論」および「大和建国論」を展開してもらいたい。

 邪馬台国が九州島に存在したことは「魏志倭人伝」の行程記事から明らかであるが、ただ九州説の弱点はー実は畿内説でも同様なのだがーやはり「考古資料偏重」で、ために九州島最初の国として描かれる「末盧国(唐津市)」の次に、東南へ陸行で到達する「伊都国」を福岡市西部の「糸島(前原市)」と安易に比定してしまっていることだ。

 前原市の数々の王墓に埋納された巨大な鏡や剣・碧玉などの考古資料に幻惑され、船で行けるはずの糸島へ陸行するという奇妙さや、唐津から糸島なら東南ではなく「東北」であることなどに疑問は感じないでいる。

 このことが畿内説論者をして堂々と「南」は「東」の誤記であると言わしめる理由にもなっている。つまり「九州説も東南を東北に勝手に読み変えているじゃないか。それなら南を東に変えても文句は言えまい。同じ90度の転換なのだから。」と言われることになるのだ。

 私見では方角を一切いじらずに、唐津から東南を流れる松浦川沿いに行ったとする。

 また、距離表記の「水行千里」は「航海日数の1日」(「海峡渡海一日行程論」による)、「陸行百里」は「徒歩日数の1日」と換算できるものとして、おおむね福岡県八女市あたりが邪馬台女王国であろうと考えている。敵対していた南にある「狗奴国」はおおむね「熊本県」、「投馬国」は「鹿児島県と宮崎県(薩摩・大隅分立以前の日向国)」であることは動かせない。

 邪馬台国論については、おいおい何回かに分けて書くつもりである。

 ホームページ『鴨着く島おおすみ』には既に掲載済みだが・・・。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

大崎町の天神段遺跡から2100年前の鉄族(鉄の矢じり)出土。
これは福岡や佐賀で出土した鉄族と同年代の国内最古。大隅と北部九州と関連が
あったのだろうと。半島南部を支配していた倭人とは本土土着の縄文人だったのだろうか。
揚子江流域の呉越人などではないかとも言われてます。その彼らが北部九州や南部九州へ
渡った。そう考えると今回の謎も解けるし、南九州に天孫降臨や神武東征が渡来人によるもの
という推測もたちます。やはり、南九州ルートは、川内、吹上から志布志湾へ上陸し縄文人と
同化しながら勢力を伸ばし、海岸線と内陸部から宮崎へ進んだことが、南九州各地に点在する
神話と符合します。

投稿: マニア | 2015年7月19日 (日) 09時22分

マニア氏へのリコメント。
 大崎町の東九州自動車道建設に伴う発掘調査で持留川という川の右岸高台に現れた永吉天神段遺跡は首長の存在を示す「円形周溝墓」が一基確認され大隅半島でも弥生中期にかなりの身分社会になっていた―と去年の9月頃の説明会で言われたが、今回は二つの土壙墓の中から2100年前の全国でも最古級の鉄鏃が出て来た。
 これら鉄鏃は実は去年の夏ごろに発見されており、9月の説明会では伏せられ、その間、すでに埋蔵文化財センターで調査検討がなされて、やっと最近になって弥生中期のものと確定したようである。おそらく「南九州にそんなに早く鉄製品が出土するはずがない」という既存の考古学会の常識がしばらく邪魔をしていたのだろう。
 北部九州の福岡大宰府と佐賀鳥栖市の遺跡で同時代の鏃が出ているのが決め手となったようで、南九州とのつながりは動かしがたいものになった。その交流を担ったのは航海系種族である南九州鴨族であったと考える。
 この鴨族こそ縄文時代中期(4000年前)以降に盛行した黒曜石の交易を担当した種族で、もちろん倭人であり、縄文系であった。
 彼らはまた半島や大陸にまで沿岸航法で船足を伸ばしたようで、紀元前1000年頃、殷王朝の後継となった周王朝の二代目の成王(在位前1042年~1021年)の時に、越人が白雉を貢献し、倭人は暢草(チョウソウ)を献じたと、『論衡』には書いてある。
 注意しなければいけないのはこの前1000年代は周王朝の始祖季歴の長兄・太白と次兄・虞仲が呉王朝を開いているが、貢献したのは倭人と越人だけであったということ。つまり呉人の存在は倭人よりあとなのである。
 では倭人と越人とどちらが先か―。古代史学者のと鳥越憲三郎という人はどちらも「倭族だ」と一括りにしているが、それでいいのかもしれない。そう考えると南九州に降臨して米作りによって国土を統一しようとする天孫族は南部中国の「倭族」が渡って来たものという考えも不可能ではないように思われる(ただし一過性のものではなく相互交流は相当あっただろう)。
 いわゆる天照大神の生んだとされる五男神の長子はアメノオシホミミで、本当はこれを降臨させようとしたが、準備している間にニニギ(皇孫・天孫)が生まれたので、こちらを高千穂峰に降臨させた―と神話にあるが、本来降臨するはずだったアメノオシホミミは航海系である南九州投馬国王(ミミ)だったことを考慮すると、どうやら半島との交易を通じて大陸の事情に精通した航海系投馬国王が秦王朝や漢王朝のような中央集権制度的な国土統一を理想としたということまで視野に入れて考えて行かなければならない思う。
 

投稿: kamodoku | 2015年7月19日 (日) 22時18分

倭人伝の中の「一大率」を「刺史」と比喩した記述により、邪馬臺國は少なくとも「九州にはなかった」ということが明確です。
『後漢書』百官志・州郡条によると司隷校尉と刺史との違いは、地方を監察させたのが勅使であり首都圏におかれたのが司隷校尉。邪馬臺國への使者も、魚豢も陳寿も、常識として知っていたでしょう。
したがって、邪馬臺國が九州にあるならば、首都圏に属する伊都国に治所を置く「大率」は、「倭国の内で(の権限は中国の)刺史のようで」はなく、「司隷校尉のような」権限を持つことになる。
伊都国に置かれた「大率」を「刺史」と表現したのは、伊都国が首都圏に属さない、あくまでも一地方の監察官という意味であり
、邪馬臺國は少なくとも九州にはないことが、文献解釈から証明できます。

投稿: 伝道師 | 2016年11月 8日 (火) 17時45分

伝道師さんへ。
倭人伝には<「刺史のごときもの」は「国中に置かれた」>とあり、この「国中」とは当然、邪馬台女王国(連盟)配下の20ヶ国にそれぞれ配置されたと解するのが正しく、女王国が九州にあってもそれぞれの国々は女王国(首都圏)から見れば「地方の国々」であって、「刺史のごときもの」が置かれて何の不思議もないでしょう。

それよりも、伝道師さんはその直前の倭人伝記述である「国々に市が有り、有無を交易する。それを大倭に監督させている」の中の「大倭」を「大和」と解釈し、これを論拠に九州島の諸国にまで大和王権が力を及ぼしていた。だから、邪馬台国は大和にあった――というようには考えていないのですか?

早とちりの大和邪馬台国論者は大抵そうしていますがね。

投稿: kamodoku | 2016年11月14日 (月) 22時43分

隋書』には以下のように記されています。

都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

都はヤマト、魏志の云う邪馬台国と同じことである。

もちろんご存知でしょう。

ここでヤマトに向かった裴世清のヤマトまでの道のりを『隋書』と『日本書紀』を時系列的に並べてみます。

まず隋書
度百濟 行至竹島 南望 羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國

百済を渡り、竹島に至り、南に 羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。

そして日本書紀
裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る(608年4月)
客等、難波津に泊れり(608年6月15日)

(ここでいう妹子というのはご存じ小野妹子です。
これで竹斯国が筑紫であり秦王国が難波津であることがわかります。)

次に隋書によれば
又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より東、みな倭に附庸す。

日本書紀
秋八月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、京に入る(608年8月3日)

隋書
倭王遣小德 阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
倭王は、小德 阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。

日本書紀
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。

隋書
後十日 又遣大禮 哥多毗 從二百餘騎 郊勞
後十日、大禮の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従え郊勞せしむ

日本書紀
壬子(608年8月12日)に、唐の客を朝庭に召して使の旨を奏さしむ。
時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人を客の導者とす。


隋書
既至彼都 其王與清 相見 大悅
既にして【彼の都に至るに】、その王(倭王)、清(裴世清)と【相見て】、大いに悦びて曰く。

日本書紀
是に、大唐の国の信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて使の旨を言上して立つ。

隋書
朝命既達 請即戒塗 於是 設宴享
朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。ここに於いて設宴を享け

日本書紀
丙辰(608年8月16日)に、唐の客等を朝に饗たまふ。

隋書
以遣清復令使者隨清來貢方物
以って清を遣わし復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ。

日本書紀
九月の辛未の朔乙亥(608年9月5日)に、客等を難波の大郡に【饗たまふ】。

□辛巳(608年9月11日)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。

ご覧のように、2書を並べることで、隋書だけでは分からなかったことが見えてきます。
まず、倭国が裴世清、一行を迎えた場所は「難波津」であると記しています。

上のように並べれば、それがあの「秦王国」だと分かるのです。

しかしながら、一般人から学者まで、日本書紀のこの部分を読んで「難波」は「大阪」と思い込み、まず全ての考察がそこからスタートします。
これが大きな間違いなのです。

国名・郡名・郷名の記載された辞書である倭名類聚抄には大阪には難波の記載はありません。
大阪の難波はもっと後の時代にコピーされて名乗り始めた地名です

では、どこに「難波郷」があったのか?と言えば、調べればすぐ分かりますよ。

愛媛県か香川県になりますよね。

私は秦王国を秦氏と関係があると考えております。

四国の西南部に今でも幡多の地名があることから愛媛県に比定しています。

隋書の記録では
「ヤマトの海岸」に到着後10日後にヤマトの朝廷に呼ばれ、倭王に謁見したとあります。

日本書紀では、一行は遣隋使小野妹子とともに来日し、6月15日難波津に泊まり、歓待を受けたのち、8月3日、京に入り、その10日後の8月12日、朝廷に呼んだ。
とあります。

つまりヤマトの海岸到着は京師(の海岸)到着であり「難波津」のことではない、ということになります。
ほとんど全ての研究者は、この矛盾を無視しているのです。

つまり、「難波津」は隋書に記される「又經十餘國 達於海岸」の「海岸」ではないということ。

わかりやすく、日付のはっきりした動きだけを並べてみます。

『隋書』 上 : 『日本書紀』 下

【又至竹斯國】
【裴世清、筑紫に至る】(608年4月)

【又東至秦王國】
【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日)


(京の)海岸に達す】
【唐の客、京に入る】 (608年8月3日)


【後十日】、 【郊勞せしむ】(後十日。8月3日を含めば、8月12日)
【八月十二日】 【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】(608年8月12日)

これだけ、隋書と日本書紀の動きが一致しているにも関わらず、みな、「難波津」が、「(ヤマトの)海岸」だと思い込んでいるのです。


「難波津」が、「海岸」のことだというなら、そこに(6月15日)~(8月3日)、50日もの誤差が生まれます。
全体の動きが一致しているのに、それはありえません。

そこで上の文をもう一度見てください。
度百濟 行至竹島 南望 羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 又經十餘國 達於海岸
百済を渡り、竹島に至り、南に 羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。また十余国を経て、ついに海岸に達する。

裴世清一行は、秦王國を出た後、十余国を経て、「海岸に達した」のです。

そして、そこが当時のヤマトでした。


わかるでしょうか?

つまり一行は陸行しているのです。

日本書紀によれば、裴世清が帰国するときは、帝都から難波津まで20日です。十余国の立ち寄りは不要なので休憩以外はそそくさと進んだのでしょう。行程の内容によるが、片道20日~39日ですから、平均で1ヶ月です。
裴世清一行は、難波津で、まず歓待を受け、途中十余国に立ち寄り、帝都ヤマト海岸部での歓迎儀式の10日後、トータル49日で天皇に謁見しています

ここで、魏志倭人伝を思い出してください。

投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。

もう答えは出ています。

そこには当時、地方としては国力を遥かにこえた巨大寺院が存在し、倭の国魂を祀った倭大国魂神社がありました。

投稿: | 2016年11月15日 (火) 19時47分

名無しさんへ。

 竹斯国(筑紫)の東にある秦王国は秦氏の国であってその比定地を愛媛県とした。そこからさらに東へ10余国を経て到着した「海岸」までは「陸行」した――とするならば大和は四国島の中にあったということになりますが・・・。

 うーむ、これでは「何でもかんでも四国中心主義」の論理ということになるようで・・・。

 「達於海岸」という漢文表現は、どう考えても「船で行って(海上から)岸に着いた」ということでしょう。陸行なら「海岸に到達する」などという表現など使わないで「到邪靡堆、倭国之都」などとズバリ書くのが普通でしょう。

 難波という地名は、日本書紀によると早いのでは仁徳天皇の30年条に、<皇后磐之媛が「難波済(なにわのわたり)」に至ったときに、天皇がかねてから思いを寄せていた八田皇女を後宮に入れたことを知って激怒し、せっかく紀国まで行って摘んできた「ミツナガシワ」を海に投げ捨ててしまった>という下りに登場していますので、難波はすでに5世紀には大坂の地名として存在したとみていいと思います。

 日本書紀によると御説のように海岸を大坂難波とするとで6月15日に到着しながら京(都)に入ったのが8月3日となり、大坂難波で50日も待たされたことになってしまい、いくら何でもそれはあり得ない――という解釈ですが、同じ推古16年条の6月15日の出来事として次のような大事件があったことを見逃しているようです。

 それは、小野妹子が帰還するときに、百済で唐の皇帝からもらった返書を百済人によって盗まれてしまったという事件です。
 小野妹子は難波に上陸ののち、迎えに来た中臣烏麻呂らにそのことを告げたら烏麻呂らは「それは重大な罪で、流罪に値する」という判断を下したのだが、京の推古天皇にそのことを知らせると、天皇は勅命で罪を許すと言ってきた――とあり、まずはこのやり取りに時間がかかり、また、唐使を京に迎え入れるための種々の準備のための時間も相当かかったと考えられます。

 したがって大坂難波の唐使のために新しく建てた「新館」において50日を過ごしたことは想定内のことでしょう。上代・古代においては遣使でも迎使でもすべてに悠長なほどの時間が必要だったのですよ。

 さて隋書の最初の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」に戻ると、この文では魏志倭人伝時代の女王国も随書時代の大和もどちらも大陸人は「ヤマタイ」と読み取ったということだけを示しているという表明であって、「ヤマタイ」を冠する王権が3世紀からずっと同じ場所にあったとも、移動したともどちらとも取れる表現です。

 定着か移動かは置くとしても、ここからはいわゆる「ヤマイチ国」を標榜する「古田学説」は成り立たないことが言えるのです。


 これに関して言えば、隋書の「邪靡堆」は「ヤマツイ」あるいは「ヤマツヒ」の漢字化で、自分としては後者の「ヤマツヒ」を推したい。そもそも大和という漢字は「ヤマト」とは読めないのになぜ大和なのか。それは倭人伝時代の「大倭」から来ている。漢字としては「大倭」から「大和」への変遷。

 しかし意味としては上の「邪靡堆=ヤマツヒ」で、このヤマツヒは「アマツヒ」の「ア」の大陸人の卑字変換で「邪」となって「ヤマツヒ」となったものだろう。大陸人は「アマツヒ」と聞いたけれども、母音を最初に発音することができないか苦手だったのでアをヤにし、そのヤに卑字の「邪」を当てたとも考えられる。

 ちょっと余分だったけれど、「大和」がなぜ「ヤマト」と呼ばれるのか、だれも指摘しないし無視しているようなので書いてみた。後考を待ちたいところです。

 

 

投稿: kamodoku | 2016年11月17日 (木) 11時56分

邪馬台国は魏志倭人伝にしか出てこない。紀記に出てこないということは日本ではなく中国でしょうか。
広開土王の碑が旧満州から出土したことから大和朝廷は任那の倭兵を引き連れて戦ったとされているのも、倭が中国王朝から見て辺境の山東半島あたりを倭と呼び別紙していたと思われます。仮に日本を倭とするなら東倭ではなかったでしょうか。

倭国とは中国南部の倭族で、それが北上して山東半島あたりに倭国をつくったでのはないでしょうか。そう考えると風土や刺青の風習もわかります。倭国大乱時の5王とは日本の天皇ではなく倭国の王ということでしょう。

山形明郷は中国文献を読みこみ、邪馬台国は旧満州として、小林恵子も中国文献と朝鮮の三国史記、紀記との比較、特に識緯説的表現から邪馬台国は奄美で、しかもパルチアの末裔で天皇家も北方民族の匈奴とし、その子孫は朝鮮と日本の王を兼ねていたとしています。

真偽のほどは何とも言えませんが、アジアの歴史は各国がそれぞれの文献を照合しながら調査しないとわからないですね。

投稿: 古代史ファン | 2017年1月 1日 (日) 15時26分

鹿屋市細山田から2000年前の青銅ののみが出土。全国で3例目。これも大和朝廷から送られたと鹿大準教授は言われるのでしょうか?

これも祭祀用としたらやはり高隈山を拝んでいたのではないでしょうか。高隈山は志布志湾からはっきり正面に見えます。この山が天孫降臨の山かもしれません。出土した近くの串良川流域には霧島神宮の本社と思われる霧島神社があります。近くの下久保遺跡には1500年前の鉄の鍛造工房、その他多くの縄文から弥生時代の遺跡が出土しています。

えびのから出土した武具等もこの地域と関わりが高いでしょう。この王国の北の防衛ラインだったと思われます。

投稿: ごんべえ | 2017年1月 1日 (日) 15時35分

古代史ファンさん、ごんべえさん、明けましておめでとうございます。新年早々に訪ねてもらってありがとう。

まず、古代史ファンさんへ。
 邪馬台国のことは確かに記紀には書かれていません。だが、江戸後期の国学者本居宣長は大和朝廷の女王が魏に朝貢するなんてそんな馬鹿なことがあるはずはないとして、「南九州の熊襲の女酋が大和朝廷をかたらって(嘘をついて)魏に使者を送ったのだ」――と、結果的には邪馬台国を大和朝廷と同一視しています。
 逆に言うと大和朝廷を貶めるような魏志倭人伝の記述を無視あるいは蔑視しているということで、この観点は記紀編纂者の観点でもあり、当然、邪馬台国をまともに取り上げてはいないのです(ただし、神功皇后紀では神功皇后を卑弥呼とみなした注記があるが、あくまでも注記にとどまっている)。
 しかし、記紀に無いからと言って邪馬台国は日本列島にはなく満州だ、奄美だと比定するのは倭人伝を読みこなしていないからで、全く曲解の極みです。邪馬台国は九州島の中にしか考えられない。
 倭人・倭族・倭国という区別によく気付いたと思います。
 倭人とは近代以降の華僑(華人)が中国人でありながら東南アジア全域に広がったのとよく似ており、倭国に帰属しながら列島はもとより朝鮮半島全域から満州南部までをテリトリーとする人々、倭族はもっと広域で漢民族が勢力を爆発的に伸ばす前の大陸に住んでいた苗族などの非漢民族、そして倭国は倭人国家でも九州島(および朝鮮半島南部)を中心とする国家群を指していたのですよ。

ごんべえさんへ。
 「この王国」とは私の言う「投馬国」で、鹿児島と宮崎を合わせた広がりを持つ戸数5万戸の大国だったわけです。
 この投馬国は2世紀の半ばころに船団を仕立てて九州南部から瀬戸内海の安芸・吉備を経て大和橿原に到達して最初の大和王権である橿原王朝を開きました。
 これを「東征」と言い習わしていますが、実際は南九州が巨大な天災をこうむったがための避難ではないかとこの頃は強く考えています。
 この第一次大和王権は北部九州からやって来た崇神天皇(纒向王朝)によって覆されてしまうわけですが、それでも祭祀などの根本的なところはかなり踏襲されたと思います。
 つまり崇神王朝に敗れたとはいえ、権威的な宮中祭祀などにかかわり、中でも第一次大和王権の傍系から出た太安万侶は古事記編纂を担当しています。
 このように南九州は大和王権とのつながりが強く、南九州で発掘される考古遺物に大和王権と直結するような物が多いのはむべなるかなで、そのことが「大和王権の支配が南九州まで及んだ証拠だ」という支配構造論に短絡させてしまう危険性はあります。
 途中を端折って言うと、白村江の戦いで朝鮮南部の九州島由来の倭国人が壊滅か、壊滅しないまでも九州に引き上げて、朝鮮南部の利権の一切を失う(新羅国との断交)までは、九州島の倭国人は半島の利権を武器に、大和王権側の倭国人と対等くらいの勢力があったと考えるべきでしょう。
 ところが白村江で敗れて物心ともにシュンとなったため、それ以降大和王権との格差がそれこそ天文学的になり、蛮族視が始まったものと思われます。

 話が飛躍しましたが、天孫降臨の山は霧島高千穂でもあり、鹿屋の高隈山でもあり、串良の立小野でもあり、内之浦の北岳でもあり、末吉の南之郷だったり・・・つまり小さな領域の中で暮らしていた古代人の聖なる山は到る所にあったんですよ。「天からやってきて、再び天に帰る」という死生観を農業(田作り)における天水(川)の循環に重ねたんでしょうな。

投稿: kamodoku | 2017年1月 1日 (日) 20時45分

先生に質問です。
様々な天孫降臨の書物がありますが、天孫降臨は宮崎の高千穂町、霧島連山の高千穂の峰に比定されてますが、天孫降臨などありえるはずがないので比喩的表現と思われます。

高千穂町は単なる山岳信仰で熊本方面から入って来た人々の集落かと思われます。朝鮮半島も入っていたかもしれません。宮崎県日向市に百済の遺民の村がありますから。

霧島連山の高千穂の峰にしても天孫降臨の時代に高千穂峰の名称はないと思います。後世のあてはめかと思われます。何よりも笠沙に近いところでないといけないはずで、中国江南地方等からの渡来民の話ならば東シナ海から見て高くそびえた山は金峰山、開聞岳、大隅半島へ回ったなら国見岳、高隅山ではないでしょうか。

神武東征ですが、ほとんどの書物が宮崎県日向市の美々津としてます。鹿児島でも福山の宮浦神社、志布志湾の柏原にも東征の碑があります。これらから宮崎海岸沿いに北上して西都原の勢力と美々津で合流して出発したとも考えられます。

古日向、つまりひむかの国から700年代初頭に薩摩の国と大隅の国が分国され、以降、ひむかの国は日向の国となり日向神話はあたかも後の日向の話になります。ひむかの国の中心と思われた大隅勢力を割くためだったのではないでしょうか。大隅勢力とは熊襲=隼人と思われ大陸からの渡来人で、大和王朝の租とも思われます。

そお大和王朝は645年の乙巳の変で朝鮮半島系に変わるのではないでしょうか。日本書記の編纂は最後の隼人の乱の終結時ではなかったでしょうか。

投稿: 地元民 | 2017年1月 9日 (月) 09時41分

地元民さんへ。質問への回答が最後のほうから逆順になりますので了承下さい。
 
 日本書紀の編纂終了は隼人の乱(720年3月)が起きた同じ年であることは間違いないが、まだ終結する前の5月のことです。

 しかし隼人の乱が起きたことで、南九州は著しく貶められ、原日本書紀に改変が加えられたことは十分に考えられます。

 古日向(宮崎+鹿児島)を分割して薩摩・大隅・日向と三国にされたのは白村江の海戦による九州航海民(南九州鴨族・安曇族・宗像族)の大打撃に起因しているのです。

 つまり唐・新羅連合国によって百済が滅亡したことで、九州航海民の半島における利権(交易・政治)が絶たれ、あまつさえ唐の占領政策で九州部族国家群は危殆に瀕し、以降はヤマト王権による列島再統治が唐の律令制に倣って執行されるようになりました。

 その際にコメの収穫を単位とした「班田収授」が経済の基本になるわけですが、最も打撃を受けた南九州航海民すなわち鴨族(熊襲のちに隼人)にとってこれは非常に厳しいことでした。なにしろ名にし負う「コメ作り不適地帯」では「租」というコメによる税金なんて払えるわけはないのです。

 それに加えて仏教の強制的な普及にも反発した南九州人の起こしたのが「隼人の乱」です。この結果、南九州人はますます「化外の民」(夷人雑類)となるほかなかった。日本書紀はそれをいやというほど書き込んでいます。割り引いて考えなければなりません。

 神武東征ですが、古事記に書いてある神武東征と、日本書紀に書いてある神武東征を区別する必要があります。

 古事記では美々津を出港してから実に16年以上の歳月をかけて大和橿原に入っていますが、書紀のほうの神武東征は3年ちょっとでそれを果たしています。

 この数値の違いを単なる記紀編纂上の誤記に過ぎないと高をくくっていてはいけません。後で書かれた書紀がなぜ古事記の16年に合わせなかったのでしょうか。数字合わせなどいとも簡単なことだったはずです。

 それを違ったままにしておいたということは、古事記と日本書紀では二つの違った「神武東征」を描いているということです。

 古事記の16年かかった東征は南九州(魏志倭人伝でいう投馬国)からのものであることは間違いなく、ただ、私は「東征」ではなく「移住」と見ています。安芸(広島)に7年、吉備(岡山)に8年もの長い間居着いたのも移住で説明ができます。

 日本書紀の東征は北部九州からのものでこれは「崇神天皇(大倭王)の東征」でしょう。

 前者の東征は「災害からの避難的移住」で、後者の東征は「半島情勢のひっ迫による東遷」と考えていますが、ここでは詳細は長くなるので省略します。


 さて天孫降臨ですが、確かに天から皇孫が降りてくるというのはおとぎ話に属します。この垂直的降臨を水平的降臨に置き換えれば、皇孫は九州のどこかの海岸に上陸したと考えられます。

 ではどこからなのか?
 朝鮮半島か、中国大陸か、列島内か、あるいは南西諸島か沖縄か?

 7400年前の鬼界カルデラの噴出によって南九州はほぼ壊滅状態になったうえ、その後も池田カルデラの噴出や開聞岳の大噴火、成川、鰻池・・・等々休む暇のない火山災害により、不毛の地と化した南九州に「天孫降臨」があったとしたのはなぜなのか?

 それはひとえに古事記に描かれた神武東征(実は移住)が実際にあり、大和に王権を築いたからでしょう。古代史や古文献学者のほとんどは「南九州からの東征などありえない。」と天孫降臨神話も神武東征説話も完全否定しますが、それならなぜわざわざ不毛地帯の南九州を舞台にしたのかの説明がつかないのです。

 最近私は天孫が南九州に降臨した(やって来た)理由は、鬼界カルデラの噴出を生き延びた南九州人がこの火山災害のほとぼりが冷めたころに再び父祖の地に帰って来たことが「天孫降臨神話」に反映しているのではないか――という風に考えるようになりました。

 なにしろ南九州の鬼界カルデラ噴出以前の早期縄文文化は世界で最も古い「つぼ型土器」を創造するほど進んでいたわけで、仮に10中8、9の南九州人が絶えても、生き残りの人々は必ずいて、彼らが「ゼロからやりなおす」覚悟で父祖伝来の南九州に舞い戻った――このことを赤ん坊の姿で天から降りて来たニニギ尊に仮託したのかもしれません。

 また垂直的降臨として描かれたのは、古墳時代に各地域の豪族(首長)は小高い丘の上に埋葬された(高塚古墳)わけですが、この時代には英霊の魂は天上に帰るという思想が古墳時代人に行き渡るようになり、このことが「クシフルタケ」への降臨という表現となって定着したのだろうと思います。

 この「クシフルタケ」はコメ作りによって統合された小地域それぞれにあった。しかし地域的統合が進むとやがて共通の「クシフルタケ」になり、最終的に(記紀の編纂段階で)高千穂に収斂していったのでしょう。

 

投稿: kamodoku | 2017年1月 9日 (月) 22時46分

神代3山陵の高屋山陵が肝付町の国見岳から霧島市溝辺へ明治の初め田中頼庸により移されました。この目的は何だったのでしょうか。

投稿: 大隅人 | 2017年1月15日 (日) 00時22分

ご回答いただきありがとうございます。
小林素子は邪馬台国を奄美としたと書きましたが、奄美か沖縄にパルチアの末裔が上陸後、北九州へ移動して邪馬台国を建国としています。誤りでした。

当然、南九州を経た可能性もあります。彼女の説は学会ではとんでも説として無視されていると思います。呼んでいて、決め付けと思われる点もありますが、北方民族、高句麗と日本との関係など中国の文献と書記等との照合、それによる暗示的表現当からなるほとと思える部分もあります。

邪馬台国だけでなく古代史は機内と北九州だけがクローズアップされてますが、南九州、出雲、吉備、関東も注視すべきでしょう。埼玉県、ここも重要ですね。高麗駅の地名、剣の出土など。


古代史の真実はまだはっきりしていない部分が多いですが、できれば日本、中国、朝鮮で共同研究ができるようになれば解明ができるようになるのでは。それが難しいようであればせめて中国文献等との照合を日本の学界ももっと取り組むべきでしょう。学会が白い巨塔化してはアカデミズムではないです。

幕末からの歴史がタブー視されて慰安婦問題など様々な問題が争いとなっているのも元をただせば古代史からがおかいいからと思います。

投稿: | 2017年1月15日 (日) 08時33分

大隅人さんへ。

 古事記にホホデミの墓は「高千穂(山)の西」と書いてあるからです。

 日本書紀には「(古)日向の高屋山上陵」とだけあり、これでは新日向の宮崎県の西都市の南部にある景行天皇由来の「高屋宮」の高屋と間違われる。そこで神代三山陵の比定には内務卿だった大久保利通が最終的な決定権を持っていて、鹿児島県内にすべてを定めたというような解釈が定説です。

 田中頼庸はじめ鹿児島出身の国学者などを動員して調べたようで、内之浦の高屋神社の奥宮(国見山)や、吾平山陵の候補地としては田代大原の宇戸神社などが挙げられたようですが、明治7年でしたか、内務省で今見るような三山陵が決められたわけです。

 その頃は神代のニニギ尊の降臨も、ホホデミの竜宮行きも、ウガヤフキアエズの海岸誕生もすべて何らかの真実の伝承として受け止められ、それらがすべて(古)日向、すなわち現在の鹿児島・宮崎を舞台に織なされたと考えていたようです。誇らしかったはずです。

投稿: kamodoku | 2017年1月17日 (火) 21時00分

高屋山陵の比定は確かに宮崎県との争いがあり苦肉の策だったんでしょうが、そもそも高千穂の山が今の高千穂山かは疑問ですね。天孫降臨とは上陸ではないかと思います。そうなると高千穂山とは天へそびえるような山で上陸地点から見える山だったのではないでしょうか。

投稿: | 2017年1月21日 (土) 19時13分

だから、高隅山を仰ぎ見る感じで大崎へかけて重要遺跡が出土しているのではないでしょうか。祭祀用や生活・軍事用を思わせる鉄の鍛造工房も出たし。霧島神社、霧島神宮に古文書等全て持ち去られているようなので今となっては伝承しかないがあの付近も調査した方がいいです。国見岳も上陸前に海上から見えたのではないですか。

投稿: | 2017年1月22日 (日) 08時54分

『山城国風土記(逸文)』には今の下鴨神社の建立由来として「カモタケツヌミが曽の峰に天下ったのちに葛城地方へ移動した」という記述があります。
 
 このカモタケツヌミとは神武記によると別名「ヤタガラス」で、神武東征の際に紀州の山中で神武一行が道を失ったとき出現して、奈良県の宇陀にまで導いたという殊勲を挙げたわけですが、最初に下った「曽の峰」こそが高隈山をシンボルとする大隅半島のようです。

 お説のようにボートピープルが上陸した地点から見えたからそこを天孫降臨の霊山としたというよりも、船乗りにとって船通山(船から見える目印の山)的な存在が高隈山だったいうことで、船乗りたちも生活の基盤は大隅半島内部の平野地帯(笠野原台地のような丘陵部も含めて)だった。

 定着して代々コメ作りに励んで落ち着いてみると、集落から見える四周の高い山が農民の「船通山」としてあがめられ、「祖先はあそこに下って来たのだ」という始祖説話に転化していったのだろうと思います。

 だから極論すれば農耕小集落ごとに「祖霊が宿る山」があり、そこを崇拝する気持ちが強くなった。その後集落の単位が次第に大きくなると、川(水系)単位で源流を生み出しているさらに高い山が共通の霊山(祖先がそこから下り、死後そこに帰っていく山)が指定され、大隅半島ではその最大の山が高隈山だったということです。

 この信仰が取り入れられて造られるようになったのが古墳でしょう。古墳の原型は弥生墳丘墓で要するに山を模した高塚(円墳)です。

 四周にその土地を拓いて経済基盤を確立する功績のあった首長クラスが死んだ後に帰るべき山や丘のない平野の真っただ中の大集落などは、人工の山を築いて代用したものでしょうが、いつしか本当の山のように巨大化して築き、世代交代のセレモニーを行うことが流行したのではないかと考えます。

 下中の霧島神社を頂上に持つ丘はその資格十分にありですが、完全に人工の山か、もともと丘があったのかは分かりません。だが下中一帯を拓いて定着した首長クラスの人物を葬っていた可能性はあります。

 死後に首長を葬り霊山としてあがめた人々がどういった経歴の人たちかは分かりませんが、島津氏入部のはるか以前からそこに土着していた人々であったのは間違いありません。

投稿: kamodoku | 2017年1月22日 (日) 22時53分

南九州は南方や中国から渡来した人々が切り拓いた可能性が高いですね。それは大陸や南方に最も近く潮流に乗れば舟で来れたからです。

大陸の文化は古く、古くは中央アジアから中国への移動もあり、そこから南九州へ渡って来た可能性も高いわけです。中国の沿岸部にリンシという町があり、そこから出土した骨は白人系のようです。また、日本人のDNAは中国人、朝鮮人とも違うようです。

歴史は書物や古墳、遺跡を学者が鑑定して判断してました。歴史は作り、権力者に都合のよいように作られます。日本書紀然り。

今はDNA鑑定や科学的鑑定により歴史が覆ってきています。しかしながら、この大隅から出土する重要な遺跡はいまだに学会の厚い壁に阻まれて昔ながらの鑑定のような気がします。

それでも続々重要遺跡が出土するため鹿大の橋本準教授のトーンも最近変わってきています。最初は学会に遠慮して大和朝廷から送られてきたものとの論調が地元での生産を匂わせるようになってきました。

あと一押しです。マスコミを使って地元民が一致団結して大隅から出土している重要遺跡のアピールをしないといえkません。もとろん、先生のこのブログも功績大ですが、鹿屋市が中心となって大隅半島でのアピールが必要です。

有名な学者が発言すれば一番いいんですが期待はできません。先生にももっと頑張ってもらいたいと思います。

大隅の歴史の重要性が知られれば観光客も増えます。大隅古墳マラソン、ロマンマラソンなどの大隅全体での企画も必要です。

投稿: 地元民 | 2017年2月13日 (月) 10時27分

 中央の日本史および考古学者の一番隠したい、もしくは触れたくないのは、「南九州から移住した人々が大和に最初の王朝を築いた」
ということです。

 戦前は記紀のいわゆる「天孫降臨神話」がまともな説話とされ、南九州に天下った天孫(皇孫)が3代後に「神武東征」を敢行して苦難の末に大和に入り、そこに橿原王朝を樹立した――ということが史実として教えられていたのです。

 それを
 「南九州のような遅れた何にも無いような所に、大和に王朝を築くような進んだ勢力などあるはずがない。天孫降臨神話が南九州を舞台にしているのは国名に<日向>(ひむか)という吉祥語が使われているので、天孫の降臨にふさわしい縁起の良い場所として創作上採用されたに過ぎない」
 と断定して当時の風潮を批判し、そのために著書を発禁処分され、逮捕までされた津田左右吉という学者が現れました。

 戦後は建国神話が完全否定され、同時に津田左右吉が脚光を浴びて文化勲章までもらいました。

 これによって南九州からの東征どころか、そもそも天孫降臨神話自体も「おとぎ話」と目され、教えられることもなくなったわけです。

 魏志倭人伝と記紀の読み合わせによって、私は南九州は魏志倭人伝上の「投馬国(王の名はミミ・ミミナリ)」であり、記紀で神武天皇の子とされる「タギシミミ・キスミミ」とはその「投馬国」の王であったと確信し、したがって「神武東征」とは、投馬国王タギシミミの率いる武力的というよりか移住的な側面が強いけれども、「東征」は間違いなくあったと思うに至りました。

 いずれはこの説の正しさが証明されるかと思いますが、今現在、この説をとり上げても、鹿屋への誘客にはつながらないでしょう。

 鹿屋に限らず大隅地区に共通しているのは積極的に観光客を招く努力がいまいちだということですが、私はその前に大隅地区が自己肯定(実現)していないことに問題ありと見ています。

 自己肯定とは「まず自分が楽しむ。自足している。」ということで、具体的に言うと地域内に短大・大学などの高等教育機関、遊園地・水族館等のレジャー施設、今日普遍的になっている道の駅・・・などの地域民のための施設が皆無に近いではないですか。

 こんな自足性のない状況では地域民が萎えてしまい、よそからの入込客を胸を張ってもてなすことも歓迎することも心の底からはできないでしょう。

 まずは地域民自身がこの土地に生きてよかった満足だと思えることが大切で、それが前提となってから、「実は、大隅はすごい歴史を持っているんだ」と話すことができれば、相乗効果となり、なお一層観光客を呼び込めるのではないかと思います。

 まずは最低でも「道の駅」は必要でしょう。話はそれからです。

 
 

投稿: kamodoku | 2017年2月16日 (木) 22時09分

道の駅はアスリート食堂近くにできるそうです。
先生の仰るように鹿屋も含めて大隅は意識改革をしないと衰退は止められないでしょう。ここの土地柄はとにかく補助金など官に頼ることです。自己努力はないです。だから昔は大物政治家を輩出して土建業が盛んでしたが辞められてからは衰退してます。

ここの住民に歴史や遺跡を語っても、そいがないよです。政治的なことを語ると偉そうなことを言うなです。多分、古代から押さえつけあっれてきて出る杭は打たれるので打たれないよう、鬱憤は下の者で晴らすような風土になったのでしょう。

だから、今の時点で歴史を語っても猫に小判ですね。住民の意識が変わらないとだめですね。ただ、それこそ卑弥呼の名のついた物でも出てきたら逆に大騒ぎになるような気がします。良い意味ではなくて。

道の駅、そこって感じです。しかもあのバイパス。何のためにあんなに曲がりくねっているのか。バイパスの意味をなしません。特に体大裏の工事など。

本当は利便性、地域の過疎化阻止、景観、全てを考えたら古江峠から古江の町までループ橋にして古江峠は拡げて駅の道を造ればよかったのではと思います。

投稿: どしろうと | 2017年3月12日 (日) 09時27分

そうですね。鹿屋・大隅にとってプラスの政策が行われているか疑問ですね。一部の方々のための政策なのではと思います。豊洲、森友・加計学園などは氷山の一角でしょう。


ネットでも鹿屋市長や鹿屋市批判が多々あります。巷でも噂が絶えません。中には至極真っ当な意見もありますが聞くに堪えない内容、ただの言いがかり、嫉妬様々あります。

本当に鹿屋市をよくしようと思うなら市民一人々が意識を持つこと、市政を勉強すること、そして真に必要な人を選ぶこと、しがらみや利益で選ぶなどしないことです。金や飲み食いで選ぶなどは最低です。

投稿: | 2017年4月 2日 (日) 09時13分

鹿屋市への短大誘致の意見について。
そうできればありがたいですが。鹿屋市は短大誘致に失敗しました。大浦町のラグビー場、ここに短大を誘致する予定でした。体大もこの近辺が候補地の一つでしたが体大が花岡に決定したこと、多分場所が悪かったこと(当時はバイパスもなく山林の中で周りに何もなかった)、土地だけ用意した鹿屋市に建物建設までの要求があり断念してラグビー場になったそうです。

体大ですが、平田鹿屋市長(元文部官僚)が誘致したのは教育大でした。当時、鳴門教育大、上越教育大が認可され鹿屋の教育大は不認可でした。多分、鹿大教育学部との折衝が失敗したからと思われます。鹿大の教職員が田舎に行きたくなかったと言われています。

しかし、神風が吹きました。急に体大に決定しました。体大案はどうも広島大の案だったようです。地元の大物政治家が面子を潰されて文科省にねじこんだとの噂が拡がりました。

無理に造った体大は理念とは裏腹に中途半端な大学となりました。何とか金メダルを1つ取れましたが広島大にできていれば西の筑波となり相当な効果を上げたでしょう。

体大から教員は厳しいです。しかも鹿児島県への就職は。そこには鹿大という厚い壁があります。教員になるなら鹿大がいいしオリンピックなどハイレベルの競技なら関東・関西、最低でも福岡でいいです。

大学再編時も鹿大との統合が協議されがまたもや鹿大が拒否したため仕方なく体育単科大学で運営しているとの噂です。真相はわかりません。

しかしながら、このまま中途半端な大学だと存在意義がなくなり廃止の可能性もあります。廃止後、米軍又は自衛隊施設にならないとも限りません。

そうならないためには大学の拡充しかありません。東京だけでなく今後のオリンピック、国際競技の強化施設としての役割を担わせることです。一部ナショナルトレーニングセンダーと提携してますがさらに提携するか一部をその施設にするべきです。

青少年の家も提携するか体大の施設に編入してトレーニング・合宿施設にすべきです。体大近辺を広大なトレーニング施設にすることです。鶴羽小跡も活用できます。

そして、開学時に計画のあった付属中学、できれば高校まで併設してスポーツ一貫校を造るべきです。高山の一貫校、うまくいかなければ体大施設に編入もどうでしょうか。
文武両道で可能です。筑波大付属、東大付属もあるように。最後に、文科省からスポーツ省の大学にすべきです。これにより計画がしやすく予算も増えるはずです。


投稿: | 2017年4月 2日 (日) 09時40分

天孫降臨の日向(ひむか)は国ではなく地名との説あり。それだと福岡に日向の地名があり、韓国へ向かうとも符合します。宮崎県の高千穂や鹿児島の霧島山は天孫降臨地ではなく後付けでしょう。

九州北部か南部(薩摩半島)のどちらかでしょう。

投稿: 歴史ファン | 2017年4月 2日 (日) 09時47分

天孫降臨とは大陸からの渡来を神格化してわからなくしたのでしょう。

投稿: | 2017年4月 8日 (土) 17時50分

鹿屋市の道の駅候補地が体育大学の近くにあるとコメントがありましたが、先日、そこを地盤としている市議に問うたところ、「それは無い」ということでした。候補地の一つに挙がったことがあるという程度のようで、鹿屋の道の駅構想は前市長の時代に振り出しに戻ったそうです。

 何が推進の邪魔をしているのかと更に問うと、結局は「採算性の問題」だということでした。

 これは別の議員に聞いたのですが、大隅地区で採算の取れている(黒字になっている)道の駅は錦江町の「にしきの里」だけのようです。ここは地元の高齢者が組合を作り「無人販売ではない有人販売所」を立ち上げたのが始まりで、評判が評判を呼び、今では年商が2億円を超えているそうです。

 この人気のおかげか、にしきの里に続けとばかり、鮮魚の「ふるさと館」やコンビニ「ローソン」まで、同じ神川地区の国道269号線沿いに並び立ち、商圏の食い合いという心配をよそに、逆に相乗効果で多くの客足を呼び込んでいる状況となっているようです。

 やってみなければ分からない、案ずるより産むが易しとはこのことで、鹿屋の人たちも大同小異の広い心と度胸で大いなる「道の駅」、よそにはないユニークな道の駅を工夫して創設してもらいたいと考えているところです。

 どこに開設するか、それは大隅縦貫道と東九州道の両方に近接する笠野原地区をおいてほかにないでしょう。

投稿: kamodoku | 2017年4月25日 (火) 15時08分

道の駅はまだ未定ですか。体育大近くでなくてよかったです。また某有力者におる誘導かと思いました。場所も悪いです。古江峠を改良していれば古江峠が一番でしたが。

確かに笠の原地区、寿司虎近辺が一番いいでしょう。本当は市役所もその辺りに移転させるべきでしたが政治的動きがあったおうです。

霧島が丘開発、市役所移転により鹿屋市の発展は後退しました。王子遺跡を現地保存しなかったことも悔やまれます。2000年前の歴史、天皇家の歴史が解明さrたかもしれないし観光客も増えたでしょう。

自衛隊にだけ頼り何もしなかったつけが現在ですが
やっと重い腰を上げて取り組みだしたのは何とか救いでしょうが米軍訓練が吉とで出るか凶と出るかです。


投稿: | 2017年5月 4日 (木) 08時36分

現在住んでいる鹿屋市について意見の数々が出るようになってきましたが、この「相も変らぬ邪馬台国論争」をテーマにしたブログとはかけ離れてきているようです。

 数日後に鹿屋市に関する管理人の提言をブログに書くので、鹿屋市についての意見・批評はそちらのコメントに寄せてください。よろしく。

投稿: kamodoku | 2017年5月 4日 (木) 19時56分

魏志倭人伝、そこに書かれている邪馬台国の風土・風俗は南方。北九州北部や機内ではない。沖縄からまた最古の完全な人骨が出たが、方角・距離から奄美か沖縄の可能性が高い。

魏志倭人伝は中国の書物。日本の学者が方角や距離を勝手に解釈する前に中国の学者に調査依頼すべき。

投稿: | 2017年6月16日 (金) 18時57分

 残念ながら今の中国に魏志倭人伝を含む正統な「漢文」を理解できる人物はいないでしょう。簡体字が正式な言語になってしまったからです。

 台湾なら旧字体つまり漢文のまま読める知識人は多く、事実、魏志倭人伝に関して台湾人の何人かが日本語で倭人伝解釈の本を出しています。

 それらの本を見ると、彼らで「伊都国」を糸島市(旧前原町)としている人はいないのです。例の豪華な副葬品を持った甕棺墓(三雲・鑓溝・平原古墳)のことを知らないか詳しくないので、知っている日本人研究者のようにはとらわれない(先入観を持たない)で済んでいるわけです。

 要するに糸島市を「伊都国」と比定してしまったことが、魏志倭人伝解釈が混迷を極めた元凶なのです。

投稿: kamodoku | 2017年6月18日 (日) 00時53分

確か、台湾の方が魏志倭人伝を和訳したら邪馬台国は阿久根近辺だったようです。それに対して批判が相次ぎましたが、台湾人の方は学者でもなく単に和訳しただけです。仰るように先入観がなかったからです。

邪馬台国や卑弥呼が日本の文献には出てこずに中国の魏志倭人伝にしか出てこないというのも謎ですね。

倭人とは本当に日本人のことでしょうか。古代、中国の王朝では日本どころか朝鮮半島が最果てだったのではないでしょうか。

列島と半島との関係。特に伽耶と鹿屋。現代の朝鮮人はバイカル湖畔にいたエベンギ族が南下して古朝鮮人を滅ぼして朝鮮人になりすました。その時、多くの朝鮮人が列島へ逃れたとも言われてます。

東京の巨摩、埼玉の高麗、鹿児島も高麗橋ありますね。
宮崎の旧南郷村、ここは百済の難民の村です。鹿屋もそんな感じがします。

そう考えるとこれまで謎だったり疑問だった点がかなり解明できるのではないでしょうか。実は列島は朝鮮人が逃れて天皇家になった。

現朝鮮人の反日の理由もそこにあったりして。

投稿: | 2017年7月17日 (月) 08時14分

日本(人)となったのは、『旧唐書』によれば660年代のことです。それまでは「日本」という国名ではなく倭人国家である「邪馬台」「狗奴」「投馬」「大倭」「伽耶」等の地域的な国家に分かれ、九州島からの「投馬国」と「大倭」による2回の東遷によって奈良県の大和地方に王権が形成されたのが2世紀から4世紀。

 4世紀以降はその大和王権が日本列島を統一する方向へ向かっていったわけで、主体はあくまでも倭人で、朝鮮半島からの渡来人も主体は朝鮮半島に居住していた倭人です。

 邪馬台国が記紀等の史料に出てこないのは記紀編纂時点の王朝とは直接のつながりがないためで、編纂者が邪馬台国を知らなかったからではないのです。むしろ中国の魏王朝にまで知れ渡り、一時期は九州島で最大の統一王権だった邪馬台国を意図的に無視したのです。

 つまり記紀編纂時の大和王朝こそが太古の昔から日本列島全体をを統治していたのだというわけです。

投稿: kamodoku | 2017年7月17日 (月) 22時54分

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